02. 靴下と三人の美女(2)
空を靴下が泳いでいる。
ハイソックス、ニーソックス、スニーカーソックス。赤青黄に白黒茶。
左右の靴下が魚のつがいのようにペアになって、すいすいと木々の隙間を縫って元気に泳いでいる。その様子を眺めていると、いつしか僕の体まで靴下たちの流れにさらわれてしまっているようだった。気づくと体は雲の上を泳いでいる。ふわふわふわ。ひときわ大きな入道雲を止まり木のようにして、いくつもの靴下が休んでいる。僕はその中に頭から勢いよく飛び込んだ。驚いた靴下たちが一斉に飛び立って、その後僕に襲ってくる。はははは、やめろって、くすぐったいよもう。
僕が雲の上を占領していると、やがて靴下たちは諦めて、僕の体の上でその身を休め始めた。靴下たちに囲まれたままふわふわと空を漂っていると、なんだか僕自身が靴下なったような、幸せな気持ちが充満してくる。そう、僕は靴下なのだ。僕は——
「わあああああっ!」
目覚めた瞬間、僕は布団の中でなにかよくわからないおぞましさを感じて飛び起きた。
朝だ。
「なにか……僕はとんでもない夢を見ていたような」
「おはよう魚崎ぃ。随分、幸せそうな顔をして寝ていたな」
既にお目覚めのサリー・シェリンガムは座椅子で優雅にココアを飲んでいた。
「幸せそうな顔だと? ほんとか?」
「ああ。顔中の筋肉がへなへなに緩んでいたぞ。ただ目を開けた瞬間、しんと静まり返った図書館でジェンガを崩してしまったような顔になったが」
「どんな顔だよ。図書館でジェンガやんねーよ」
とりあえず顔を洗って、このもやもやごとリフレッシュすることにした。
さて。
日曜昼の誤配事件から始まった靴下フェチ化の流れは、今日で三日目を迎える。
色んな障害があったけれど、僕は何とかまだ男子高校生にあるべき健全さを把持できている……はずだ。サリーの話に間違いがなければ、この運命は一○○時間以内に収束してしまうらしい——つまり、残り二十から三十時間といったところだ。
裏を返せばあとこの時間だけ自分を保てられれば……
「しかし魚崎も頑張るなー。無駄だと言っておるのに」
「フン。ここまで理性と勇気だけで耐えてきたんだ。僕は絶対にフェチ属性なんて身につけたりしないさ」
いけそうな気がする。それが今の正直な感想だった。
確かに危うい場面は何度かあったが、あのレベルだったら今日一日くらいは耐えられる。そうだ。僕にはそもそもサリーの言う素養なんてものは無かったんだ。なんとかの種が発現したってのもきっと偶然に違いない。うん、いける。
仕度をして玄関扉を開けると目の前に護摩堂の爺さんがいた。
「あー、うおしゃきくん。押入れから亡くなった婆さんの足袋が出てきたんじゃが」
「いらんいらんいらん!」
こんな雑なシナリオに従ってたまるか!
