独り彷徨う
6、独り彷徨う
カズマが光を浴びた。
いや、それまで単なる光に見えた魔物の攻撃は、熱線とでも表現したほうが妥当だった。
カズマの肉体が蒸発した。上半身に熱線が直撃して全てを溶かした。彼の下半身はほとんど出血することなく地面に落ちた。断面が綾のほうから見えた。黒焦げ、骨の断片と思われる白い部分がほんの少し視認できるが、まるでハリボテのよう。つまり現実味が薄い。それまで活発に動き、綾を元気づけ、微笑みを見せてくれた熟練の冒険者が俄かに消失してしまった。
綾には信じられなかった。洞窟の壁面に当たってもさしたる熱気ももたらさなかったあの光が、それほどの威力を持っていたなんて。何かの悪い冗談だと思った。思いたかった。しかし綾は知っていた。これは冗談でも見間違いでもない。現実だ。
「え……、どういうこと。殺されても帰還できるって……。こういうことなの?」
綾にはまるで分からない。なにせ初めてのダンジョンだし、この世界の常識というものを全く身に着けていない。これが普通なのかもしれない。だが感覚的にこんなことはあり得ないと否定したかった。目の前にカズマの死体がある。それで地上には無事に帰還したカズマが綾の帰りを待っている、そんなことがあるのだろうか。
カズマは代替の心臓を幾つか持っていた。そのおかげで、これまで魔物の攻撃を浴びても傷一つついていないように見えた。傍目から見ると魔物の攻撃が全く効果がないようだった。帰還石とやらの加護を受けられるなら、こんな死体となる前に、無事地上に辿り着けそうなものである。
カズマは帰還に失敗し、本当に死んでしまったのか? 目の前の光景を確認する限り、そうとしか思えない。
綾はしばらくそこから動けなかった。思考が堂々巡りをしていた。これは現実なのか、カズマは生きているのか、死んでいるのか、自分はこれからどうなるのか、彼と同じように死ぬのか、いや、帰還できるのか。全く分からない。誰も教えてくれない。
物音がした。びくりとした綾は岩陰に隠れた。そっと周囲を見回してみると、先ほどカズマに下半身を消滅させられたはずの魔物が、銀色の燐光を帯びながら立ち上がるところだった。
綾は息遣いが荒くなるのを自覚した。じっと目を凝らすと、暗がりの中で、魔物の下半身が再生しつつあるのが見えた。
絶望しかなかった。あのカズマさえも負かした魔物は次に綾を狙ってくる。そうなれば勝ち目は全くない。加護付きの槍と、最初に貰った初心者用の短剣。武器はこの二つしかない。防具の類は一切なく、綾があの光を浴びれば一瞬で蒸発するだろう。勝ち目は全くない。
逃げるしかない。分かっていても足が動かなかった。暑くもないのに汗が噴き出し、顎から滴り落ちた。誰かの足音がした。左右を見渡すが、もう一度あの魔物の姿を確認する勇気がなかった。もし顔を出した瞬間に光を向けられたら――首から上を全て持って行かれるだろう。あの光にはそれだけの破壊力がある。
逃げたかった。けれどどこへ行けばいいのか分からない。既に魔物の攻撃は止んでいるが、綾の姿を見失っているからであろう。見つかるわけにはいかない。早くこの場から退避しないと――
そのとき右手から魔物が姿を見せた。綾が震えている間に近くまで来ていたのだ。心臓が凍りついたかのようだった。躰は硬直し指一本動かすことができなかった。至近距離から見る魔物は想像以上に人間と似た躰をしていた。魔物は綾を見据えた。
思い切って動くしかない。そんなことは分かっている。しかし具体的にどう動けばいいのかなんて分からない。綾は今まで自分がトンマだと思ったことはなかったが、このときばかりは自らの無能を呪った。このまま殺されてしまうのか。
しかし魔物は綾から視線を逸らすと、そのままどこかへ歩み去ってしまった。綾は茫然とし、その後ろ姿をいつまでも見送っていた。状況を理解するのに時間を要した。
しばらくして、綾はよろよろと歩き出した。どうやら助かったらしい。でも、どうして? どうしてあの魔物は綾を見逃してくれたのだろう。さっきまで狂ったように熱線を繰り出してきたのに、今更あと一発が惜しくなったのか。それとも綾を取るに足らない相手だと判断して、もっと手強い冒険者を探しに行ったのか。
