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02. 靴下と三人の美女(1)

「……」

「おい魚崎。起きろ」

「……」

「って起きてるじゃないか。早くしないと学校に遅れるのではないか? あと、帰ったらすぐにジャージを買いに行くからな。ジャージを」

「……ヤダ」

「なんだと! 言い出したのは魚崎の方だぞ! 約束を反故にする気か!」

「うるせえ嫌だ! 僕は変態になんかになりたくねーっつうの! ハゲ野郎!」

「誰にキレてるんだお前は」

 ぼやけた視界を部屋中に巡らせる。あの靴下付き洗濯ハンガーは見当たらない。このポンコツにも物を隠すくらいのスキルはあったようだ。

 だが、どうする。外に出ればまた文脈無視の靴下イベントが無慈悲に襲ってくるだろう。僕を靴下フェチにするために……。

「おいサリー。僕の靴下フェチ化は明後日の朝がタイムリミットみたいなこと言ってたよな」

「ああ。一○○時間で収束してしまうからな。先に言っておくが、その時間が来るまで運命から逃げおおせれば無事で済む、なんて思ってたら大間違いだぞ?」

「ぐっ」

「運命の収束力は強大だ。とても一人の人間の努力でどうにかなるものではない。もっとも、そもそも運命の力が働かないということなら有り得るが」

「なに?」

「素養だ。ある人間が定められた運命にとって到底そぐわない性質を持っているとき、その収束半径から逸脱する。つまり今回のケースで言うと、魚崎が一方ならぬ靴下嫌いであったならば、そもそも運命の力は働かなかったといえる」

「そ、その素養は後から身に付けられるものなのか?」

「まー無理だろう。既に運命は動き出してしまっているから、魚崎は靴下を見て興奮こそすれど嫌悪感など感じまい」

「興奮もしねーよ!」

 言ってて、自分で自信がなくなってくる。

「なんか方法は無いのか! 手っとり早く靴下嫌いになる魔法とか!」

「んーそうだな。じゃあ靴下をカーテンレールにでも結んで……」

「うんうん!」

「首吊ってみるか! 靴下のせいで死にかけるくらいでちょうどいフゴッ」

 相変わらず単行本を打ち下ろしやすいデコをしている。

「痛ってぇなー! だいたい魔法て。天使をなんだと思ってるんだ魚崎は」

「少なくともお前に関しては人間よりも使えないやつだと思ってるよ」

 布団から出て着替えを始めると、寝不足と疲れで足下がおぼつかない。首なんて吊らなくても、靴下の呪いは着実に僕の生命力をそろりと削り取っているように思う。

 着替えを済ませて、玄関に向かう。

「こら魚崎ぃ。顔くらい洗わんか。肌が荒れて引き出ものができるぞ」

「吹き出ものな」

「それに朝飯はいいのか?」

「いい」

 食おうと思ってた蟹煎餅を平らげた張本人がよくいう。

 靴を履き、新聞受けに挟まっていた角型2号封筒を取り出す。中身を確認しなくても感触でそれとわかる。外に出て、昨日放り投げたやつも拾い上げ、まとめてアパート横にあるゴミ捨て場に投げ入れた。

「汗がすごいぞ魚崎ぃ」

「うるさい」

 指先が少し震えているだけだ。大丈夫。靴下なんかに負けてなるものか。

「魚崎くん?」

 思わぬ方向から声を掛けられた。

 見ると、アパート二階の外廊下——ちょうど倉林さんの部屋の前から、こちらを見下ろす女がいた。

「川妻英里……?」

「魚崎くんがなんで」

 こんなところに、と続けようとしたであろう彼女の肩先に手が置かれ、追って後ろから倉林さんが姿を見せた。

「エリーおまたせ……あ、魚崎さん。おはようございます」

 にこっと差し向ける顔は、引越し翌日の疲れを思わせない完璧な笑顔で、さすがカメラに撮られ慣れてるというかなんというか、要はめちゃくちゃかわいかった。鬼丸高校女子制服も光輝いて見える。

「昨日は遅くまで色々とありがとうございました」

「ちょっとちょっとどういうこと汐路! なんで魚崎くんがここにいんの?」

 どうやら川妻は倉林さんと友達みたいだ。一応両方と面識がある僕からすると、かなりデコボコのコンビのように思える。主に性格的な理由で。

 二人でこそこそしながら階段を降りてくる。並んで歩く姿を見ると川妻の方が身長が高くて、これだとどっちがモデルか……あれ、待てよ?

「え! 魚崎くんここに住んでんの?」

 川妻英里。確か今一部で人気急騰中の……

「魚崎さん。エリーとお知り合いなんですね」

「まあ……クラスメイト、だけど。えっと二人は……」

 二人を交互に見る。タイプは違えど、どちらも相当な美人だ。

「モデル仲間」答えたのは川妻。「といっても私はただの読モだけどね」

 そうだった。うちの学校には既に人気モデルが在籍していたのだ。それも僕にとっては同じクラスの前の席で、やたら話しかけてくる身近な存在として。

 長身痩躯。氷肌玉骨。

 そんな漫画のキャラみたいなスラリとした美人だけれど、険のある目つきが少し怖くて、僕を含む大多数の男子はどちらかというと苦手にしている。ただ、僕の友人にはいないと信じたいが、一部の被虐趣味どもの間では絶大なる人気を誇っているという噂もある。

