03. 靴下と二枚舌の獣(1)
シライ、ヒャッカテ〜ン。
いつの間に眠ってしまっていたのか、俺は間抜けた音楽で目を覚ました。遠い高校時代の夢を見ていたような気がするが、もう今はこのくそ能天気なメロディで頭がいっぱいだ。シライ、ヒャッカテ〜ン。シャレてるシライ〜、オシャレなシライ〜、シライヒャッカテ〜ン。洒落てるとお洒落って同じだろ。
テーブルの上でケータイが震えている。表示はアシダ。
「アシダかぁ。七階の喫茶店つっただろ、さっさと来いや」
返事を待たずに切る。冷コーを啜り飲んで待っていると、二分でアシダが来た。相変わらずのくたびれたスーツとダサめがね。軽薄そうなにやにや笑いに身を鎧っている。
「お久しぶりですキノシタさん。遅れてすみません」
「てめぇアシダぁ。俺をその名で呼ぶんじゃねぇっていつも言ってんだろ。俺は誰だ。言ってみろアシダぁ」
「す、すみません。ミスター・ビッグ」
「ったくよぉ。俺ぁ木下って苗字が大っ嫌いなんだよ。『木下、靴下、ウンコした』って何のことか知ってっかアシダぁ」
「いえ」
「俺の小学校んときのあだ名だよバカヤロー。あだ名で韻を踏まれる人間の気持ちがわかるかおい」
「失礼な発言でした。重ねて謝ります。ミスター・ビッグ」
「まぁいいよ。そのあだ名も嘘ってわけじゃねぇしな。あたりめぇだが、俺ぁ当時からキノシタだったし、靴下が何よりの大好物だったし、学校のトイレでウンコもしまくりだった。ミスター・ビッグを名乗ってんのも、実を言うとただの映画の影響よ。見たか? ソックス・アンド・ザ・シティ」
「実はまだ……」
「てめぇアシダぁ。確かおめぇソックス・センスも見てねぇっつってたよなぁ。それでも靴下フェチか。俺ぁ恥ずかしいよ、おめぇみてぇなのが同志だなんてよぉ」
「すみません……あ。ですが、JJストーリーは見ましたよ!」
「なんだそれ」
「ご存じないですか? 双子モデルのジュリアとジュンコの半生を描いた実話映画! やっぱりスラリとした脚に履かれた靴下って最高ですよね! はああぁぁあ。彼女たちの履いていたあの靴下を、僕のこの足で履いてみたいなぁ」
恍惚とした表情を浮かべるアシダがキモくて俺は嘆息する。
「アシダぁ。おめぇは相変わらずド変態だな」
「え! お言葉ですがそれはミスター・ビッグも同じでは!」
「俺はてめぇみてぇな悪趣味してねぇよ。いいかぁアシダ。靴下ってのはその手触りがすべてだと言っていい。あの形容しがたいふんわりふわふわした感触が味わえるなら、履いてる脚がどうかなんてなぁ大した問題じゃあねぇのよ。学校指定の靴下なんかにありがちな安っぽい生地なんて特にナンセンスだ。覚えとけ」
「じ、じゃあ新品の靴下でもいいってことですか?」
「アホか。女が履いて初めてふんわりふわふわすんだろーが」
俺はアシダの物分かりの悪さにうんざりした。
もういい。本題に入ろう。
「あれ見てみろアシダぁ」
俺は隣の店を指差す。
「……えっと、レストランですか? ……店員さんの靴下が可愛いですね」
「よく気づいた。あのレストランの制服の靴下は非常にもこもこしている。冬から春にかけてのこの時期にしかお目にかかれない、もこもこニット靴下だ。しかも色まで俺の好み。暖色系の頂点、オレンジ色だ。加えてウェイトレスは上玉の女ばかり。……実はなアシダぁ、俺ぁもう往こうと思ってんだ」
「は? ミスター・ビッグ、まさか」
「そのまさかだ。俺はもう耐えきれねぇ。あの靴下に飛び込む。今日おめぇを呼んだのは、そんな俺の最期を見届けてもらうためだったんだ。くだらねぇ用事でわりぃな」
「そんな! ミスター・ビッグ! 好みの靴下だけを売る靴下専門店をオープンして靴下ブームを到来させ、日本中を僕らのオカズで埋め尽くすというあなたの夢はどうなるんですか!」
「その夢はここでお前に託すぜぇ。あと、支払いもな」
俺は席を立ちあがり、喫茶店を出た。シライ、ヒャッカテ〜ン。のんきなメロディが似つかわしくなくて笑えてくる。レストランに目をやると、一番好みだったポニーテールの女がちょうど厨房から出てくるところだった。
俺は彼女の足下へ向けて、全力で飛び込みにいった。
