01. 靴下と四日の運命(3)
フェチ狩り。
特殊な性的嗜好——フェティシズムを持ち、その欲望が強いが故に世間に迷惑をかけたり犯罪を引き起こしてしまう可能性のある人物の衝動を刈り取る仕事。
「バカバカしい」
一人になった部屋の中で僕は独りごちた。
サリーは荷物を取ってくるぜと言い捨てて飛び跳ねながら出て行った。駅近の安ホテルで寝泊まりしていたらしい。大したギャグだ。それでも天使天使と言い張ってるんだから、人を舐めてるにも程がある。戻ってこなくていいぞと言っておいたけれど、どうせまた来るだろう。
カーテンレールに引っかけた角ハンガーを見る。そこには昨日洗濯した幾足もの靴下が吊るしてある。
あの天使が言うには、どうも僕は靴下フェチになる運命を背負ってしまったらしい。
冗談にしてもセンスの無い話だけれど、その運命という表現は、やっぱりどうしてかしっくりくるのだった。
納得などしてない。だけど、仮にすべてあいつの言う通りだとして、問題はどうして僕にそんな運命が定められたかだ。至ってノーマル、これまで特定の物や属性に対して、僕は特別な興奮をしたことなど一度だってないのに。ましてや靴下なんて。
自分の足を見る。そこには帰宅後、乾いたのを確認して履いた自分の靴下がある。何の変哲もないただの靴下だ。他人のものであったとしても、それは変わらない。
「魚崎ぃ! お待たせー」
ハツラツとした声と戸の軋る音が耳を刺す。いや別に待ってなんてないけど。
「建てつけ悪いんだからあんまり乱暴に開けんなよー」
「すまんー」
サリーの声はちっともすまなそうじゃない。
廊下の方から足音と一緒に、がつんごつんと壁に何か硬い物をぶつけるような音が間歇的に響いてくる。なんだなんだ。
「いやー走ったから汗かいちゃったなー」
額をジャージで拭いながらひょっこりサリーが現れ、次いでその身長の一.五倍はあろうかという白い大鎌が目に入る。
「おい! なんだそれ!」
「ん? ああこれか。これはファッションセンターしまはらで」
「違う! 今さらお前のくたびれたジャージのことなんかどうでもいい! その背中のバカでかい鎌はなんだって訊いてるんだよ!」
蛍光灯の光を反射して、刀身が鋭くきらめいた。
「あーこっちか。天使には欠かせない携行品でな」
「どう考えても悪魔か死神の装備だろそれ!」
「何を言う。これはれっきとした天使の鎌だ。ちゃんと白いだろーが、ほれ。ちなみに柄の部分は光に晒しておくと暗所で発光する性質も持つぞ」
「色の問題かよ! あとそれただの夜光塗料じゃねえか!」
「ぶーぶーうるさいやつだな。鎌の一つや二つで文句を言っていては、女にモテんぞ」
「余計なお世話だ! いいからそんな物騒なもんをうちに持って入るな!」
この狭い部屋には不相応すぎる凶器だ。どんな広さでも凶器の持ち込みは遠慮して欲しいけれど。というか廊下の壁は大丈夫なのか。
「フフフ。心配ないぞ魚崎」
サリーは何やらまた得意げな顔をする。おもむろに背中の大鎌を手に取って、僕の前で大きく振りかざし……え? 振りかざし?
「ちょ! ま——嘘だろっ」
「天白鎌は物騒なものなどではないのだっ!」
ぎゃああああああああああああああああああああ!
「…………ん? え?」
「このように、天白鎌は生物を傷つける作りにはなっていないのだ」
すり抜けた? 鎌が、肉体を?