鬼丸高校、服装系校則緩和初日の教室は、予想ほどのカオスではなかった。
「だってジャージとかダサいし」
前髪をくるくると指先でいじる制服姿の川妻英里。
こう言っちゃいるが、節々にはいつもとは違うおしゃれを発揮しているのが、座席を前後にしているとよくわかる。というか今朝からあれこれ『私のがんばったポイント』を倉林さんにしゃべくり倒していたので知っている。
「ねえ魚崎くん。このベルトどうかな」
シャツを上げて、プリーツスカートを締め上げているそれを見せつけてくる。
「う、うん。いいんじゃない? それも自分で作ったのか。すごいね」
「こんなの買ってきたバックルに布通してちょちょっと縫い合わせるだけだよ。ねえねえ、じゃあこのブランケットどうかな。フリンジ付けるのに苦労したんだけど」
「うん。良いね。まだ肌寒いしね」
「じゃあ、じゃあ。このソックスどうかな?」
はい出たー。
なんとなくこうなることを予期していた僕はすぐに目を逸らした。逸らした先にはバカ面をぶら下げた日向寺誠一郎がいる。僕が困っているのを察してか、
「わ、川妻さんその靴下かわいいねー」
「うるっせえんだよナス太郎が」
何の助けにもならずに一蹴されていた。
「薄手だけどフリースで作ったからあったかいんだよ? ほら、触ってみて」
膝を伸ばして、スリッパを脱いだ爪先を机の下から僕の股の前に出してくる。なんなんだこの危険なシチュエーションは。
星柄のショートソックス。そのくるぶし辺りを僕は指先で少しだけ触った。
「あっ……」
スイカに塩をまぶすと甘く感じられるのは味覚の刺激に対比効果が生まれているからだという。この靴下の手触りから生々しく勁烈なまでの温かみが感じられるのは、普段の川妻英里のキツイ性格との対比からだろうか。天の川を意識したような少し子どもっぽいブルーの星柄というのも、普段の川妻のバイオレンスさからはかけ離れていて、その分キュートさが際立っている。僕はロリコンではないが、この子ども的かわいらしさは嫌いではない。春風を掴むような優しげな感触を返すこのような靴下には、子どもが持つふにふにとした足にこそ相応しいと思えるからである。ちょうど川妻の足はそんな感じで……
「ちょ、痛い! 魚崎くん!」
「はっ! いやスマン!」
思わず握り込んでいた川妻の足首を手放す。危ない……くそ、何度目だ僕。
シャツの袖で汗を拭う。拭った傍からまた汗がにじみ出てくる。なんだこれは。むらむらとした熱が体に絡みつく感じ。燃えさしが胃の中で燻ってる、みたいな。
「もーどうしたの魚崎くん?」
「……ごめんごめん! いやほんとそんなつもりじゃなかったんだけど。そのー、あ、あまりにもかわいい靴下だったから?」
「……かわ……いい?」
川妻が急に放心状態になった。
「かわいい……皮良い、じゃないよね。これ皮じゃないしね。ポリエチレンテレフタレートだしね」
「な、なに言ってんの?」
「可愛い……可愛い……」
ぶつぶつ言いながらすーっと前に向きなおる川妻。ちょうどそこで教室の前ドアから友利先生が入ってきた。どでかいダンボール箱を抱えている。
「はーい。遺失物係の人ー。……え? 休みなの? えっとじゃあ、ここは定番のお誕生日ルーレットということで……ドゥルルルルルルルルルル——」
先生は唇を尖らせて名簿に目を走らせる。毎度のことながら今日が誕生日の人を探しているだけで、それは丸っきりルーレットではないのだが、誰もツッコまない。
「——ドン! おめでとう魚崎くん、遺失物係の仕事お願いね」
「え! ……あ」
言われて気づいた。僕は今日、誕生日だ。ここんとこのロクでもない日々にあくせくしていたせいか、すっかり忘れていた。ツイてない。
……いや違う。まさかこれも。
「はいどうぞ!」
受け取ったダンボール……遺失物ボックスの中を見る。
たくさんの靴下があった。
遺失物係の仕事は昼休みを潰す。
貴重品を除く校内の拾得物は職員室前の遺失物ボックスに入れられ管理されているのだが、各クラスの遺失物係は毎週持ち回りで持ち主探しの教室行脚をしなければならないのである。
慎重にダンボール箱を抱え、僕は廊下を歩く。その横で、
