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隣のダンジョン  作者: 軌条
第一部 地上へ
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豚鬼

8、豚鬼



 勝てるのか?


 綾は後退しようとした。無意識下の行動だった。だがそれは悪手と言っていい。相手のリーチはこちらの数倍はある。むしろ懐に入り込まなければ勝機はない。

 重要なのは絶対に勝つという目的意識を持つこと。それがなければ、勝機を逸し自らの退路をも塞ぐことに繋がる。綾はそれを理解していた。ここが情けや甘えが許されない場所であることは、カズマの死体を目にしたときに強烈に刷り込まれていた。恐怖や怯えの向こうに何を見出だすのか? 綾は諦念にも似た悲しみと共に、ここで踏ん張りどころだと自分を叱咤した。


 そろりと後退しかけた足を止め、むしろ前進する。豚の魔物がゆっくりと振りかぶる。その錆びた刀剣の質量は圧倒的だ。強靭な肉体から繰り出されるそれは、かすっただけでも少女の命を脅かすことだろう。

 綾は懐に潜り込もうと駆け出した。魔物は腕を小さく折り畳んで剣を振り落としてきた。軌道は読めた。だがそれに反応するだけの勘が、綾にはなかった。


 横っ飛びになったがまともに太腿の辺りに剣を喰らった。死ぬかもしれない、と本気で覚悟したが、痛みはほとんどなかった。代わりに、槍を持つ手が燃えるように熱くなった。穂先に宿る青い光が強く明滅する。

 痛みはないが全身に気怠さが襲いかかってきた。無事に着地し、豚の魔物が再び剣を振りかぶろうとするのを見ながら、自分に何が起こったのか理解しようと努めた。

 もしや、これがこの槍の効果なのだろうか。霊力を消費し、相手の攻撃をいなす――なるほど、まともに戦えず、専守防衛に徹するのが関の山の綾にはぴったりの武器だった。カズマに感謝しつつ、果たしてこの武器に攻撃力はあるのだろうかと不安に思った。


 豚の魔物に大きな隙がある。だが相手はあまりに巨大であり、カズマやユリのように超人的な跳躍などできそうもない綾は、相手の膝の辺り目がけて槍を突き出すことくらいしかできなかった。


 当たったが、相手の表皮に弾かれた感覚。要するに全く手応えがない。出血もほとんどなかった。綾は自分に勝ち目などないことを改めて理解した。

 相手の大振りを避けて、体勢が整う前に退避――しかしそれで逃げ切れるほどの猶予はなく、危険な間合いの中で逃げ回ることになるだろう。唯一の望みは相手が首と腕から出血していること。その勢いは依然弱まることなく、いずれ衰弱するだろうと期待した。しかしそれが何分後のことなのか、あるいは何時間後のことなのか、そもそも出血で衰弱するほど繊細な奴なのか、未知数なことが多かった。


 背を向けて逃げ出したかった、絶対に殺されるけれど、考えることを放棄して全てを投げ出したかった、それをしなかった自分を綾は褒めたかった。睨み合いをしたまま、その場に留まった。距離を開けることも、縮めることもなかった。そんな彼女を豚の魔物は残酷な笑みで迎えた。


「来なさいよ、豚の化け物……。みんな、あんたのことをトンキって呼んでたよね……。この世界に来て初めて食べたのがトンキの肉なんだよね。あんまり考えないようにしてたけど、もしかしてあんたって美味しいのかな……。いやほんと、考えないほうがいいんだろうけどさ」


 綾は呟きながら次の一撃を待った。トンキは剣を振りかぶったが、空いているもう一方の手で近くの壁を叩いた。


 大小の岩の破片が飛び散り、それは綾に直接危害を与えるものではなかったけれども、注意が散漫になった。振り下ろす剣に気付くのが少し遅れた。

 綾は跳び退こうと足に力を入れたが、その前に剣が眼前に迫っていた。見た目からは想像もつかないほど機敏にトンキは剣を操り、それは綾の肩に直撃した。

 

 再び槍が強く光ったが、先ほどのように痛みを全て弾き飛ばしてくれるものではなかった。綾は肩に鈍痛を覚え、衝撃も受けてその場に尻餅をついた。そして霊力を消費したからか、躰のだるさが増し、おまけに槍の青い光が完全に途絶えた。


 エネルギー切れ。次は恐らく槍の防御力は全く発揮されない。そのままダイレクトに豚野郎の攻撃を受け止めることになる。普通に考えればミンチにされる。その後喰われる。逃げなければ。


 綾はよろよろと立ち上がった。トンキが腕を伸ばしてくる。槍を振り回して牽制したがあまり効果はなかった。ニタニタと笑っている、この豚の魔物め、醜い顔だ。


 綾はそれに対してニコリと笑みを返した。豚の魔物が不思議そうにする。そして懐にあった短剣をぶん投げた。


 防御効果のあった槍より、短剣のほうが攻撃力に優っているようだった。短剣は豚の額に当たり、刺さりはしなかったがそれなりに怯ませることに成功したようだった。綾はここぞとばかりに背を向けて走り出した。どれだけ逃げられるか分からない、それでもこれしかない。


