風早蒼炎智三郎翔『かざはやそうえんともさぶろうかける』
蒼炎の名は伏せて口にあげるなと、言付かっていたから、智三郎は、ちょっと不満だった。
この伏せ字が気に入っていたからだ。
後々、叔父から、あれは祖父の馬の名だと聞いて、がっかりした事もあったが、それでも、蒼炎の名は、嫌いにはならなかった。
メキメキと腕を上げだした剣の稽古に余念がなかったが、書もなかなかだった。
誰に似たのやら、と、笑う母を尻目に、勉学私塾にも、足繁く通った。
時は、徳川幕府三代将軍の時代を迎えていた。
風早家の三男坊は、見込みがあると、噂が立ち、あれよあれよと、婿の話が舞い込んできだしていた。
だが何故か、それらはことごとく断られていて、智三郎の耳には入ってはこないのだった。
この時代、最早武勇で名を挙げるものなど、ありはしないと、影で囁かれだしていたのだ。
兄2人を差し置いて、智三郎に城勤めの話が舞い込んで来た。
流石の風早家当主、智哉もこれには、揉消す事も握りつぶす事も出来なかった。
直参とはいえ、三男坊の異例の抜擢に、周りは、粗探しをする始末だった。
松平信綱の元、集められた若衆は、極秘に任務に就く者達であった。
人の口には戸は立たない。
だが、異例の抜擢が10人を越せば、色々と噂が立つ。
何せ、元服前の次男坊三男坊達である。
城の外も内も、噂好きが口さがなく勝手な作り話を流していた。
やがて彼らが、狼煙の番に着いたと知れ渡ると、噂はピタリと止んだ。
狼煙のあるのは、それぞれ高い山の上の粗末な小屋だったからだ。
城勤めならいざ知らず、そんな辺鄙な場所での勤めでは、流石に羨ましさも半減したのだった。
だが、彼らはそこにはいなかった。
松平信綱の所縁おおい、忍城に集められていた。
狼煙場に向かうと思っていた、旅姿の智三郎達は、拍子抜けしていたのだった。
城の奥深く、木々に囲まれた小さな社のような場所だった。
周りは湧き水に囲まれ、粗末な橋だけが、この社に続いていた。
後はまわり中、深い泥濘で、容易に近づけない場所であった。
そこに待っていたのは、お忍びで来られていた信綱と弾正と名乗る、片目の男だった。
額当てが、片目に掛かっていて、それと判る。
「儂は、弾正だ。
これから、術を解く。
それぞれ、『転生義体』の術が、かかりその身体に、留め置かれているのだ。
その楔を抜く。
それぞれ、禁時の伏せ字を唱えよ。
それの字のみだぞ。」
じっと聴いていた者達の顔色が変わった。
「そもそも、それらは、有難くも先々代の時の強者達の技である。
一代限りに消えるのを、留め置いたのだ。
そこの、前に出よ。
伏せ字を唱えよ。」
前髪も涼やかな、少年が一歩、前に出た。
「蟷螂。」
気張るでもなく、萎縮するでもなく、その声は響いた。
「次、お前。」
1人が終わったので、次からは度胸がついた。
「円明。」
「呑舟。」
「響蛾。」
「松煙。」
「狗神。」
「剣竜。」
「雷雁。」
「紙鶏。」
「蒼炎。」
10人の伏せてあった字が、唱えられた。
「では、弾正、頼んだぞ。
半年でものにして欲しい。」
囁くように弾正に言うと、信綱公は少年達に向かって口を開いた。
「まだこの役の重さがわからぬであろうが、この国の礎となる役回りが、与えられているのだ。
お役目ご苦労。」
こう、言い残すと、字の解放で、のたうち苦しむ10人と弾正を、残して、帰って行ってしまった。
抜かれた楔は、大きかった。
頭の芯が、生きたまま、焼かれた刀が柄まで、捻じ込まれているようだったのだ。
のたうつ少年達を、弾正は冷静に見下ろしていた。
「お役目、全うする事が、これからの勤めであるぞ。」
ガンガンする耳の奥に、お役目の言葉だけが、残っていた。
気が付くと、彼らは粗末な布団に寝かされていたのだった。
それぞれ、内から力が溢れていた。
前髪を落とす前の少年達は、妖しく光り、蜜をたたえた様になっていた。
弾正は、唄を唄わせ、踊りを仕込み、笙や横笛や太鼓を習わせた。
