物語はどこに成立するのか
村上春樹の「職業としての小説家」を本屋で立ち読みしていたら、「小説家は物語を作る」みたいな話が出ていた。後、評論家は頭が良いから物語が理解できないのではないか、みたいな事も書いてあった。
おそらく、ホメロスの「オデュッセイア」の時点から物語というのは、現実とは関係のない、空想的な、僕達を楽しませるものとして存在していたのではない、と僕は考えるようになっている。アリストテレスが、文学とは「共同体の運命を個人の生き方に託して描くもの」という風に言っていたという事は、未だに正しいように思う。古代ギリシャ人にとって、自分達が受けなければいけない運命の重荷を、物語の中の主人公が受け、主人公がそれに耐え、あるいは苦しんでいる様子に共感する事が「カタルシス」として、全体の融和を象徴した。
ベートーヴェンの第九はよく知られているように、最後の所で合唱する場面がある。あれはベートーヴェンの思想そのものではないかと僕は思っている。あの場面においては、芸術の美しさよりも、力強い、人類全体の賛歌、それぞれが参加し、一体となれるような旋律を現している。音楽は哲学に語れない哲学を語る…ベートーヴェンは音楽によって、人類を、いわばカントの言う恒久的平和に導けると本気で信じられるような偉大な思想家だった、と言えるかもしれない。ベートーヴェンが好きだったのは、カント、シラー、ゲーテ、シェイクスピアなどであり、この面子を見ただけでも、ベートーヴェンの思想はなんとなく見えてくる。
話は変わるが、作家の恩田陸が直木賞を取ったらしい。それで賞を取った作品のあらすじを見ると音楽の話で、音楽コンクールで天才的な少年少女が競う話のようである。
恩田陸の作品は読んでいないので、勘で言ってしまうが、恩田陸のこの作品「蜜蜂と遠雷」に対して、ものすごい痛罵を投げつける人というのはほとんどいないだろうと思う。おそらく、この作品を読んだ人は「つまらない」という人もいるだろうが、多くの人は漠然たる肯定的感覚を持つに至るだろう。それは、音楽コンクールを何人かの人間が競うという基礎的な道筋に原因があるかもしれない。社会が整備してくれていた道筋を努力して昇る事、これは物語の作り方としては現在、一般的であり、こうした作品がやたら非難される事は考えにくい。なぜなら、誰しもが、社会に属し、その価値観を肯定する事で自らを保っているからだ。
では、この社会とか国家と呼ばれるものはなんだろうか。古代ギリシャの共同体、ベートーヴェンが全体を一つにまとめあげた時の「全体」とはどう違うだろうか。恩田陸の作品を読んで、多くの人が共感し、面白く感じる事は充分にあるし、それを宮﨑駿やワンピースにずらしてもいい。そこに面白さ、楽しさの最大公約数は存在するかもしれない。しかし、そこにベートーヴェンやアリストテレスは存在しない。どうしてだろうか。
今、この問題について考えていて、これは非常に難しい。しかしとにかく、今感じている事を書いておこう。
まず、現代というのは過去に比べて、社会機構が膨大に膨れ上がった世界である。岩倉具視使節団がアメリカに行った時の紀行文「米欧回覧実記」を今読んでいるが、当時のアメリカの人口は四千万人足らずだったと書いてあった。今のアメリカの人口は三億人以上だから、とてつもない膨れ上がり方だ。こんな増え方をしたら、物の見方や価値観が変わるのは当然だという事になる。
また同時に、世界経済のグローバル化も進み、世界的な分業は圧倒的に進んだ。世界は、流動化と相互依存性を強めた。その為に、トランプがどう頑張っても、一国の宰領でどうにかなるレベルを越えた。世界は経済、金、といった抽象的かつ、量的なもので繋がり、その為に皆が一蓮托生の立場に置かれる事になった。今の世の中の雰囲気を考えると、叩かれてしまうかもしれないが、結局、自分以外の国が沈没して自分だけが突出するという事はもう考えられない。回りが沈没すれば自分も一緒に沈没するし、他国で伸びる国があれば、回り回ってその国の恩恵は自国にも回ってくる。経済は非人格的な、抽象的なものとして世界を一つにつなげた。そこで、その連鎖に苦しんでいるのは、自国の人間だけではない。またその恩恵を受けているのも自国の人間だけではない。世界はおそらく、人間そのものが作り出した巨大なシステムをどう扱えばいいのか、その事に苦しんでいるように見える。
話が大きくなってしまったが、恩田陸に戻る。例えば、音楽コンクールにおいて、何人かの人間が優勝する為に努力するという物語は完全に僕達のあり方に一致している。それは資格試験を頑張ったり、大学合格の為に受験勉強する物語と同じ傾向にある。そして僕達はそれを肯定する。どうしてかと言うと、僕達そのものが社会であるから、と言えるだろう。社会は一つの生命体のように自らを維持し、創出する。その時、僕達個人はその役割を担う。僕達はそれに積極的に参加し、例えば、不倫をした芸能人を徹底的に叩く。それはそれが正しいからというより、むしろ、社会、世論といった大きなものに僕達が参加している限り、個人としての無力、無能力から目を逸らす事ができるからだ。