「靴下って靴との相性もありますけど、ファッション全体のバランスを整える上でとっても重要なんですよ。割とかっちり目のコーデでもこういうラインソックスを合わせれば、適度な抜け感でサボりすぎずガンバリすぎない絶妙さが演出できますし」
倉林さんがやたらハイテンションになっていた。
荷入れを手伝ってくれたお礼をしたいので、と御供してくれたのは嬉しいのだけど。
「これなんかだと暗めのデニムをロールアップさせてチラ見せするのが良さそうですね。魚崎さんもそう思いません?」
柔和な笑顔を向けられて思わず顔が綻ぶ。愛嬌の零れる大きな瞳を見ていると、彼女のカリスマオーラを抑える役目をちゃんと果たせるのかと、マスクに老婆心が働くくらいだ。
「う、うん。でもあの、靴下の話よくね?」
「えー何でですか?」
ダンボールの中にある靴下を認めるや否や、倉林さんは舌好調という感じだ。僕はというともうそれに目をやるのも恐ろしい状態である。
川妻のあれ以降、なんだか靴下を見ると鼓動がヤバイのだ。本格的に。クラスの女子の足下も、このダンボールの中にあるそれも、一瞥しただけで吸い寄せられるような引力を感じる。
ちくしょう。大体、昨日までは靴下は黒のハイソックスという指定があったはずだ。誰だこんなおしゃれな靴下を履いてその上紛失していきやがったのは。
「春のおしゃれにおいて靴下は決め手になる部分なんですよ? 例えば、膝上5㎝のプリーツスカートに対して、魚崎さんはどんな靴下を履いたコを見たらかわいいって思います?」
「ど、どんな質問だよ。靴下なんて別に好きなの履いたらいいんじゃない?」
「ダメですよ。さっきも言いましたけど、靴下はバランスを整えるものなんです。生足部分とのバランスをよく考えて選ばないといけないんですよ。ほら、あの三組の教室の前にいるコを見てください。一見すると真面目ちゃん系ですけど白のハイソックスはグッドですね! あ、それからあっちのコも——」
あああああああああああああ!
「倉林さん! そ、そのくらいにしとこ! ほら、目立っちゃうし!」
頭を廊下の窓にぶつけて覚まさせる。できるなら、今すぐ両手を離して頭皮ごと掻きむしりたい。そうでもしないと、倉林さんの聴覚攻撃によって僕の脳みそは靴下のイメージで充満してしまいそうだった。
見たり触れたりしなければ大丈夫だと思ってたが、大甘だった。
「いいじゃないですかー。そういえば私の靴下も負けてないんですよ? スカートとネクタイがちょっと甘めなんで、黒のニーハイにしたんですけど、どうですか? ほら」
足をポーンと前に出して僕の視界に入れようとしてくる。僕はそれを焦点で捉える前に、抱えたダンボールで遮蔽する。
「うーん、ちょっとこれが邪魔で見えないなー」
「ほら、これですよこれ」
ズバッとスカートが擦れる音。高く上げられたスラリと伸びた脚——が見える前に、ダンボールを抱え直してシャットアウト。
「み、見えないなー」
なんだこのやりとり。
「もう。……あ。あとこのニーハイ、綿混なんでむにむにしててすごく気持ちいいんですよ、ほら」
「ヒッ!」
膝に生暖かい感触。それをすりすりと——
「や、やめろおおおおおおおおおおおおおおお!」
張り上げた声はあまりひと気のない廊下を爽快なほどに駆け抜けていった。
「ごめんなさい……そんなに嫌がると思わなくて」
「ちが、そういうわけじゃ……くすぐったくてダンボール取り落としそうになっちゃっただけで、別に悪気があったわけでは……」
「つきましたよ。看護科」
「え、ああ」
気づけば、普通科の並ぶ教室とは少し離れた場所にある看護科クラスの前まで来ていた。各学年に一クラスしかない看護科の教室は、中に入った瞬間に甘やかな香りが鼻孔を満たしてくる。女子女子女子。見渡す限り女子しかいない。
触れたニーハイの余韻が残る足をひきずって、ざわざわと姦しい教室の前に出る。
「ども。遺失物係っす」
「最近何か無くしたーって方は、ぜひ前に来てくださーい」
マスク越しでも麗しい倉林さんのきゃぴきゃぴ声が響く。徐々に教室を支配するガールズトークの波が小さくなっていく。フェードアウトする曲の最後を追いかけてしまうような要領で、僕の耳は後方にいたギャル生徒の小声を拾い上げた。
——……あれ、しおじんじゃね?