それぞれ、自分の力がわからぬまま、いつの間にか、唄と踊りの一座になって、国々を興行しだしたのだ。
中でも見目麗しい蟷螂は、一座の花形で、唄い踊れば、梅の花が咲いた様だと、梅乃香と呼ばれる様に成っていた。
弾正率いるこの一座がある城に迎え入れられたのは、必然であった。
その城の城主は、彼らを大層気に入り、長逗留を許した。
早速、弾正は小屋を建て、日に2回、唄と踊りと芝居をここで開く事になった。
暁烏一座は、人気で毎度押すな押すなの大盛況であった。
やがて、この地の信仰をさり気なくあらわす芝居や唄が、盛り込まれだした。
流石に外には出さないが、小屋の中では、クルスを、持つ者も現れていた。
やがて、教義者の姿も出始め、舞台の袖から、弾正がジッと見つめていた。
見る者が見ればわかるとは、こういう事だろう。
家康が石田三成に勝利した芝居の中に、細川ガラシャの悲劇を入れたりしていたのだ。
ほんの1幕でるだけでも、ガラシャに扮した
梅乃香が、胸の前で十字を切れば、見ている観客の泪を誘うのである。
が、この出し物は、あくまでもこれは関ヶ原の合戦なのだ。
噂が噂を呼び、暁烏一座は、ある人物の元に呼ばれた。
そこは漁村で、網元の家であった。
一段高い座敷に、座っている者が居る。
その前の板の間に、暁烏一座は、ズラッと座らされていた。
年若なその少年の様な人物こそ、この地で何やら騒がしている、益田四郎であった。
歳は智三郎達より歳上の筈だが、ほんのり紅の乗った頬はプックリとし、形の良い口元は涼しげながら、よく動くクリクリとした瞳が、四郎の人となりを知らしめていて、使えるというより、お守りすると、いった風が、しっくり来るのだった。
そんな四郎の周りの大人達は、何故か反対にピリピリし神経質な感じがするのだった。
智三郎は、いっぺんに心を捉えられていたのだった。
弾正は、その場にひれ伏すると、ハラハラと泪を流した。
「良く、戻られましたね。」
その声には、慈愛が溢れていた。
「ご覧ください。
徳川に捉えられていた者達です。
今はこの者達の中に、閉じ込められていますが、覚醒するのは、この後、直ぐかと、思われます。
まさに、四郎様の予言通りです。」
「こんな若い子供の中に、彼らは居るのですね。
辛かったでしょう。」
弾正は、ひれ伏したまま、泣き崩れてしまった。
蟷螂が、ボンヤリと四郎を、見つめている。
他の少年達も四郎に魂を吸われたようだ。
呑舟が、突然叫びだした。
「お久しゅうございます。
今生では、お会いする事叶わぬと、悔しさに鬼の腹を蹴りまくってまいりました。」
感極まったのか、呑舟も又、泣き始めた。
嗚咽をしながらも、呑舟の口上は、彼らを囲んでいた、四郎の側近の者達を慌てさせた。
「お役目、どうかお果たし下さい。」
それだけ言うと、四郎は立ち上がり、その場から立ち去って行った。
興奮している呑舟とサメザメと泣く弾正とその場に残された。
額当てが泪で濡れた弾正が、縛り直す時、その片目は白く濁り、縦真一文字に刀傷が深く刻まれていたのを、智三郎は見逃さなかった。
ボンヤリ、霧の向こうで、弾正が自らの片目を短刀で切りつけている絵が浮かんだが、智三郎の覚醒はそこまでだった。
紙鶏がわなわなと打ち震えだした。
「わかりました。
それでは、家康同様、孫も床に着いて頂きましょう。」
紙鶏の左肩から立ち昇る靄が、黒々とした、尾長鶏に形を整えだした。
「おー、それは病告げ鶏か。」
弾正の顔が明るくなった。
「お忘れではなかったのですね。
これが床に着けば、何人も床から上がられなくなります。
直ぐに飛ばします。」
紙鶏が口の中で何事か呟くと、恐ろしい鶏は、音も無く靄に戻り、何処やら消えて行った。
「どれ、私も加勢いたしましょう。」
雷雁は印を結び、やはり唱え出すと、どんな離れた場所にも、雷を落とせると言うのだ。
江戸城は、晴天の霹靂に見舞われていた。
空から何百という雷が落ちるのだが、雨一つ雲ひとつ無いのだ。
その頃、富士の向こうを群れで飛ぶ雁がいた。
