03. 靴下と二枚舌の獣(2)
「あの子、友達がいないんです」
射水泉の母・灯さんはローテーブルの木製天板に視線を落とす。射水泉が子猫だとすれば灯さんは女豹を感じさせる妖艶な面差しだ。悲しげな表情までがとても色っぽい。足下が素足にスリッパなんていう典雅さの欠片もない三流センスのせいでぶち壊しだが。
僕は向かい合う形でソファに腰掛けている。
芦田の家で泣き崩れたまま動かなかった射水泉をここまで運んだのは確かに僕だが、なぜこうなっているのかは自分でもわからない。僕は倉林汐路の綿混ニーハイソックスが取り返せればそれでOKだったのに。
「小学一年生の頃に、私が教えてあのパペット人形を作ったんです。履いてた靴下を使って。そのときの一足……あの子はソコちゃんポコちゃんて呼んでるんですが、昔からそれだけが話し相手という感じで、今でもかばんに入れて学校に……。昨日、あの子ソコちゃんが盗まれたって大騒ぎで、いつまでも靴下に話しかけているくらいだったらいっそ無くなった方が……とも思ったんですが、やっぱり悲しそうにしてるあの子を見るのは辛くて。魚崎さん、見つけてくださってありがとうございました」
ぺこりと下げる頭。耳元のピアスが光を弾いてきらめいている。
「いえ」
ソコちゃんとポコちゃん、ねぇ。
靴下はおもちゃではないのだから、そんな扱い方を僕は是としたくないが。
ちなみに射水泉は半べそのままソコちゃんを大事そうに抱えて洋室の方へ引っ込んだ。まあ靴下を大切にする精神は大事なことだ。
「でも泉さん演劇部ですよね。友達ならいるんじゃ」
「演劇部員は今あの子だけみたいで……。そこでも靴下人形を使ってパペット劇の練習をしているんだそうです。私は去年の文化祭見に行けなかったんですが」
「パペット劇」
総合文化部の部室内にあったたくさんの動物パペット人形。あれ、靴下でできていたのか。ソコちゃんは目と口のワッペンが取り付けられているだけだったから、むしろ靴下だと認識する方が早かったが。
あのときの射水の楽しげな一人会話と何かをかばんに隠した動きを思い出す。
盗難から逃れた片っぽ、ポコちゃんと話していたのかもしれない。
「……」
うーんどうでもいいでしょー。
某ミスターっぽい節回しで内心ひとりごち、僕は立ち上がった。
「それじゃあ僕はこれで。お邪魔しました」
すたすたすた。玄関へ向かう。
「ち、ちょっと待ってください魚崎さん。あの、お願いがあるんですけど」
「お願い? ……なっ」
たたきに降りて振り返った僕に電撃が奔った。
慌てて追いかけてきたからか、灯さんのスリッパは向こうに置いてけぼりになっていて、そのおみ足が露わになっている。僕としたことが気づかなかった……まさかカバーソックスを履いていたなんて。しかもなんだあれは……あれは、もしや。
「これからも泉と仲良くしてあげてくれませんか? 高2の娘に対してこんな心配をするのは親バカなのかもしれないですが……魚崎さん?」
「……オ……ス」
「はい?」
「オールレース……その靴下、オールレースですよね」
「え……ええ。それが何か?」
初めて見た。
靴下は手触りこそがすべてだと、僕はそう思ってきた。今でもその気持ちは変わらないが、それでもこの、ほとんどただのナイロンのはずの縫製レース靴下に魅了されているのは事実だった。
ほっそり嫋やかな肢体の先で放たれる鮮やかすぎる官能美。生白い足に沿って包み込むレースの精美な仕立てが、神々しさに近い崇高な印象を起こさせる。
「ください」
「は?」
「それください」
「いや、そんな八百屋のお客さんみたいに言われましても」
「これからも泉さんと仲良くしてあげますから、それください」
「この子、案外ゲスだわ!」
口を押さえて後ずさりする灯さん。シュッと音を立てて、なめらかに床を滑るレースのカバーソックス。
