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隣のダンジョン  作者: 軌条
第一部 地上へ
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初心者の末路

7、初心者の末路



 普段、高さが4メートル超の物体が動くところを見ることはない。大型トラックが脇を通り過ぎるだけでちょっとした恐怖を感じるものだが、巨大な豚の魔物が放つ威圧感はそれを軽く超えていた。

 見上げるほど巨大な異形の怪物が自分の命を狙って物騒な代物を振り回している。その事実はどんな豪胆な人間でも尻込みさせるのに十分な迫力があった。綾が特別臆病なわけではない。


 綾は槍を構えたまま後退した。けばけばしい中年女性と、黒い矢をつがえた男性が二度見する。


「ちょっと! なに後退してるのよ!」

「何か策でもあるのか?」


 綾は泣き出したかった。まともに戦ったら自分なんてあっという間に殺される。実力が伴わなければどんなに勇気を振り絞ったって身の破滅に繋がる。


「ごめんなさい。逃げます」

「ち、ちょっとぉ!」


 女性の叫び声。しかし綾は構っていられなかった。女性が舌打ちしながら綾について走ってくる。男性のほうは例の黒い矢を放った。矢は死霊の嘆きのような不気味な音を発しながら豚の魔物の頭部に当たった。黒い波動が炸裂したが一瞬怯んだだけで効果はないようだった。


「ちっ、呪術に耐性があるようだな。二桁階のトンキよりグレードアップしてる」


 男性も逃走を始めた。女性が綾に追いつき、肩を掴む。ぐらりとバランスを崩した綾は危うく転ぶところだった。


「待ちなさいよ白手帳! どうして逃げるのよ! その自慢の槍であんな化け物さっさと倒してちょうだいよ!」

「無理なんですって! 私、白手帳を持ってるけど、ズブの素人で、魔物なんかと戦ったことないんだって!」

「はあ!? 魔物と戦ったことのない奴が、どうして白手帳を持ってるのよ!」

「エラーなんです! エラー! 私異世界から来たの!」


 走りながら喋ったので息が切れた。しかし女性は平然と怒声を上げる。


「いったいどういうことよ! じゃあ、あんたよわっちいってこと?」

「そう! 私弱い! だからあなたたち二人であの豚の魔物を倒してくださーい!」


 綾は運動神経には自信があった。しかし女性は綾の全速力に容易に追いついていた。どころか後ろを振り向き、豚の魔物が猛追してくるのを疎ましげに眺める余裕があった。


「霊力の残りが少ない……。最大火力をぶつけてあっさり倒れてくれるような奴なら、迷わないんだけど」

「やるのか、ユリ?」


 男性からユリと呼ばれた女性は、小さく頷いた。


「仕方ない。白手帳がこの体たらくだからね。まったく、今日はおかしなことばかり起きる。帰還石を含めた帰還用のアイテムは全然役に立たないし、精霊たちと連絡は取れないし、魔物の数は普段の三倍以上。おまけに白手帳の偽者ときた」


 ユリは立ち止まった。綾ははっとして彼女の後姿を見た。ユリは二丁の斧を振り抜き、豚の魔物と対峙していた。足に白い光が集中している。


「あの光は……」

「お前、本当に初心者なのか」


 男性がいつの間にか近くまで退避していた。綾は慌てて頷く。


「そうなんです。すみません、役立たずで」

「いや、今はこんな状況だからな。今更こんなことでは驚かないし、怒りを抱くこともない。残念なことではあるが」

「すみません……。あの、ユリっていう人、足が光ってますけど、どうなってるんですか」


 男性は弓を構えた。掌から赤い矢が生え出てくる。


「あの光は霊力というやつだ。学校で習っただろう、普通は目に見えないが、極端に一所に集中すると目視できるようになる。ユリの場合、武器の他にはあの機動靴しか装備していないから、あそこに霊力を集中できるのさ」

「霊力……、ですか」

「霊力くらい知っているだろう? まさか知らないってことはないはずだ。武具の性能を引き出す為に消費する、精神的な体力みたいなものだよ。分かるか?」

「あ、親切にどうも……。何となく分かりました」

「それは良かった」


 男性は赤い矢を放った。それは怪物ではなくユリの背中に直撃した。途端、ユリの二丁の斧と靴が更に強い光を放った。ユリは軽く目配せすると、そのまま豚の魔物に突進した。


 豚の魔物はその動きに機敏に反応した。錆びた剣を振り回し、ユリを牽制する。ユリは素早く前後左右に動き、その攻撃をかわしていたが、カズマのように一瞬で勝負を決めるというわけにはいかなかった。

