超深層236階
85、超深層236階
「見ろよ、瀬山綾」
なぜだか神は嬉しそうだった。彼は236層の片隅にある階段を指差していた。
「ご丁寧に下り階段を用意しているぞ。人間の出入りを想定していない超深層だというのに」
綾はそれが特別なことであるという先入観に欠けていたので、無感動だった。そんな彼女を見て神はつまらなそうにした。
「なんだ、思ったより淡泊な女だな。俺がお前の立場だったら、見るもの全てに感動しただろうに。お前は異世界から流れ着いて、せいぜい数週間しか経っていないのだろう」
「そうですね。でも何もかもが新鮮な体験なのに、ほらこれは普通じゃない、と言われても、私にとっては大抵が普通のことではないので……。特別なリアクションはできません」
「それもそうだな」
神はあっさりと綾の意見を認めた。そして深々と頷く。
「超深層には階段がない、というのは誤った認識だったのかもしれない。階段が存在しないのは200層から数十層だけのことで、それ以降はずっと階段があるのかもしれない」
「でも、階段があるということは、誰かがそれを利用することを想定して設置されたということですよね。……ここって抗体以外に存在しないし、抗体は階段なんて使わずともあちこち移動できるし、どうもおかしいですね」
神はふうむと顎を撫でた。そして階段の奥を覗き込む。綾もそれに倣った。そこには茫漠とした闇が広がっている。
「さっきの小柄な男。あいつが使っているのかな」
「いったい誰なんですか、あの人」
「知るかよ。抗体ではなさそうだったし、精霊でもない、となると人間だが、人間がこんなところにいるはずないし、俺たちに敵対する意味も分からない」
「精霊騎士ですか?」
「その可能性が最も高いが……。どうも違う印象を受けたな。まあ、直接本人に尋ねるのが確実だし、そうするか」
神は階段を降りようと片足を闇の中に突っ込んだ。あの男がまだこの階層にいたらどうするのだ、と綾は思ったが、神は気にする様子がない。
「俺たちに奴の幻術は通じない。もしまだこの階層に留まっていたら間抜けにも程があるし……。仮にも俺は制圧部隊の長だ、その辺は抜かりなく探査した」
「いつの間に……」
「いや、俺、レーダー系は苦手なんだけどな。まあ、大雑把にフロアを見渡してみたが、何もなかった」
「大丈夫なんですか。さっきの男の目的が、精霊が星の霊力を食い荒らすまで時間を稼ぐことだったら、私たちの主戦力はものの見事に足止めを食らっていることになります」
「そうだな……。じゃあ、お前、もう一度このフロアを見て回るか? 時間がないのは承知している、その貴重な時間を割く価値があるとでも」
「それは……、何を重視するかで変わりますよ。確実に行くか、先に逃げたかもしれない男を追いかけるか」
「分かってるじゃないか。俺が何を重視しているのか、お前は理解したな? どうする」
綾は少し考えた後、答えた。
「神さんの決定に従います」
「ふん、最初からそうしていればいい」
「でも、一つ言わせてください。この階段があの男の移動手段として存在しているなら、あの男は階段以外の場所で階層を移動することができないということになります。でも、さっき男は地面に溶けるようにして消えた」
「何が言いたい」
「この階段、とてつもなく怪しいです。下層へ下層へと進むことに異議はありませんけど、この階段、使いたくないです」
神はしばらく考えていた。そしてゆっくりと頷く。
「いいだろう。敵は幻術を使う。さっき志村を殺しかけた幻術以外に、別の術が存在するかもしれないしな」
神は懐から小型の杭打ち機を取り出した。それは超深層攻略の為に攻略組が開発した高性能の階層間破壊装置で、驚くほど簡単に地面に強固な杭を打ち込むことができる。動力はもちろん霊力だった。
「ものの数分で地面に穴を開けられるだろう。瀬山綾、周囲を警戒しろ……、俺はこいつに霊力を注ぐ必要がある」
杭打ち機が地面に皹を入れ、杭の尖端に装填された爆薬が小規模の爆発を繰り返す。そうして次々と地面を砕いていく。綾は土煙を避けるようにその場を離れた。
その場を離れたと言っても、もちろん神と互いに目視できる距離を保っていたし、神に言われた通り最大限警戒していた。
だから、当然のように壁際に人間がいることに気付いたとき、綾は酷く驚いた。すぐに取り出せるようにしていたはずの竜剣を構えるのが遅れ、その人間の失笑を浴びた。