 怒りの雄叫びが背後から聞こえる。綾は肩で息しながら懸命に走った。霊力が切れるとこんなにも辛いのか、普段だったら難なく走破する距離が随分長く思えた。足が持ち上がらない。根性や気合いではどうしようもないほど疲労困憊し、豚の魔物がすぐに追いついてきた。


 綾は岩壁を背にして再びトンキと対峙した。トンキはもう笑ってはいなかった。間髪を入れずに剣を振り上げ、天井に刃先を引っ掛けながらも、凄まじい膂力で強引に押し流し、振り下ろしてくる。

 岩壁に当たって軌道が逸れたのか、綾が退避した方向とは逆のほうへ攻撃が流れた。それでもスレスレだった。あの速い斬撃を完璧に避けるだけの機動力が、綾にはなかった。トンキが冷静になり、狙いを定めて攻撃をしてくれば、あと一撃で全てが終わるだろう。


 綾は終わりの時間が近づいていることを強く意識した。空気が熱く、乾いている。喉は渇いていなかったが、無性に冷たい水を飲みたくなった。このヒリヒリした感覚は、普通に高校生をしていた頃には味わったことのないものだった。どんなに刺激的な体験も、どんなに奇想天外な事件も、このダンジョンでの探索の一瞬に優る緊張感には至らなかっただろう。


 綾は後退した。そのとき踵に何かが当たってよろめいた。転びはしなかったが、ふと視線を下げると、そこには道具袋のようなものがあった。

 はっとした。ここは例の帰還設備の近く、すなわちカズマの死体のある場所だった。逃げ回っている間にいつの間にかここまで戻ってきていたのだ。少し視線を動かせば、あの死体が見つかるはずだった。

 もちろん、今重要なのはそこではない。綾はもうトンキからは完全に視線を外して、道具袋を探った。


「あるはず、あるはず、あるはず……!」


 あった。薬瓶が幾つか。様々に色分けしてあって、どんな効果があるのか分からなかったが、この中に霊力を回復するアイテムが含まれているはず。

 ラベルもあったが、この状況ではじっくりそれを読んでいる暇がなかった。五本あった全ての薬瓶を開け、全てを飲んだ。

 すると気怠い感覚がすっと抜け、おまけに全身が熱くなった。活力が爆発的に湧いてきて、綾は言い様の無い全能感に包まれた。


 持っていた槍の穂先に青い光が宿り、霊力が回復したことを端的に示した。綾はトンキに向き直る。既にかの魔物は剣を振り下ろしていた。


 綾は横に避けた。驚くほど躰が軽かった。しかも相手の動きが緩慢に見える。恐らく反応速度も向上しているのだろう。トンキが怯んでいる。綾の劇的な変化に困惑しているのか。


 臆病な性格をしているのだな。これで退散してくれれば良かったが、さすがにそれはなかった。やがてトンキも覚悟を決めて攻めてくる。この間隙に何とかまともな攻撃手段を得られなければ。


 綾はもうなりふり構っていられなかった。


「カズマくん、ごめんね!」


 綾は走った。死体を見つけると、そこに落ちていた竜剣を拾い上げた。竜剣の剣先が赤く発光した。それはカズマが手にしていたときのような、炎に似たパワーは感じなかったけれども、確かな手ごたえがあった。これならば、一撃必殺とまではいかなくとも、ダメージは与えられるはず。


「行くよ! トンキ!」


 綾は竜剣を抱えたまま疾走した。トンキは竜剣の迫力に気圧されたようだったが、すぐに剣を振り上げ、真正面からぶつかってきた。

 綾は跳躍した。躰が軽く、体感したことのないほど高く跳んだ。まるで月面にいるかのようだった。そのままトンキの剣と竜剣をぶつける。

 叫び声と共に、トンキの剣が砕け散った。竜剣は勢いを失うことなくトンキの顔面に直撃した。炎の熱気がトンキを襲う。


 グギャアアという悲鳴がしたかと思うと、顔を押さえながらトンキが後退した。そしてよろよろと壁に凭れかかり、しばらく悶絶していた。

 トドメを刺す、という発想がなかったおかげで、しばらくトンキが苦しんでいるのを眺めていた。やがてトンキはこちらに背を向け、よたよたと退散していった。


 満腔の熱気が冷め、竜剣の光も消えた。どうやらドーピングの効果がなくなったらしい。綾は嘆息した。そしてその場に座り込んだ。


「や、やった……。何とかなった……」


 これは紛れもない勝利だった。綾は深々と息を吐いた。竜剣を使った所為か、躰がややだるかったが、問題にならない程度だった。他にも魔物がうろついている可能性があったので、警戒を怠るべきではなかったが、それでもしばらく放心していた。初めてのまともな戦闘で得られたのは、高揚感でも、実績値でも、喜びでもなく、安堵、それだけだった。