「倉林さん。後ろ向いた方が」
「あー。もう遅いかも」
教室のヒソヒソ話が大きくなっていく。今度はハッキリと聞こえた。
「しおじんじゃん!」
わーわーぎゃーぎゃーひゃーひゃー。その騒擾は昨日のうちのクラスの勢いを上回るくらいの熱量だった。やはりあのマスクでは倉林さんのオーラは隠しきれないようだ。
「転入してきてるって噂、本当だったんだ!」
「その髪留めどこで買った? 超かわいー!」
「しおじんこの財布にサインちょうだーい!」
「顔ちっさ! 制服超似合ってる! やば!」
恐るべし看護科。もはやこの教室の中で、落し物に関して頭を巡らせている生徒など皆無だろう。
雪崩を打って押し寄せる女子たちを倉林さんは弾けるような笑顔で出迎えている。
「ありがとーみんな。できれば私がここにいることは広めないでね? それから、悪いんだけど、今日のコーデは自信が無いからあんまり見ないでほしいな。魚崎くんも嫌みたいだし」
ちら……と倉林さんの瞳が僕に向く。瞬間、『憧れのしおじん』に向けられていたいくつもの女子の熱い眼差しがその瞳に流し打ち。いくつもの視線を前に、僕はたじろぐ。
「誰あんた? しおじんになんか生意気なこと言ったの?」
「ハァ? ちょーウザいんですけどー」
先頭の二人が僕に詰め寄る。とても怖い迫りくる顔面……こいつら知ってるぞ、校内では有名な看護科の二人組、ヤンキーナースことかっしー&モリコ。
「ちょっと待って、魚崎さんは悪くないの! ただ彼は私の靴下を嫌がってるだけで!」
「嫌なんて一言も……そもそも嫌とか嫌じゃないとかそういう問題じゃぐぬぉっ」
下から片手で両頬を掴まれた。
「ちょっとモリコやっちゃう? こいつ」
「かっしー慌てすぎ。とりま、しおじんに土下座かなー」
おかしいだろ! なんだその流れ! くそ!
僕は教室に入ってからはずっと、目線はふらふらと、できるだけ中空を漂わせていた。もちろん靴下をこの目で捉えないためだ。床の上では、いくつものメドゥーサがその瞳を蠢かせているのである。土下座なんて接近戦では、もう僕の石化は待ったなしだ。
目を瞑って教卓に手をつく。
「すいませんっしたああああああああああああああああ! はい、これでOKね?」
「あ。逃げた。待てコラ!」
ダンボールを持ち上げ、遁走。かっしー&モリコを振り切る頃には、僕の全身は色んな汗でぐっしょりだった。
教室を回り終えたら、遺失物ボックスは職員室に戻しに行く。結局、中の靴下たちは誰からも引き取られずにその中で包まったままだ。
担当の教師に引き渡すと、何かに思い及んだような表情が返ってきた。
「あぁ! この靴下きっとあれだわ。演劇部の」
衣装か小道具か知らないが、そこで使われるはずのものがどこかで無くされ拾われたのだろうという話。残り少ない休み時間も潰して、僕らは靴下を部室へ運ぶことになった。もちろん靴下は倉林さんが持って。
教師は演劇部と言ったが、そんな部は聞いたことが無いので、恐らく厳密には総合文化部の演劇部門である。いくつかあったマイノリティで廃部寸前の文化系同好会が手を結んで出来たごった煮みたいな部だ。
旧棟に入り、僕らは総合文化部1と書かれたドア前で足を止めた。
「誰もいないみたいですねー」
「鍵も掛けられてる。まあ当然か。あっちは——」
総合文化部2と書かれた向かいの部屋のドア。そっちに注意を向けてすぐ、ドアの向こう側から楽しげな声がすることに気づいた。
「人いるみたいだね。失礼しまーす」