例えば、芸能人という存在は現在では、正に偶像であって、僕達には眩しい、非人格的な存在にまで高まってしまっている。僕が小説を書けばそれは「作家になるため」「デビューするため」と一般の人間には思われるし、その先にあるのは、「有名作家としての僕」であり、こうした姿は結局、芸能人、タレントと同等のものであるように思われる。だから、作家がタレントになったり、タレントが作家になったりする今の現象は当然と言える。そこでは作品は問題となっていない。「タレント的なポジション」で流動性が起こっているだけの事であり、目新しい事ではない。
さて、この「タレント」「芸能人」は一体どこからあのような非人格的な力を得ているのだろうか。それは当然、それを見ている僕達からだ。僕達が彼らに視線を注ぎ、その一挙手一投足を見つめ、タレントらが僕達に「気にいるように」演技する事から、その力が発生する。そういう意味では、彼らは正に生きるフィクションだ、と極論できるだろう。僕はベッキー騒動をネットでずっと見ていて、ふと、ベッキーという存在そのものがある種のフィクションだったのではないかという感想を持った。ベッキーはベッキーを演じており、観客は演じられているベッキーがベッキーの全てだと思い込んだ。しかし、これは架空の現象だと、ベッキー本人も観客も気づかなかった。だが、彼女はやはり、「人間」ではなかった。ベッキーはベッキーという偶像だった。ベッキー騒動はこの、偶像と実像とのズレがもたらしたように思う。最近で言えば、アメリカのトランプなんかもそれに近い。ある程度時間はかかっても、トランプは自分の実像と向き合う事になるだろう。そしてその時は、アメリカという国家そのものが、幻像と実像の矛盾の為に破裂するのかもしれない。もちろん日本も他人事ではない。
さて、現在ではこんな風にして、大衆は圧倒的な力を持っており、ここでの夢、希望は、大衆の羨望となる事だ。つまり、大衆は、自分達のアイドル、タレントを崇め奉る事によって、自分達の絶対的な力を世界に誇示している。これはネットが当たり前になった現代では普通の姿であり、先進国はみな似たり寄ったりではないかと思う。社会の階梯を昇り、人々の憧れの的になる事が僕達にとって、卑小な自分をすくい上げる方法だとすると、そのタレント性を保持しているのは、実は卑小な僕達の集団である。僕達が大きな集団となって巨大な力を発揮し、その力と同化し、偶像となる事が現代における生きる目的ーーあるいは成功ーーであるように見える。
これまでをまとめると…
① 個人としては膨大な社会機構に対して無力であり、その事を僕達は無意識的に感じ続けている。
② 卑小な個人は巨大な集団となり、世論となると圧倒的な力になる。だから、卑小な個人はこの圧倒的な集団に自分を溶け込ませる事で、巨大な力の一部となり、万能感を得る。近頃、正論正論で人を叩いている人はこのグループに入るように思う。
③ ②の状態では個人は集団として力を得ているに過ぎず、個人として力を持っているわけではない。ただ集団に溶けているだけである。この状況から救われる方法は「タレント」になる事だけである。ここでは、個人として集団の視線を浴び、一人の人間でありながら、巨大な霊的力を得る事ができる。しかし、この「タレント」としての能力は大衆の気に入っている間だけ発現するものであるから、「タレント」は自分自身で自分を作っているというより、大衆に操られているという感覚を得るだろう。だから、「タレント」の巨大な力も実は②の状態から生み出されるもので、タレントは②に気に入られるよう、始終気を遣っていなくてはならない。
これは言い換えれば、
① 無力な個人
② 世論、世間
③ タレント
という事になる。現代を考えると、この三つの序列構造が重大となっているように思う。(ちなみに触れなかったが、こうした構造の中で家族構造も壊れていっているように見える。個人は世界と直結する事でその中間である家族を形成しづらくなっている)
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さて、話をやっと文学に戻す。
一番冒頭で書いておいた、村上春樹らしい「小説家は物語を作る」という考えは、一見すると小説家としての真っ当な覚悟を語っているように見えるし、読者の大半はそう読むだろう。しかし、果たしてそうだろうか。そしてそれは村上春樹のせいではない。むしろ、村上春樹が、自分が何によって動かされているのかを知り得ない為に、そう言ってしまっているという事に問題があると見る。
村上春樹でもいいし、他の作家でもいいが、確かに小説家は物語を作る。それは大抵は「そういうものだから」と考えられているが、なぜ「そういうもの」なのだろう。村上春樹の作る物語は、読者によってあっという間に消費されてしまう。村上春樹が語っているのは、作家としての覚悟であるように見えるし、事実そうだろうが、作家としての覚悟も消費者によって、流れ去る商品形態の一つとして消費されていってしまう。物語を作る、面白い話を書く、作家になるという夢を叶える、それらはいずれも、我々の世界の中でのあり方から出てくる必然的な一つの態度(つまり世界肯定)であり、そうした態度そのものがこの社会そのものを成している。では、芸術家はこの、社会という名の大きな物語から外に出る事はできないのだろうか。何を書き、何を考えようと、それは大衆、世論に評価される限りにおいて意味を持ち、そうでなければ孤独に、端の方で(僕のように)ブツブツ言っているという事にほかならないのだろうか。