「……そ、そんなことより汐路。魚崎くんに昨日遅くまで何がありがとうなの?」

「荷入れの手伝いをしてもらってたの。そちらの魚崎さんの従妹の、えーっと」

「あたしはサリーだ! サリー・シェぐわぁぬっ」

「沙里っていうんだ。魚崎沙里。みんなからは、サリーって呼ばれてて」

 サリーの顔立ちはまあ、日本人ぽくはない。頭は銀髪だし瞳は鳶色だし。だけどそういうことにしとくのが無難だろう。

「サリーちゃんにも手伝って貰ったの。おかげでなんとか暗くなる前に全部運ぶことができて、とっても助かって」

「ふ、ふぅん……」

 川妻はなぜか少し不満げに呟いて、長い髪の毛についた桜の花びらを払う。

「じゃあみんなで登校しましょうか。えーっと、ちょっと待ってくださいね」

 倉林さんは唐突に、かばんから一合くらいの酒瓶を取り出した。

「地元の日本酒なんです」

「へ、へぇ」

 なぜそれを今取り出したのかについては説明しないまま、蓋を開け、中身をとぽとぽと狭山ハイツの入り口一帯にかけていく。

「汐路の地元に伝わるおまじないなんだってさ」

 その様子を眺めながら、川妻が言う。

「住まいが変わったらああしないと、地縛霊に嫌われちゃうとかなんとか。あの子、そういう根拠の無いもの大好きなのよ。迷信、運命、祟り、風水」

「なるほど……」

 そういえば、昨日も風水的に良いとかで靴下を大量に窓際に干していた。

 あ。

「倉林さん。ちょっといい?」

「なんですか?」

「窓際に干してた靴下。行方不明になったりしてない?」

 言った瞬間、倉林さんが息を飲んだのがわかった。落下した洗濯ハンガーごとそれは僕の部屋に飛び込んで、今もまだそこにある。

「風で落ちてきてたよ。今もそれ、僕の部屋にある」

「あ……な、なんだーそうだったんですか! ははは。すみません、うちの靴下がご迷惑をおかけして」

「いえいえ」

 靴下がご迷惑をかける——とは、計らずとも言い得て妙な表現だった。責めるわけではないけど、事実僕はちょっと迷惑を被ったから。

 その落とし物は帰ってから渡すとして、僕らは学校へと足を向けた。サリーは隣町の中学生という設定にして追い払った。

 まだまだ冷たい春の風を切って、僕らは朝日の差し添う通学路を歩く。アパートに越して以来、誰かと登校すること自体初めてのことだというのに、それが二人の売れっ子モデルときた。なかなか僕の高校生活も捨てたものじゃない。

 いや……だけど。

「そうだ魚崎さん。昨日は大事なお洋服を汚してしまってすみませんでした。シミ、残りませんでした?」

「あーうん。大丈夫大丈夫」

「汐路。なんで引越しの手伝いでシミが出るような汚れがつくの?」

 右から倉林さん、左から川妻。

 いいけど、いいんだけど……なんで両サイドに?

「それは手伝って頂いたお礼にお茶を——」

 倉林さんが昨日のことを説明する。川妻はというと、それをふーんとかへーとか適当な相槌で返す。大して興味が無いのかと思いきや、あれこれと深掘りをしている。友達の人気モデルに変な虫が付かないかと警戒しているんだろう。

 だけど心配ご無用だ。あいにくと僕は今それどころじゃない。

「魚崎くん何きょろきょろしてんの?」

「いや別に」

 部屋の中にいても呪いは降りかかってきたんだ。外なら、どんな理不尽な靴下イベントが起きてもおかしくない。

 例えば、靴下を咥えたカラス飛んでくるとか。いや、何もカラスに限らない。猫が咥えてくることもあるだろうし、夕べのように風に乗って飛来してくる可能性もある。もっと言うと、体育の友利先生やアパートでの倉林さんのように、人からってこともある。ましてや今、僕の足元から数十センチの距離には女子高生モデルの靴下が二足もあるのだ。細心の注意を——

「そういえばエリー、それおしゃれでかわいいね。その——」

 ハイきた! 靴下な! 知ってた。知ってたよ。

「——ネクタイ」

「ネクタイかよ!」

「え?」

「あ。いや、なんでもないです」

 走って逃げだそうとしていた両脚が、行き場無く空を掻く。

 ネクタイ。それなら安心だ。僕は川妻の胸元を見た。

 鬼丸高校では男女問わずネクタイの着用が校則で定められているが、これと指定されたものはなく、紺色かつシンプルであれば何でもいいという緩さである。川妻のネクタイはその基準の曖昧さを逆手に取ったような柄だった。

 紺地に入った斜めのボーダーに薔薇が巻き付いている。よく見なければ気づけないような細い線で描かれているところが絶妙で、うん、確かにおしゃれだ。

「それも自分で作ったの?」

「そ。……ね、ねえ。魚崎くん、これどうかな」

「うん、すごいね。器用だよね」

 お手製ネクタイ。

 川妻英里はよくこうして自分で作ったファッション雑貨などを身につけたり持ち込んだりしては、僕に見せて感想を求めてくる。意図は不明だけどシメられたくないので、これも座席が前後になった宿命と割り切って適当に褒めている。

「そっか」

 今のところは特に僕の評価にイチャモンをつけられることもないけれど、いつか舌鋒鋭く罵られるんじゃないかと実はビクビクしているのだ。



「テメーら、ぎゃーぎゃーうるっせえんだよ! このクサレグソク虫どもが!」

 そう、こんな感じで。

「汐路が困ってんのが見てわかんねーのか! 騒がれたくねーからマスク付けてるってことくらいちょっと考えたらわかんだろ! 全員座れ変態クソポテトが!」

 蔑称の例えはよくわからなかったがクラス中の男子が……いや女子も、静かになった。

 朝のHR。

 友利先生の呼び声で教室に入ってきた転入生がマスクを外して軽いお辞儀をし、透き通るような声で倉林汐路を名乗ると、教室は一瞬にしてライブハウスのような熱気と喚声に包まれた。どうやら昨日まで彼女のことを知らなかった僕はかなりのマイノリティだったらしい。