それらが口から、光を放っていた事が江戸に届くのは、その三日後であった。
円明は、江戸城内でくるくる回る摩訶不思議な吊るし火をあちこちに飛ばし、あらぬ所に火事を起こし、城内を混乱させた。
響蛾は、人の声を拾い、別の場所で響かせていた。
松煙は、物の怪に打ち震え暗闇を怖がる者達の手にした松明の火を煙だけにし、夜道の途中で立ちすくませていた。
狗神は、影の様な姿で走り回るだけで、怪異に慄かせ、所構わず、噛み跡を残した。
剣竜は、壁といわず、柱といわず、張り付き、通る者の手や脚をサッと切りつけていたが、その切り口からは、一滴の血も出ないのだった。
呑舟は堀を泳ぎ、鯉でも鮒でも鴨でも構わず、幻の口で、呑み込んで行った。
その水飛沫は、堀に掛かる太鼓橋より、大きいと、噂が飛んだのだった。
江戸城の怪異は、止むことを知らなかった。
枕元に黒鶏がその長い尾を振りながら、居座っていたので、将軍と言えども、床から起き上がることは出来ないでいた。
近習の者達が次々と病に倒れ、城は混乱していった。
見知らぬ病に、高僧の祈祷が、行われていたが、一進一退、何ともしがたいのだ。
そんな中で、蒼炎は、我が力をはかりかねていた。
弾正も仲間の者達も、深く眠っているだろうとか、まだ出番ではないのだろうとか、言ってはいたが、外見は元服前の少年でも、彼らの中身は、1度死んだ幻術使いや妖術師なのだ。
智三郎の居場所は、なくなっていた。
蟷螂も同じであった。
女と見紛う、容貌がかえって痛々しかった。
2人は、前世の人格が蘇らないのだ。
やがて、徳川の間者ではないのかと、噂が囁かれだしたが、身の潔白を表すものは、ただひとつ、伏せ字だけであった。
だが、そんな2人を四郎は気にかけてくれていた。
数々の反対を退け、側小姓にしたのだ。
弾正も四郎様には、逆らえなかった。
煌びやかな着物に大振りのクルスを胸に下げて、村々を回り、その教えを説いていく四郎の姿は神々しかった。
智三郎も蟷螂の梅乃香改め新九郎も、そんな四郎についていくのが楽しく、自然と経典を、覚えていった。
字の読めない者に、絵巻物をこさえてはと進言したのは、新九郎だった。
やがて門外不出の経典が作られ、四郎の教えは、隅々まで行きわたり出していたのだった。
江戸の怪異と病は、まだまだ止まなかった。
そんな中、紙鶏が泡を吹いて倒れた。
呪い返しだった。
その顔には、焼鏝を押された様に赤黒く爛れ、十文字が刻まれていた。
そこから湧いた見たことの無い蟲が蠢いて、周りの人間を熱病に陥し入れていったのだった。
紙鶏は、蟲ごと、深い穴の中に落とされ、埋められたが、熱病は続いていた。
四郎が祈りでそれを鎮めた。
四郎の教えは益々、人々を魅了していくのだった。
弾正は、江戸城を混乱させていた残りの者達を引き揚げさせた。
時期が整ったのだ。
それから半月、病に伏せて床から起き上がれない、将軍家光を尻目に、西のはずれで、一揆の声が上がった。
その上、それは四郎を押し立てた、宗教をも、全面に出していたのだ。
江戸や大阪、京都辺りと違い、都から遠ければ、何となくお目溢しがあったのだが、一揆を企てられては、眼を瞑っている訳には行かなかった。
病の床から、討伐命令が下がった。
そこから、徳川と四郎達の戦いが始まった。
農民という、隠れ蓑の中で、元武士達が中心となり、闘いは混乱を極めた。
呑舟は、その名のように、湾に現れた敵方の舟を沈めた。
雷雁の雷があらぬ所から落ち、徳川の隊列を崩すのだ。
敵方の本陣に潜み、剣を振るっていた剣竜が、「ぎゃ。」っと、叫ぶと、十文字に焼かれて、倒れた。
弾正が術を、返されていると、四郎様に告げていた。
優しげな四郎の横顔が曇る。
この頃に成るともはや、どちらも降ろした拳の行き先は、要として知れなかった。
次第に、戦上手な徳川勢に押され、四郎達はジリジリと後退して行ったのだった。
それでも、徳川勢の討伐隊を、奇怪な術で、苦しめた。
思ったよりも長引いた戦いに、事後処理として、この地に向かっていた松平信綱は、弾正の裏切りと、それを迎え撃つ術者服部半蔵の闘いに、その采配を上げなくてはならなくなった。