まさか。
「まーどうしても嫌だというのなら、こうしておくこともできる」
言って、サリーは両手を掲げる。次の瞬間には、その手にある大鎌がしゅるしゅると如意棒のように縮み始める。最終的には果物ナイフくらいの大きさになった。
「天白鎌ポータブルだ」
「……」
鎌がすり抜けて、縮んだ。
「……マジック?」
「天使だ!」
的外れな回答を寄越して、サリーはそのなんとかポータブルの刃の部分をたたみ、ジャージのポケットにそのまま突っ込んだ。
「そんじゃーまー、これからよろしくな! 魚崎!」
「ふざけんな。僕はお前と一緒に住む気なんて無いって言ってるだろ」
「往生際の悪い奴だなー。犯罪者になってもいいのか? それとも、まだ現実を受け入れられてないのか? 誰が何と言おうと魚崎は靴下フェチになるのだ! 運命はそーゆー風に動き出してしまったんだ!」
「だからなんでだよ! 僕はまず、その運命を受け入れた覚えがねえよ!」
「……なるほど。やはりちっとも話を聞いちゃいないな」
サリーは呆れたような顔をして息をつく。
まあ確かに、これまでこれっぽっちも聞いちゃいなかったけども。
「あたしの仕事はフェティシズムに対する行き過ぎた熱を持つ者の、その衝動をさくっと刈り取ることだ」
「うん。聞いた」
聞いただけだけどな。
「あたしにはその衝動が見える。ヒトが内に秘している生臭い情動、邪欲、それがどう発散されようとしているのかが見えるのだ。当然、多くの人間は我慢をするか、あるいはこっそりとそれを発散させる。理性というものがあるからな。だが中には、今にも破裂しそうなほどに心がフェチ対象への衝動で膨れ上がっている人間というのもいるのだ」
うんうん、と自分で頷いてサリーは続ける。
「この天白鎌でそのフェチ衝動を刈る。刈り取った衝動はこんな感じで、形而下の物質として保存されることが多い」
サリーは持ってきた鞄から円柱型の瓶を取り出した。有名なインスタントコーヒーの容器と同じに見えたが、中身は違うようだった。種? ……というかアレは。
「これは《天命の種》といって世の事実を固形保存するための物だ。さて。とある日の日没頃、あたしはこの瓶を持って公園に入ったのだが……ちょっと用事ができてな、一時的に花壇の隅にこれを置いておいたんだ。しかし、戻ってみるとなぜだか蓋が開いていた」
「……それって」
「思い出したか? 瓶を勝手に開けた不届き者は貴様だ魚崎ぃ! そしてあたしが砂場で子どもたちと遊んでいる隙にお前はこの中身を拝借した。いや、言い方を変えるべきか」
「う……」
その通りだ。
下校途中に何気なく寄った公園の花壇、その隅っこ。何も出ていない土一色の花壇の脇に種が入った瓶が置いてあり、当然僕はこれから植えられるであろう何かの種なのだと思った。
そしてそれはよく見るとヒマワリの種に似ていて……僕はそのときそれを、
「食べたな?」
「ぐ」
思わず、後ずさる。その拍子に、ポケットの小銭がじゃりんとみずぼらしい音を立てた。
困窮は人を盲目にさせる。僕だって、できればそんなハムスターみたいな真似はしたくなかった。仕方がなかったのだ。月一の親の仕送り日まで、何とか、せめて口くらいはごまかしてやらねばならなかった。
いや待て。今となっては問題はそこじゃない。
「それ、ヒマワリの種じゃないの?」
「そんなわけないだろう。そもそもほれ、ここにちゃんと『サリービン』とラベルが貼ってあるだろうが。人のビンを勝手に触るでない。泥棒め」
「品種名かと思うわ! せめてサリー『の』ビンって書いとけ! 大体ビンにビンって書く奴があるか! 見りゃわかるわ! 中身の情報を書けよクソッたれ!」
我ながらひどい逆ギレだった。
「で!」
僕は居住まい正す。
「それはヒマワリの種じゃないと。世の変態から刈り取ったフェチを固形化したものだと。そう言ってるわけか」
「少し違うが、まーそんな感じだな」
「それで、それを食ったせいで……僕は靴下フェチになってしまうと?」
吹き出しそうだった。実際、僕の口元はいつでもそれができそうな状態にある。にも関わらず、どうしてか先に嫌な汗が背中に吹き出していた。
「ああ。今回はな」
サリーは笑顔で言った。
えーっと。
「次回があるの……?」