 だが。

 教室を支配するしおじんコールは、もう一人のモデルの一声で熱気ごと凍てついた。

 整った柳眉を逆立て、吊り上げたまなじりで教室の端から端を撫でるように一周。

「え、英里ちゃん。そのくらいにして」

 隣席に座る川妻の友人がたしなめる。このクラスになってからまだ半月も経たないが、既に二度ほど経験しているシチュエーションだ。

 読者モデル川妻英里。影でのあだ名は毒舌モデル。略して『毒モ』。

 横の席からちょんちょんと肩を突いてくるのは日向寺誠一郎だった。何とかしろよというような目配せをしてくる。いや、僕にどうしろと。

 お前が止めれば何とかなるから、と息だけで喋った日向寺はその様子を川妻に気づかれ、刺すような視線で射竦められた。何とかなるわけない。川妻の毒舌はいわばカミソリでできたプロペラのようなもので、一旦回転を始めると人間の手で止めることなどできない。ただこうして毒の強風に耐えるしかないのだ。

「そうだよエリー。そのくらいにして」

 教室中の声援に最初は苦い顔していた倉林さんが、笑顔で川妻に向き直っている。

「汐路……」

「ポテトが変態って意味わかんないよ」

 なんて真面目なツッコミなんだ! まったく的確ではないけど。

「え、ええと。はいみんな静かに!」

 今更のように友利先生が叫ぶ。もうとっくにみんな静かだ。

「というわけで、今日からうちのクラスに仲間入りした倉林汐路さんです! 皆さん仲良くしてあげましょう! 席は急きょ準備したので、射水さんの隣の席で! 射水さんは倉林さんが学校に慣れるまで、色々とサポートしてあげてくださいネ」

「えっと、改めまして倉林です。今日から皆さんよろしくお願いします!」

 倉林さんがみんなに微笑みかけたところで、また教室が騒がしくなった。



 我がクラスが誇る毒モが釘をさしておいた甲斐あってか、朝の教室での賑々しさが休み時間になって学校中に伝播するというようなことはなかった。が、やはりそこは倉林さんが持つカリスマ性ゆえか、じわじわと確実に情報は広まっているようで、昼休みも終わりに差し掛かったあたりからは教室を覗き込みにくる生徒が後を絶たなかった。

「ナニ見てんだコラ」

「あ、いえ。すみません」

「すみませんじゃねーよ。ナニ見てんだって訊いてんだろがハゲ饅頭」

「え、いや、別にハゲては……し、失礼します!」

 そして、肝を冷やして逃げ出す生徒も後を絶たなかった。

 五限体育のために川妻英里が教室を出ていくまで、僕を含む男子一同はほとんどホラー映画の登場人物ばりに息を凝らしていた。疲れる。

「おい魚崎。なんか今日の川妻さん、いっそう怖い気がするんだけど」

 日向寺が上着を脱ぎながら言う。体育の際、女子は別棟にある専用の更衣室で、男子は教室で着替えるのが決まりとなっている。

「倉林さんがいるから騒ぎが起きないように目を光らせてるんだろ? 友達として」

 わざわざ光らせなくても川妻の眼はいつも炯々としているが。

「まあ、それもそうなんだろうけどさ。俺の目にはどっちかっつうとただの八つ当たりに見えるというか……お前なんか知らんの? 心当たりとか」

「心当たり? 僕が? あるわけないだろ」

「えー。でも今日とか一緒に登校してたじゃーん」

 日向寺がニンマリと笑む。

 ……裏門から行ったのに、見られてたか。しかもよりによってコイツに。

 てことは倉林さんが横にいたことも当然バレてる。探りたいのはそっちってことか。この男、バカなだけじゃない。下衆だ。

 どうする。なぜ倉林さんと朝から一緒だったか。話せば簡単なことだが、口止めされている以上、喋るのは気が引ける。

「なんで二人で登校してたんだよー?」

「え?」

「ん?」

「二人?」

「二人……ああ、なんかもう一人一緒にいたね。あれ川妻さんの友達?」

 訂正。やっぱりこいつはただのバカだ。

「たまたま二人して職員室に用事があっただけだよ。ほら、裏門からだと職員室近いだろ?」

「へー。でも会話はしたんだろ、当然。川妻さんってどんな話すんの?」

「別に特にこれといった話はしてないよ」

「またまたー。正直に言ってみ? 友達だろ俺たち?」

「人聞きの悪いこと言うなよ」

「それはさすがにひどくない……?」

 日向寺に限らず僕にたびたび川妻について訊いてくる奴らは多い。なんでも男子の中で彼女の毒舌被害に遭ってないのは僕くらいのものらしく、陰で噂になってるとか。

 ヤンキー女とその子分として。

 僕から言わせれば、こいつやあいつらは川妻の逆鱗に触れないようちゃんと言葉を選んでるのかって感じだ。僕がどれだけ気を遣ってると思ってる。

 着替えを終えて僕らは教室を出る。今日も体育はサッカーということで、クラスメイトでぞろぞろ階段を降りる。

「それにしてもしおじんはやっぱり可愛いねー。テレビで見るよりずっと天使だね。ファッション業界に送り出された天使そのものだね」

「最初は僕もそう思ったが、倉林さんが天使ってのはやっぱり失礼だ。天使ってのはもっとアホで図々しくて常にアホで自分勝手でどこまでもアホでたまにまともなこと言うのかなーと思ったらやっぱりアホで……」

