第1話 私だけの秘密
※【注意】
作者は料理人でも薬膳の専門家でもありません。 本格的に薬膳料理をやってみたいという方は、お近くの専門家などにご相談ください。
なお、この物語に登場するレシピにつきましては、自己責任でお試しくださいませ。
その時の私の気分を言葉にしたら、たぶんこうだろう。
――今日は厄日だ。
それはまだ肌寒い三月の夜。 行きたくもなかった飲み会の帰り道。
お目当ての先輩は残業が入ったために欠席し、隣の席にいた上司からはセクハラまがいのお言葉三昧。
気分が悪くて早めに切り上げたつもりが、すでに最終電車は旅立った後。
土曜日だけは最終電車が一本早く終わるだなんて、ありえないし聞いてない。
これだから田舎は嫌なのよね。
さて。 こんな最悪な気分の時、あなたならどうする?
私なら、とっておきのお店で楽しく飲みなおす。
Bar ALEGRIAS……そう書かれた看板を潜って店の前に立つと、分厚い扉の隙間から明るいフラメンコのリズムと談笑の声が聞こえてくる。
おそらく樫で出来ているのであろう、硬くて重い扉を押し開くと、私は大きな声で叫んだ。
「マスター、聞いてよ。 もぉ、最悪!」
「なんだ、また来たのかミユ」
腰がぞわぞわするような低い声で応えたのは……エプロン姿の巨大な熊だった。
そう、ここの店主は、なんと人ではないのである。
なんでも、私の住んでいる世界とは違う世界の神様で、自称によれば医神の眷属らしい。
かつて本来の世界から追放され、私の住んでいる世界に転がり込んできた彼を拾ったのは、スペイン料理の店を経営していた祖父だった。
そして祖父から料理を仕込まれた彼は、故郷に戻って癒しの魔術をこめた料理を振舞うスペイン風居酒屋を始めたのである。
なお、客のほうも人ばかりではない。
エルフやゴブリン、はてはミノタウロスやケルベロスなんて巨大な生き物までもが、席を並べて食事を楽しんでいる。
本来は仲の悪い種族もいるらしいのだが、ここではみんなが笑顔だった。
そう、ここは世界の狭間に立つ店、"歓喜の酒場"。 怒りも憎しみも、争いや苦しみですら消える場所。
「とりあえず、おなかすいた! 今日は何をご馳走してくれるの?」
そう告げた私に、店主である熊は鼻を近づけてヒクヒクさせると、眉間に小さく皺をよせてフムと呟いた。
ただ単ににおいを嗅いでいるのではない。 こうやって、私の体の悪い部分を調べているのだ。
「そうだな……まずはシェリーでもどうだ? 空けたばかりのティオペペがあるから、安くしておくぞ」
熊の店主がTIO PEPEとラベルがついた瓶の栓に爪先で触れると、チューリップの花のような形をしたシェリーグラスがひりでに宙を飛んでやってくる。
初めて見たときは「超能力だ!」と騒いだものだが、本人曰く魔法というものらしい。
なお、シェリー酒とは、アルコールを添加したワインであり、ティオペペとはそのシェリー酒の中でもいちばん有名な銘柄だ。
食前酒として使うのならば、その中でもすっきりした辛口であるフィノと呼ばれるものだろう。
個人的な意見でいえば、口当たりは辛口の日本酒のように澄んだ水の味がして、その奥からワインの薫りがやってくる……かなり飲みやすい酒だ。
「いいわね。 一杯ちょうだい。 シェリーって事は、今日の料理は南のほうなの?」
スペイン料理の食前酒として知られているシェリー酒だが、実は北部ではあまり飲まれていない。
北部では別の酒を食前酒に使うからだ。
ならば、必然的に出てくるのは中部か南部の料理と言うことになる……とは、この熊さんマスターの受け売りである。
あいにく、料理に興味が無かった私は祖父から何も教わってないのだ。
「よく覚えていたな、その通りだ。 今日のお前は疲労と強いストレスの匂いがするから……スペイン風肉団子を作ってやろう。 気虚と気滞に効くように調整する」
「えっと、気虚が疲れてダルい状態で、気滞はストレスで体の中の気の流れがおかしくなっているんだっけ?」
これらの言葉は、漢方医学で使う専門用語である。
なんとこの熊さん、スペイン料理をベースに中国の薬膳を取り入れているのだ。 食材の持つ癒しの力を魔力で増幅するのが彼の本領だから、この流れはむしろ当然なのかもしれない。
「よくできました。 じゃあ、すぐに作るからちょっとだけ待っててくれ」
「ねぇ、作るところを見ていていい?」
「……好きにしろ」
ティオペペのフィノをグラスで楽しみながらそう問いかけると、熊は照れたような顔でぶっきらぼうにそう言い捨てた。
そして私は、そんな彼の横顔がほんの少し好きだった。 そう、ほんの少しだけ。
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【解説】
春先になると、強い気だるさを感じる方……いらっしゃいませんか?