視界の端の方に、黒いジャージと大きな鎌が見えた。
——そして暗転。
***
ぺちん。
「ご、ごめんなさい魚崎さん。首の後ろにハエがとまっていたので、かばんに入れてた替えの靴下で叩いてあげようと思ったんですけど……突然振り返るとは思わなくて」
「……いいよ。ありがとう」
僕は笑顔を作った。顔面にヒットした靴下は痛かったけど、なんだかその刹那に、大切な記憶を思い出すような、スピリチュアルな体験ができたような気がした。
「本当にごめんなさい。じゃあ、時間もないのでこれで」
倉林さんが駆け足で去っていく。その影が完全に見えなくなるのを待ってから、僕は自室の鍵を開けた。中に入って荷物を置き、部屋の右手にあるカラーボックスの三段目の箱から変形した安全ピンを取り出す。
「ふ、ふひひひひひひひひひひひひひひひひひ」
倉林汐路は今、タイツを履いていた。
タイツってのはクソだ。無駄な弾力。厚みの無い手触り。履いた女の温もりを貯蔵する機能を持たない欠陥衣料品。あんなものはこの世から駆逐されるべきである。
しかし、倉林汐路は学校で黒のニーハイソックスを履いていたはずだ。それが先刻、タイツへと変貌していた。つまり今現在、彼女の部屋にはあのニーハイソックスが脱ぎたての状態で放置されている可能性が高い。あの心地よい綿混素材の、ニーハイソックスが。
僕は涎を拭って外に出る。辺りは薄暗い。鉄骨階段を慎重に上って、目的の部屋へ。扉の上についた蛍光灯が鈍い光を投げかけ、二○三のプレートを浮かび上がらせている。
三か月ほど前に家の鍵を無くしたことがあった。そのときに気づいたことは、狭山ハイツの扉の錠前は古いシリンダー錠で、特殊な道具など無くとも安全ピンのような針金ひとつで簡単に開錠できてしまうということ。十秒もあればね。
「ひっ……ひひひひひひひひ」
ガチャリ。索漠とした音を立てて二○三号の錠は無抵抗に口を開く。錆びついたドアノブを捻ると、今度は鈍い音が僕を責め立てるように鳴り響いた。ドアが軋りつつ開く。
摺り足で廊下を進んでいくうちに、僕は一つの違和感を感じた。
「なんだぁ?」
部屋の向こうから風が抜けてくる。窓を閉め忘れて行った? ……違う。僕は忍び足のまま廊下を抜けた。そこで見たのは身の毛もよだつ光景だった。
「だ、誰だね君は!」
よれよれのスーツを着たメガネ男が先に声を出す。どこかで見たことがあるが……思い出せない。だがまあ、今はこの男が誰であるかなんてどうでもいい。そんなことより、
「テメェ、倉林さんの靴下になにしてくれてんだぁ? ああ?」
男は畳の上に腰を下ろした状態で、倉林汐路の物と思われる綿混ニーハイソックスを事もあろうに自分の足で履こうとしていた。
僕は激高した。
「その汚ぇ足と手を倉林さんの靴下から離せクソ野郎! ぶち殺すぞ!」
「ひっ! ひいいいいっ」
男はみっともなく喘ぎながら、靴下を片手に窓から逃げようとする。僕は後ろから男のベルトを掴んで引き倒した。窓を閉めて退路も断つ。
ジャケットの胸ポケットから小さな手帳が零れ落ちたのを見逃さない。拾い上げて中を見る。ご丁寧に最後のページに個人情報が書かれてあった。
芦田浩介。二十六歳。
「おい芦田ぁ! どうしてくれんだよ、倉林さんの脱ぎたて靴下がテメェの気持ちわりぃ体温で上書きされちまったじゃねぇか! あぁ!」
「ひ! ひいいいいいいぃぃぃぃぃぃ。ごごごごめんなさいキ、キノシタさん!」
「はぁ? 誰だよ木下って」
「し、しししし失礼しました! ミスター・ビッグ!」
どうやら頭がおかしい奴のようだ。
まあ、女の家に窓から侵入して靴下をくすねるでもなくその場で履こうとする人間の頭なんざ、おかしくて当たり前なのか。しかし……くそ。目当ての靴下はこのド変態に汚されちまったし、どうしようもない。僕は男の背中を片足で押しひしいだまま、手帳をパラパラとめくってみた。
2月×日(水):撮影地のタレこみ情報が的中! 鳴子浜で憧れのしおじんに会うことができた。ああ、やっぱりモデルさんの美脚はたまらない。あの足に履いた靴下を僕の足で履くことができたら、どんなに良いだろう!