「は?」

「いやなんでもない。それより、倉林さんってテレビにも出てんの?」

「知らんのかい。タレントって呼べるほどじゃないけど、ちょいちょいゴールデンタイムでも見るよ。おしゃれリズムとか」

「へー」

 ますますあのボロアパートに越してきた理由が謎だ。僕の靴下フェチ化イベントを引き起こすためだけに運命を捻じ曲げられてしまったのか? だとするとちょっと心が痛む。

 下駄箱に靴を入れて、運動靴に履きかえ外に出る。

「魚崎。世の中、男女間に厳しいと思わん?」

「昨日聞いたよそれ。女子の黄色い声がないとどうこうってやつだろ? そもそも男女混合でやったところで体育のサッカーごときで声援なんて来ないだろ。漫画じゃあるまいし」

「いや、何もそこまでの贅沢を望んでいるわけじゃないんだ。ただ、そう。一心に体を動かし汗を流すこの貴重な青春のときを、経験を、女子たちと共に過ごしたいんだ。見届けたいんだ。がんばる女子たち。体操服姿の女子たち……そして、しおじん」

「要は体操服姿の倉林さんを見たいだけかよ!」

 いちいち欲望を正当化させるやつだった。

「いや、でも見たいだろ? あのファッションモンスターの倉林汐路がなんでもない素朴な体操服着てるとこ」

「うーん」

 そりゃ見たい——はずなんだが、どうも彼女が靴下イベントの起こし役だと意識してからは、僕の中では言い知れない恐怖の方が強くわだかまっている。

「けどそもそも、4月はまだジャージ派が主流だろ。僕たち男子ほど規制厳しくないし」

「わかってないな魚崎。素朴さという点ではジャージも引けを取らないんだぜ? グラビアでもたまにあざといジャージカットあるだろ? へたーって座り込んでるやつとかさ。うん、やっぱりジャージはいいね」

「うむ! ジャージはサイコーだな!」

「……」

「……」

 横を見ると、強引なひっつめ髪。アホっぽい笑顔。袖口が破れたジャージ姿。

 屋外水飲み場に腰かけているのはどこからどう見てもサリー・シェリンガムだった。

「日向寺は先行ってろ。君はちょっっっっっっっっとこっち来ような!」

 組んでる腕の右手首を掴んで、猛スプリントダッシュ。僕はポンコツ天使をひと気のない校舎裏へ引きずり込んだ。

「中でもやっぱり黒はサイコーだな!」

「ジャージ談義はもういいんだよ! こんなところで何してんだサリー!」

「何って、もちろん魚崎の監視だ! 今の魚崎はいつフェチ化して犯罪に走るかわからん危うい存在なのだぞ? 歩く爆弾。いや、犯罪界の爆弾。人間の皮を被った爆弾。うーん」

「例えがしっくりきてないのはいいよ! あのな。川妻や倉林さんの前でお前は僕の従妹って設定にしたの忘れたのか。お前の目的については僕は知ったこっちゃないけどな、こんなところほっつき歩いてたら先生に掴まるぞ? ていうか掴まらなかったのか?」

「掴まるというか、お茶を供されたぞ」

「何があったんだよ!」

 僕は頭を抱える。ストーリーが見えねえ。

「学校の敷地に入ると体育教師らしき女に話しかけられてな。できるだけフェチセンサーが届く程度まで魚崎に近づきたかったあたしは、天使らしからぬ機転を利かせて『魚崎に忘れ物を届けにきた』と告げたわけだ。するとその女に『担任だから代わりに届けてあげるわ』と提案されたわけだが」

「おう。それで?」

 つか先生って友利先生かよ。よりによって。

「当然、あたしは魚崎の忘れ物なんて持ってなかった。だもんで、この《天命の種》が入ったビンを魚崎の忘れた弁当ということにして、恥ずかしいので自分で渡しますと」

「だあああああああああああああああああ!」

「1、2、3が抜けてるぞ?」

「モノマネしたわけじゃねーよ! お前それ、お茶って応接室か何かで出されたんだろ!」

「お、よくわかったな。魚崎の家庭環境のこととか色々聞かれたぞ! あたしの持ち前のアドリブ力でなんとか自然に返したから安心せよ!」

 まったく安心できねえ……。

「わかったからもう帰れ!」

「なにを言う。あたしがいないとフェチ化した魚崎は誰にも止められないんだぞ? 昨日も言ったが、厳密には魚崎に発現するのは変態性欲衝動の方で、フェチはおまけだ。学校で靴下フェチに目覚めてしまった魚崎はその後の衝動をどうすると思う? 気に入った女子の靴下を手当たり次第に奪い取り……ああ、考えただけでもおぞましい!」

