刻まれた聖痕
文フリ短編小説賞応募作です。至らないところもありますが寛大な心でお読みください。そしてもし気に入っていただけたら他の作品にも目を通していただけると、とてもうれしいです。
1
夕方、いつものように帰宅すると自宅のアパートの前に軽トラックが横付けされていた。何だろうと思いながら階段をあがると自室の右隣の部屋の扉が開けはなされ、中からごそごそと物音が聞こえていた。
確かそこは空き室だったはずだ。すると誰か引っ越してきたのか。まあ誰が越そうが自分には関係ないと思い、自室の鍵を開けようとしたとき「あ、こんにちは。初めまして」と声をかけられた。
びっくりして振り向くと戸口から若い女性が顔を出し、親し気な笑みを浮かべていた。かわいらしい顔だちで、身長の低さと相まってキュートな小動物のような印象を醸し出していた。
そんなことを考えながら彼女を見つめていると相手は「ん?」と小首をかしげた。それで自分が無作法な真似をしていることに気づき、慌てて「こちらこそ初めまして。今日、越してこられたんですか?」と挨拶を返した。言ってからなに聞くまでもないことを訊いてるんだと後悔したがもう遅い。
しかし相手は気にするふうもなく「ええ、そうです」と屈託なく答えた。そして「この町は初めてなんです。いろいろ教えてくださいね」と頭を下げた。
なんて気持ちのいい人なんだ。彼女に対する僕の好感度はぐっとアップした。
「それじゃ」と言って彼女は顔を引っ込めた。僕はそれを見送りながら自分に春が巡ってきた予感に打ち震えていた。
しかしどうやってお近づきになろうか。いきなり彼女の部屋を訪問するのはぶしつけで、返ってどん引きされるリスクが高い。かといって道端で偶然出会うというのは宝くじに当たるような幸運が必要だ。もちろん彼女の行動予定を調べて出会いを装うという手もあるが、それじゃまるでストーカーだ。疑われたら警察沙汰になる。
結局は打つ手無しということで、僕は悶々とした日々を過ごすはめになった。しかしそんな僕に神様は素敵なプレゼントを用意してくれていた。
ある日、午後の講義が休講だったので早めの帰宅の途についた僕は最寄りの地下鉄の駅で降りると、持て余した時間をつぶすためあたりを散策することにした。ここらあたりは昭和の匂いがする古い町並みが残っており僕は思い出したようにぶらぶらするのが好きだった。
行く当てもなく歩を進めていた僕はとある角を曲がった途端、びくんと心臓が飛び上がった。なんと行く手に彼女が立っていたのだ。僕は咄嗟に電柱の陰に隠れてしまった。挙動不審な振舞だが、条件反射のように動いてしまったのだ。しかし彼女の方でそれに気づいたような素振りはなかった。安堵した僕はそっと彼女の様子をうかがった。
するとあることに気が付いた。彼女はひと所に立ち止まったまま右に左にと視線をさ迷わせているのだ。もしかして道に迷っているのか。スマホがあればすぐ分かるのにと思いながらも、これはお近づきになれるチャンスだとささやく心の声があった。
僕はそれを実行することに決めた。そっと電柱から離れるとさりげないふうを装って彼女に歩みよる。するとグッドタイミングで彼女と視線があった。僕は安心感を与えるような笑みを浮かべる。すると彼女はほっとしたような表情を浮かべた。成功だ。
「あの、何かお困りでしょうか」
自信を得た僕はスムーズに会話の糸口を切り出すことが出来た。
「あ、どうも。実は道に迷ってしまって……」
「スマホは持ってないんですか」
「ええ、水没させてしまって故障中なんです」
そういう事情か。
「なら案内しましょうか。ここらあたりの地理には詳しいので」
「え、ほんとですか。助かります」
[で、どこに行くんです?」
「地下鉄の駅まで」
確かに初めての人間には分かりにくいだろう。だが僕なら大丈夫だ。
「じゃ、行きましょう」