 苦労して接近し、斧を振り回したが、魔物の腕を少し傷つけただけ。傷の割に出血量が多く見えたのは、恐らくあの斧に秘密があるのだろう。豚が怒りの雄叫びを上げた。


「並の魔物なら、ユリの斬撃で腕ごと吹っ飛ぶんだが」


 男性が焦りの表情を見せる。綾も緊張していた。


「あ、あの、勝てますか?」

「勝てないことはない。万全の状態だったらな。しかし俺たちは既に消耗している。回復役と補給役がそれぞれ一人いたんだが、ついさっき、魔物に殺されたから、結構まずいことになっている」

「し、死んだんですか」

「帰還石が機能しない。普通、魔物から致命傷を負っても、帰還石が地上まで運んでくれるんだが、それがうんともすんともいわない。ぞっとするぜ。精霊たちとの交信が途絶えたときから嫌な予感がしていたが、ここまで深刻な状況に陥るとは」

「帰還石が機能しないと……、どうなるんです?」


 男性は怪訝そうに綾を見た。


「考えられる限り最悪の事態だぞ。要するに、死んだら終わり。そんなことも分からないのか」

「じゃあ、カズマは本当に……」

「カズマ? お前の仲間か? そいつも死んだのか。まあ、上階でも結構な数の冒険者が魔物に殺されてるぜ、他人の死を嘆いている場合じゃないな。全く、面白いことに、帰還石が機能しないと分かった途端、チームの連携が取れなくなった。盾役が後衛の後ろに隠れ、回復役が戦線から逃げ出し、攻撃手が為す術もなく魔物に食い殺される。普段から死の恐怖とは無縁の狩りを行っているからこうなるんだ、日本の法整備は先進諸国の中でもかなり進んでいるほうらしいが、こんなことなら無法時代のほうが良かったかもな」


 綾には男性の言葉の半分も理解できない。それでも彼が恐怖を押し殺す為に饒舌になっているということは分かった。

 ユリが絶叫する。


「お喋りしてるんじゃないわよ、コウキ! 援護しなさい! 青で行くわよ」

「悪いな、ユリ、青は無理だ。紫までだ」

「じゃあ、さっさと紫! 絞り出しなさい!」

「やれやれ、敵がこれ以上増えたら一巻の終わりだぞ、シャレにならん」


 そう言いつつも、コウキと呼ばれた男性は弓を構え、掌から紫色の矢を生み出した。そしてそれを魔物に向かって撃つ。


 矢は拡散し、紫色の雨となって魔物の上半身を濡らした。すると魔物の動きが鈍り始めた。ユリが高らかに笑う。


「やったわ、効果抜群ね! 鈍重な獣が私に首を差し出してるわ!」


 ユリが足に霊力を集中させ跳躍した。そして豚の魔物の首筋に斧を叩きつける。その反動で浮かび上がった躰をくねらせ、更にもう一撃。

 しかし強力に思えた斧の二つの斬撃で、魔物の首を切断することはできなかった。太く強力な筋肉が彼女の攻撃を弾き飛ばし、ユリは茫然としながら着地した。


「さ、最強の攻撃が……。ほとんどダメージ通ってないじゃない、嘘でしょ!」

「ユリ、さっさと退け! どうやら今の俺たちでは分が悪いらしい」

「み、認めないからね! コウキ、あんたが不甲斐ないから、こんな豚一匹仕留められないんだからねえええ!」


 ユリは叫びながら逃げ出した。霊力を使い果たしたのか、先ほどまでより動きが鈍かった。三人は並んで洞窟を駆け回った。紫色の雨に動きを鈍らされていた豚が、その呪縛から逃れて、猛烈な勢いで追いかけてくる。


 さっきは綾と同等以上の走力を見せたユリが、今では息を切らしながらよたよたと走っている。このままだと追いつかれる、と思った綾は焦りを覚えた。


「だ、大丈夫ですか。霊力が切れたんですか」

「回復薬を切らしてて……。綾ちゃん持ってない?」

「何も持ってません。でも、あの、霊力って分け与えることはできないんですか?」


 コウキも苦しそうに走りながら唸る。


「特別な器具があればできる。効率が悪く、チーム全体で見ると損失が大きいが、欠員が出て編成に偏りがある場合は選択肢に入るな」

「そ、その特別な器具って、今……?」

「補給係が持っていた。今頃魔物の腹の中に粉々になって収まっているだろう」

「じ、じゃあ……、逃げるしかないみたいですね」


 そこでユリが綾をじろりと睨みつける。


「綾ちゃん、あんた本当に初心者なわけ? 出し惜しみしてるんじゃないでしょうね。私たちを良いように利用して、自分だけ助かろうとしているんじゃ?」

「ま、まさか。違いますよ。私は本当に、ダンジョンに潜ったことがなくて、今も混乱しているんですから」

「ふうん。まあ、要するに役立たずってことね。帰還設備のところまで案内できる?」

「自信はありません……。道を覚えてたわけじゃないので」

「じゃ、一緒に行く理由はないわね。ここら辺で別れましょう」


 綾は泣き縋って一緒にいさせてくださいと言うべきだと思った。しかしそんなことをする資格が自分にあるだろうか? もっと強く自分が初心者であると伝えていれば、あの豚の魔物と遭遇したときも逃げの一手を打っていたはず。余計な消耗をしなくても済んだのだ。

