01. 靴下と四日の運命(2)
「魚崎。世の中、男女間に厳しいと思わん?」
ぽんと僕の肩を叩いて耳元で気持ち悪い息を吐き出したのは日向寺誠一郎だった。月曜日の二時限目。体育のために教室から下駄箱へと移動する最中である。
「女性優遇社会ってやつのせいだ。女性専用車両だの女性専用マンションだの女性専用トイレだの。そんなものがあるせいで男女の出会いの場が減っていくんだ! 俺に彼女ができないのはそうやって社会がめぐりあいを阻害しているからだ。きっとそうだ!」
いきなりつっこみ所の多い奴だった。
日向寺誠一郎はバカである。そのレベルは僕の知り合いの中でも一二を争うほどだ。あの天使を名乗る女と比較しても八馬身くらいは抜けている。
僕はバカがぶら下げているその鬱陶しい面を横に押しのけた。
「トイレで出会おうとすんじゃねえよ。ていうか、お前電車通学でもマンション住まいでもないだろ」
「でも男女交友の場が奪われているのは事実なんだ。ほれ」
日向寺が指差す方を見やる。体育館へと続く渡り廊下をきゃっきゃうふふやだもーと笑い合いながら女子たちが歩いていた。
「つまり女子は体育館でバスケ、男子は外でサッカーという切り分けが気に入らないと」
「その通りだ!」
そのくらいスッと言えないのだろうか。
「日向寺はサッカーするの好きだったろ確か」
「女子環視の元でやるサッカーなら大好きだ! 別にうまくはねえけど、燃えるだろ? きっとプロの選手だってそうだぜ。応援席からの黄色い声があるから頑張れるんだ」
「そりゃ選手と男性サポーターに失礼だ」
気持ちはわかるけど。
下駄箱に着く。スリッパから運動靴に履き替え、外に出る。目を眇めながら上を仰ぎ見ると、抜けるような青空が広がっていた。
既に整列している他の生徒たちの元へ小走りで移動する。
「遅いわよー。魚崎くん日向寺くん」
ほっぺたに真綿でも詰め込んでいるみたいな、ぽやぽやした顔で注意するうちのクラスの担任兼体育教師。ちっとも危機感の感じない遅刻だ。
「こうなったら友利せんせーを原動力に頑張るしかないな」
日向寺が呟く。女教師の前で活躍したところで、成績は上がれど好感度は上がらないだろうけど。
「えーっと。みんな知ってると思うけど、今日はサッカーをしまーす。先生はサッカーについては素人ですけど、夕べ専門書を読んできたので安心してくださーい。成績はみんなから伝わってくる闘志とドライブシュートの切れ、顔面ブロックの勇気、ギャラクティカマグナムの威力などで判定しまーす」
周囲からおおっと謎のどよめきが起こる。
専門書って漫画かよ。一つパンチ混ざってるし。
「それでは早速チーム分けを……あれ、魚崎くん。素足なの?」
友利先生が指差すと、みんなも一斉に僕の足元を見る。直で運動靴を履いた僕の足。
「ちょっとわけあって、靴下がぜんぶ水没しちゃいまして」
「……明日スクールカウンセラーの先生がお見えになるから、一緒に行きましょうね」
両手をぎゅっと握られた。
「あの、いじめでやられたわけじゃないです」
まあ嫌がらせのような仕打ちではあったけど。
「でも素足でサッカーって危険だわ。皮膚がズタズタに引き裂かれて骨がバキバキに折れて精神がボロボロになるかもしれないじゃない」
「ならないですよ! 優しく蹴るんで大丈夫です」
「ダメよ。先生の靴下を貸してあげる」
「はあ?」
立ったまま、友利先生はおもむろに靴を脱いだ。そして照りつける今日の太陽のような鮮やかオレンジの靴下までをも、ゆっくりと脱ぎ始めた。
「ちょっと先生! いいですって!」
「靴下の無い人には靴下を貸す。柏木レイソルでは常識よ」
「嘘だ!」
一足脱ぎ終えると、先生はそれを僕の前に突きつけた。
ちらと辺りを見る。皆、恨めしそうにこっちを見ていた。約一名だけ先生の生足の方を凝視しているバカがいたが、もうこいつはほっとこう。
「どうぞ。大きめのサイズだから魚崎くんくらいの男の子ならきっと大丈夫なはずよ」
「だから……結構ですって」
「そんなこと言わずに、ね? あなたが履かなきゃ誰が履くの?」
「先生でしょ!」
一体なんなんだ? 前から変な先生だとは思っていたけれど、ここまでおかしなポリシーを持っていた記憶は無い。
「魚崎くん。心の靴下まで濡らさないで?」
「……」
い、意味わかんねえ……。
先生は強引に僕の手に靴下を握らせた。
まだほのかに体温の残るそれは、普通履いた後の靴下に見られるような不潔な印象はまったくない。むしろ清らかで爽やか、そしてどこか良い匂いすら感じさせる。どこにでもある大量生産品のはずなのに、高級シルク糸で編み立てられたような艶と柔らかさを持っていて、触れている僕の手肌に優しい反応を返す。まるで友利先生のぽやぽや感がそのまま乗り移っているみたいだ。
……僕は何を考えているんだ?
