ディープ・サウスの夜
30年ぶりの同窓会というのはなかなか照れくさいものだ。
卒業以来合っていない人がほとんどだし、自分が当時どんな高校生だったかすら記憶が定かではない。どんな風に話していいかから、まず戸惑ってしまう。
同じ空間で、同じ楽しみや痛みを感じ、同じ焦燥や不安に苛まれ、同じ退屈と戦っていた仲間たちを、それぞれまったく違う場所へと運んで行くのに、30年という歳月は充分な長さだった。
勿論、容貌の変化についても、30年という時間は容赦がない。18歳が最後の記憶となると、48歳の姿はほとんど原形を留めていないように見える人すらいる。
そんな中、陽子は見事なほど若さを保っていた。
クラスのアイドル的存在で、高校在学中も今で言う読者モデルようなことをやっていたこともある陽子は、体型も肌艶もとても50歳を目の前にしているようには見えなかった。
「陽子、全然変わって無い」
そんな声が陽子に向かって次々かけられていたのは、しかし少し遅れて沢田が現れるまでの事だった。
沢田は、若さを保っているとかそんなレベルを超越していた。
一次会の会場となったホテルのパーティールームに少し緊張しながら入って来た沢田は、高校時代とほとんど変わっていなかった。若づくりの中年ではなく、確実に二十代の若者だった。
初めは誰もが会場を間違えた別のパーティーの参加者だと思った。しかし、目の前にいる男は間違いなく沢田正巳で、容姿にほとんど変化が無い分、むしろ会場にいる他の誰よりもそれは確実に思えた。
当然、沢田は登場と同時に会場の話題を独占する事になる。
「なんだよ、お前それ」
「まったく変わってないじゃないか」
次々と浴びせられる疑問に、沢田は「まあ節制してるからかな」などと理由にならない答えを返しながら曖昧に笑うだけだった。
沢田がようやく若さの秘密を語ったのは、私を含めた7,8人で流れた三次会での事だった。
静かなバーに落ちついた私たちは、改めて沢田を問いただし、沢田は、少し長くなるぞ、と前置きの後話出した。
高校卒業した後、二年ほどアルバイトなんかで金を貯めて、アメリカに行ったんだよ。語学留学って名目でな、ほとんど遊びに行ったようなもんなんだけどな。
バブルの名残が残る余裕ある時代の話だ。
西海岸を皮切りに、二か月ずつくらいの短い期間で受け入れてくれる学校を探しながら、いくつかの街に行ったよ。行ってすぐにサンフランシスコで免許を取って、安い中古車を買って、最低限の荷物だけ持って街から街へ流れて行くのはほんと楽しかった。英語は学校よりももっぱら旅行で覚えたようなものだったな。
ある日、メンフィスの学校を修了して、セント・ルイスに向かっていたんだ。
アメリカで暮らし始めてから8,9ヶ月ってとこだったかな。生活にも慣れて英語にも自信が出て来て、一番危機感が薄くなる時期だ。その頃は移動もフリーウェイなんかじゃなく、ローカル道路を選んで走ったりしてたんだ。
あの辺はバイユーなんて呼ばれてる南部の湿地帯が広がってるんだけどな、住んでるのは黒人がほとんどで、ダイナーで食べれるのはソウル・フードに、教会もバプティストのものばかり。アメリカの中でも独特な雰囲気の土地柄だった。
アメリカには日本の車検にあたる制度が無いから、中古車の中には相当なボロも多かったんだけど、俺が乗ってた車もかなりのものだった。何年前の型か分からないようなフォードのピックアップトラックだったんだけど、頻繁にトラブルを起こして修理屋を探して右往左往したよ。
夜中に近い時間に田舎道で突然車が止まった。
ボンネットを開けてみると同時に、煙幕みたいに水蒸気が噴き上がった。エンジンが焼ける寸前だったらしかった。長い移動の時は余分に水を持ってはいたんだけど、その日は朝から蒸し暑くて運転しながら緊急用の水をだいぶ飲んじゃってたんだ。どこかで水を手に入れようと見まわしたんだけど、道路の周囲は真っ暗なジャングルが広がっていて、水を売ってるような店なんかもそこまで走って来る間まったく見かけなかったのを思い出した。けっこううんざりするシチュエーションだな。