前任者達は討たれ深傷に倒れていた。
地上の戦いは血も出るし骨も砕け、眼に見えるが、術者同士の闘いは、遥か彼方の雷鳴を聴くのに似ていた。
知恵伊豆と呼ばれた、信綱が戦の指揮をとると、徳川勢は盛り返し、四郎達を城の中に追い込んだのだった。
そこから、睨み合い、小競り合いの籠城が、はじまる。
そもそもが、年貢の重さに耐え切れず起こった一揆だったが、今や四郎達を全面に出して、教義の自由を叫んでいた。
籠城する城の中は、浪人崩れの武士達と農民の対立が検挙になっていった。
徳川から上げられるのは、他国の教義など、許すまじという、怒声であった。
それに、上手く応えられず、グズグズしている間に、城から出ての戦いは難しくなっていった。
手練れの者達は、矢を浴び刀傷をおい、片手、片目で、城に籠るしかなくなっていた。
四郎の術でも、流石に何百人を一度に守ることは出来ないのだ。
傷が膿み、血を流し、えも言われぬ臭いが、城中を包み込んでいた。
少年達の中で、目覚めた術者達も、長引く戦いに、疲れ傷ついていた。
相手にも、術者はいる。
隙を見せれば、十文字が襲ってくるのだ。
呑舟の身体には、百足が這った如く、十文字が所狭しと刻まれていたが、それをことごとく焼き、蟲の湧くのを食い止めていたが、術自体は、使う事が出来なくなっていた。
徳川方は、そうして、一人一人潰してくるのだ。
術だけではない。
松煙は毒矢で身体中が腫れ、膿を出し、余命いくばもないのだった。
四郎について回り、智三郎と新九郎はそれらの者達を見回ったが、昼夜ない闘いに、疲れ果てるのだった。
やがて、兵糧がそこを尽き出してきた。
その頃に成ると、智三郎は四郎にゾッとしていた。
白旗を掲げても、降参し生きる道を探らないかと、言って来た者を側近が殴り殺したのだ。
自ら手を下さなかったとはいえ、余りな仕打ちである。
四郎はニコニコと傷に苦しむ者を助けるだけで、この窮地を打開しようとはしなかったのだ。
なんと、ただ流される笹舟の様だ。
あの優しさも人を魅了する微笑みも、怖い。
考えれば、次々と人が死んでいっている。
智三郎は弾正に疑問を打ち明けた。
「まだ、目覚めないのか。
そんな者に、我が主人、四郎様が判るか。
教えてやろう。
この眼を潰して、あの者にかけたのは、豊臣秀吉公のおん魂を転生させる術じゃ。
あの方は、天草四郎時貞様は、秀吉様をその身に宿らせておるのじゃ。
あのお力は、そこから湧いて出ておるのじゃ。」
智三郎と共に聞いていた新九郎も唖然とし、瞬きも忘れていた。
「で、では、これは豊臣再興の戦なのですか。」
「天下を手に入れたなら、今度こそ、朝鮮にわたり、果ては西の大国も、太閤殿下の足元にひれ伏させるのじゃ。」
額当てをむしり取って現れた、濁った白目が、刀傷と共にギラギラと光っている。
そこに、十文字が襲って来た。
ぎゃっという叫びと共に、弾正が階段の上から下に転げ落ちていった。
四郎とその側近が足音も荒く現れた時、すでに遅く、弾正は首の骨を折り、その屍をさらしていた。
ガクガクと震える2人に、下から側近が何か怒鳴っていたが、余りにも気の動転してる、智三郎と新九郎には、届かなかった。
何のことはない。
2人は地下牢に閉じ込められた。
弾正に焼きついた、十文字の焼印も、2人の無実を証明してはくれなかったのだ。
皮肉な事に、牢に繋がれているのは、智三郎と新九郎のただ2人だけで、牢番も見回りも誰も居なかった。
この先、どうなってしまうのか。
負け戦になりつつあったので、何も考えられなかった。
弾正の最後の言葉が、2人をがんじがらめにしていた。
門番がいないので、灯りを灯す事も出来ず、薄暗がりの中、今が昼なのか夜なのかも、わからなかった。
水も食料も尽きていたので、どのみち餓死が待っている。
新九郎が口を開いた。
「あまねく術者が揃っていたが、我が術は、忘れられていたようだ。