いい歳こいて日記かよ。内容もグランドスラム級のキモさだ。感心する。というか、こいつ倉林汐路の追っかけか?
3月○日(土):しおじんがロケバスで着替えているらしい。運転手に金を渡してあっさりしおじん靴下ゲット! さっそく家に帰って履いてみた。まるで僕自身がしおじんになったような気分だ。今日はサイコーだ!
サイコーなのはお前の頭だと言ってやりたくなる。僕自身がしおじん? なんだそりゃ。こいつは追っかけじゃないな。ストーカーだ。それも飛びっきり変態の。
3月△日(月):しおじんの自宅をつきとめた。だが、何も変なことはしない。ただこのあいだ借りた靴下を返すだけだ。封筒に入れてポストにイン。今度は僕が履き潰した靴下をしおじんが履く番だ。想像しただけでごはん3杯はいけるなぁ。
やばいやばいやばい。こいつはどんだけド変態なんだ。
靴下ってのは女が履いている状態がベストで完成系だ。女性の体温で適度に蒸れたふんわりふわふわの靴下、それに頬ずりすることこそが最も崇高な楽しみ方であり、健全な靴下好きのあるべき姿といえる。
そこへきてこの男は一体なんだ。
女の靴下をテメーで履き直して、それをまた女に返す?
倒錯してる。一度病院に行った方がいい。
3月×日(日):キノシタさんに呼び出されて白井百貨店に行った。変なことが起きた。キノシタさんは捕まるのを覚悟で足下へダイブ……したはずだった。ジャージの女の子が横から通り過ぎていって、気づくとキノシタさんは店の前でうずくまってた。キノシタさんは少し呻き声を上げたけど、すぐに立ち上がって、何事もなかったように帰っていった。電話をしてもキノシタさんは生返事ばかりで、なんか憑き物が落ちたような感じだった。
わけわかんねえ文章だ。さっきこいつは僕のことを木下と呼んでいたが、錯乱しすぎてここに書いてある木下と勘違いしたのか? まあどうでもいいや。
4月○日(日):キノシタさんは古着屋でアルバイトを始めたらしい。なんだかあの人らしくないと思った。それはそうと、しおじんの家からしおじんの気配がない。どうやら引っ越したようだ。冗談じゃない。前に君の洗濯物から大量に借りた靴下を、僕は一体どこへ返せばいいというのだ!
4月△日(月):マネージャーを買収して、しおじんの新住所と転校先の情報ゲットした! しかも僕の家から結構近いみたいだ。これは運命に違いない! 早速、借りてた靴下を速達で君の元へ送っておいたよ、しおじん! ああ、しおじん!