仕方なく、俺は水のボトルを持って、水を分けてくれそうな民家でも無いかと歩き始めたんだ。
バイユーの湿気ってのは、日本のものとはだいぶ違うんだ。日本のものみたいにしつこく体に絡みついて来るような不快さは無いんだけど、空気中にたっぷりと含まれた水分が、今にも零れ落ちて来そうなほど湿っていて、そしてその水分が、仄かに甘い香りを放ってるんだよ。
道路に両側から迫って来るジャングルの中から、鳥なのか獣なのか分からないけたたましい鳴き声が聞こえてくるし、どこかに川が流れているのか、時折何かが水に飛びこむような音が聞こえてくる。水辺にはワニなんかもいるらしいし、正直かなり怖かった。
30分くらい歩いた頃、道沿いに郵便受けを見つけた。郵便受けはかなりボロくて、通りがかりの車が暇つぶしに標的にしたのか、いくつもの弾痕で穴だらけだったんだけど、どうやらまだ現役で使われてる物っぽかった。
郵便受けの横から、細い道がジャングルの中に向かって続いているのを見つけた。勿論舗装なんてされていないほとんど踏み跡みたいなものだったんだけど、道の続く先を透かし見ると、ジャングルの中に灯りらしきものが見えたんだ。
そこで水を分けて貰えないかって思って、俺はその小道に入った。
ワニやヘビは怖いし、何よりもそこにどんな人が住んでいるのかまったく分からない。俺がこの場所にいる事を知っている人が誰もいないってのもあったし、忘れかけていた異国での不安を久しぶりに思い出したよ。いっそのこと車まで引き返して朝まで車内で過ごして、朝になってから通りがかる車に助けを求めようかとも思ったけど、それはそれで怖いんだな。これも経験だって自分を鼓舞して、俺はさらに小道を奥まで進んだ。
家の前には、俺のトラックよりもさらに古そうな赤いワーゲンが一台停まってた。まあ元は赤だったらしいって程度の赤さで、塗装はほとんど剥げて錆だらけで、もしかしたらとっくに動かないのかもしれなかった。
家は、映画なんかでよく見る様な典型的な南部の木造住宅で、三段ほどの階段を登るとポーチがあって、そこにブランコベンチが下がってた。窓からは灯りが漏れていて、どうやら人が住んでいるのは確からしい。
俺はいきなり撃たれたりしないよう、大声を出しながら家に近づいた。
「すみません、旅行中の留学生なんですけど、水を貰えませんか、車が急に止まってしまって、水が必要なんです。セントルイスの学校に向かってる学生です」
って途切れることなく話し続けた。
こっちも住人の事が怖いけど、住人は夜中の突然の訪問者を俺以上に警戒するのは当たり前だしな。とにかく、留学生ってのを強調したよ。危険が無さそうな響きがあるだろ、留学生って。少しして、玄関のドアが開く音がした。俺はノックをするのも威圧的なんじゃないかって思って、ポーチの下から呼びかけてたんだけど、スクリーンドアの内扉が開いて、中から「灯りの下まで来て顔を見せな」って声が聞こえた。
「一人かい」
しわがれた、かなり高齢に思える女の声だった。
「はい。一人です。セントルイスに行く途中の留学生なんですけど、車が止まってしまって。水を分けて欲しいんです」
俺は説明を繰り返した。室内は玄関の灯りよりさらに暗くて、話してる女性の姿も、中の様子も伺う事が出来なくて、不安なせいもあって、随分早口で捲し立てるようになってしまった。
少し間があって、スクリーンドアが開いた。同時に「入んな」と声がした。
「ありがとうございます」
丁寧にお礼を言いながら家に入ると、家の中は外よりずっと濃い湿気と熱が籠っていて、お香のような香辛料のような臭いが鼻の奥を刺激した。玄関を入るとすぐに大きな部屋で、今まで住人が座っていたらしいロッキングチェアが部屋の真ん中で揺れているのが目に入った。住人は、俺に背を向けたまま部屋の中央まで歩いていき、揺れていたロッキングチェアに座った。恐らく今の俺たちと同じくらいに見える年齢の、黒人女性だった。