「ぐ……や、やめろ」

 何だか変な汗が出てきた。

「というかどうなんだ魚崎ぃ。その後は。順調にフェチ化しそうか?」

「フン。ご心配せずとも、僕はこの通り今もれっきとしたノーマルだよ」

 何がこの通りなのか、自分でもわからないが、とにかく僕はちゃんと健全な男子高校生を維持していた。

 サリーが顎に手を当てて不満げな声を漏らす。

「ふむ。中々しぶといな魚崎は。期限的にそろそろ運命が収束してもいい頃なんだが」

 冗談じゃない。そんなどうしようもない運命に掴まってたまるか。どんな靴下イベントが降りかかろうとすべて回避してやる。

「……そういえば、今日は朝の封筒のあれ以降、まだ靴下イベントが起きてないな。僕の堅い決意がついに運命を退けたか?」

「何だと? ……は! まさか!」

 サリーが元から丸い目をさらに丸くする。

「魚崎……貴様もしや、学校指定の靴下には興味が無いのか!」

「は?」

「見たところ、この学校の女子はほとんどみな黒のハイソックスを履いているようだな。それが魚崎の好みに合わないから運命も手こずっているという感じか」

「いや勝手に人の好みを決めるなよ」

 つか、僕はあれこれと選り好みするほど靴下に造詣が深いわけでもない。

「まあ待て。《天命の種》の元になった人間、つまり魚崎の前に靴下フェチを持って破裂しそうな衝動を抱えていた人間が、恐らくはそういう性的嗜好だったということだろう。ただ、浴びるように種を頬張った魚崎に真っ先に発現したのがこの靴下フェチだ。元来、魚崎にも似たような素養が僅かでもあったのやもしれぬ。胸に手を当ててよく考えてみろ」

「うーん」

 サリーが珍しく真面目な口ぶりで言うもんだから、僕も少し真面目に考えてみた。

 僕の好きな靴下……学校指定の黒ハイソックス……

「……ないな。僕にとって靴下はただの靴下だし、女の子が履いてどうこうって話なら、そもそも僕はタイツの方が好きだ」

「知らんがな」

「おい。お前が聞いたんだろ」

 ぺちんと鳴る広いデコは相変わらずツッコミが入れやすい。

 しかし、本当に学校指定の黒ハイソックスがストライクゾーンで無いならこんなに助かることは無い。友利先生などの女教師、それから手作りアイテムによって時々学校指定を絶妙に躱したファッションをしてくる川妻のような人物さえ避けていれば、僕がフェチ化するきっかけを掴むのは物理的にありえないということだ。思えば、昨日学校で靴下イベントを起こしたのもその二人だ。友利先生のオレンジ靴下。川妻の青靴下。今朝の川妻は普通の黒ハイソックスだった。だからイベントが起きなかったんだ。

 見えてきたぞ、運命の抜け道が……。

「フフッ。フフフ」

「うむ。笑い方まで順調に変態らしくなってるな」

「やかましい」

 って、悠長に会話をしている場合じゃなかった。僕はこれから体育の授業なのだ。

 校舎の曲がり角からスーツ姿の男が現れた。見覚えが無いけど恐らく先生だ。僕らの方を一瞥もせずに走り去っていくところからして、たぶんそろそろ授業開始時間ということだ。

「いいかサリー。倉林さんと川妻、それからさっき会ったっていう友利先生以外には、僕と知り合いということは隠せ。そして僕の近くにいるならできる限り、いや、意地でも他人に存在を知られるな! ていうか見られるな!」

「注文が多いぞ魚崎ぃ。あたしは忍者かスパイか」

「うるせー! 普通は天使っていったらそんなんよりスゴいんだよ!」

 チャイムの音が聞こえてくる。昼休み終了の合図だ。

「そういうわけで、頼んだぞ?」

「むー。あ。それはいいが、放課後ジャージ買いに行くんだぞ、忘れるなよ? 生地はダブルニットだからな。あとそれから——」

 無視して僕は運動場の方へ走り出した。

 なんだかんだ言って、サリーが学校に身を潜めておくことを許している僕は、あいつの説得力にやられてしまっているということだろうか。靴下フェチになるシナリオが僕の身に降りかかっていることに関しては最早納得せざるを得ない。そのきっかけは一昨日から嫌というほど味わったし、靴下の魅力に取り憑かれそうになる感覚にも接してきたからだ。

 だが、僕が欲望に身を任せて犯罪に走るようなことがあるだろうか。

 感覚的にまったくわからない。だからこそ、怖い。

「あいつ、本当に守ってくれるんだろうな……いや違う! 僕はそもそも靴下フェチなんぞにならないんだ! そもそもそこから譲れないんだ!」

 校舎の角を回って中庭を横切り、運動場へ出るすんでのところで、思わぬ邪魔が入った。

 シュタッという着地音と砂利をにじる音。後方、僕がもう少し足の遅い人間だったら衝突していたかもしれないくらいの距離に、何者かが突然着陸した。

 僕が振り返るより先に、そいつの手が僕の肩を掴む。引き寄せられるように体を回すと、目の前には体操着姿の女生徒が立っていた。

 見覚えがある。というか同じクラスだ。

「い、射水?」

「……」

 射水泉。

 どこのクラスにも大抵一人はいるような、教室の隅っこで黙々と読書をしているような大人しい地味なメガネっ子……のはずなんだけど。

 え? どこから飛んできた?

「魚崎」

「は、はい魚崎です……」

 小柄な体躯を丸め、ひそめた眉根の下から訝るような目をじろりと向けてくる。毒舌モードの川妻に比べたら、その目つきはせいぜい子猫の威嚇といったレベルに見えてしまうけれど、わけがわからない上に何だか本気な様子はわかって、少したじろいでしまう。

「お前か。お前なのかっ」

「な、何がだよ……うわ! なにすんだ!」

 僕は射水に飛びつかれ、強引にズボンの両ポケットをまさぐられた。

「……う、うううううううううううううう」

「なんなんだよ、おい! 脱げる! 脱げるって!」

「出せっ! 出せっ!」

「何をだよ!」

 人に見られてたらとんでもないことになりそうなやり取りだった。

 僕がバランスを崩して倒れ込んだところで、射水はようやくポケットから手を抜いてくれた。

「うぅ……ど、どこにやったんだよっ! 私の、ソ……」

 ソ……?