日記はそこで終わっていた。僕はそれを閉じて、芦田の頭に叩きつける。
「テメエ、住所間違ってやがったな芦田ぁ」
「ぐえぇ?」
踏み潰されたカエルような声が返ってくる。
「一○三号と二○三号間違えただろーが。封筒、僕んとこに届いてんだよボケ」
「あ、ああ。はい。……え? あれ、キノシタさんこのアパートに住んでんすか?」
「だから木下って誰だよ! 僕は魚崎だ! 危うくテメエが送ってきたテメエの履き直した靴下でモフるとこだったじゃねーかクソ野郎! 死んで詫びろ!」
僕は芦田を腹から蹴り飛ばした。ああイライラする。理由は明白だ。倉林汐路の綿混ニーハイソックスを目前にして高ぶっていた体が、この思わぬ邪魔者せいで冷えてしまったからだ。一度別の男の手に触れられてしまった脱ぎたて靴下など、もはや脱ぎたてではない。くそ。この興奮を僕はどこに向けて発散すればいいんだ。
「あ」
目を離した隙に芦田が玄関側へ逃走した。
倉林汐路の靴下を持ったまま。
「待ちやがれ!」
芦田は裸足で外へ飛び出した。僕はたたきに脱ぎ捨てていたスニーカーを素早く履き、後を追う。手すりを飛び越え地面に着地。狭山ハイツの敷地を出て右に曲がって行った芦田を四秒ほどの間合いで追走する。
奴の手に触れてしまったものとはいえ、一度目をつけた靴下を譲る気はない。
「おらああああああ! 芦田ぁ!」
「ひいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
運動不足のはずの両脚が驚くほど軽やかに、勢いよく、全身を前へ前へ飛ばしていく。アレを取り逃しちゃダメだと、頭が本能的に体を駆り立てる。
住宅街から暗がりの細道を抜けて大通りへと出たところで僕は芦田を見失った。ド変態の癖して現実以外からの逃避も案外速い。どこへ行きやがったあの野郎。
「あれれ。魚崎くん」
「あぁ?」
少しガキっぽいブルーの星柄。滑らかな手触りを返しそうなつやふわ素材。履き手のレベル次第ではAランクも視野に入る秀作だが……この靴下どこかで。
僕は目線を上に移した。
「川妻英里か」
「なんで足下から確認してったの……」
川妻英里の靴下。今朝触った感触はまだこの手が覚えている。あれは中々に良いものだった……が、僕は今もっと上等なご馳走を狙っているのだ。構っている暇はない。
大通りに視線を巡らせる。どこだ。
「いた」
「え、何が? …………え」
横断歩道の人ごみに芦田を見つけた。ホワイトカラーに紛れているつもりか知らないが、一人だけ明らかに挙動がおかしい。僕は再び駆け出した。
ニヤついた顔をぶら下げ、何かの幼虫みたいに痩身を揺らして歩く芦田の手には、倉林汐路の綿混黒ニーハイソックスが握られたままだ。僕はそれが気持ち悪くって吐き気がする。追いついたら吐瀉物を浴びせてやろうと思っている内に、芦田は僕の追走に気づいて逃げ出した。大通りから間道を抜けて再び住宅地へ。疲れた。僕の本能の羅針はまだまだ元気に芦田の手にある靴下を指し続けているものの、体は正に悲鳴を上げていた。ぴゃああああああああああ。
「っらあああああああああああああああ!」
哮り立つような叫びと共に、僕の横を走獣が駆け抜けていく。よく見ると川妻英里だ。
しなやかに動く脚の筋肉が一足ごとにつやふわ靴下を上下に蠢かせている。その様に見惚れていると、川妻英里はあっという間に芦田に追いつきドロップキック。芦田はアスファルトの上に倒れ伏し、無様に呻き声を上げた。
「テメー性懲りもなく、また汐路を狙ったな?」
川妻英里の顔は鬼神のように恐ろしく、僕の興奮が少し醒めてしまうほどだ。
「き、きき君は、確かしおじんの友達の……」
「川妻だよ。うちらの体育覗いてたのテメーだろ」
「な、何のことかなー? フゴッ! な、殴るのはよくなフゴッ!」
「友達がくそキモいスーツメガネが脚ばっか見てたっつってたんだよ。テメー以外にいねーだろうが。どうやって汐路の転校先つきとめた」
「し、しおじんのマネージャーから聞き出したのさ。で、でも悪いのはしおじんの方じゃないか。僕は借りてた靴下をしおじんに返さなくちゃいけなかったんだから。借りたままだとほら、泥棒になっちゃうし。ね? しょうがないんだよー」
スラリと伸びた川妻英里の美脚が、また芦田を蹴り飛ばす。