中に入った途端、なぜか本能的に逃げ出したくなるような衝動に駆られた。真正面のデスクの向こう、パイプ椅子に座っているのが射水泉だと分かって、僕は殊更にそう感じた。
「げ。射水……」
「……っ。魚崎っ……が、なんでここにいるっ」
射水は顔を赤らめ、かばんの中に何かを隠した。部屋を見渡すと、着ぐるみとか和傘とかハリボテの植物とか色んな動物に似せられたパペット人形とかが散乱しているが、会話のような声がした割に他に人は見当たらない。
「あ! 泉ちゃん!」
遅れて入ってきた倉林さんが弾んだ声を投げかける。
「倉林。なんでお前までここに……」
「遺失物係のお仕事で、演劇部に靴下を届けにきたの。泉ちゃんって演劇部だったんだ」
「こ、ここは総合文化部の部室だっ。なんで私が演劇部門だって決めつけて……」
「えー。だって今、一人で会話の演技してたでしょ?」
射水はまた顔を真っ赤にして、今度はかばんの中に頭ごと突っ込んだ。
「倉林さん、射水と知り合いなんだ」
「隣の席ですからね。私がこの学校に慣れるまで、あれこれ教えてくれるチューターにもなってくれてるんですよ? ね、泉ちゃん」
「友利先生に任されたからやってるだけだっ」
かばんの隙間から怒ったような声が漏れ聞こえる。窃盗容疑中の僕に限らず、誰に対しても攻撃的みたいだ。なんだかどこまでも猫っぽい。
そうこうしてる内に、予鈴のチャイムが鳴り始める。
「いけない。次、女子は家庭科だった」
倉林さんは手に持った靴下を射水の座るデスクの上に置いた。
「これ演劇部のなんでしょ? 置いとくね? 泉ちゃんも早く戻って準備しようよ」
「先に行っとけ」
かばんから顔を上げない射水。困った倉林さんは「じゃあお疲れー」とだけ言い残して、部屋を出ていった。仕事は果たしたわけで、僕ももうここにいる理由はない。倉林さんについていこうと踵を返したところで、
「待て」
引き留められた。
後ろ髪を引かれる思いなどない。むしろ前髪を引かれるくらいだった僕は、そのままドアの方へ歩を進めて……押し倒されてしまった。
「待てと言ってるだろっ、変態野郎」
「ぐ……相変わらずやたら俊敏だな。なんだってんだくそ」
射水の履いた水玉模様のハイソックスが触れてきそうだったので、僕は飛び退いた。
這いずって距離を取る僕の前に、射水はちょこんと背中を丸めてしゃがみ込み、黒目がちな目で、僕を値踏みするように見る。
「もう一度だけ訊く。女子更衣室に忍び込み私の靴下を盗んだのは、お前かっ?」
僕は首を振る。射水は目を伏せた。
「……そうか、わかった。ならば協力だな」
「協力?」
射水は立ち上がると壁に体を預けて、腕を組んだ。
「犯人は体育の授業開始直後、窓から侵入して私の靴下を盗んで逃走した。私は最初、手掛かりがこれだけだと思い込んでいたが、昨日一晩考えて、ひとつの重要な疑問点に気が付いたんだ。それは犯人がなぜ目的を果たせる確信があったのかということ。つまり、なぜ靴下が女子更衣室にあると知っていたのかという疑問だっ」
自分の履いているそれを見せつけるように、バッと膝を上げる。僕は靴下を知覚する前に反射的に目を逸らした。まったく、油断も隙もない。
「はっ! お、お前っ。見たな……わ、わわわ私のパンツっ」
「見てねーよ!」
「嘘をつけ! だったらなぜ目を逸らしたっ! う、ううううううっ」
自分から膝上げといてなんて言い草だ。僕だってできれば靴下なんかよりパンツの方が見たかったつうの。
「いいから、さっさと続きを話せ」
涙目の射水は腕を組み直して、話を続けた。