「うむ。そのとき公園に来ていた目撃者の主婦(36)によると、魚崎はかなりの量の種を食べていたらしいな。挙句にいくらか持ち去っていったという証言も出ている。あたしも何が無くなったのかをすべて把握しているわけじゃないんだが、少なくともタイツフェチ、鎖骨フェチ、ショートパンツフェチ、肩ひもフェチ、包帯フェチ、バッティングフォームフェチ、モンゴル相撲フェチ、使用済み××××フェチ。□◇後の○△○※フェチなどは既に紛失を確認している。いつ発現するかはわからないが、これらの運命は既に魚崎の体内に宿っている。植物の種に喩えるなら、その種皮がいつ破かれるかってとこだな」
「……ははは。バカバカしい」
「まだ信じねーのか! 心当たりもあるんだろ? さっき呪いだなんだ言ってたろ。それはきっと、靴下フェチ魚崎へと収束していく運命の一作用だ」
あれはただの呪い、のはずだ。
届けられた靴下がすべて女物に見えたのは偶然のはずだし、僕の所有する靴下が鳥に汚されたことだって、決してその他人の靴下を僕に穿かせるために引き起こされた運命などではないはずだ。友利先生の靴下の、あの心地よい感触の余韻が未だこの手に残っていることも、三階から靴下を取り落とした人物が美人読者モデルの川妻英里だったことも、本当にたまたまだ。
僕を靴下好きにすることが目的で引き起こされたイベントなんかじゃないはずだ。
「ひどい面だぞ魚崎」
お前のアホ面よりはマシだ。
「まーそーいうわけで。しばらくは魚崎の犯罪防止のために共に生活させてもらうぞ!」
「み、認めないぞ! 仮に百万歩譲ってお前の言うことが正しかったとしても、性癖の一つや二つ増えたところで僕は犯罪などしない!」
「魚崎は少なくとも三十粒は取ってるけどな。それから、お前は二つ勘違いをしている」
得意げに僕の前で二本の指を立てるサリー。
「まず一つ。私が刈り取っているのはフェチそのものではなく、そこから発生する強烈な衝動だ。今回のケースで言うなら靴下フェチ自体ではなく、好みの靴下を見つけたら飛びついて舐め回したいといったような行動欲求の方に当たる。つまり魚崎がこれから獲得しようとしているものは、そもそも犯罪レベルの衝動の方であって、その土台となるフェチ属性に関しては運命の辻褄合わせのようなもので得てしまうだけなのだ」
「うん。わからん」
こいつは一体何を語っている。
「それとフェチは性的嗜好、貴様の言うところの性癖とは違うぞ?」
「……それはどういう」
「フェチは時として性欲の対象そのものだからな。晴れて靴下フェチになってからは、魚崎は靴下以外に興奮することは無くなる可能性が高い」
「な——」
頭の回路が一瞬、停止する。動き出して最初に浮かぶのは疑問とか驚愕ではなく、内臓が冷えるほどの絶望だった。
「——ん、だ、と?」
「だから靴下以外に興奮することは無くなる可能性が高いのだ」
「……」
「魚崎? おーい」
「……てことはあれか? もし次にモンゴル相撲フェチを身につけてしまったら、僕は靴下を穿いてモンゴル相撲を取る女性にしか魅力を感じなくなるのか」
「厳密にはその人が履いている靴下そのものとモンゴル相撲を取っているさまに、だな! 可能性としては高いが、その辺はもともと靴下フェチとモンゴル相撲フェチを持っていた人物次第でもある。まあ衝動の大きい者にはそういう傾向があるというだけで、靴下萌え〜モンゴル相撲萌え〜程度にそれらを見ていた可能性も十分にあるけどな!」
「……嫌だ」
「ん?」
「嫌だ! 僕はそんな変態にはなりたくねー! なんとかしろ天使!」
「やっと信じる気になったか。でもなんとかしろと言われてもなぁ」
サリーは座卓に置いたビンをまた掴む。
「《天命の種》を体に取り入れたということは天命を授かったことと同義。基本的にはどうすることもできん。まあ、発生した衝動ならば刈り取ってやることができるから安心しろ! そのためにあたしがいるのだ。芽生えたフェチ属性に関しては知らんけどもな」
「うるせー! そこをなんとかしやがれ天使!」
僕は暴れた。我ながら無様だった。
冗談じゃない。靴下フェチだのモンゴル相撲フェチだの、僕にはいきなり強烈すぎる個性だ。そういう問題でもないけど!