「魚崎、やったな!」
横で何やら嬉しそうな日向寺。いつの間にやら周囲の僕を見る目が、何か祝福めいた色に染まっている。
なんだってんだ、もう。
二時限目終了を告げるチャイムが鳴って、汗みどろの生徒たちがぞろぞろと校舎へと戻っていく。僕はその後ろをそろそろと歩く。先生が言っていたほどズタボロにはならなかったが、足はもはや限界だった。
「なんで履かなかったん? せんせーの靴下。もったいない」
日向寺が僕の顔を覗き見る。
「……なんか、嫌な感じがしたんだよ」
先生と僕の靴下の押しつけ合いは五分以上も続いた。最終的には僕の「じゃあ見学します」という切り札に、先生が降りた。少し卑怯かとも思ったけれど、よくよく考えると他人の靴下を履かない権利くらいあって当然なはずなのだ。
結果、足の甲はヒリヒリするわけだけど。
「なんだそら。それに、靴下水没ってなんだよ。どういうこと?」
「ああ……それな」
厳密にはサイダーだけど。サイダー没。
「どうも僕は靴下の呪いにかかってしまったみたいなんだ」
知らない人間から膨大な量の古靴下を送りつけられ、一方でうちにある自分の靴下はシジュウカラに蹂躙された。これが呪いでなくてなんだ。僕に恨みを持った何者かが、どこかで靴下製の人形に五寸釘でも打ち込んでいるのかもしれない。
そんな理由から、僕には友利先生の靴下を履くということが、なにか良い結果に結びつくとはとても思えなかった。
「なんか色々大変そうだな……あれ?」
日向寺が僕の頭上を指差す。つられて上を見上げてすぐ、僕は自分でもびっくりするくらいの反射速度で地面を蹴って、横に跳んだ。校舎の壁に激突して倒れ込む。悶えながらも、僕は再度それに目を向けた。
さっきまで僕がいた場所に舞い落ちてきたもの。
それはまたしても靴下だった。くすんだ青色をした、ハイソックス。
「ごめーん! 魚崎くん、それ取ってー!」
上から女子の声がする。
「うお。川妻さんじゃん! ってことはこれ、川妻さんの靴下?」
日向寺が興奮気味にそれを手に取ろうとしている。
川妻……うちのクラスの川妻英里か。いや、誰が落としたかなんてどうでもいい。
「ちょっと! テメーが触ってんじゃねえよタコ野郎! 魚崎くーん、取ってー!」
「ひ、ひどい……海洋生物っぽいのはむしろ魚崎なのに」
打ちつけた肩を持って起き上がる。
「なぜ……なぜ靴下が窓から外に出るんだ……」
「魚崎? どうした?」
「履こうとしたらうっかり机でつまづいてそのまま外に放り投げちゃったーってか? なんっだよそれ! 大体うちの学校は靴下は黒って決まりがあるだろうが!」
「お、落ち着け……ただ靴下が降ってきただけだろ」
日向寺の言っていることは正しい。靴下が頭に乗っかったくらいで外傷は負わないし、特に不快でもない。でも、僕のいらいら許容メーターはその針を振り切ろうとしていた。靴下に対して過敏になっているだけなのかもしれないけれど……。
やっぱり、なにかがおかしい。
放課後。
未だに痺れの余韻が残った足で帰路をうっそりと歩いていると、突然、黒ずくめの女が眼前に立ち塞がった。
一束だけ前に垂らしたひっつめ髪。うらぶれた黒ジャージ。アホっぽい笑顔。やっぱりというかなんというか、サリー・シェリンガムだった。
「よう魚崎ぃ!」