 

「おいおい、ユリ、それは幾ら何でも非情ってもんだろう」


 コウキが諌める。綾はすこし驚いた。


「こんな非常事態だ。仲間は一人でも多いほうがいい。それに、彼女が帰還設備を一度目にしているという情報はなかなか重要だぞ。全く役に立たないってことはないと思うがね」

「何を言ってるのよ、コウキ。もしかして綾ちゃんが若くて可愛いから贔屓してるんじゃないでしょうね。あんたはいつだってそうよ。若い女ってだけであんなぼんくらどもをチームの中に引き入れて。まともに戦えるのは私とあんたくらいだったじゃない」

「何を言ってるんだ。俺はAランクの冒険者をちゃんと連れてきただろう。緑手帳ではあったが、冒険者としての素質は十二分にあった」

「へえ? で、今度の彼女は白手帳だから文句はないだろって? 人を見る目がないのよ、あんたって男は!」


 二人の口論が進んでいる間に、豚の魔物がかなり接近していた。巨大を岩壁にぶつけ、腕や首から血を流しながら、雄叫びを上げる。

 綾は槍の柄を掴み、唇を噛み締めた。どうして武器を持っている。戦えないのか。綾は不甲斐ない自分を呪った。悲鳴を上げる筋肉を叱咤しながら薄暗い洞窟を駆けている。もしこの足が止まってしまったら死ぬ。その乾いた事実が信じられない。昨日までいた平和な日本では、こんな理不尽な状況に遭うことはありえなかった。


「……そろそろ霊力が少し回復したかな」


 コウキが言う。綾とユリが同時に彼を見た。


「えっ、コウキさん?」

「あんた、まさか自分にだけ祝福かけてたわけ? そんな余裕があるんだったら……!」

「俺は元々単独でダンジョンを潜っていた。保険をかけとくのは当たり前なんだよ。だからこそ、こんな中途半端な遊撃手としてのスキルばかり充実しているわけだが。悪いな、二人とも。俺は何としてでも生き延びるぜ」


 コウキの姿が突如として消失した。ユリが絶叫する。


「あのクソ野郎! 透明化しやがった!」

「と、透明化……? コウキさん、どこに行ったんですか」

「魔物のターゲットから自分だけ逃れる、姑息な霊術だよ! やられた、ずっとこの機会を窺ってたんだ、周辺に冒険者が二名以上いるときでないと使用できないから……」

「ど、どういうことなんです、意味が……」

「あのクソ男が、私たち二人を囮にして自分だけ逃げたってことよ! 分かったかしら、初心者ちゃん!」


 綾は茫然とした。いや、コウキが綾を見捨てたこと自体はそれほどショックではない。ユリをも見捨ててしまったことに衝撃を受けた。


「ユリさんとコウキさんって仲間じゃないんですか! 私はともかく、ユリさんまで見捨てるなんて」

「非常事態だからね、あの男の倫理的にはオーケーなんでしょうよ、きっと! 綾ちゃん、こうなるとかなり厄介なんだよ」

「厄介、ですか」

「これまでならトンキの視界から外れれば、普通に走ってるだけで逃げおおせることができたかもしんない。でも、透明化の霊術は、魔物にかける幻術の一種。感覚に訴えかけ、あの豚野郎を盲目にさせる。あの魔物は、もう私と綾ちゃん両方を仕留めるまで追いかけ続けてくる」

「そ、そんな……。それって」

「まあ、時間が経てばその幻術の効果も薄れてくるんだけど……。というわけでさ、恨まないでよね」

「えっ」


 ユリが拳を繰り出した。ほんの少し拳が光っていたように思う。綾はそれを避けることができず、脇腹に喰らった。

 息が止まり、走ることができなくなる。ユリが綾の腰を蹴飛ばし、アハハハと笑う。


「役立たずなのが悪いんだ、じゃなかったら一緒になって逃げてあげたかもしんないのにさ! トンキちゃん、せいぜい味わってお食べなさいな!」


 ユリがけらけら笑いながら走り去った。綾は慌てて立ち上がったが、既に傍には豚の魔物が近づいていた。

 綾は槍を構えた。あまりにも近づき過ぎている。もはや逃げる術はなく、綾は魔物と対峙した。

 見上げるほどの巨体。依然腕と首から出血しているが衰弱しているようには見えない。


 勝てるのか?


 綾は震える躰を支える為に槍にしがみ付かなければならなかった。槍の穂先が薄い青を湛えている。あまりにも頼りない色だった。




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