今はそんなことはどうでもいい。そう切り替えて、急いで帰還設備のほうへと向かった。途中、カズマの遺体が視界に入ったが、近寄りたいとは思わなかった。きっと地上で私を待ってる。そうやって自分を誤魔化していた。
帰還設備、とカズマが呼んでいた代物は、ラップトップほどの大きさで、何やらボタンが大量についていた。どう操作していけばいいのか分からない。片っ端から押してみるが反応が全くない。
綾は途方に暮れてしまった。操作方法をあらかじめ聞いておけば良かった。もう一度全てのボタンを試してから、あの魔物が帰ってこないか恐れるあまり、ちょっとした物音で近くの岩陰に退避した。
綾は独りになって泣き出したかった。どうやって帰ればいいのか。ここからどこを目指せばいいのか。こんな苛酷な場所に笑顔で送り出した両親がほんの少し憎く思えた。ダンジョンの前はあんなほのぼのとした空気だったのに、内部は殺伐としているじゃないか。いったいどうなってるんだ。
また物音がした。綾は思い出した。魔物はあの銀色の人型だけではない。他にも豚の化け物や、巨大な狼がいる。あのときはカズマが難なく倒してくれたが、むしろ綾にとってはああいった連中のほうが厄介かもしれない。あの銀色の人型はまた綾を見逃してくれるかもしれないが、豚や狼は容赦してくれないだろう。
綾は周囲を慎重に確認しながら歩み出した。こういうときシクシク泣いているだけの女とは違う。綾は人並みに臆病だったが、自分が進むべき道を見据えて自ら歩み出す勇気を持ち合わせていた。カズマの死に恐怖し、しばらく動けなかったが、他人のことをいつまでも気にかけている場合ではない。綾を助けてくれる人はもういないのだ。
頭上をふわふわと浮いていた光球が消え落下した。カズマがいなくなり、霊力とやらが切れて効力を失ったのか。しかし綾は自分でも驚くほど動揺しなかった。視界のほとんどを失ったが、地面を探ると、落下した先ほどの球を掴むことができた。
色々と触っている内に、球が突如として光を放ち、ふわりと浮かんだ。どうやら綾にも扱えるもののようで何より。綾はその光球が自分についてくるのを確認して、洞窟の中を彷徨い歩いた。
ふと、魔物の咆哮が遠くから聞こえた。びくりとして、隠れる場所を探したが、そんなところはない。大丈夫、声はそんなに近くはなかった。自分に言い聞かせ、周囲を警戒しながらなおも進んだ。
闇の中からいつ魔物が飛び出してきてもおかしくない。綾は息を殺しながら、洞窟の壁面に沿って進む。
少しずつ洞窟内部の構造が入り組んできた。もう自分がどこから来てどこを目指しているのか分からなくなった。行き止まりに当たり、引き返そうとしたそのとき、風の音を聞いた。
それまでは風を感じたことなど一度もなかったから、違和感があった。浮かんでいる光球を捕まえて、それをかざしながら周囲をよく調べてみると、岩陰に石造りの上り階段が伸びていた。
「階段……、上ってことは、地上に近付くってことかな?」
もしここから帰還したいと思うなら、上っておいて損はないだろう。綾はそう判断して、階段に足をかけた。
しかしそのときだった。コツン、コツンという足音がする。音は上階からする。
綾は足を止め、じっと頭上を見据えた。そのとき手に持っていた光球が光を消した。どうやって光を維持するのか、再点灯するにはどうしたらいいのか、綾には咄嗟に分からなかったから、少し慌てた。
だが、足音は複数あり、人間の会話が聞こえてきたときは、緊張が安堵に変わった。
「――次が一〇〇階だ。強力な帰還設備が置いてあるはずだ」
「それに、今朝白手帳が二人探索に向かったという噂が流れてるわ。まさか白手帳が五〇階や七五階で満足するはずがない。一〇〇階付近で荒稼ぎしてるはず」
「異変に気付いているかな」
「気付いてなかったら相当な戦闘狂ね。まあ、それはそれで頼もしいけれど」
男女の声。綾は飛び上がりたい気分だった。階段を慌てて駆けあがろうとして踏み外し、顎を打った。眩暈がしたが、今はあまり痛みがなかった。嬉しさが優ったのだ。