まるで待ち合わせでもしていたかのように、サリーは僕に向けて片手を上げる。ちょうど商店街の入り口付近だったせいで、その無駄にでかい声に主婦たちが反応している。
ちくしょう。家まであと百メートル程だったのに。
「今日こそはちゃんと最後まで話を聞いてもらうぞい!」
無視して歩を進める僕の横を陣取って、サリーは当然のようについてくる。その大股歩きもやっぱりアホっぽい。天使というなら頭に輪っかでも浮かべて、フワフワ飛ぶとかしてほしいところだ。
「お前は誰かから僕の監視をする命でも受けてるのか?」
「まあそーだな!」
「……」
何が楽しいのか、いつものごとくニヒヒと笑っている。
すごくうざい。
「魚崎が性犯罪に走らないように監視しているんだ! というか、これはもう何度も言ったことだぞ!」
「あー、そうだっけ?」
話半分どころか、一割くらいしか聞いていないので分かるはずもない。
「でも、僕の方も何度か言ったと思うけど、僕は変態さんじゃないぜ?」
「まあ今はそうだろうな! けど話はそう簡単じゃないんだ! そもそもあたしがここに滞在している理由に関わることなんだが、まず二週間ほど前に天界からだな——」
僕は一人暮らしである。
三か月ほど前に親の転勤が決まったのだが、転校とか新しい環境への適応が面倒だったため、僕だけこの町に残ってボロアパートを借りたのだ。ところが親に頼りっきりの生活から一転、単身生活を始めるというのは、結局とんでもなく面倒な環境への適応が必要だった。炊事洗濯掃除。面倒なことこの上ない。かくして僕は今でも転校への未練を捨てきれないのであった。
「——というわけだ! わかったか魚崎!」
「僕のヒストリーを思い出すのにちょうどいい間だったよ」
「ん? そーかそーか」
狭山ハイツに到着する。
前庭の桜の木からは、鮮やかなピンクの花びらが幾片も舞い散っていた。ここには他にも松やクヌギや名前のわからない庭木がいくつも植わっている。敷地だけはやたら広いのだ。
僕の家、一○三号へと向かう。戸の中央から何かが飛び出しているのが見えた。
「……」
ドアポストに、膨れ上がった角形2号封筒が詰め込まれている。
中身は靴下だった。
「そぃやぁ!」
僕は空高くそれらをぶん投げた。敷地だけはやたら広いのだ。
気を取り直してポケットから鍵を出す。
「魚崎。なんだったんだ今のは?」
「呪いだ」
「呪い?」
「ああ。ていうかなにしれっと入ってこようとしてんだよタヌキ」
「タヌキじゃなくて天使だ。まあいーじゃねーか。それより呪いってなんだ?」
なんだかやけに真面目な表情だった。呪いと聞いては天使として黙っちゃいられない、みたいな思いでもみなぎっているのだろうか。ちっとも似合わない顔だけど。
「靴下の呪いだ。昨日から僕の周りで靴下イベントが勃発している。もしかしたらひと月くらい前にぼろぼろになった靴下を雑巾代わりにして捨てたのが、その筋の神のお怒りに触れたのかもしれない。天に戻ったらどうか僕の量刑不当を訴えてくれないか」
靴を脱ぎ置いて廊下に上がる。振り向くと今度は埴輪みたいな顔のサリーがいた。一周してまたアホっぽい。
「……もしや魚崎。お前……」
サリーの大きくて丸い瞳が揺れている。唇がためらうみたいにして形を変え、やがてその口は慎重に、おずおずと、言葉を紡いだ。
「靴下フェチ……なのか」
「……」
なんでだよ!