「ソックスを!」



 謎の冤罪気分も冷めやらぬまま、HR前。

「おい魚崎。そろそろ説明しろよ。アレはなんだったんだ?」

「アレ? ああ。今朝、バス停のベンチでホステスっぽい人がパンツ丸出しで寝てた件のことな」

「いや違う。違うが、その件についても後でちゃんと詳しく聞こう」

 日向寺が隣の席から鬱陶しい顔を向けてくる。

「中学生くらいの黒いジャージ着たコのことだよ。お前妹とかいなかったよな? ってことはなに? 年の差カノジョ? 危ない関係? ぶち殺すぞ!」

「勝手に決めつけて勝手に殺すな。従妹だよ従妹」

 こういう時のための従妹設定だ。僕は必殺技『家庭の事情』を持ち出して、この話を迅速に終わらせにかかった。

「なんだツマンネー」

 念のためサリーのことは口止めしておこうかとも思ったが、こいつにそれは逆効果必至と気づいてギリギリで踏み止まった。

 友利先生が教室に入ってきて、HRが始まる。なんだか先生は神妙な面持ちで、まだ少しがやがやしていた教室の中に粛然とした空気が流れ始める。

「皆さん。大変なことになりました。……本校で、それもうちのクラスの体育の授業中に、女子更衣室に不審者が出ました!」

 教室中で「エーッ!」と驚きの声が上がるが、全部男子の声だった。見渡すと女子の顔は怯えているようだったり不愉快そうだったりと様々だ。女子たちの方にはだいたい事情が知れ渡っているということだろう。

 射水に聞いた話によると、女子更衣室には扉のない縦長にブロック分けされた棚があり、二人で一ヶ所を使うらしいのだが、射水が更衣室に戻ると、自分の使っていた場所を含むいくつかのスペースが荒らされていたらしい。

 ちらと三席隣を盗み見ると、射水は相も変わらず僕の方を睨んでいた。

 そんなに怪しまれても、僕は犯人じゃないんだが……。

「不審者は二階の女子更衣室に窓から侵入したようです! 女子は更衣室の窓の鍵をしっかり掛けておくように!」

 女子更衣室の扉は鍵当番が管理している。射水は忘れ物を取りに行くため、鍵当番から鍵を借りて更衣室に戻り、惨状を見た。被害を確認した後に窓が開いていることに気づき、下を見下ろすとちょうど僕がいたということらしい。

「それから昨今、全国的にも学校指定の制服や小物を狙った事件などが大変多いです。そこで鬼丸高校では明日より、一部の服装規制を緩和させることを決定致しました!」

 規制緩和……なるほど。確かに制服を始めとする学校指定モノは、十代にしか身につけられない等々の特別感があるからこそ狙われている可能性が高い。それを敢えて取っ払うことで変態のターゲットから外れようってことか。

 ん? 待てよ?

「つきましては女子はジャージ登校可! そのジャージも自由! 節度をわきまえたデザインならカバン、シューズも自由! もちろん靴下も自由です!」

 靴下も自由。靴下も自由。靴下も自由……。

「ウソだろ……」

 運命ってやつはどこまで強引なんだ。



 古着屋『パサディナ』。商店街の一角にあるこの店は、老夫婦が二人だけで切り盛りしている年季の入った老舗である。

「おい魚崎ぃ」

「なんだ」

「どうして古着屋なんだ。あたしは別にヴィンテージものなんて欲してないぞ? 80年代西ドイツ製のOPTジッパーが付いたピューマジャージくらいなら考えんでもないが」

「だからなんでそんなにファッションに詳しいんだよ」

 放課後、校門前で待ち伏せしていたサリーに掴まった僕は、そのままこいつをここまで連れてきたのだった。しかし、僕はイエスマンではない。当然ながら唯々諾々とこの天使にプレゼントなどするつもりはなかった。

「どこ行くんだ魚崎。ジャージコーナーはあっちのようだぞ」

「いいからこっちこい……お婆さん、これお願いします」

 サリーの腕を掴んで、破れてべらんべらんになった袖をレジ前のお婆さんに差し向ける。

「ほお。こりゃひどい破れ方だねぇ」

「だろー? この鬼畜マン魚崎の仕業なんだ! ……て、オバちゃん。何をするんだ!」

 お婆さんはサリーの上半身からジャージを取り上げようとする。僕もそれを手伝って、抵抗するサリーから強引にそれを脱がす。

「魚崎ぃ! 貴様は靴下フェチだろ! いつからジャージフェチになったのだ! 靴下フェチは靴下だけに興味を持っていればいーのだ! 返せこら!」

「いいから大人しくしてろって」

 サリーはジャージの下にCMでよく見る保湿性が売りの機能性インナーを着ていた。どこまで人間味の溢れる天使なんだこいつは。

 ジャージを手渡すと、お婆さんの目つきが変わる。

「キノ!」

 お婆さんが叫ぶと、後ろの部屋から恰幅のいい三十前後の男が小走りでやってくる。老夫婦だけかと思ったら、アルバイトも雇ってるらしい。お婆さんは男の手から古びた箱を奪い取ると、中から指先二本で針を摘み上げる。そこから先の手捌きは正確に目で追えないほどのものだった。