それは、気の流れがおかしくなっているのかもしれません。
3月という季節は気温の寒暖の差が激しく、体の中に知らずとストレスを溜め込んでしまいます。
原因は、環境の変化。 就職や転勤などの社会的な変化もさることながら、寒暖の差、大陸からの移動性高気圧による気圧の変化、雨と晴れを繰り返す頻繁な天気の変動などと、あわただしい環境の変化は人々の体に大きな負担を与え、自律神経を乱ししながら体力を消耗させてしまいます。
この状態を、漢方医学では「気の乱れ」や「気の不足」と考えます。
では、どうすればこの問題を解決することが出来るのでしょうか?
「気の問題」には大きく三種類の症状があり、そのなかでも主に「気虚(ききょ)」と「気滞(きたい)」と呼ばれる症状が、この時期に多く引き起こされることに注目しましょう。
そう。 これが、この時期の不調の主な原因なのです。
「気虚」とは、文字通り体を満たす「気」が不足しており、疲れやすい、体がだるい、やる気が出ない、動悸、息切れ、めまい、食欲不振などの症状が起こりやすくなります。
これを癒すにはどうすればいのか?
実を言うと、「気虚」を癒すには「お肉」が有効です。
全てのお肉には、この「気虚」を癒す効果があり、人は肉を食べることで気分が幸せになるのだともいいます。
また、クルミにも気を補う効果があり、お肉の苦手な人はこちらを口にすると良いでしょう。
……ただし、どちらもカロリーには十分にお気を付けください。
そしてもう一つの「気滞」ですが、こちらは全身を流れる気の流れがどこかで淀んでいる状態です。
ストレスのたまった状態はまさにこれであり、イライラや不安、情緒不安定や鬱、寝つきが悪い、のどの詰まり、おなかにガスがたまるなどの症状が起こりやすくなるのが大きな特徴ですが、あなたにも心当たりありませんか?
こちらに対処するための食材には、タマネギ、ニンニク、そして……なんとお酒です。
「酒は百薬の長」という都合のいい言葉もありますが、お酒でストレス解消というのは、薬膳や漢方からみても有効な手段なのです。
でも、飲みすぎにはくれぐれもご注意くださいね。
そして、この時期の食べ物の中には……なんと「気虚」と「気滞」の両方に有効な、まさにこの季節のための食材があります。
それが、キャベツ。
ストレスで弱った胃を優しく労わってくれるキャベツは、三月から四月というあわただしい時期を乗り越えるのに、もっとも有効な食べ物なのです。
そんなわけで、今回はこれらの「気虚」と「気滞」を癒してくれる食材を中心に、胃と心を労わるレシピをご用意いたしました。
気になったら、ぜひ挑戦してみてください!