ああ〜。鼻血が出るくらい魅力的だ。いっそ僕がこのフローリングになりたい。床中に敷き詰められた僕のマイスナー小体でレースと足の加圧から生まれる触覚シグナルを伝達したい。
「オールレース……でぃひひひひっ」
「泉っー! この人やばいっー! 警察っー!」
奥から引き戸が開く音がして、夜の大運動会を行う猫みたいに射水泉が突入してきた。
で、飛び蹴り。
「ぐふぉ……」
僕は玄関扉に激突する。川妻英里といい、こいつら軽はずみに大技を繰り出しすぎだ。
「このド変態がっ! お母さんに何をしたっ!」
「痛いなもう。僕はただ君のお母さんのレース靴下の譲渡を求めただけで、なにもおかしなことはしていないよ。それと蹴るならもっとソフトな靴下を履いてからにしろ。そんなザラザラした58点の古靴下で蹴られる身にもなれよ」
「どうしようもない変態だなっ!」
「僕は変態なんかじゃない。ただの靴下好きだ。いいか射水。靴下ってのは女の身だしなみの基礎だ。良い靴下は良い女の基になる。そこをそんな風に蔑ろにしていると、どんなに面が可愛くたって、僕のような靴下好きの男からは見向きもされなくなるぞ」
「そんな一部の変態男に相手にされなくても全然構わないんだがっ」
「お前な。世の中の男から靴下好きを排除すると、石田純一くらいしか残らないぞ」
「嘘っ!」
「だいたい君だって女だてらに靴下好きだろ。大事そうに握ってるそれ、ソコちゃんとなんだっけ? ポコちん?」
「ポコちゃんだっ! 卑猥な敬称をつけるなっ!」
「靴下と会話するなんて相当な好き者だよね。ふふ。君も靴下好きならもう少し、自分で履く方にも気を遣ったらどうだ?」
「お前と一緒にするなフェチ野郎っ!」
プッ、と噴き出したのは灯さんだった。今のやり取りのどこに笑い所があったのかわからないが、目尻に涙まで溜めて笑っている。
「泉。じゃあお母さん、ご飯の準備あるから。それから魚崎さん、本当にありがとうございました」
「感謝するくらいだったら靴下ください」
「嫌です」
灯さんはLDKに戻っていった。
ちっ。あれほどのご馳走は中々お目にかかれない。ここで見過ごしてしまうにはあまりにも惜しいが……仕方ないか。今はこのポケットに倉林汐路の綿混ニーハイソックスがあるのだし。
「じゃあ僕は帰るよ」
「けっ! 私は感謝なんてしないからなっ! じゃあなっ!」
去るのは僕の方なのに、射水はまた捨て台詞のようなものを吐いて僕を追いだした。最後までやかましい子猫だ。
射水家を後にし、僕が行きつく先は再び一○三号。
チャイムも鳴らさずドアを開けて中に入ると「ひぃぃ〜」と気持ち悪い悲鳴が聞こえてくる。洋室に入ると、この部屋を出る前とまったく同じ格好でパイプベッドに横たわる芦田がいた。ビニール紐で適当にちゃちゃっとやっただけだが、ちゃんと縛れているようだ。
「待たせたな芦田ぁ。んじゃ、ケーサツ呼ぶか」
「け、警察っ?」
「性質が著しく異なるとはいえ一応同じ靴下フェチ。突き出すのは心が痛まないでもないが、住居侵入に加えて建造物侵入と窃盗、見過ごせるわけがないだろう」
「ま、待ってくださいキノシタさん! 住居侵入ならあなたも同じでは!」
「馬鹿を言え。僕は倉林さんと友達だ。友達ってのは靴下の一つや二つ、無断で貸してくれるものだろう。あと僕は魚崎だって言ってんだろーが何度目だ」
「え……あ! キノシタさんじゃない!」
「今頃かい」
僕はケータイを取り出す。ぽちぽち。
「ちょ、ちょっとキノ……魚崎さん!」
「あんだよ」
「良いもの見せてあげるんで、見逃してくれませんか。きっと気に入ると思います。あなたなら、間違いなく」
「はあ? 良いもの?」
何を考えていやがる、このくそド変態は。