僕は胸を張って彼女をエスコートした。それからものの五分たらずで駅に着いた。あっというまで会話らしい会話も出来なかった。これでお別れかと思うと寂しいような、物足りないような気分に陥った。また会えるだろうか。そんな不安を覚えていると、突然彼女が思いがけないことを切り出してきた。
「すみません。ついでといってはなんですけど、アパートまでの道順を教えてもらえませんか」
僕は思わず耳を疑ってしまった。そして頭の中で素早く計算した。ここから家までは二十分近くかかる。それだけの間、二人っきりで過ごせるとは何てラッキーなんだ。僕は喜んでうなずいた。
二人して込み入った道を行く。お互い心に余裕が出てきたのか、ぽつぽつと言葉を交わすようになった。
まずは自己紹介。彼女は鎌田と名乗った。身の上も明らかになり、就職のために田舎から出てきたのだという。でもまだ決まっていないそうだ。
「でもまあ何とかなるでしょう」
そう明るく言う彼女の口振りに僕は救われる思いがした。それから話題はもうすぐ開催されるオリンピックのことに移った。僕も人並みに関心はある。彼女も楽しみにしているそうだ。ここでチケットを持っていれば彼女を誘えるのに。チケット抽選に申し込まなかったことを僕は後悔した。
すると彼女が「確か聖火ランナー、近いうちにここを通るんじゃないですか」と切り出してきた。それを聞いた途端、僕の心の中であるプランが閃いた。
「じゃあ一緒に見に行きませんか」
声を上ずらさず、しかもさりげない調子を醸し出すのにかなりの苦労を強いられた。しかしその甲斐あってかぶしつけさを感じさせずに彼女に伝わったと思う。証拠に彼女は「ええ、喜んで」と快諾してくれた。
僕は心の中で喝采を叫んだ。この逸る気持ちをどう抑えよう。
僕は「落ち着け、落ち着け」と心中で呟きながらスマホを操作した。オリンピックの公式サイトにアクセスし、聖火リレーの日程を確かめる。
「どうやら明後日の二時ごろ通るみたいです」
「それじゃそれに合わせて行きましょう」
「はい」
勢いづいて返事をしたところで目の前にアパートが見えてきた。
「じゃあ明後日」
そう言って彼女が自室に消えると、僕は大きくガッツポーズをした。
2
その日、朝から空は晴れ上がり、絶好のお出かけ日和だ、と言いたいところだがそうではなかった。なにせ陽が昇るとともに気温がぐんぐんあがり、あっという間に三十度を超えてしまったからだ。そんな残暑厳しい中、僕らは目的地へ向かった。
彼女は暑さ対策のため、鍔の大きな帽子をかぶっていた。そして少し大きめのショルダーバッグを提げていた。一昨日通った道を今度は逆にたどる。今日は暑さで気が滅入るせいか、あまり言葉を交わすことはなかった。
やがて駅のある大通りにでた。この通りを聖火ランナーが走るのである。時間に余裕をもって来たにも関わらす沿道にはすでにかなりの人だかりが出来ていた。それでも人混みをかき分けて、何とかランナーが見える地点を確保した。するとスタッフらしい女性が近づいてきて、日の丸の小旗を手渡された。これで声援を送れということらしい。
今日の彼女は言葉少なだ。黙っていられると色々と気を揉んでしまう。そのせいもあってかやたらと喉が渇く。しきりに水分を補給し続け、あっという間にペットボトルを空にしてしまった。それでもまだ足りない。ランナーが通り過ぎるまでの辛抱だと我慢したがついに耐えきれなくなった。
「ちょっと飲み物買ってくるよ」
そう言ってその場を離れてしまった。さらに増えてきた観衆の間を通り抜け、自販機へ向かう。しかしたどり着いた先で僕は失望を味わうことになった。この炎天下、考えることは皆同じだ。自販機の飲み物はすべて売り切れていた。近くに他の自販機は無い。どうしようか。迷っていると「わっ」と弾けるような歓声が聞こえてきた。ランナーが近づいてきたのか。考えている暇はない。僕は彼女をがっかりさせないため、沿道に戻ろうとした。