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【3月のためのアルボンティガス・ブランコ】
材料:1~2人分
A
・合いびき肉……150g
・塩……小さじ1/4
・小麦粉……大匙1/2
・クミン|(無くても良い)……香り付け程度
・ニンニク|(みじん切り)……1/2片
・クルミ(すりおろし)……大匙1
・パセリ|(みじん切り)……大匙1/3
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オリーブオイル……大匙1
ニンニク|(横にスライス)……1片
たまねぎ……1/2個|(120g)
小麦粉……大匙1
キャベツ……葉っぱ二枚程度
クルミ……お好みで
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B
・水に溶かした固形スープ……200cc
・白ワイン(できればシェリー酒)……100cc
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1.合いびき肉とAの材料をよく練り混ぜて、4等分します。
お団子状態に丸めて(手に油をつけておくとまとめやすい)、表面に小麦粉|(分量外)をまぶします。
2.鍋にオリーブオイルを入れ、1の肉団子を転がすようにして表面に焼き色をつけます。
なお、あとでスープと一緒に煮込むので、この段階で完全に火を入れる必要はありません。
表面に焼き色がついたら、いったん肉団子を取り出します。
3.ニンニクを横にスライスします。(厚みはお好みに合わせて)
※ニンニクの芯は胸焼けの原因になるので、竹串などをつかって出来るだけとりましょう。
※横にスライスするのは、油に香りを移しやすくするためです。
キャベツはこの段階で幅1センチ四方ぐらいの大きさに刻んでください。
4.2の鍋にオリーブオイルを入れ、スライスしたニンニクを入れて少し薫りがしてきたらタマネギを入れて中火で炒めます。
※タマネギはできるだけ弱火でじっくりいためたほうがおいしいです。
つづいて小麦粉をいれ、馴染んだところでBのスープと酒、そしてキャベツを入れます。
このまま中火で6分から7分煮込んでください。
※お酒は、シェリー酒が断然お勧めです。 白ワインの場合は、できるだけスッキリした味のものをお選びください。
5.出来上がった野菜スープの中に2の肉団子をいれ、ごく弱火で10分ほど煮込んだら、お好みでクルミをちらし、出来上がりです!
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「ほら、出来たぞ」
「うわぁ、おいしそう」
出てきた料理は、春先にぴったりの若草色をしたスープ。
微かに香るスパイスの薫りが、いやがおうにも空腹の胃を刺激する。
トロリとしたそのスープの中には、ドンと自己主張する大きめの肉団子が4つ。 見ているだけでヨダレが止まらない。
「……美味そうだな」
肉団子の煮込みが出来上がってくると、周囲で様子を伺っていたほかの客までもが見を乗り出してきた。
「お前ら、ミユが怖がるから向こうに行ってろ! ……ほしかったら後で作ってやるよ」
物欲しげな視線を向けてくる客たちに、店主の熊が牙をむき出しにる。
ええ、本人が一番怖いとは、口が裂けてもいえませんとも。
「あはは……ごめんね、みんな」
しょんぼりと肩を落としたまま退散する常連客を尻目に私は大きめのスプーンを手に取ると、ほかほかと湯気を立てるスープをひとすくい。
シェリー酒のスッキリした薫りが口から鼻へと吹きぬけた後、タマネギとキャベツの甘みがじわっと広がり、そして肉団子から染み出た肉の旨みが口の中で鮮やかに広がった。
そして肉団子を齧れば、どっしりとした肉の味をスパイスの香りとクルミの風味が別次元へと引き上げる。
一口たべるごとに、私の体の中に気力がみなぎり、そして気分がすっきりとしはじめた。
まるで体の一番深いところから、そっと手で支えてくれるような優しい味。
「熱っ……はふっ……はふっ……んんっ」
急いで食べ過ぎ、舌を火傷しそうになった私の前に、冷たい水と氷の入ったグラスが差し出される。
「……ったく。 そんなに急いで食べても、料理は逃げねぇよ」
「だって、しょうがないでしょ? おいしいんだもの」
拗ねたようにそう返事を返すと、クマの顔がプイッと音がしそうな勢いで横を向いた。
たぶん、これがひとの顔ならば真っ赤になっていることだろう。
そんなお約束じみた光景に目を細めながら、私はもう一口この料理。
気が付くと、私の体はすっかり癒されていたのでした。
でも、私を癒したのはこの魔法の料理なのか、それとも照れ屋で強面のクマなのか。
それは誰にも言えない、私だけの秘密。