「あの! 誰かいるんですか! ていうかいますよね!」
上階で息を呑む気配がした。そして声が降ってくる。
「いるよ。お前は誰だ」
「綾です! ええっと、ダンジョンに潜ったはいいけれど、帰れなくて、途方に暮れてて! 仲間がやられちゃって!」
「白手帳か?」
「ええと、そうなんですけど、でも私は――」
そのとき階段を駆け下りてきた二人の男女がいた。一人はぱっとしない容姿の青年だったが、やたら目つきが鋭く、巨大な弓を背負っている。もう一人は腰から二丁の斧をぶら下げた中年女性で、厚化粧と香水、都会で血統書付きの愛玩犬を連れ回しているセレブのような雰囲気を醸し出していた。
女性が目尻に深い皺を伴いながら笑う。
「助かったわ! 白手帳と一緒ならもう安心ね!」
「だから言っただろう、下手に上らず、一〇〇階を目指したほうがいいって!」
綾は二人の勢いに押されてしまった。そして口をパクパクとさせる。
「随分若い白手帳さんね。尊敬するわ。さあ、一〇〇階にはまともな帰還設備があるんでしょ。案内して」
「おいおい、いきなりそれはないだろう。白手帳さん、綾とかいったな。一〇〇階に帰還設備はあるのか?」
「ありました、けど操作方法がいまいちよく分からなくて」
「分からない?」
二人は顔を見合わせた。そしてくすりと笑う。
「たまにいるんだよな、殺されるまでダンジョンに居座る奴……。戦闘狂の中でも特にとち狂った奴が」
「こら、失礼じゃない。でも頼もしいわ。綾ちゃん、一緒に帰還設備のところまで行きましょう。操作方法なら私たちが分かるから」
「ええと、はい……」
綾は安堵した。しかし二人は綾を熟練の冒険者だと勘違いしている。この誤解はさっさと解いておかないといけない。カズマのときのように、魔物に包囲された状況で放置されるようなことは避けなくてはならない。
「あの、言っておかないといけないことが」
「なあに?」
上機嫌の女性に言うのは気が引けた。しかし言わなければならない。
「私、白手帳を持ってますけど、本当は初心者なんです」
「初心者? どういう意味?」
「そのままの意味です。ダンジョンに潜ったのは初めてで」
「ああ、ここのダンジョンは初めてってことね。なるほど、日本式の設備の操作が分からなかったってことは、海外帰りってことだったのね。なるほどなるほど納得納得」
「いや、違う……」
男と女は綾の言葉をまともに聞こうとしなかった。浮かれているのか、それとも恐怖を誤魔化そうとしているのか。第一〇〇層を大胆に進み始める。
「で、帰還設備はどっちにあるの」
「えっと、たぶんこっちです。でもあの、結構歩きます」
「ふうん。綾ちゃん、私たち、ギフトの残りが少ないから、魔物が出て来たらお願いするわね。援護はするけどさ」
「えっ、無理ですって! 無理無理――」
綾がどんなに言っても二人は謙遜か何かだと思っているようだ。あるいは都合の悪いことは聞こえないようにしているのか。綾はげんなりした。きっとこの二人に幻滅されてしまうだろう。けれど、カズマが易々と豚やら狼やらを倒していたあたり、ここの魔物はさして強くないのだろう。二人がかりなら安全に処理できるはず。
魔物の咆哮が聞こえた。びくりとした女が男の背に隠れた。
「まったく、八〇階の敵でも苦労してたのに、一〇〇階の魔物なんてぞっとしないわ。逃げ回る為に大半のギフトを使い果たしちゃったし」
「もし白手帳と合流できなかったら、詰んでいたかもな。綾、あんたの武器はその槍か?」
「えっと、はい」
「見たところそれほど高価なものに見えないがな。お手並み拝見と行こうか」
「いや、だから、私は……」
そのとき魔物の咆哮が近づいた。男は背負っていた弓を掴んだ。黒い矢が彼の掌から生えてきて禍々しい光沢を放った。
「安心しろ。援護はするって。実績値は三等分でいいよな?」
「だ、だから、私は初心者で……!」
闇の中から巨大な豚の魔物が出てきた。手には錆びた刀身の剣を持っている。天井に頭がこすれるほどのサイズ。そんなに大きくて、この洞窟で暮らすには窮屈過ぎるんじゃないんだろうか。綾はそんなことを思いながら震えた手で槍の柄を掴んだ。