恩田陸の作品が穏和で受け入れられるという事、ワンピースが売れるという事柄、それら全般において、クリエイターは確かに高い技術を誇っているし、また、どの方向に行こうとそれはクリエイターの自由だ。西尾維新のような何を書いてもいいという態度をとってもいいし、なんでも書けるという万能を誇ってもよい。エロもあればグロもあり、大人しい物語もあり、物語を壊す現代アート的なあり方もある。だが、現在の問題は何をしたところで、それが人々の視野の中でのみ価値を持つと、つまり、この社会の手のひらの上からは決して逃れられないという事にあるように思う。問題なのは、僕達は自分達が何に捉えられ、何から逃げられないかを意識する事すらできないほどに、このものに深く囚われ、とらわれる事によって安堵すると共に、いつも本当の自分自身に巡り会えないような感覚を抱かされ続ける。こうした事が現代において物語を作る上で、重大な社会問題であるように思う。
近代小説のスタート地点であるセルバンテスであれば、こうした問題にどう立ち向かうだろうか。セルバンテスの「ドン・キホーテ」でドン・キホーテは、自分自身、騎士道物語を読みすぎて、自分が騎士だと勘違いしてしまった人物である。この人物は幻想にとらわれているのだが、現実に出て人と交流する事により、つまり、この幻想と現実との差異によって物語が生まれてきた。これは本格的な、哲学的な方法と言っても良い。
現代社会は全てが空想化され、フィクション化された世界であると言っても良いだろう。僕達は各々がドン・キホーテである為に現実に出会う事はできない。ラスコーリニコフは現実と出会う為に殺人を成したが、それでも彼は現実に会う事ができなかった。ラスコーリニコフは相変わらず、自分の夢にとどまり続けた。そこでの真実はただ一つ、ラスコーリニコフにとっては全ては夢だったという現実だ。この現実に気づいた時、彼は敗北する。諦める。そして諦める事で彼は生きていく事を決意する。しかし、僕達はそもそも一体、何を諦めればいいのか。
アリストテレスの芸術の定義や、ベートーヴェンの力強い人間賛歌は僕達にはもう持てなくなってしまっている。共同体の運命を描き出す事はいつしか、共同体に「受ける」事へと変貌し、人間の運命を描いてきた物語の機能はその根っこの部分を忘れて、単に読者を楽しませる形式的なものとなった。物語は、人工化した社会では、現実化し、それは例えば「音楽コンクールでの天才の競争」という形に現れるかもしれない。しかし、採点者がコントロールし、資本がコントロールし、視聴者が見えない形でコントロールしている天才とは存在するだろうか、というのが次の問いになる。
現代社会は、その機構を膨大なものにし、人間一人一人をアトム(原子)化した。そこで僕らはばらばらとなったが、これはメディアや世論やSNSで一応の繋がりを持っているようにも見える。個人は世界と直結し、個人は世界に受け入れられて始めて人間であるような気持ちがする。だから、「売れないアーティストは意味がない」となるが、こういう価値観は、僕達が自主的に考えているというよりは、社会が自己を維持する上で必要な価値観であって、こうした価値観そのものが社会を成している。この大きな世界では芸術家は大衆に見世物を提供する人間であり、誰しもが無意識的にそう捉えている。では、ここではどんな抜け道もないのだろうか。
…さて、ここまで問題を提起してきたが、これに対する処方箋とはどんなものだろう。僕のぼんやりした予想では、多分、世界に対して自分が無力であり、自分とは何者でもないという事を明白に意識する事から全ては始まるように思う。また、それを意識する事により、物語のキャラクターは世界を取り込む事が可能になるだろう。つまり、世界はすでにフィクション化されており、現実はどこにもないという事を意識した上で、それでも人がその空間を生き(直さ)なければならないという事が現代の物語となりうる。こういう試みはまだやられていないと思うので、個人的に色々試すつもりである。
現代はこのように社会的自由が、自由として個人の魂の中に専制として染み込んでいる時代である。こうした世界において物語を作るとは人々の価値観の中に吸収される事しか意味しない。ここで、自らが自主的であろうとする、ソクラテスのように自由であろうとすると、世界から見放されるという悲劇が起こる。しかし、分かった上であえてそうするという悲劇はありうるだろう。世界を越えるものは何らかの形で悲劇を自らの中に内蔵している。その悲劇とは、自らが自らを乗り越えようとする為の悲劇で、不足ゆえの悲劇ではなく、過剰ゆえの悲劇だ。そしてこの悲劇が描かれ、これを共同体が瞠目して見る時、ようやく現代において優れた芸術作品が現れたと言えるのではないだろうか。少なくとも、自分はそんな風に考えている。