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隣のダンジョン  作者: 軌条
第一部 地上へ
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 綾は走っていた。あの恐るべき精霊騎士二人から逃れる術が分からなかった。だからひたすら距離を稼いだ。もしかしたら撒けるかもしれない。奇跡的に上階への階段を見つけられるかもしれない。ひょっとしたらそれでもう追ってこないかもしれない。


 そんな願望を抱きながら辿り着いたのは行き止まりだった。


 綾は振り返った。カシャンカシャンという甲冑の音が近づいていた。


 甘い考えを捨て去れ。また地震が起こってピンチから脱することができるとでも? 考えることを放棄したら死ぬ。それが綾には痛いほど分かっていた。


 だが、いったいどうすればいい。ライトスタッフは志村に斬られ、青き竜剣は折れて使い物にならない。一応、竜剣のほうはまだ持っているが、霊力を込めても威力を発揮できないだろうし、そもそも霊力がほとんど切れていた。


 戦闘はできない。仮に綾が万全の状態だったとしても、勝ち目は全くないだろう。アーロンとかいう甲冑の男のほうは距離を取ればさほど脅威ではないだろうが、アポロニアという女性のほうは、大量のミサイルを撃ってくる。もし次、射程に入れば間違いなくやられる。


 綾はまた走り出そうとした。しかし次の曲がり角を曲がったとき、目の前でダンジョンの地形が変わり、道が塞がれるのを目撃した。


 綾は愕然とした。そう言えば琴歌が言っていた。ダンジョンの書き換えが起こっていると。精霊たちは自在にダンジョンの構造を変えられるのか。


 逃げ場などないではないか。綾は無力な自分を呪うと同時に、やりたい放題の精霊たちに怒りを覚えた。


 右手の壁が湾曲し、岩が崩れ、道が形成された。新造の道をやってくるのはアーロンとアポロニアの二人。


「やれやれ、もうこんなところまで逃げていたのか。逃げ足の速い女だな」

「逃がすワケにはいかないヨ。観念するといいネ」


 綾は逃げ場を探した。しかしいつの間にか四方の道が塞がれていた。うねうねと岩盤が動き道を塞いでいる。


 必死に壁に縋りついて叩いた。びくともしなかった。


 逃げられないとしたら。


 戦うしかない?


 でも勝ち目なんてない。武器もない。策もない。味方もいない。


 周りには、敵しかいないじゃないか……。


 絶望とはこのような気持ちなのか。機転や気合いだけではどうしようもない現実が襲いかかろうとしている。


「久しぶりにワクワクしている」


 突如響き渡った男の声。しかしアーロンではない。二人の精霊騎士が怪訝そうに辺りを見回した。


 次の瞬間、アーロンの脳天から顎、鳩尾、股下にかけて、すなわち人体の中心線に沿って、亀裂が走った。綾は悲鳴をあげかけた。アーロンの躰が真っ二つになったかと思ったからだ。


 しかし、実際には、アーロンはその場に跪くだけだった。アポロニアがきょろきょろと周囲を確認する。


「誰? 誰かいるのカナ!?」


 アーロンの躰が震えていた。そして何かぶつぶつと言っている。


 綾から見て右手の壁が崩落した。瓦礫を乗り越えてやってきたのは、ジンだった。黒衣に付着した埃を払いながらやってくる。


 綾は絶望した。やはり敵に囲まれているではないか。どこへ行っても命を狙われるばかり。もはや生き抜く術はない。


 神は笑みながら言う。


「俺はワクワクしている。異邦人イレギュラーの噂が本当だったとはな。瀬山綾、何という顔をしている。今のお前は、俺にとってはどんな宝石よりも価値がある」

「な、何を言って……」

「俺の任務はダンジョンを制圧し、正常な状態に戻すことだ。その為には瀬山綾の殺害は必須だった。それは現在も変わってはいない。だが」


 神が手を振る。するとアポロニアが吹っ飛んだ。素早く立ち上がって戦闘態勢に入ったが、彼女は脂汗をかいていた。じりじりと後退する。


「……俺にとっては任務の遂行より、異邦人の保護のほうが手応えのある仕事なんだ。ダンジョン管理局はこの俺の行為を問題視するだろうが、政府の中には俺を支持する勢力も一定数存在するだろう」


 何を言っているのか分からない。ただ、神が綾を敵視していないということは理解できた。


 神はアーロンとアポロニアを一瞥する。


「精霊騎士の面々か。その様子では、お前ら、下っ端だな。せっかくの特等武器を全く使いこなせていない。いったい幾つ心臓を持っているのか、カウントしてみようか」


 神が手を振った。アーロンが悲鳴を上げて跳び上がった。一瞬、躰が破裂したように見える。しかしそうはならなかった、綾は目をこすった。目の錯覚だろうか?