「なるほど、初心者というのに嘘はないようだ」


 男の声。綾ははっとした。辺りを見回すと、帰還装置の近くにコウキが佇んでいた。


「あっ、コウキ、さん……」

「どうも、綾。さっきは悪かったな。まあ、恨まないでくれ」

「いえ、その……。別にいいんですけど、その装置の動かし方、分かるんですよね? それとも、ユリさんを待つんですか」

「ユリを待つかって? 冗談だろ、今度会ったら殺されちまうよ。幸い、全く別方向に逃げて行ったらしいが。しかしどうしたことか」

「えっ、まさか……」

「この帰還設備、動かないな。反応がない。まあ、予想はしていたが、こうも八方塞がりだと、笑うしかないよな。あはは」


 綾もつられてあははと笑ったが、コウキはすぐに無表情になった。そしてふっと息を漏らす。


「綾、お前、この死体のことをカズマとか呼んでいたな。仲間だったのか?」

「はい。でも、遺体からモノを盗むなんて、罰当たりでしたかね……」

「いや。そんなことはないだろう。今は非常事態だ。そもそもダンジョンで人間の死体に遭遇するってことがあんまりないので、俺も少々ビビッているが、誰もお前を責めることはないさ」

「そうですか……」

「そう、誰も責めない。他に誰もいないし、精霊の監視も途絶えているようだからな。綾、二つ選択肢がある」

「二つですか……?」

「装備を全てここに置いていくか、ここで死ぬかだ」


 コウキが弓を構えた。掌から黒い矢が生え出てくる。

 綾は愕然とした。


「えっ……、何かの、冗談ですよね……?」

「お前がもう少し冒険に手慣れていたら、仲間にしていたかもしれない。だが、さっきギフトを片っ端から消費していたな。霊力回復薬、解毒薬、霊力増強薬、耐呪薬、そして武器用の補修薬。前者四つを一気に服用するケースはなくもないが、最後のアレを飲む奴なんか初めて見たぜ」

「えっ……」


 まさか飲んじゃいけないものを飲んでしまったのか。綾は喉を押さえた。味わっている場合ではなかったが、確かに一つだけ、やたら苦いものがあったように思える。


「全く話にならない。足手纏いもいいところだ。戦闘センスはあるみたいだし、磨けば光りそうな気配はあるが、あいにくそんな悠長なことは言ってられない。さあ、装備を全て置いてどこかに消えろ。俺は何としてでも逃げ延びてやる」

「そんな……。せ、せめてこの槍くらいは」

「駄目だ。正直、俺もそんな槍には魅力を感じないが、ないよりはマシだからな。何があるか分からんし、精霊どもとの交信が再開したら、何か役に立つ可能性もある」

「で、でも……」

「もう一度は言わないぜ。さっさとどこかへ行け。それとも俺に呪殺されてみるか? この黒い矢、さっきのトンキには通じなかったが、ろくに対策もしていない人間に当たったら生気を吸い取って一瞬で骨にするくらいの威力はあるんだぜ」

「こんなときに、人間同士で争うなんて、ばかげてます……!」

「初心者が言うじゃねえか。お前、『こんなとき』なんて言ってるが、本当は何も理解してないだろう。分かってないようだから教えてやるが、お前がこれから生還するなんて無理だ。どうあがいたって死ぬ。それによ……」


 コウキは矢を綾の顔面に向けた。綾は全身を硬直させた。微動だにできない。


「こんなときだからこそ、争うんだろうが。奪えるものは奪う。無能は蹴り倒して魔物の餌にしてやる。だが、俺もまだ非情になりきれない。一つアドバイスしてやるよ」

「えっ……」

「お前のその白手帳、エラーだとか言っていたが、せいぜいそれを活用するんだな。それができれば、まあ少しは長生きできるかもしれないぜ」


 綾は首から下げている白手帳を見下ろした。これを活用する……? そんなことを言われてもピンとこなかった。


「ええと、どういう意味……」

「これ以上はナシだ。槍と竜剣を置いてどこかに行け。それとも死にたいのか?」

「わ、分かりました……」


 綾は槍と竜剣を地面に置いて、後退した。コウキはまだ矢をこちらに向けている。おっかない男だ。


 十分に離れてから、綾は叫んだ。


「バーカ! 死んじゃえ!」


 せめてもの虚勢だった。コウキは弓矢を下ろした。その表情までは見えなかったが、気分を害している様子ではなかった。綾は闇の中を駆けだした。どこに向かっているのか、自分でも分からなかった。




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