「ちょっとそこの引出しの、下から二番目を開けてみてください」
「……ちっ。わあったよ」
僕はすぐそばにある木製チェストに手を伸ばし、引出しを開けた。
「こ、これは……!」
夕映えの空のような深いオレンジが僕の目を焦がした。
手に取ると、出来立てのスポンジケーキのような感触が掌全体に広がっていく。こんもりと盛り上がったかかと部分が特にすばらしい。練り上げられた求肥のようだ。
擦れて解れたのであろう糸が僕の鼻息でふわりと揺れ動く。
そのニット靴下に僕が抱いた感情は、もはや慕情に等しいものだった。
「100点だ」
「ほ、本当ですか! やはりあなたはキノシタさんの意志を継ぐ者だ!」
芦田は満面の笑顔浮かべて喜んでいる。縛りつけられていなければ今にもこの部屋で踊り出しそうな勢いだ。
「いや待て……やっぱ95点だ」
「えぇ?」
「なぜなら、僕はこの靴下の履き手を知らないからだ。靴下ってのは履いている人間の影響を多少なりとも受ける。ふんわりふわふわな靴下はふんわりふわふわな女が履いて初めて完成するんだ。これを見れば履き手の女がタダもんじゃねえのはわかる。わかるが、その女が誰なのかハッキリしねえ限り、僕の中でのこの靴下のイメージは完成しねえ。誰なんだ。このセンスの塊みたいな靴下を履いていた女は! さあ言え! 芦田ぁ!」
「ひ、ひぃぃっ。そ、それは……レイニーズの制服ですぅ!」
「レイニーズ? なんだそれ」
どこかで聞いたことがあるような、というか、ついこの間までは覚えていたような気さえするが。それも何か、僕にとってとても大事で、覚えておくべきことのような。
「レストランですよ。白井百貨店にある、洋食レストラン」
電車に十五分ほど揺られ、駅から徒歩二分。時計は午後八時を回ったところ。
僕と芦田は、白井百貨店の七階にある喫茶店に来ていた。初めて来たはずだがそんな気がしないのは、いわゆるデジャヴと言うやつか。
座っているのは最も店内の眺めが良いと芦田が勧める席だ。店内というのはもちろんこの喫茶店のことではなく、垣根続きのレストラン『レイニーズ』その店内のことである。
「なるほど。改めて採点しよう……100点だ」
「よ、良かった!」
可憐なウェイトレスの足下を視線で追いながらミルクティーに舌鼓を打つ。最高だ。こんな古びれた百貨店にこれほどまでの聖地があるなんて。
「キノ……魚崎さん。じゃあ、僕のことは見逃してくれますよね」
「ああ。よくぞ教えてくれた芦田ぁ。だが」
マグカップを置いて立ち上がる。
「僕と一緒にゲームセットが訪れるのも悪くないだろう」
「え? ……まさか魚崎さん。そんな……嘘、ですよね」
「悪いな芦田ぁ。僕はもう限界だ。滾りに滾った靴下への欲望が、衝動が、もう抑えることのできない段階まで来ちまったんだ。僕は往く。あの靴下に飛び込むよ」
「ちょ、そんな! 魚崎さん! 考え直してください! 好みの靴下だけを売る靴下専門店をオープンして靴下ブームを到来させ、日本中を僕らのオカズで埋め尽くすというあなたの夢はどうなるんですか!」
「なに言ってんだお前。そんな夢ねーよ」
僕は芦田から目を切った。もう捉えるのはあの靴下だけだ。
「じゃあな芦田ぁ。悪いけど支払い頼むわ」
軽い足取りで喫茶店を出る。これから起こすことの重大さを考えると、僕はやけに落ち着いている。さっきから掛かっているのんきな百貨店のテーマソングのおかげか? いや違う。本望だからだ。靴下を追って破滅する。これが靴下フェチの本望でなくて何だというんだ。
一番可愛いと思っていたポニーテールの女が厨房から出てきた。
僕はそのコの足下目掛けて、全速力で突っ込んだ。
そして——
「なーにやってんだ魚崎。とぉう!」
黒いジャージを着たそいつに、大きな鎌で刈り殺された。
ぐるり。