 いや、違う。実際、アーロンは死んでいる。ただ、冒険者を自動的に蘇生してくれる代替の心臓を、彼らは複数所持しているのだ。一真カズマが七つ心臓を持っていたように。


 アーロンが後退していた。表情は恐怖に染まっている。そんな彼を神は容赦なく攻撃し続けている。手を振っているだけに見えるが、深刻なダメージがアーロンを襲っているようだった。


「ひっ! ひぃっ! やめろ、やめろ!」


「おっと、もう十回は殺してやったのに、まだ生きてるとはな。いつその脳漿をぶちまけるんだ? 掃除は誰がする?」

「やめてくれ! やめてぇー!」


 アーロンの姿が消失した。死んだのか。否、この階層から離脱したようだった。心臓を幾つも持っているほど装備が充実衣しているのなら、階層を瞬時に移動するアイテムくらいは持っている可能性があった。


 アポロニアは狼狽している。神はくっくっくっ笑った。


「そこの女。俺ばかり警戒していても、命は助からないぞ?」


 いつの間にか、アポロニアの背後に志村が立っていた。その魔剣で女精霊騎士を斬る。


 アポロニアもまた、心臓を持っていたのか、無傷だった。しかし黒い瘴気のようなものが彼女に纏わりつき、悲鳴を上げた。志村の魔剣が精霊騎士の肉体を冒している。


「それでもう、霊力を自在に操ることはできない。貴様の心臓も誤作動を起こすかもしれないな……」


 志村の呟きに恐怖したのか、アポロニアも姿を消した。撤退したのだろう。そして恐らく一行の前に姿を現すことはもうないはずだ。


 綾は驚嘆していた。精霊騎士を相手に、神と志村はひたすら圧倒していた。これほどまでに強い人間から一度でも逃げ出せたことが奇跡にも思えてきた。


 神は腕組みをする。


「おい志村。他の精霊騎士は仕留めたのか?」

「いえ。まだあの二人しかいなかったようです」

「マジか。大精霊の奴も手際が悪いな。あんな雑魚を二人しか手配できていないとは。もしかして人望がないのか、あいつ」


 神はそう言うと大笑いした。志村は表情を変えずに綾に近付いてきた。


 そして小さな箱のようなものを取り出す――それはみるみる巨大化し、棺のようなものへと変わった。


「入りなさい」

「へ?」

「入れ」


 志村が言う。綾はその棺をまじまじと見た。禍々しいものに思えたので足を突っ込む気にはどうしてもなれなかった。


 神が苦笑している。


「それは俗称携帯ホテルという代物で……。まあ、中に入るとぐっすり眠れる。次起きたときには地上だ。瀬山綾、ご苦労だったな」

「え?」

「俺たちはお前を保護する。方針が変わったんだよ。別にお前を殺しても困ることはないんだが、有効活用できると分かった以上、利用してやる。そういうことだ」

「えっ……。どういうことですか」


 神は頭を掻いた。そしてせっかちに携帯ホテルを指し示す志村を見る。


「まあ、話してやるか。瀬山綾、お前、ダンジョンのない世界からやってきただろう?」

「え?」


 頭が真っ白になった。全く予想外の言葉でどう反応すればいいのか分からなかった。


 どうして知っているんだ? あてずっぽうで言って的中するような言葉ではない。


 神は綾の表情を見てくすりと笑った。


「さっきから『え?』しか言ってないぞ。しかし図星か。やはりな。抗体の攻撃対象から外れる人間というのは、異世界から来た人間――異邦人しかいない。過去に日本では一名しか確認されていない、極めて希少な存在だ」


 綾は驚愕した。


「私以外にも異世界に迷い込んだ人がいるんですか!?」

「いる。そしてそいつは大いに政府の役に立っているぞ。あまり戦闘のセンスはないらしいが、頭の良い男で、分別がある。お前のように異世界に来てすぐダンジョンに潜り込むなんて無謀なことはせず、政府に保護されるまでこの世界について理解を深めていた」


 神はくすくすと笑う。


「日本ではお前で二人目だが、たとえばアメリカでは七名ほど確認されている。欧州全体では二〇人くらいだったか。まあ、我々が把握できている実数は、ということだが」


 それほど多くの異世界の人間がこの世界に迷い込んでいたなんて。綾と同じ世界から来た同胞なのだろうか、それともまた別の世界からやってきた人間なのか。その点が気になったが、自分だけこんな理不尽な目に遭っているわけではないと知ってほんの少し安堵した。