「ぐへぇ」
「……テメーのそのキモい嫌がらせのせいでなぁ、汐路は実家を出て、学校も変えて、外ではデカいマスクして、洗濯物の靴下が強風で消えたのをお前の仕業なんじゃないかって心配して……この野郎。ふざけやがって! それから更衣室に侵入したのもテメーだろ。汐路は被害なんてなかったって言ってたけど、あの子の靴下盗んだりとかしてねーだろうな?」
芦田が唸るような声を上げて、ふらふらと起き上がる。川妻英里はすぐに芦田の胸ぐらを掴んでブロック塀に押しつけた。
思い出した。この男、どこかで見たような気がしていたが、昨日校舎裏でサリーと話していたときに横を通り過ぎていった男だ。なるほど。あっちもそっちもこの男が起因か。
「い、いやあ。盗む……じゃなくて、借りるつもりだったんだけどね。なんか間違って別の女のダサい靴下取っちゃってさ。あひゃひゃひゃひゃ」
「別の女? 誰も実害が出たなんて言ってなかったけど……」
射水泉のだ。
縦長にブロック分けされたロッカーは二人で一つ。転校初日の倉林汐路はチューター役の射水泉と同じロッカーを使用した。芦田は制服の名札か何かから倉林汐路のロッカーを特定はしたが、誤って射水泉の方の靴下を持ち去った。そんなところか。
靴下盗難は女子には広まっていると思っていたが、どうやら違うようだ。考えてみれば僕は射水から伝え聞いたことしか知らない。担任の友利友衣子も盗難への注意喚起と取れる発言をしておきながら、実際に『盗難が発生した』とは言わなかった。射水泉は友利友衣子にのみ話し、友利友衣子が影響を考えそれを秘匿したということか。
なんて。僕にとってはどうでもいいことだ。
「まーいいわ。ちゃちゃっと通報してやんよ」
川妻英里は芦田を掴んでない方の手でケータイを取り出す。
「そういえば、なんで魚崎くんコイツ追ってたの? コイツが汐路のことストーカーしてた靴下フェチ野郎だって知ってたの?」
「まあね。でもそいつは靴下フェチとしては唾棄すべき三流のゴミクズだよ」
「……は?」
「靴下の本当の魅力がわかってないのさ。倉林さんのに目をつけた審美眼だけは褒めてやってもいいと思ったけど、それもどうやら彼女がモデルだからという理由だけで選んだだけのようだしね。靴下ってのはその手触りがすべてだ。あの形容しがたいふんわりふわふわした感触が味わえるなら、履いてる脚がどうかなんて大した問題じゃない。加えて靴下に対する敬愛が感じられないね。靴下は足を保護する存在だ。言い換えると、靴下は美しい足を維持するために代わりに傷ついてくれている存在。衝撃から、寒さから、乾燥から守るために進化を続けてきた衣類。こんなもの他にはない。あんな風に雑に握りしめて扱って……靴下を大切にしない驕り高き人間に靴下を語る資格はないね。謙虚に敬愛し、慈しんでいるからこそ、下を向いて歩く僕のような人間の目にだけ、靴下はその輝きを教えてくれるんだ」
「な、何を言ってるか全然わかんないわ……」
「まあ女にはわからないだろうね。でも、君の履いてる靴下もなかなか良いよ」
「あ、ありがとう……」
芦田を掴む手を離して、川妻英里は少し僕から遠ざかった。
「そういえば、下駄箱に置いといたプレゼント気に入ってくれた? あれ、あたしなんだ。ほら、HRのとき魚崎くんが今日誕生日って聞いたから、家庭科の時間にがんばって作ったんだけど……」
「あー。あの靴下は君の仕業だったんだ」
「そう。魚崎くん今朝、あたしの靴下かわいいって言ってくれたでしょ? だから」
はにかむように笑う川妻英里の足下を見る。うーん。
「せっかくならそっちの靴下をくれよ」
「……え?」
「誰も履いてない新品靴下なんて貰って僕にどうしろってんだ。どうりであれを見た瞬間に何の魅力も感じなかったわけだ」
「そ、そんな言い方しなくても……」
あ。
しょぼくれる川妻の傍で崩れ落ちていた芦田が起き上がり、再び逃げ出した。
あの野郎、この期に及んでまだ倉林汐路の靴下を握りしめている。もはやもうあの靴下には大して魅力を感じなくなってきたが、それでも僕は芦田を追いかけなくちゃいけない。これ以上あのゲス野郎に倉林汐路の綿混黒ニーハイソックスを汚されるのは堪えられないからだ。
まっとうな靴下フェチとして、それを阻止する義務が僕にはある。