「お? おおおおお!」

 瞠目するサリーの前で、それはあっという間に終わった。

 完璧に修復を終えた、しかしそれでもぼろっちい黒ジャージをサリーに着せ直す。

「直った! すごい!」

「ここはそういうサービスもやってる店なんだ。とりあえずこれで、まだしばらくはそれ着れるだろ」

「むー。しかし、買ってくれるという約束だった気がするが」

「金がないんだよ金が。あったらお前のなんちゃらの種だって盗んじゃないないし」

 なけなしの商品券で会計を済ませ、僕はまだぐちぐち言うサリーを連れて店外へ出た。

 そこで、視線を感じた。

「魚崎」

 それも超至近距離で。

「ううううぅ」

「本日二度目ですね……射水さん」

 尾行されていたみたいだ。

 昼間よりもその子猫のような炯眼は鋭さを増していて、今にも剥き立たせた牙で噛みついてきそうな雰囲気を感じる。何だかすごく怒っていた。

「き、聞いたぞっ。今お店の中で、そこのビーバーみたいな顔のコがお前のことを靴下フェチだと言っていたな。やはり私の靴下を盗んだのはお前だったんだなっ。返せ外道!」

「いや、だからあの場でも何度も言ったけど、僕じゃないって」

「誰がビーバーだ! 齧り倒してダム作ったろか!」

 なぜか負けじと怒っている天使は無視して、僕は続ける。

「だいたい証拠なんか無いだろ? あるのか?」

「……証拠は、ない。けど、じゃあどうして既に体育の授業が始まっていたあのとき、女子更衣室の窓のすぐ下にいたんだっ。おかしい!」

「おかしいって言われてもな。そもそも僕はあのとき何も隠し持ってなか……」

 僕が言い切るのを待たず、射水は自分のカバンに勢いよく手を突っ込んで、そこから取り出したものをメンコでもやるみたいに地面に叩きつけた。

 靴下だった。

「お前。女子の靴下が好きなのか?」

「……断じて違う」

「なら、この靴下を踏んでみろ」

 射水はにやりと不気味に笑った。

 ははーん。

 出たな靴下イベント。こういうのは付き合うだけ不利。もう僕はその手には乗らん。何もなかったかのように華麗にこの場を去るのが正解。

 かかとを引いて逃げ出す体勢を作り、横の黒ジャージを引っ張る。

 撤退だサリー。

 内心の語りかけに対し反応する様子はなく、サリーは静止したままだ。

「す、すごい! なんて斬新ないぶりだし手段だ! 敬虔なる靴下フェチであれば靴下を踏みにじるようなことはできないという心理を逆手に取っているのだな!」

「なんで感動してんだよ!」

 サリーをむりやり片腕で抱え込んで、僕は向き直りざまに走り——出す前に回り込まれてしまった。

「逃げるということは、やはり後ろめたいことがあるんだなっ」

 更に目は鋭く、袋小路に追い詰めたネズミをじっくり観察するような鋭く光る。

「ないよ! ないない! ていうか靴下、盗まれたんじゃなかったのかよ。なんで二足もあるんだ」

「これは友利先生が素足の私を見かねて貸してくれたものだ」

「人から借りたものをそんな用途で使うな! つうか履けよ!」

 よく見るとあの鮮やかなオレンジ色……友利先生がいつも履いているやつだ。昨日僕に押し付けてきたのもあれと同じものだった。こんなところで再び見ることになるとは。

「うるさい変態めっ。さあ、踏むんだろ? 男に二言はないよな?」

「一言も出してねえよ!」

 靴下に目をやる。タイルの上で、ここにいるよと言わんばかりに口を開いて待っている。僕が靴下に対する意識の変化というか、フェチ化の片鱗のようなものを最初に感じ取ったのは、昨日これと同じものに触れたときだった。

 柔らかな感触……爽やかな香り……

 思わず唾を飲む。あのときの両手のイメージを思い出すだけで、何だか気がおかしくなりそうだった。あれに再び触れたらどうなるか。僕は冷静でいられるのだろうか。

「ほらどうした」

「……ちっ。ああ踏もう! 踏もうじゃないか!」

 靴を脱ぐ。僕も靴下を履いているから、直接触れるわけじゃない。あのときに比べたらいくらかマシなはずだ。

 僕は左足を振り上げ、それを思い切り踏みしだいた。

「……」

 たわやかな綿生地は僕の足裏がかける圧力に容易に屈した。イメージしたとおりの柔らかさと爽やかさだ。これぞ友利先生といった感じの気持ちのいい足当たり。爪先から伝わるそのくすぐったい肌触りは、徐々に明確な皮膚感覚とは違う別の何かになっていく。感触が血液を廻る物質のように体中に浸透し、全身をぽやぽやとした感覚が——

 はっ! 危ない!

「っ……」

 足が粘りつくみたいに靴下から離れてくれない。明晰夢の中で体がいうことをきかないのと似た感じだ。僕は意識の力で強引に足を引き剥がした。

「……は、ははは。これでいいか射水。お前の望む通り、踏みにじってやったぞ」

 爪先がぷるぷる震えて靴に収まらない。

「僕はシロ。オーケー?」

「ううぅ……いや待てっ。よくよく考えてみたら、靴下フェチならば靴下を踏めないはずだなんて、よくわからない理屈だっ」

「発案者が言うなよ!」

「他人に強いられて美人教師の靴下を足蹴にする……こ、これはっ、靴下フェチならばむしろ垂涎のシチュエーションに違いないっ。そうだ。お前は図らずも、自分が靴下フェチであることを露呈してしまったんだっ」