真っ黒なローブみたいなゆったりとした服を着て、アフロともドレッドともつかない赤毛の下、肌よりもなお黒い目が、俺を見た。
「夜遅くにすみません。水を分けて下さい」
俺が言うと、女性はそれには答えず、ロッキングチェアの前に置かれた年季の入った円型の木製テーブルの上に置かれた箱から、茶色の細い煙草を取り出すと、マッチを擦って火を点けた。
その時初めて気付いたのだけど、部屋には人工の灯りが一切無く、照明は無数のロウソクだけだったんだ。大きさも長さも様々なロウソクが、円型テーブルだけじゃなく、部屋の右手奥にある食卓らしきテーブルにも、壁にいくつも造り付けられた棚にも、所狭しと置かれていた。そして、食卓とは反対側、玄関から見て部屋の左側のかなりのスペースに祭壇のような物があり、特にその前にはたくさんのロウソクが並んでいた。祭壇には、布製の茶色い人形が一体置かれていて、その前の小皿に、何かは分からない黒い棒状の物が供えられていた。
「私は、エヴァ」
女性が名乗った。
「あ、トモミ、サワダトモミって言います。日本人です」
俺も名乗ると、女性は眉を上げ、少し驚いたような顔をした。
「ほお。日本人かい。珍しいね。初めて見たよ」
「留学生なんです。セントルイスの学校に行く途中で」
さらに同じ説明を繰り返す。
「水がいるんだろ。キッチンで好きに汲むといい」
「ありがとうございます」
俺はお礼を言い、キッチンに行って、水道からボトルに水を汲んだ。
キッチンもかなり古びていたけど、綺麗に整えられていて、食器も棚にきちんと並べられて、ちょっと意外なほど清潔だった。棚には見た事の無い調味料やスパイスが並んでいたのをよく覚えているよ。キッチンの佇まいから、女性は一人暮らしのように感じた。
水を持って部屋に戻り、もう一度お礼を言おうとすると、俺が口を開くよりも前に、エヴァが言った。
「急いでいないなら、お茶でも飲んでいきな。紅茶を入れてあげるよ」
「あ。ありがとうございます。頂きます」
勿論俺は急いでなんていなかったし、こんな体験は中々出来ることじゃないし、結局若かったんだろうな。その申し出を喜んで受けたよ。
「そこに座んな」
エヴァが自分の向かいに置かれた籐の椅子を指差した。俺が座ると、入れ代わりにエバがキッチンに行き、しばらくして美しい陶製のポットとカップを持って戻って来た。
「これは特別な紅茶だよ。味わって飲みな」
カップに注がれた紅茶は、赤よりも茶色に近い濃い色で、口を着けるとねっとりと絡みつくような感触だったのだけど、独特の苦みの中に柔らかい甘味と、フルーツのような爽やかな香りが混ざり合って、すごく後を引く味だった。
「美味しいです」
すぐにカップの紅茶を飲みほしてしまって、俺が言うとエヴァは目を細めながら、お代わりを注いでくれた。
「エヴァさんは一人で暮らしてるんですか」
「ああ、もう随分長い間一人よ」
「こんな場所で一人暮らしじゃ、不便じゃないんですか」
「いや、もう慣れたものさ」
エヴァは自分のカップにも紅茶を注いだ。そして、それを一口飲むと、丁寧に皿の上にカップを置くと、新しい煙草に火を着けた。
「今日はね、私の誕生になんだよ」
エヴァが煙を吐き出しながら、そう言った。
「それはおめでとうございます。何歳になったんですか」
「252歳」
「え?」
「252歳だ。随分歳を取ったものよ」
俺は当然聞き間違いだと思ったよ。でも、確かにハンドレッドって聞こえたんだ。その時、急にこの家に向かっていた時の不安が蘇った。どんな住人が住んでいるか分からない。その不安を思い出して、落ちつかない気分になった。当然だよな。真夜中のアメリカ深南部で、一人暮らしの少し頭の怪しい黒人女性と二人で紅茶を飲んでいる状況が、異様な物に思えてきたよ。
「いくらなんでも冗談ですよね。本当は何歳なんですか」
「本当に252歳さ。十五歳でこの国に連れて来られて以来、この国の歴史のほとんどを見届けて来たのさ」
「その前は」
「アフリカの西側にある小さな村に住んでいた。私は村のシャーマンの家系でね」
「シャーマンって、ブードゥーですか」