鬼ごっこ第二ラウンドは一分足らずで幕を閉じた。
芦田が自宅と思しきアパートに逃げ込んだからだ。
がちゃん。一○三号のスチール扉を足で蹴り飛ばす。がちゃんがちゃんがちゃん。僕と同じ部屋番号なのも何だか腹が立つ。
「魚崎。何やってる」
声。背後から。
「あぁん? 水玉模様のハイソックス……射水か」
「なぜ足下から確認する……」
制服姿の射水泉がスクールバッグを片手に立っている。次から次へとなんだ。
「58点」
「なにが」
「お前の靴下だ。58点。僕はいま90点越えのAランク靴下のピンチを救うのに忙しいんだ。くだらないトークがしたいなら他を当たってくれ」
「なっ……! やっぱりお前は靴下フェチだったのかっ?」
「そうだ」
「あっさりっ! あっさり認めたっ!」
いちいちうるさいブスだ。僕が靴下フェチだから何だというのだ。
「じゃあやっぱり私の靴下を盗んだのはお前なんだなっ? この変態! 私のうちまで来て……一体なんのつもりだっ」
「僕は君の靴下を盗んじゃいないし変態でもない。それより、ここに住んでるって?」
「うちはそっちだ」
斜め上空を指す。どうやら三階に住んでいるらしい。ふーん。
僕は射水の軽い体を抱え上げて靴と靴下を脱がし、靴だけ再度履かせてから一○三号の玄関前に立たせた。
「おいっ! なにをするっ」
「この部屋の住人は射水の靴下を盗んだ犯人だ。とっ捕まえたければ、この靴下を持って『古着要りませんか?』と言うんだ。ああもうちょっと下がって、足が見える位置まで」
「はぁあ?」
僕はインターホンを押してドア横に控えた。来客通話用のスピーカーが備わってはいたが、中からすり足で近寄ってくる音が僅かに聞こえてくる。やがてドアの向こうから、
「誰だい?」
キモい声。芦田だ。
僕は射水泉にジェスチャーで合図を出す。
「……古着、要りませんか」
「いるいるぅ!」
勢いよく開け放たれたドアからにゅるりと出てきた芦田のテンプルを僕は殴り飛ばす。芦田は手に何も持っていない。足にも。倉林汐路の綿混ニーハイソックスは中だ。
僕は芦田と射水を放置して部屋へ突入した。1LDK。引き戸を開けて洋室に入ると一面のポスターが待ち構えていた。映っている女はみな靴下を履いている。履いている靴下のレベルはいまいちと見受けるが、なるほど、確かに美人&美脚揃いではある。
床の上に無造作に置かれた綿混ニーハイソックスを見つける。僕はそれを拾い上げた。
「うひひひひひひ」
手に返す優しい温度。低刺激な肌触り。このしなやかさはスーピマ綿かな?
先に芦田の手に握られてしまったのは残念だが、やはり良いものは良い。
どかどかとうるさい後続が部屋に入り込んできた。部屋をきょろきょろ見回す射水をスルーして、僕はとりあえず芦田を後ろ蹴りしておく。
「おい芦田ぁ。他に倉林さんの靴下持ってたりしねーだろうな」
「ぅぐ……い、いま持ってるのはそれだけです」
「ああ? 正直に言えよくそド変態野郎」
「ほ、ほんとに今はそれしか持ってなくて……更衣室で取ったものなら、確かそこら辺に放り投げてるんですけど……」
隅にあるテーブルを指差す芦田。何も見当たらないが、よく目を凝らすとキャスター付きのキャビネットの下から何かが覗いている。僕がそれを靴下だと気付くのと、射水が勢いよくそれを拾い上げるのがほぼ同時だった。
一足の平凡な黒靴下と、片方だけの薄汚れた白靴下。
「ソコちゃん……」
射水泉が拾い上げたのは白靴下。埃まみれのその靴下は、一言でいえば変だった。まず、女子とはいえ高校生が履けるサイズではない。明らかに子ども用だ。加えて、足裏部分に三つほどワッペンのようなものが付いている。
僕の目から見ても何の魅力も感じないそのダサい子ども靴下を、しかし両手で大事そうに抱える射水泉。その双眸からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちていた。
「うぅ……ごめんね……ソコちゃん、ごめんね」
ぼろ靴下に涙が染み込んでいく。ワッペンの下に落ちた滴がまるで靴下の涙のようだと思えたとき、閃くものがあった。
あれは顔だ。ワッペンは両目と口を現している。つまりあの靴下は……
「ソックマペット?」
正解した芦田には平手をお見舞い。