「は、犯人の目的が靴下だったのは間違いないことだ。他にも色々あった中、靴下だけが盗まれているからだ。しかし、『女子更衣室に靴下がある』という状況は、そうそう生まれるものじゃない。体育のカリキュラムの中でも、水泳や柔道、そして昨日から女子が急きょやることになったダンスのような、素足で行う一部のスポーツのときだけだ」
「え、女子って今バスケやってるんじゃ」
「バスケは一昨日までだ。私たちも昨日、授業直前に連絡をもらうまではバスケをやるものだと思っていた。バスケであれば靴下を更衣室に残していくことはない。盗まれることなどなかったはずだ」
その話を聞くとなんだか、体育教師に対して猜疑心が生まれるけど……
「女子体育の担当は女性の山見先生。女だって変態の可能性はあるが、山見先生は既婚者だし、連絡が直前になったのも忘れっぽい先生らしい行動だ。白だろう。となると、犯人は何らかの方法により女子が素足で体育に臨んでいることを知った者ということになる。それを知り、すぐに行動に移すというキモさや欲求に対する積極性を鑑みると、導き出される答えは一つ。犯人は女子体育を覗いていた可能性が高いっ!」
射水は歯切れよく言い切った。
その答えが導き出せてるなら、どうしてさっき僕を疑ったんだ。
「それで、協力って?」
「ここまで推理できているんだ。犯人捜しの協力に決まってるだろっ」
「はあ? そんなもん、市民の中から見つけ出すようなもんじゃないか」
仮に目撃情報のようなものが得られたところで、そこで終わりだ。僕らは警察じゃないんだから、そこから先はどうしようもない。
「うるさい! とにかく、放課後は聞き込み調査だからなっ」
「聞き込みって……うちの女子に訊くしかないんじゃ……」
僕のぼやきは本鈴のチャイムにかき消された。
なんだか面倒くさいことになりそうな予感がひしひしと……。
とにかく靴下を視界に入れず、不用意に女子に近寄らないことを心掛け続け、僕はなんとか帰りのHR前のこの時間まで健全なまま生き永らえていた。
「ねえねえ、魚崎くん」
「ん?」
「今日、誕生日なんだってね。おめでとう。ふふ」
「? あ、ああ。ありがとう……?」
今朝のやりとり以降、川妻英里が怖いくらい上機嫌だった。さっき廊下でどっかの男とすれ違いざまに肩をぶつけたところを目撃したが、いつもの毒モが見る影もなく、倉林さんにも負けないくらい満面の笑顔で「いいのよー」なんて。どうしたんだろうか。
ご機嫌ならばと、僕はそれとなく川妻に訊いてみた。
協力しようとか明確にそういう気を起こしたわけではない。ただ、何となくだ。
「昨日の体育中に変質者? いや、知らないけど」
「そっか」
射水の推理自体は面白かったが、残念ながらハズレみたいだ。なにせこれだけの美貌を持っている読者モデル。人目には敏感なはず。そんな川妻が気づかないんだから、そもそも人目なんて無かったに違いない。
「私それ知ってるかもー」
と思ったら、思い掛けないところから横やりが入った。
川妻の隣席にいて、いつも川妻の毒舌がヒートアップした頃に止めに入る宥め役だ。名前が思い出せない。
「体育館の小窓あるじゃん。低いトコに作られてる。あそこからなんか一人の男がじーっとこっち見てたよ。最初は先生かとも思ったんだけど見覚えないし、目ぇキモかったし。あ、でも授業始まってすぐにいなくなったけどね」
「そうなんだ。ありがとう」
授業が始まってすぐにいなくなった……って、おいおい。本当に射水の推理が当たってるみたいじゃないか。なんだかんだ凄いやつだ。
「へー。アイコよく気づいたね。けどプールでも無いのに、覗いて何が面白いんだろ」