蟷螂の術とは、そもそもが人を惑わし、本当の姿形を変えて見せるもの。
色香で女より美しく化け、唄い踊るのが我が術だったのだ。
蟷螂の鎌の如く、戦うのには本当に不向きであった。」
新九郎はそう言うと、胸を掻きむしった。
そこには、深々と十文字が現れ、それっきり
意識を失ってしまったのだった。
智三郎の足元には、痘痕顔のしなびた瓢箪の様な、黄ばんだ男が倒れていた。
必要以上に長い骨ばった手は、蟷螂の鎌の様にも見えた。
歳も、少年には見えず、誑かされていたのがよくわかる。
新九郎は、出会う前から開眼者だったのだ。
生まれた時から術を使っていたのだろうか。
智三郎、ただ1人、未だ転生が、なされていなかった。
弾正が、徳川方の間者と訝ったのは、仕方のないことだろう。
だが、このままだと、新九郎から蟲が湧く。
蟲が湧けば、城の者達に迷惑がかかる。
懐の火打石を使い、何とか火を起こそうとしたが、中々思う様にはいかない。
小さな火の粉が、新九郎に飛んだ。
そのしなびた黄色い皮膚に、ジュッと音が聞こえた。
みるみる燻り出すと、あろう事か、新九郎が燃えだした。
その火は、見えないのだが、燃えているのはわかった。
その火の中から、滝の水を集めた様な馬が一頭、立ち上がった。
そうだった。
蒼炎は、馬の名前だったのだ。
馬が放つ色のない炎が、新九郎を焼き尽くし、牢の格子も焼いた。
揺らめく鬣を智三郎に押し付けて来たが、熱くも何ともない。
全てを察した智三郎は、愛おしげに、馬の背を撫でた。
智三郎はそのまま、馬の身体の中に溶けて混ざったのだった。
蹄の音がするが、誰も蒼炎の炎の馬の姿は見えないのだ。
籠城している城を地下牢から焼きながら、蒼炎は天守閣に駆け上がって行った。
そこには、美少年の姿をかなぐり捨てた、秀吉が、天草四郎時貞と二重写しになって、怒りに任せて、怒鳴り散らしていた。
何者も、蒼炎の火からは、逃れられないのに。
「何だ、蹄の音がするぞ。」
側に仕えているものも今はいない。
下で、蒼炎の火に包まれてたのだ。
智三郎は、馬として嘶いた。
「馬か、馬がいるのか。」
「風早蒼炎智三郎ぞ、秀吉。」
秀吉の顔が歪む。
そこには柔和な、四郎の面影は無かった。
「貴様、我が主人、信長公を焼き尽くした妖術使いだな。
姿を現せ。
この秀吉様が直々に成敗してくれるわ。」
秀吉の前に、水の様な炎に包まれた馬がスックと現れた。
揺らめく炎の中で、色の無い馬の身体が揺れながら浮かんでいる。
「不埒者が。
天子様の神馬、蒼炎なるぞ。
人の世の惑わせの術ごときで、この浄化の炎を絶つことはできぬわ。」
蒼炎智三郎が、嘶いた。
「後少し早く、この身をこの世に蘇らせ、お館様の悲願を今一度、この秀吉が、、、。」
蒼炎の火は、瞬く間に、四郎だった肉体から、皮も肉も血も筋も焼き尽くし、骨さえも焼き尽くしたのだった。
城は焼け落ち、そこからは、秀吉の転生していた、天草四郎時貞以外の人々の骨が、残されていた。
ただし誰1人、髪も眼も爪さえも残してはいず、まさに骨だけであった。
余りの不気味さに、松平信綱は、残された髑髏や手足の骨の全てを、打ち壊させ、バラバラに砕かせた。
燃えた城跡を掘り、粉々に砕けた数百の骨を、そこに埋めたのだった。
骨を砕き埋めるのに集めかられた近隣の村々の人々は、徳川の残忍なやり方に、恐れをなしたのだった。
籠城した一揆の者達を女子供もことごとく、火炙りにし骨にして、砕いてから埋めたのだと。
服部半蔵の采配の元、骨しか残らなかった事実は、内々に済まされたので、これ以上の怪異は人の口には登らなかった。
蒼炎は翔。
その火の仕えるべき、天子様の元に。
ただ1人生き残った智三郎もすでに人の世には、戻られない。
その命の長さがある間、蒼炎と共に、天子様の元で暮らすのだ。
徳川家光が病の淵から、目覚めその枕元に、松平信綱が勝利を知らせたのは、この直ぐ後の事であった。
徳川の最後の一揆が静まり、この豊穣の国に、新しい時代がようやく幕を開けたのだった。
今は、ここまで。