「だからなんとかしろと言われてもな……ん?」
「なんだこんなときに」
呼び鈴が鳴っていた。
まさかまた誤配じゃないだろうな。もう僕は絶対にサインしないぞ。
「行ってくる」
ノー靴下サッカーによる痺れは消え、けれど重い足を引きずって玄関へ向かう。靴を履いて、作業服が見えないことを祈りながらゆっくりとドアスコープに目を当てる。
そこには衛生用のマスクをした同い年くらいのきれいな女の子がいた。
僕はすぐにドアを開けた。
「こんにちは〜」
「あ、どうも。突然すみません」
被っていたベレー帽を取り、マスクをずらして、女の子はぺこりと頭を下げた。
エスニックな感じのワンピースにほっそりジーンズ。シックな革サンダル。整った瓜実顔に毛先がふんわりしたショートボブを備え、前髪は思いきったぱっつんバングス。
まさにイマドキなガールだ。どう見ても配送業者ではない。
「私、この上の二○三号に越してきた倉林汐路といいます。今日からお世話になりますが、よろしくお願いします。これから荷入れをするので、何かご迷惑をお掛けするようなことがありましたら、遠慮なく仰ってください」
「ああなるほど。いえいえ、こちらこそよろしくです」
かわいい。その笑顔を見ていると思わず僕の方まで顔が綻んでくる。天使と言いたいところだけど、それだと後ろにいるポンコツと同じということになってしまう。彼女は女神だな。狭山ハイツに舞い降りし女神、倉林汐路さん。
……倉林?
「これ私の地元のお菓子なんですが、よろしかったら召し上がってください」
きれいに包装された箱を受け取る。蟹煎餅だった。ラベルには蟹の水揚げ場所であろう地名が書かれてあり、僕はちょうど昨日、それをある送り状のご依頼主欄でも見たことを思い出した。
「倉林やすお」
「え?」
「倉林やすお」
「……え……っと。父が何かしましたでしょうか」
ビンゴだ。
あの誤配はつまり、倉林やすおという男が娘の入居日と部屋番号を間違えたことによって起こったものだということだ。お客様コールセンターの山田もやっぱり間違えていた。
くそ。山田め。僕が悪いとでも言うように突っぱねやがって……って違う。いま山田はどうでもいいんだ。このコ……倉林さんも運命の差し金なんだろうか。常識的に考えてこんな時期、こんな古アパートに、こんなかわいい女の子が越してくるとかありえない。
「……荷物が間違って届いてるよ。昨日、君のお父さんから」
「あら、本当ですか?」
「ちょっと待っててね」
扉を閉めて僕は部屋に戻った。
何か嫌な予感がするが、持ち主が現れた以上はちゃんと返さなくちゃいけない。僕としても靴下フェチ化のトリガーになるようなブツを家に置いておきたくはないのでちょうどいい。
蟹煎餅を座卓に置き、サイダーを飲みながらお寛ぎ中のサリー・シェリンガムを蹴飛ばしてから、僕は押入れを開けてダンボールを出した。
「来客は誰だったんだ? 靴下屋さんか?」
「そんな訪問販売が来たら怒鳴りつけてるよ」
ダンボールを持って玄関へ向かい、戸を開ける。
「これなんだけど……ごめん。宛名が書かれてなかったから、僕宛てかと思って開けた」
「いえいえ。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
倉林汐路さんはダンボールを受け取ると、クオリティの高い笑顔で小さく会釈をした。あーもうかわいい。
「それでは、私はこれから荷入れがありますので、失礼します」
たったったーと彼女が走ってゆくその先には、ダンボールの山があった。
地面に直置き。近くにトラックなどはもう停まっておらず、周囲に人もいない。
「……」
倉林さんは僕の渡した靴下ダンボールの上にもう一つダンボールを重ねて、よいしょよいしょとそれを運び始めた。一人で。
「魚崎よ。手伝ってやらんのか? ばりぼり」
いつの間にか横に立っているサリー・シェリンガムの手から蟹煎餅を奪い取り、かじる。
「んぐ……これは罠だ。こんな状況が偶然で発生するものか」
彼女がどこかでつまづいてダンボール内の靴下をぶちまけてるところが目に浮かぶ。大量の靴下に襲われて僕こと魚崎はめでたく靴下フェチに目覚めてしまう……というシナリオなんだろう。
「フッ、甘いぜ運命さんよ。その手には乗らないぜ」
「なにブツブツ言ってんだ魚崎」
倉林さんが階段から小走りで降りてきた。一往復で既にしっとりと汗をかいている。日没までに全部運び入れたいのだろうけれど、あの山を見るとちょっとそれは厳しそうだ。
今度は三つダンボールを重ねて、倉林さんは持ち上げた。一番上のやつは体で支えきれていなくて、今にも落ちそうに揺れている。倉林さんの足も踏鞴を踏むみたいにふらふらしている。
「く、くそっ」
手伝いたい! なんだこの手伝いたさは!