 神は気怠そうに近くの壁に寄り掛かる。


「お前を生かせば、当然ダンジョンの異変はあと数日は続く。抗体が出現し、ダンジョンが取り返しのつかない状態に陥るかもしれん。別のダンジョンにも異常が起きるかも。しかしそういったリスクを考慮しても、お前を保護すべきだと判断した。理由が分かるか?」

「いえ……」


 神は決然と言う。


「抗体だ。お前も自覚はあるはずだぞ。無差別に冒険者を襲う防御抗体甲型――ええと、ハグルマの形をした抗体だが、あいつを除けば、他の抗体はお前という人間を認識しなかったはず」


 もちろん、心当たりはあった。エイリアンは綾を全く無視していた。どころか体当たりをしても反抗する素振りさえ見せなかった。綾という人間の存在に気付いていないようだった。


「そうですね……、あの銀色の亜人」

「出会ったのはそいつだけか? 他にも抗体は色々と種類がいるんだがな、まあ最初はこんなものだろう。不純物がダンジョンに滞留し続けると、もっと強力な抗体が出撃してくるだろう」


 エイリアンやハグルマより強力な抗体? そんなもの、想像できなかった。神が余裕たっぷりに話しているのとは対照的に、その背後の志村は苛立っているようだった。じっと神と綾を睨んでいる。

 

 その視線に気付いた神が慌てて言う。


「まあ、さっきまでお前を殺そうとしていた人間を信用するのは難しいかもしれんが、さっきのは任務だったんだ。許せ。……そういうわけで、さっさとこの携帯ホテルに入れ。安全に地上まで送り届けてやる。さっき、篠宮と佐東も応じたぞ」

「佐東さんと篠宮さんがこの中に?」

「そうだ。五名分まで持参していたが、もう四つ埋まっている。篠宮、佐東、一〇〇階で拾った誉田と尾賀の四人だ。全員知り合いなんだろう?」


 誉田と尾賀……、ユリとコウキのことだろう。確かに知り合いだった。


「私で五人目なんですね。……琴歌さんは?」

「あの水着女は相当強い。せいぜい、戦力になってもらうよ。俺の部下が二名、早々にリタイヤしちまったもんでな。情けないことに」

「そうではなくて……! 不純物となってしまった以上、琴歌さんの命を狙うんじゃないんですか?」

「なぜだ。不純物たるお前を生かすと決めた以上、琴歌を殺す意味はもうないだろう。琴歌を殺してもお前という不純物が存在し続ける限り、ダンジョンの異変は収まらないのだから」


 そう。そうだ。言われてみれば、琴歌も殺される理由はなくなる。この神という男が綾を利用しようと画策する限り。


「本当に、私を生かしていいんですか? 取り返しのつかないことになるんじゃあ……」

「なるかもな。だが、お前には自覚がないだろうが、お前を欲する勢力は無数にいる。利用価値が高いんだ。異世界からやってきた人間は抗体から認識されない――それはダンジョン完全攻略という人類の長年の夢を達成する上で、これ以上ない利点となる」


 完全攻略? 綾には意味の分からない言葉だった。いや、意味は分かるがそれにどんな価値があるのか……。神は肩を竦める。


「大体、事情は話した。そろそろホテルに入室してくれないか?」

「本当に琴歌さんとは敵対しないんですね?」

「ああ。まあ、精霊騎士との戦いで死ぬことはあるかもしれないがな……。そんなに俺たちを信用できないか?」


 そりゃあ、信用できない。殺されかけたのだから。あの姜という男からも必死に逃げ惑ったのだ。突如としての方針転換。また同じように翻意して綾たちを殺そうとするかもしれない。


 ただ、精霊騎士から助けてもらったのも事実であり、綾は了承するしかなかった。


 棺桶の中に入ると、志村が無表情で蓋を閉めようとした。不安になって質問する。


「あの、中って揺れますかね? 外の様子とかは分かるんですか……」


 しかし蓋が問答無用で閉められ、綾は暗闇の中に置いてけぼりにされた。するとすぐに強烈な睡魔が襲ってきた。これが携帯ホテルか。なるほど。


 綾は眠りに落ちる前に、不安も当然あったが、これで助かったという思いも強かった。


 だって、あの神と志村が誰かに負けるなんてことがあり得るだろうか? 精霊騎士や抗体が出現してもあっという間に征伐してしまうだろう。


 次目覚めたときには地上だ。綾はそう確信していた。





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