「なるほど、お前が例の異邦人か……」
その者は男のようだったが、闇に紛れていて輪郭が定かではない。綾は剣を構えつつも神に呼びかけた。
「誰かいます……、神さんの知り合いじゃないですよね?」
男から目を逸らさずに声を張った。返事がない。綾はもう一度呼びかけたがやはり無視。
思わず神のほうを見た。しかしそこには闇が広がるのみだった。
「えっ」
綾は自分でも気付かぬ間に闇に覆われていた。そこは先ほどまでいた洞窟のフロアではなく、上も下も分からぬ黒に塗り潰された空間だった。
代わりに、闇の中に没していたはずの男の輪郭がくっきりと見えるようになっていた。長身痩身の男。白髪混じりの長髪だが、まだ年若いように見える。先ほど逃げた矮躯の男とはまた別の人物だ。闇の中、照明も何もないのになぜか視認できる男の姿は、異様な存在感を放っていた。
「誰ですか、あなたは……」
「お前よりもこの世界に馴染み深い存在だよ、異邦人」
「……誰だと聞いているんです」
男は肩を竦めた。
「私はただの敵だよ、お前たちのな……。この答えで十分だろう、全力で私を殺しにこい」
綾は竜剣を構えたままにじり寄った。汗をかいていたが緊張の熱ですぐに蒸発してしまうような、そんなひりついた感覚。綾は男を睨みつけていた。
「どうした。来ないのか。それとも踏ん切りがつかないのか」
男はゆっくりと横に動いた。次の瞬間、視界から消えた。綾は辺りを見回し、背後に男が佇んでいるのを見た。
「ならばお前に戦う理由を与えよう」
男の手から光が放たれる。それはまるで矢だった。綾の頬を掠めたそれは熱を帯びており、綾は掠った衝撃でよろめいた。
「どうだ、攻撃したぞ。だのにお前はまだそこで立ち尽くしているつもりか」
綾は歯を食い縛った。戦うしかない。綾は自分が人を殺したことがない事実を強く噛み締めた。千石を斬ったことはあるが死には至らなかったし、演習においても相手の安全は確保されていた。
超深層に挑む前から懸念していたことだが、自分に人間や精霊を殺すことができるのか。綾はそれが試されることを意識した。
燃えろ竜剣。
綾は突進した。男は軽く跳躍し、頭を下に、爪先を天に、体操選手のような見事な軌跡を見せる。綾は眩惑し、竜剣を振った。自分も跳躍しようとしたが、足に力を入れようとすると爪先が泥か何かにのめり込む感触があった。闇の中だったので何も分からないが……。
男は着地すると、綾を見て不敵に笑んだ。綾は竜剣を構えたが、すっかりその雰囲気に呑まれていた。
「どうした。それで終わりか?」
「そんなわけ……!」
綾はしかし、竜剣に霊力を注ぎ込もうとしても、上手くいかないことに気付いた。炎が消えている。
「ふむ、やはり人間由来の霊力は特別なフレーバーがするな。格別美味いというわけでもないが、たまにはいい」
「あなたは……、人間なんですか?」
「人間ではない。今となっては」
男が指を鳴らす。綾は闇の中から脱し、再び236層の洞窟のフロアに戻された。近くには神がいたが、何事もなかったかのように地面に杭を打ち込んでいる。綾の異変に気付いていないようだった。
「これはいったい……」
「悪いことは言わん、これ以上先に進むな。重ねて言うが、私はお前たち人類の敵だ」
けして相容れることはない。男はそう言い残すと、ふっと蝋燭の火に息を吹きかけたときのような儚さで姿を消してしまった。綾はその場にしばらく立ち尽くしていた。
今のは幻術だろうか? しかし頬の傷は幻ではない、本物だ。あの男は何者なのか。なぜ超深層に滞在し、綾たちの敵だと言い切るのか。疑問符で頭がいっぱいで、神の接近に気付かなかった。
「おい、どうした瀬山。ぼうっとして」
「あっ……」
神は呆れていたが、綾の表情がよほど切羽詰まっていたのか、心配そうな顔に切り替わった。
「本当にどうしたんだ。お前、汗をかいているぞ。それに武器なんか引っ張り出しやがって」
「……神さん、人間が超深層に長期間留まることは可能でしょうか。そこに居つくようなことは?」
「超深層に長期間留まる……? 大量の物資があれば可能だろう。だが超深層は精霊の加護がないので、食糧や水が必要になる。いずれは力尽きるはずだな」
綾は思い出していた。先ほどの男の言葉――霊力のフレーバー。
「あの、霊力を食べ物や水の代わりに摂取して、生命活動を維持するようなことは?」
「霊力を代わりに食う? まんま精霊じゃないか。そんな奴は人間とは言えない」