一応、あの靴下ダンボールは既に彼女の部屋にあるわけで、安全であると言えなくもない。いやいや、そもそもあれだけの量を所有しているんだ。靴下マニアかもしれない。そうなると他のダンボールにもあれが入っている可能性は高い。
「あ。転んだぞ」
すてーん! という感じだった。階段前のコンクリート敷きになっているところで引っかかったのを僕は見ていた。取り落としたダンボールにダイブするような格好で倉林さんはうずくまっている。
「ええい、ままよ!」
駆け寄ると倉林さんは顔を上げた。
「す、すみません! 大きな音立てちゃって」
「いやそれはいいんだけど、大丈夫? よかったら運ぶの手伝お……」
転がっているダンボールの内の一つのフタが開いていて、中が丸見えになっている。
中身は……帽子だった。帽子帽子帽子。いちめんの帽子。なんだこの子は。さては服飾雑貨マニアか。
「あー! しおじん! よく見たらしおじんだ!」
後ろの方で叫んでいるのはサリーだった。
「やかましい。彼女は倉林さんだ。そんなお塩の神様みたいな名前なわけないだろうが」
「あ。どうもこんばんわ。しおじんです」
「え?」
倉林さんは立ち上がって、僕の後ろから駆け寄ってくるサリーに少し困ったような笑顔でお辞儀をする。
「ほらやっぱりしおじんだー」
てれれれってれーと独特の節回しで歌いながら、サリーは上ジャージをまくって下腹部とズボンの間から雑誌を取り出した。今日びの天使はふた昔前の暴走族がやっていた防刃アーマーも平気で導入しているのだ。知らんけど。
「さーらーりんくーすー」
その表紙には『かわいさの新法則——しおじんヘアを盗め! 春の私服プランも見せちゃいます!』と文字が並んでいて、中央では真っ白なワンピースを着てしゃがみ、右手を頬に当てた倉林さんが科を作るように笑っていた。
「倉林汐路(16)。神奈川県出身。14歳で本誌の専属モデルとして活動を始めると、持ち前のセンスと透き通った肌で瞬く間に全国のティーンを中心にしおじん旋風を巻き起こす。今や世代も性別も超えて慕われる若きカリスマ女王。モットーは『好きなものを着る!』……へぇ」
ファッション誌『Sarah Lynx』5月号は倉林さん一色だった。
トップモデル……と言っていいのだろう。そんな子がなぜか4月下旬というこの中途半端な時期に同じアパートのひとつ上に越してきた。こんなときでなければ手放しどころか全裸で喜んだところだろう。
怪しい、というかこれはもう正解だ。倉林さんは刺客なのだ。そう。魚崎靴下フェチ化計画推進委員会からの刺客。近づいてはいけない。運命に食い殺されてしまう。
「魚崎さーん! 最後の大きいやつ持ってきてもらえますかー?」
「はーい了解でーす!」
というわけで僕は荷入れを手伝っていた。
それはそれ、である。
日はもう何分か前に沈みきっていて、狭山ハイツは月明かりと弱々しい外灯によって何とかその輪郭をハッキリさせている。僕は雑誌を閉じて残った一つのダンボールを持ち上げた。
「魚崎ぃ。最後の最後でしおじんの大事な荷物を落としたりすんじゃねーぞー」
「お前はあのコのなんなんだよ。というかまず、なぜ天使を自称するお前が日本のファッションモデルに詳しいんだよ」
「もちろん。ファッション誌サラリンクスの愛読者だからだ!」
「だったらなんでいっつも黒ジャージなんだよ! 少しは吸収しろよ!」
「もちろん。金が無いからだ!」
「そこだけ僕と一緒かよ!」
抱えたダンボールを二○三号まで運ぶ。サリーも軽い足取りでついてきた。あれこれ茶々を入れるくせに手伝ってはくれない天使だった。