しかし皆ランナーを見ようとひしめきあっているため、中々前に進めない。このままでは、と焦りを覚えたときである。突然、「ぼん」という音がしたかと思うと体全身に見えない衝撃を受けて、その場になぎ倒されてしまった。打ち付けた頭を押さえながら見上げると、空にどす黒い煙が吹きあがっていた。日の丸の小旗が木の葉のように舞っている。何が起きたのか。体を起こしてあたりを見渡すとそこには地獄絵図が展開していた。
あちこちに倒れたまま動かない人がいる。そんな一人を必死にゆさぶりながら泣きわめく女性。家族だろうか。また立っている人も顔や体を血で濡らし、幽鬼のようにさまよい歩いている。現場に駆け付けた警官が必死に何か叫んでいる。
その光景を呆然と見ていた僕はふと痛みを感じた。不思議に思い自分の体を見ると腕から血を流していた。その痛みで僕ははっと我に返った。彼女は。僕は視線をあちこちに向けながら彼女の姿を探した。しかしどこにも見当たらない。それでも僕は探すのを止めない。
そのうちサイレンの音が聞こえてくるようになった。やがてパトカー、消防車、救急車が連なってやって来た。本格的な救助作業が始まるのだ。それにつれて野次馬が増えてくるようになった。スマホで現場を撮影したり、興奮した口調で誰かと通話している者がいる。
その間にも救助活動は適格に続けられていた。搬送される人の中に彼女の姿はないかどうか、僕は目をこらした。しかし見つけることは出来なかった。
すると救急隊員の一人が近づいてきて「君、けがしているじゃないか」と話しかけられた。僕が彼女のことに気をとられて黙っていると「さあ手当しよう」と言って体を抱きかかえられた。そしてそのまま救急車に乗せられた。「どこが痛む?」と聞かれても上の空で黙っていた。
やがて病院に着いた。そこからは流れ作業のように治療が施されていった。一時間も過ぎたころにはすべてが終わっていた。家族に知らせるので連絡先を、と言われて用紙に電話番号を記入する。その時ふと、彼女のことを訊いてみればなにか分かるのではと思いついた。実行に移そうと事務員に声を掛けようとした。が、彼女は用紙を受け取るとそそくさと立ち去ってしまった。では他の人にと思い、病院内を見回すと、皆せわしなく、殺気立った表情をしている。会話するいとまもなさそうだ。僕は尋ねることを諦めた。
と、ふいに「ちょっといいかな」と声を掛けられた。振り向くとスーツを着た二人の男が微笑を浮かべて立っていた。しかし僕ははっと表情をこわばらせた。なぜなら彼らの手に警察手帳があったからだ。
「な、なんですか」
緊張のためどもりながら答えると、一方の初老の男が手帳を懐にしまい、代わりに一枚の写真を取り出した。
「この女性に見覚えは」
それを見て僕はどきっとなった。そこに写っていたのは不鮮明ながらもまぎれもない彼女の姿だったからだ。
「色々と知っているようだね」
その声音は柔らかいながらも有無を言わせぬ響きがあった。
「場所を変えて話そう」
促されるまま僕は立ち上がった。
3
僕は車に乗せられ、警察に向かった。一体を何を訊かれるのだろう。僕は不安を募らせていた。しかし車内の雰囲気は和やかなものだった。若い方の刑事が「大変な目に遭ったね」「傷の具合はどうだい」と親しげに話しかけてくる。僕はそれに答えながら車窓に流れる景色を眺めていた。
やがて車は警察に着いた。僕は二人に連れられて署内に入った。通されたのは取調室のような狭い、殺風景な部屋だった。真ん中に机と椅子がある。
「じゃあ掛けてくれ」と初老の刑事に言われ、僕は腰を下ろした。刑事も真向いに座る。その間に若い刑事が机にあるノートパソコンを立ち上げた。
「ちょっと見てもらいたいものがあるんだ」