 ピシッ、と指先を眼前まで伸ばしてくる。

 えー。

「恐ろしい奴めっ。そもそもお前が靴下フェチであることは、先刻そこのビーバー顔の女が言っていたことだ。これであとは、お前が靴下を盗んだという証拠さえ掴めれば……」

「待て待て! 今度こそはっきり言わせてもらうが、断じて犯人は僕じゃない!」

「そうだそうだ誰がビーバーだ! 足から出る油塗りつけて水はじかせたろかい!」

 なぜかビーバーに詳しい天使を無視して、僕は続ける。

「たまたま女子更衣室の窓の下にいたってだけで、そこまで疑うこたないだろ」

「じゃあどうしてあの時、あそこにいたんだよっ」

「ここにいる僕の従妹が忘れ物を届けに来てくれたから応対してたんだよ」

「何も持ってなかったじゃないかっ。ポケットにもっ」

「このアホが見当違いの物持ってきたからそのまま追い返したんだ」

「……う、うぅ……」

 諭すような言い方をしたのが効いたのか、射水は黙った。

「射水。盗難に遭ったのは残念だったと思うが、それでむやみに人を疑うな。僕は清く正しい高校生だ。クラスメイトの靴下を盗んだりなんてするわけがない。僕を靴下フェチ呼ばわりしたのもこのアホ従妹の冗談だ。わかったな?」

「……ひ、人が下手に出てりゃいい気になって説教かよっ」

 いつ下手に出たんだろう。

 射水は顔を真っ赤にしてまだ何か言いたそうに唇を歪ませているが、何も出てこないようだった。たかだか一足の靴下にすごい執念を感じる。

「ちょっとお客さん」

 店内から迷惑そうな顔をした男が現れた。お婆さんから『キノ』と呼ばれていた店員さんだ。僕はそこで初めて、僕ら三人が『パサディナ』の店の前を占領していることに気づく。

「す、すみません。すぐ退きますんで」

「靴下を」

 キノさんは友利先生のオレンジ靴下を拾い上げた。

「粗末に扱っては、いけませんよ?」

 野太い声に似合わない諭すような口調で言って、キノさんは靴下を射水に手渡す。もっともな意見だ。ていうか、今の一連のやり取り見られてた……?

 何はともあれ、ありがたい仲裁だ。射水も第三者の注意を受けておきながら、この不毛な争いを続ける気はないだろう。

「うぅ……き、今日はこのくらいにしといてやるっ」

 射水は謝罪やお礼の代わりに捨て台詞を吐いてから、アーケードを猛スピードで走り去っていった。二階の窓から飛び降りてきたり、さっき回り込んできたりしたときにも思ったが、意外とかなりの運動神経の持ち主なんだろうか。

「さて魚崎ぃ。うちに帰るか」

「ああ。いやお前んちではないけどさ」



 陽はまだ元気に一日の軌道を描き続けているというのに、狭山ハイツにつくと、僕の体は疲労感でいっぱいだった。

 昨日も中々だったが、今日も一段と疲れた。

「しかし可哀そうなほどボロいアパートだなー。あたしがゴジラだったらここだけは踏み潰すのを思わずためらいそーだぞ」

「どんな喩えだよ。ほっとけ」

 そのボロいアパートの二階の扉から、カリスマモデルさんが顔を出した。

「あ。魚崎さんとサリーちゃん。どうもお疲れ様です」

 マスクにワッチキャップと、変装っぽさを出さない変装といった感じの出で立ちで、倉林さんはトコトコと外階段を降りてきた。

「しおじん、どこいくんだ?」

「これからお仕事なの。雑誌用の写真撮影でスタジオに」

 にっこり目元はマスクでそこだけしか見えないのに、引き込まれそうな魅力を放っていた。

 ただ夕べや今朝の笑顔に比べると少し堅いような気もする。なんだろう、元気が感じられないというか。仕事ということで、早くもビジネスライクな倉林汐路にモードチェンジしているということだろうか。

「倉林さん。今朝言った落下してきた靴下の件だけどさ、できれば倉林さんに取りにきてもらえると助かるんだけど」

 今もサリーが押入れに隠してそのままの状態だ。僕はあれを持つどころか、もう正視することさえままならない。

「あ。えっと、それあげます」

「え」

「引越し初日に靴下を西向きに干すと良いってお話しましたよね。風水的にはああして一度役目を終えたモノは手もとに置かずに処分するべきなんです。だから、あげます」

「いやいやいや! 女物の靴下なんて僕が貰ってもどうしようもないって!」

「でしたら、どうぞ捨ててください。風水的には一度効力を使った靴下は近隣住民の手によって処分されるのがベストなんです」

「風水都合良すぎない!?」

「面倒お掛けしますが、よろしくお願いします。雑巾替わりにするなどしてもらっても構いませんので」

「や、でも……」

 なんだろう。今だけは、この女神の微笑みが邪悪に見える。

「あ。どれもまだまだ履けるはずなので、サリーちゃんにあげてもいいかもしれませんね」

「え! いいのか?」

「もちろん。そういえば、近隣住民の従妹が使い続けると、効力を取り戻すこともあるそうですよ? 風水的には」

「いやだから風水! 風水ってそういうもんだっけ!?」

「じゃ。時間も無いので、失礼します」

 ささーっと逃げ出すように倉林さんは狭山ハイツを後にした。

 なんなんだホント。

「おいサリー。泊めてやる代わりに、あの靴下だらけの物干しハンガーを捨ててくるんだ」

「えー。せっかくしおじんがくれるのにか?」

「僕だって心苦しい。だが致し方ないことだ。僕の周りにある靴下および靴下を所有する人間はすべて敵なのだ。気になる要素はすべて排除しておかなくちゃいけない」

「しおじんのお古ってことでオークションに流すと良い値がつくかもしれんぞ?」

「お前意外と浅ましいな!」

 さすがにそれは止めておこう。

 サリーを部屋に入れる前に新聞受けだけ確認しておくが、いつもの封筒靴下は届けられていなかった。運命の力は僕の抵抗で徐々に弱まりつつあるのかもしれない。


 ——なんて、内心ではほくそ笑んですらいた僕は翌日、運命の底力によって思いも掛けない展開を迎えることになる。

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