「ありがとうございます。すみません、初日からいきなり力をお借りしちゃって」
「いえいえ。これ、ここに置いとくね」
たたきに乗り出して廊下に荷物を置く。ちらと奥を見ると、まだほとんど整理はできていないようだった。
「よかったらお茶でも飲んでいきませんか?」
「え。いや、さすがにそれは……っつ!」
突然ひざ裏にトーキックを食らった。言うまでもなく、サリー・シェリンガムの仕業である。
「魚崎ぃ。せっかくしおじんが飲もうって言ってんだ。一杯くらいいいじゃねーか」
「なんかニュアンスがおかしいよお前のは」
半ばサリーに押し込まれるようにして、僕は完全に二○三号に入室した。まだ入居初日とはいえ、女の子の部屋だ。少し緊張する。
「どうぞ。まだ狭っくるしいところですけど」
「……じゃあちょっとだけ……おじゃまします」
ちなみに片づけたところで狭山ハイツの1Kは狭っくるしい間取りである。
廊下を抜けて部屋へと入る。女子らしい雰囲気はさすがにまだなく、畳の匂いがするだけだった。まだほとんどのダンボールは手つかずのまま隅に積まれており、中央にぽつんと置かれたフレンチスタイルなローテーブルが少し浮いている。
そして窓際には靴下が干されていた。
「……」
おい。なんてわかりやすいトラップだ。というか何で入居して一時間も経たない内から洗濯物が発生してるんだよ。おかしいだろ。
「なんか引越し初日に靴下を西向きに干すのって風水的に良いみたいなんですよ。コーヒーと紅茶がありますけど、どちらがいいですか?」
「へ、へーえ。じゃあ紅茶で」
「あたしも!」
倉林さんは電気ケトルを取り出してお湯を沸かし始めた。
靴下から離れた位置に胡坐を組んで座る。僕は隣で似たような姿勢を取るサリーに口パクで話しかけた。
おい。僕の身に靴下が降りかかるようなことがあったら守ってくれるんだよな?
「ん? ジャージなら上下で千六百円だったが?」
ダメだ。このポンコツ天使は人間がいくらか出来るようなことも出来ないのか。
「そういえば誤配の件は本当にすみませんでした。住んでる場所が配達員にバレないようにと、父が変な気を利かせて宛名なしで送っちゃったみたいで」
「モ、モデルさんってのも大変なんだね」
「ええ。……ほんとに」
倉林さんは一瞬、疲れたような表情を見せた。
「魚崎さんはこのアパートに入居されて長いんですか?」
「いや、まだ半年くらいだよ。親が遠くに転勤になって、転校するのも面倒だからここ借りて一人暮らしすることにしたんだ」
「一人暮らし?」
サリーに視線が向けられる。
「あ、ああ。こいつはまた別のとこに住んでるんだけど、たまにウチに遊びにくるんだ」
「フェチ狩りの使命を果たすべく今日からはどょふぉぇ」
僕はこのポンコツ天使を従妹であるという設定にしていた。ポンコツと同じ血が流れていると認識されるのは甚だ遺憾であるのだが背に腹は代えられない。
「そうなんですか。それと、魚崎さんの通っている学校というのはもしかして、すぐそこにある鬼丸高校……」
「あ。うん。そこの二年生」
ケトルのスイッチが切れる音がした。
「本当ですか! 私も明日からその高校に転入するんですよ」
「え、そなの?」
「はい! これからは同じ学校の同級生としても、よろしくお願いしますね」
「や、こちらこそ。……倉林さんはどうしてこんな時期に、こんなところに?」
「え? いや、まあ。ちょっと事情がございまして」
倉林さんはごまかすように笑ったあと、立ち上がって紅茶を淹れ始めた。
同級生と言う割に敬語は崩さないみたいだ。そういうキャラなんだろうか。
それにしても……。