そう言って初老の刑事はパソコンを操作した。やがてパソコンを僕が見やすいように移動させる。画面にはウィンドウが開き、映像が流れていた。一目見て僕は分かった。あの沿道の光景だった。
「そこに映っているのは君だね」
後ろ向きでもはっきりと分かる。僕はうなずいた。やがて僕が沿道から離れたのが映しだされた。
「どうして移動したんだね」
「ジュースを買いにいったんです」
刑事は納得したようにうなずいた。そして映っている彼女を指さし「彼女に注目してくれ」と言った。言われるまま目を凝らしてしていると突然閃光が走り、煙りが噴き上がった。爆発したのだ。監視カメラなので音声はないが、映像だけで規模のすさまじさが分かる。しかし僕が愕然としたのはそのことではなく、彼女が爆心地にいたということだ。あれでは助かるまい。僕は思わず手で顔を覆った。
「彼女は死んだんですね」
「そうだ。しかし彼女は犠牲者ではない」
「どういう意味です」
僕の言葉はなじるような調子を帯びていた。
「今度はスローで再生してみよう。それで分かるはずだ」
確信に満ちた口振りなので僕は口をつぐみ、画面に目を戻した。ゆっくりと動く映像を僕は息を呑んで注視した。無限に続くかと思われた単調な映像に突然変化が訪れる。
その瞬間、僕は「あっ」と声をあげていた。そして我が目を疑った。
「そうだ。爆発したのは彼女のショルダーバッグだ。つまりこれは彼女が引き起こした自爆テロなのだ」
刑事の言葉は僕の耳には届かなかった。ただただ信じられないという思いが僕の心に充満する。
「被害は大変なものだ。今分かっているだけでも死傷者十三人。その中には聖火リレーのランナーも含まれている。おまけにトーチも粉々に壊れてしまい、リレーは中止に追い込まれてしまった。政治的、経済的損失は計り知れない。この事件には何としてもけりをつけたい。やられっぱなしでは国家の沽券に関わる。だから知っていることを話してくれないかな」
放心状態の僕は言われるがまま答えた。しかしその時になって僕は彼女のことをまるで知らないことに気が付いた。鎌田という名前さえいまでは本名かどうか疑わしくなってくる。刑事もそれを感づいたようで「確かにそう教えることもないな」とつぶやいた。
それからほどなくして僕は帰宅を許された。「まだ何か思い出したら知らせてくれ」と言われたがもう話すことはなかった。
自宅に戻るとアパートの周りには非常線が張られ、警官が四方に配置されていた。一人の警官に住人であることを告げると中に通してくれた。階段をあがると捜査員と鉢合わせになった。肩越しの覗き込むと、彼女の部屋の扉が開け放され、何人もの捜査員が慌ただしく出入りしていた。それを横目で見ながら僕は自宅に入った。
部屋の中は薄暗かった。時計を見ると六時を過ぎていた。僕は明かりを点けるとごろんと横になった。ふーっつと大きく溜息を吐く。すると今日一日の出来事が脳裏によみがえってきた。今までの平穏な人生では考えられない激動の一日だった。あの光景は一生忘れることはないだろう。
なおも悶々とする僕の心はやがて彼女のことに思い至った。すべては彼女と出会ったことから始まったのだ。その彼女は僕の前から消えてしまった。永久に。
彼女は何を思ってあんな行為をしでかしたのだろう。屈託のない笑顔しか知らない僕には彼女の抱えた闇など知りようもなかった。
そして僕の思考はあの時へと飛ぶ。もしあの時あそこを離れなければ僕は確実に死んでいたはずだ。だがはたしてどうだったのだろう。僕がいても彼女は自爆したのだろうか。他の人間と一緒の取るに足りない命だったのだろうか。そうだったのだと冷静な心の一部がつぶやく。が、そうではないと言いたい気持ちがまた心の一方にあった。
と、突然僕の目に涙ににじんできた。それは彼女を失った悲しみなのか、それとも裏切られたことを嘆く自己憐憫だったのか、僕には分からなかった。