「えっと。僕の話聞いてた? 人の話はな、ちゃんと聞かないとダメなんだぜ?」
「そーだな」
「じゃあ僕が靴下の呪いに苛まれてることが、どうして靴下フェチに繋がるんだ」
埴輪顔がみるみる内にいつものそれに戻る。
「よーやく、あたしが来た意味が生まれたというわけだな!」
ほっほーいとサリーも靴を脱ぐ。そしてそのまま嬉々とした表情でウキウキホイホイ廊下を渡っていく。だから何がそんなに面白いのか。ていうか勝手に上がんなよ。
「魚崎ぃ! この家には一つしか部屋がないのか?」
部屋に入ると、サリーが楽しそうにくるくる回っていた。
「1Kだからな。一人暮らしなんてこんなもんだよ」
「狭いなー、1けーは。あたしは700けーというやつでこの町まで来たぞ」
「新幹線だよそれ。ていうか新幹線で来たのかよ。直接舞い降りろよ」
どこまで天使のイメージを逸脱する気なんだ。
「いやはやしかし、改めて見ると汚い部屋だなあ魚崎ぃ」
「ほっとけ」
「月並みな表現でなんだが……クソゴリラの巣って感じだな!」
「聞いたことねー表現だよ!」
「ところで魚崎ぃ。布団はないのか布団は」
「なんだ次から次へと。あるだろそこに」
敷きっぱなしなっている小汚いそれを指差す。さっきから普通にサリーが踏んでいた。そうでなくてもシーツはよれまくりだけど。
「これは魚崎用のだろー? 他にないのか?」
「ないよ。一人暮らしなんだし……まさかお前」
そんなはずはないと思いながらも、念のため訊いてみる。
「……泊っていく気じゃないだろうな?」
「そんなわけないだろー」
「だよなー」
「同居するんだ同居」
「ていやぁ!」
僕は座卓に置いてあった漫画を素早くサリーの頭に打ち落とした。
「痛ってぇなー魚崎!」
「なんで僕がお前と一緒に暮らさないといけないんだよ!」
「そりゃあもちろん監視のためだ! 靴下フェチ魚崎が性犯罪に走らないよーにな! 芽生えてしまう以上、それがあたしの義務だ!」
「……あのな」
もう限界だった。わけわかんねえにも程がある。
「いいっかげんっにしろ! なんなんだお前は次から次へと! 僕は靴下フェチなんかじゃねえっての! さっさと帰れ! のぞみでもひかりでもいいから帰れ!」
喉が嗄れそうなほど叫んだ。が、サリーはというとニカっと口を開けて笑っている。
僕は黒ジャージの襟首を掴んで引っ張った。幸いにもこいつは軽い。このまま昨日のように外まで引きずり出しちまおう。
「ま、待て魚崎! 抗っていられるのも今だけなんだぞ!」
「抗ってんのはお前だろ! その手を柱から離せ!」
「どうせ運命によって芽をつけてしまうのだ! 今は耐えることができても、いずれ魚崎は新たな煩悩に目覚めてしまうのだ! とぉい!」
サリーは僕の腕を振り払って戦隊ヒーローみたいな着地を決めた。力を緩めたつもりはなかったのだが……
運命。
それが引っ掛かった。意味不明なサリーの言葉の中で、なぜかその単語だけが僕の頭の中でピックアップされ、ぐるぐると脳内を廻っている。それは僕の感じている違和感にピタリと適合する、昨日今日の日常の中に紛れ込んだ不可解なあれこれを端的に説明する一言のように思えたのだ。
そうだ。なにかあるはずのなかった運命みたいなものが、強引に僕の人生に割り込んできた。この違和感はそんな感じなのだ。
「……靴下イベントが僕の周りで起こることが、運命だって言うのか?」
「ふふふ。よーやく話を聞く気になったか。変態候補生め」
サリーはニヤリと口元を歪める。なんだか誇らしげだ。
「だが少し違うんだ。魚崎の運命はあくまで靴下フェチになり、変態性欲衝動を抱えることだからだ! そしてあたしはそれを摘み取りに来た天界の変態性欲狩り、特殊課フェチ狩りのサリーという! ドン!」
変な効果音までつけてサリーは反っくり返る。
なんだ、そのしょぼい運命とセンスのない役職名は。
「時に魚崎。靴下フェチの運命、その歯車が動き始めたのはいつ頃なのだ?」
「靴下イベントが起き始めた時期のことか? ……えーっと。昨日の朝、かな」
「そーか。ということはつまり」
サリーはふっと息をつき、正に天使的な満面の笑みで、歯切れよく宣告した。
「魚崎はこれより二日半以内に、靴下フェチとなってしまうのだ!」