突然越してきたのがモデルの女の子で、こうして自宅で持てなしてくれて、しかも明日から同じ学校の同級生? ダメだぞ僕。これは運命の仕掛けた罠なのだ。そもそも彼女は僕の靴下地獄の皮切りとなった誤配事件の関係者だし、すぐそばでその靴下たちが干されているという現状もある。これ以上仲良くなるのは靴下とお近づきになるのと同義じゃないか。
「どうぞ。キャラメルティーです」
「あ、どうも」
これを飲んだらさっさと失礼しよう。僕は靴下フェチ化するわけにはいかないのだ。
「魚崎さん。その、お願いがあるのですが」
「お願い?」
「はい。私のこと……その、倉林汐路がここに住んでるってこと、内緒にしておいてもらえませんか? 高校でもなるべく秘密にしておいて欲しいんです」
「ああ、なるほど」
「しおじんがこんなボロアパートに住んでるなんて知れたら大騒ぎだろうな!」
確かにポンコツの言う通りだ。けど、だったら最初からセキュリティのしっかりしたマンションにでも住めばいいんじゃ……貧乏? カリスマモデルが?
「……もちろん。黙ってればいいわけでしょ? それくらい全然」
「ありがとうございます! ご近所さんが魚崎さんみたいな方で本当に良かっ……あっ」
かちゃん、という音とともに、
「うわっ」
倉林さんの手がカップを倒し、中身が勢いよく吐き出された。僕の方へ。
「すみません! 手が滑ってしまって! あ、魚崎さん! ボトムスとソックスが!」
「やっぱりかよ!」
胡坐を組んでいた僕の真正面へと紅茶がぶち撒けられた。さながら失禁したかのような濡れ方だ。いや、もうそんなことはどうでもいい。
「じゃ、僕らはこれで失礼します。では」
立ち上がり、サリーの襟首を掴んでそそくさと部屋を出る……はずが、紅茶に濡れた足首をがっしりと掴まれてしまった。
「そんな! 怒らないでください! クリーニング代も慰謝料もお支払いしますので!」
「慰謝料て……いや、別に倉林さんには怒っていないから。気にしないで」
「だったらどうしていきなり帰られるんですか? 濡れた衣類をお貸しください。私が責任を持って清潔にしてお返しします。あ、そうだ。よければ代わりに私の靴下を」
「そうなるから帰るって言ってんの!」
僕は魔の手を振り切って玄関まで行き、急いで靴を履いて外に出た。
「おじゃましましたー!」
閉まる扉の向こうで涙目になった倉林さんがこちらに手を伸ばしていた。なんだか可哀そうにも思えるが、僕にとってはこの画はホラーに近い。
切れかけの外灯を頼りに鉄骨階段を下りて、一○三号へ戻る。ドアを開けて中へ入ると自然とため息が漏れ出る。なんだか今日は疲れた。
「しおじんの厚意を無碍にしおって。罰が当たるぞ魚崎ぃ」
「とっくに当たってるだろ。つーか勝手に入ってんじゃねえよ……そういえばお前、同居だなんだって言ってたけど……本気じゃないよな?」
「うむ」
「なんだ、よかった」
「布団が一組しかないとなると……同衾だな」
僕はもう一度ドアを開けて隣のポンコツを弾き出した。
「ふぅ」
「魚崎ぃ! 開けろぉ! あたしが衝動を刈ってやらないと、誰も魚崎の暴走を止めてやれないんだぞー! 変態犯罪者になってもいいのかよー!」
なってたまるか。そもそも変態属性なんてものを身につけてたまるか。僕は一人でも運命に抗い続けるぞ。
部屋に上がり、食い散らかされていた蟹煎餅を一枚つまむ。
「えーと。冷凍チャーハンがあったな確か」
冷凍庫から取り出して電子レンジにかけ、服を脱ぎ捨てて風呂に向かう。今日一日の肉体的および精神的疲労をシャワーですすぎ落として出てくるとレンジの扉が開け放してあるのが目にとまり、追って座椅子で寛ぎながらチャーハンをぱくついてるサリー・シェリンガムの姿が目に映った。