俺は祭壇にある人形に目をやりながら聞いた。
「そんな風に呼ばれている土地もあるようだね。この国に連れて来られる時、一緒に精霊も着いて来てくれたのさ」
エヴァはそこで一旦言葉を切ると、少し遠い記憶を辿るように虚空を見つめる。
「ひどい時代を乗り切れたのは、精霊のおかげだわ」
エヴァの話が真実かどうかは別にして、相当の苦労をしてきたことはきっと本当なのだろう。その顔には、それ相応の年輪が刻まれているように見えたし、その年輪は決して軽い経験から刻まれたものでは無いような印象だった。
なぜか、不安な気持ちが薄れていた。俺は少しばかり頭がおかしくても、この女性のことがなんとなく好きになっていた。
その後、俺は随分エヴァと話をしたよ。
エヴァは少女の頃に見た故郷の村を囲む砂漠に沈む夕日がどれだけ大きかったかを語り、俺は日本の生まれ育った街に冬にはどれだけの雪が積もるかを話した。
田舎で子供の頃によく作ったオシラサマの折り紙を手近な紙で折ってやると、エヴァはすごく喜んだよ。エヴァはそれを丁寧に押し抱いて、祭壇の人形の隣にそっと置いた。
ブードゥー人形の横にオシラサマが並ぶ光景が、なんだか微笑ましいように思えてくるくらいに、いつの間にか俺はその部屋でリラックスしていたんだ。
外から鳥の声が喧しいくらいに聞こえてくるようになって、窓から白んだ光が薄らと差し込んで来て、いつの間にか夜明けが近い事に気付いた。
「そろそろ出発します。本当にありがとうございました」
俺が言うと、エヴァは一瞬だけ、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「そうかい。楽しかったよ。あんたのおかげでいい誕生日になった」
「そんな、こっちこそ楽しかったです。紅茶も美味しかった」
「お礼に、もし望むなら、あんたにも精霊の祝福をあげよう」
エヴァが少しの間何かを考えた後、そう言ったんだ。
「祝福?」
「そう。私と同じようにね」
「同じようにって」
「他のものより、ずっとゆっくりと生きる事と向き合えるのさ」
「それは、ぜひお願いしたいです」
勿論エヴァの話しを信じたわけでは無かったけど、この体験の締めくくりに精霊の儀式はいかにも相応しいように思えたんだ。
エヴァは、俺の前の空のカップに、煙草箱から取り出した粉末をサラサラと流し込むと、ポットから半分ほど紅茶を注いだ。そして、カップの上に手をかざすと、目を閉じて、口の中で呪文のような物を唱えたんだ。
その姿は、実際すごく敬虔な雰囲気だった。それを見ている俺も、なんだか身が清められるような気持ちがしたよ。
「さ、それを飲みほしな」
言われるままに紅茶を飲むと、それは今までの物とは違って、すさまじい苦さで口から喉、喉から胃へと流れて行くに従って熱さを増して、胃の中でマグマみたいに沸騰してるような感覚だった。
「うえっ」
俺がえづくと、エヴァは声を上げて笑った。
「苦いだろ。それでいい。あんたも精霊に気に入られたみたいだな」
車に戻ってラジエーターに水を足すと、エンジンは拍子抜けするほど簡単にかかったよ。
その後メンフィスで数ヶ月、結局あと一年ほどアメリカで過ごして、俺は帰国した。
そんなわけで、俺はほとんど歳を取ると言う事が無いんだ。
沢田が長い話しを終えた後、私たちは少しの間誰も口を開かなかった。誰もが「そんな馬鹿な」と言う言葉を飲み込んで、それ以外の言葉を見つけられなかったのだ。
その日以来、沢田とは会っていない。会がお開きになっても盛んに沢田に連絡先を教えてくれとせがんでいた陽子は、もしかしたら会っているのかもしれない。今頃陽子は、メンフィスからセントルイスの間を、エヴァの家を探して車で走り回っているかもしれない。
私は精霊の祝福を欲しいとは思わなかったが、ただ別れる時に沢田が笑いながら言った「それじゃあ、また30年後に同窓会で会おう」って言葉を楽しみに、せめてそれまでは長生きをしたいものだと思っている。そして、その時も沢田は本当に歳を取らずにいるような気がしている。