「精霊……」
綾はあの男の正体について考えていた。人間ではないとすると、精霊? だが人間か精霊かなんて本当はどうでもよくて、重要なのは彼が本当に綾たちの敵なのかどうか、そこだろう。それなのに、綾は彼が人間か精霊か、どうしても気になった。
「神さん、星には意思があって――星の中心部に溜め込まれた霊力を守る為に、抗体を生産しているんですよね」
「そうだが……。さっきからお前、おかしいぞ。話が飛び過ぎだ」
「星の意思っていうのは、何なんですか。本当にこの星が思考したり感情を持ったりしているということですか」
「知らねえよ、そんなこと。ただ、星に意思があるかのように様々な事象が見られることは確かだ」
「その星の意思とやらが、一部の人間の考えや謀略の表れだったとしたら、何か矛盾が生じますか」
綾の質問に神は怪訝そうにした。
「お前はこう言いたいのか……。さっき会ったチビのおっさんが、抗体を使役し、冒険者を襲わせていると」
「そう考えると、あの人が超深層で悠々と振る舞っている説明がつくと思います」
「そりゃあな……、しかし突飛な発想だ。星に巣食う寄生虫は精霊だけで十分だってのに、既に星の中枢にはあんなおっさんが我が物顔でふんぞり返っていて、霊力を吸い取り続けてたってことだろ」
神はそれきり黙り込んだ。彼なりに思うところがあるようだった。綾は神が思考を整えるのを辛抱強く待っていた。
「……瀬山綾、どうしてそんな妙な意見を持つようになったんだ」
やがて繰り出された神の質問。綾は慎重に答えた。
「さっき、妙な人に闇の中に引き摺り込まれたんです。神さんの気付かない間に。そこで、彼、霊力のフレーバーなんて言葉を使ったんです。霊力をまるで食べ物か何かのように。それで思いつきました」
「それだけじゃないだろう。全て話せ」
綾は笑われやしないかと心配しつつも、思っていたことを話した。
「私を闇の中に引き摺り込んだ人……、悪い人とは思えませんでした。どうも、そんな気がして」
「そう思う根拠は」
「分かりません。印象です。でも彼は自分を人類の敵だと言っていました」
「人類の敵……」
神はふっと息を漏らした。
「なるほど、確かに何か事情がありそうだな。お前の説が正しいかは別として」
「はい……」
「だがな、俺たちのすべきことに変わりはない。幻術遣いを見つけて殺す。そして後に控える部隊を先に進ませる。俺とお前だけで先に進んだところで、戦果はたかが知れているからな」
「そうですね」
神は穿たれた地面の穴を指差した。
「237階への道は開いた。俺たちの最終的な目標は、この先に潜り込んだ全ての精霊を殺し、この星の霊力の保全を完了することだ。いいな?」
「ええ」
綾は頷き、そしてふと思いついたことを訊ねた。
「あの、仮に超深層の攻略が全て上手くいったとして――その後はどうなるんでしょう」
「その後?」
「はい。精霊を全て倒した後、一旦部隊を引き揚げたとして――以後、たとえば日本政府は、超深層をどのように扱うつもりかな、と」
「そんなことを考えてたら兵隊は務まらないな」
神はにべもなく言った。綾はなおも訊ねたかった、神さんは自分を単なる兵隊だとは考えてないでしょうに、と。
しかし綾が何か言う前に、神が続けて言った。
「一つ言えるのは、ここは遊び場としては不十分だな。あんまり好んで潜ろうとは思えない」
「そうなんですか?」
「辛さばかり先に立って、コクも旨味もないカレーみたいなものさ。一部のいかれた人間には人気が出るかもしれないが、一般的な食事としては話にならない、そんな感じだ」
「神さんは、その一部のいかれた人間ではないんですね」
「失礼な奴だな、お前」
神は笑った。そしてふと真顔に戻った。
「いかれた奴が、今日までダンジョン内での死亡経験がないわけないだろう。俺は臆病な普通の人間だ……、ちょっとばかし優秀なだけの、ただの人間」
神はそれきり何も喋らなくなった。豪放磊落に見える彼のような男にもコンプレックスがあるのだろうか。綾は悪いことを聞いたなと思う一方、その臆病さこそ優れた冒険者の資質の一つではないかと思った。少なくとも、ダンジョン内で死んだことがないというのは、誰にだってできることではないと思う。
しかしそんなことを初心者の綾に言われるのは癪に障るだろうから、黙っているしかなかった。二人は穿たれた穴に飛び込み、第237層へと下りていった。