殴った。
「痛ぇ! 痛ぇよ魚崎ぃ!」
「いい加減にしろよこの黒塗りポンコツ野郎! どうやって僕の部屋に入った」
「そこの窓の鍵が開いていたぞ! 風呂上りよれよれパンツ野郎」
「ちっ」
不用心が過ぎたか。
「ちなみに股間の窓も開いているぞ。風呂上りしわしわパンツ野郎」
「ちっ」
不用心が過ぎたか。
「さて、あたしはそろそろ寝るぞ。天使の朝は早いのだ」
「人の布団に勝手に寝転がるな! そしてまずはチャーハンを返せっ! お前、そういえば靴はどうしたんだ靴は」
「むにゃむにゃ。もう食べられないよ〜」
「嘘つけ! そんな一瞬で寝られるいい布団じゃねーんだよこれは!」
カーテンをめくる。窓が二割ほど開いていてサッシの上にこいつの靴があった。
「これ履いて帰れ! 心配しなくても僕は絶対に変態なんぞにはならないから」
「むにゃむにゃ。もう一旦動き出した運命は避けられないよ〜」
「おい! 起きてんだろ!」
うつ伏せに寝るサリーの襟首を掴んで助け起こす。僕は今日だけでいったい何度こいつの襟首を掴んでるんだろうか。
窓を開けて靴を放り投げ、布団にしがみついて剥がれないサリーをそのまま引きずる。
「そーれ出てけ黒タヌキ……っ、動けっ、こら! ってバカ! 網戸を掴むな! 壊れるだろうが!」
抵抗するサリーを布団から引き離している内に、僕の方が先に窓から身を乗り出すような格好になった。
「ちょ、魚崎ぃ! ジャージが! ジャージが挟まってるだろ!」
「やっぱ起きてんじゃねえか。よしっ、あとちょっとで…………え?」
唐突に視界が暗転した。
な、なんだ? 窓から落ちたのか? いや。どこにも痛みは無いし、平衡感覚もしっかりしている。むしろ少し心地いいくらいだ。……心地いい? なぜだ。僕はどちらかというと暗いのは嫌いだし苦手だ。でも、なぜか安らぎを感じる。どこか温もりをまとったその暗幕は、僕の疲れた心と体を優しく包み込むようにして広がっているのだ。まるで綿菓子の海に飛び込んだかのような温かさと甘やかさが僕の五感に染み込んで、癒されると共に少し体が高揚してくる。波立つように僕の鼓動は——
「魚崎こらああああああああああ!」
頭部に衝撃が走る。
「——ハッ! 僕は、いったい何を!」
「あたしのジャージをよくもこんなにしてくれたなぁ!」
我に返った僕のすぐ傍には物干しハンガーが転がっていた。据え付けられた洗濯バサミにはたくさんの靴下。暗幕の正体はこれだ。どういうことだ? いったいどこから飛んできた。
「おい魚崎ぃ! 聞いてんのか! ジャージ破けちゃったじゃねぇかぁ!」
「待てよ? これは確か倉ばや……う……」
慌てて目を逸らす。なぜだか靴下を直視すると、冷や汗が止まらない。
「っ、ぐっ! サリー! その靴下を隠せ! 早く!」
「今はあたしのジャージの破けた袖口について話をしているのだ。いったいどうするんだ。簡単に縫い付けられるような状態じゃないぞまったく」
「わかったから! 早くしろサリー!」
言いながら、自分でハンガーを蹴飛ばして部屋の隅に追いやる。布が足先をかすめ、全身に痺れるような感覚が走った。
「う、うおおおおおおおおっ! サリー! おい!」
「そもそもフェチ化は止められないと私は以前から諄々と魚崎に言い聞かせてきたし、人の話を聞かないそのような態度が人のジャージを傷物にするといった今回の過ちにつなが——」
「買ってやる! ジャージ買ってやるから早くそれを隠せえええ!」
火照る頭と衝動を抑えるように、布団を引っかぶる。
僕はその日、そのまま夜を明かした。