「いや英里ちゃん。私もそう思ってジーっと見返してやってたのよ。そしたらさ、どうもその男、うちらの足下ばっかり見てんのよね。なんなんだろ。足フェチ?」
突然、川妻が立ち上がった。
「アイコ。そいつどんな風体してた?」
そして僕が訊こうとしていたことを代わりに訊く。一体どうしたというのか、川妻の表情からはさっきまでのウキウキ感が剥がれ落ちていた。
一言で言えば怖い。だけど、毒舌モードのときとは違った怖さだった。
「え……っと、スーツだったね。ネクタイも締めてて。体格は細くて、メガネしてた。四角い感じの。覚えてるのはそれくらいだけど……どったの? 英里ちゃん」
「…………ごめん。なんでもない」
川妻の態度は気になったが、深追いはしないでおこう。
友利先生が来て、HRが終わって、僕はすぐに射水泉の元へ行く。繰り返すが僕は犯人捜しの協力をする気などさらさらない。面倒事を避けて、さっさと帰りたいだけなのだ。
「——という目撃情報は取れたぞ。んじゃ、僕は帰るから」
「ちょっと待てっ。そんな情報で満足してどうするんだ! 犯人を見つけ出さないと意味がないだろうがっ」
「見つけ出すって、これから何するつもりなんだよ」
「外見の情報を得たなら、それを基に学校近辺で更なる聞き込みをしてだな」
思わずため息がでる。
「あのなぁ。推理小説じゃないんだから、都合よく犯人なんて見つかるわけないだろ。そもそも靴下の一足や二足に執着しすぎじゃないか? そりゃ自分の靴下が素性の知れない男の手に渡ってるって考えたら気持ち悪いだろうけどさ。スパッと諦めようよ」
「う、ううぅぅぅ……」
射水は顔を俯けて歯を食いしばっている。
なんだかまるで、妹を説教でもしているみたいだ。妹なんていないけど。
「じゃあな」
手を振り、教室を去る。
僕にとって今重要なのは校内に現れた変態のことなんかじゃなく、僕自身が変態にならないこと、それだけなのだ。くだらない探偵ごっこなんかに付き合っている暇はない。
階段を降り、下駄箱にいくと、鼻から笑いが漏れるような光景があった。
僕の靴の上に膨らんだ紙袋が置いてある。今朝は新聞受けに届いてなかったと思ったら、今度はこんなところに現れやがった。なんてしつこさだ。
恐る恐る中身を確認する。角型2号封筒が紙袋に変わっただけで、中身は当然の靴下。
僕は華麗なるステップで玄関脇にあるゴミ箱にそれを叩き込んだ。
十七時十分。狭山ハイツに着いたところで僕は異変に気づく。
サリーがいない。
校門にも帰路の途中にも、ここ狭山ハイツの敷地にもいない。今朝は鍵を掛けて出たからうちにいるということもあり得ない。どこへ行った、あのポンコツ天使。
「魚崎さん。また会いましたね」
鉄骨階段を降りてくるのは倉林さんだった。淡い水色のブラウスに身を包み、首から上は大きなマスクとベレー帽。相変わらずのおしゃれ変装だ。
「仕事? 毎日大変だね」
「いえいえ。好きでやってることなので」
挨拶もそこそこに、手を振って別れる。
一○三号の玄関扉を前にして、肩に乗っていた重りがストンと落ちたような身軽さを感じた。ここまでで八十時間くらいは経ったか。あとは飯食って部屋でゆっくりしてそのまま寝てしまえば、朝にはほぼタイムアップだ。窓を閉めていればこの間のようなハプニングも起き得ない。僕は靴下フェチの運命から逃げ切った。
見たかサリー。これが人間理性の底力——
「魚崎さん!」
——————————————————————————————————ペチン。