帯電する歯車
17、帯電する歯車
七五階まではスムーズに全てが進んだ。現れた魔物のほとんどを琴歌が始末し、何体かは篠宮が仕留めた。綾はそれを見ているだけだったが、篠宮は綾への信頼を弱めることはなかった。むしろ後ろで戦いぶりを観察している様を「余裕がある」と見做したようだった。
綾にとってはそちらのほうが好都合だったのかもしれない。しかし偽りの白手帳であることを明かしたい気持ちも少なからずあった。琴歌が思わせぶりに見つめてくるのがなければ、とっくに正直に打ち明けていたかもしれない。
七五階に辿り着いた。階段を上るとそこは洞窟の迷宮が広がっていた。琴歌はのんびりと辺りを見回す。
「ここのダンジョンって洞窟のフロアが多いのね。エイリアンと戦うには少々リスキーな地形かも」
「でも隠れられる場所が多いですよ?」
「見晴らしの良い場所のほうが相手の攻撃の予備動作を見極めることができる。死角が多いと不意打ちを食らうことが多いし……、それにあいつ、琴歌さんの持ってるレーダーに反応しないんだよねえ」
琴歌はレーダーを覗きこみながら言った。
「レーダーで捕捉できれば、囮役のわたしとしてもかなり助かるんだけど。瀬山さん、わたしが死んでも落ち込まないでね?」
「いやいや、琴歌さん、そんなあっさり言わないでください。琴歌さんが死んだらもう全ておしまいですよ」
「あらら、嬉しいこと言ってくれるね。ま、事実なんだけど」
篠宮は二人から少し離れた位置――七六階への階段付近でじっとしていた。七五階への恐怖感が完全に拭えていないようだった。
琴歌が振り返る。
「篠宮さん、無理しなくていいんだよ? ここはわたしと瀬山さんが何とかしておくから」
「馬鹿言うな……。ただちょっと、人間の死体を見たのが初めてだったので驚いただけなんだ……。その辺に死体が転がってるかと思うと」
「だーかーらー、無理しないでって。死体を増やしたくないのよ」
琴歌はこともなげに言ったが、その言葉に篠宮はぎょっとしたようだった。そしてかぶりを振る。
「……すまん。俺はここで待ってる。無事に倒したら迎えに来てくれ……」
「あなたの仲間と一緒にね。任せなさい」
琴歌が力強く頷いた。綾もそれに倣った。二人は篠宮を置いて七五階の迷宮へと足を踏み入れた。
静かな階層だった。魔物は全く出現しない。篠宮の話によれば六人の冒険者が戦死したそうだが、その気配はなかった。篠宮自身混乱していたので、どの辺りが戦場になったのか、憶えていなかった。なのでエイリアンと遭遇するまで歩き続けるしかない。
「琴歌さん、エイリアンって、別の階層にも行けるんですよね」
「そうみたいね。普通の魔物の常識じゃ考えられない挙動だけど……、ここのダンジョンは今、常識の外にあるらしいから、何が起こっても驚かないね」
「もう篠宮さんの仲間を追って、別の階層に向かったという可能性はありませんか」
琴歌は顎に手を添えて考え込んだ。
「うーん、それなんだけど……、その可能性はもちろんあるけど、たぶんまだエイリアンはここにいると思う」
「どうしてです?」
「篠宮さんよ。この階層にいる冒険者を皆殺し――あるいは別の階層に逃がしたとき、あいつ真っ先に篠宮さんを追いかけると思うんだよね。彼、自分の武器が例の光線で蒸発したとか言ってたでしょ。エイリアンにかなり接近していたわけだ。エイリアンは確実に彼の存在を認識しているわけで、見逃すかな」
「でも、七四階に逃げた冒険者を先に追ったのかもしれません」
「うん、瀬山さん、その可能性はもちろんあるんだよ? でも琴歌さんの勘では、やっぱり優先的に狙われるのは篠宮さんのほうだと思う」
琴歌は勘と言いながらも自信がありそうだった。先を促すと、
「あのエイリアンって何の為に出現したのかな。冒険者を皆殺しにするため? 琴歌さん的には、ダンジョンの奥に行かせないようにしているんだと思う。基本、目の前の敵を優先するけど、深層に向かった冒険者のほうを積極的に狩る」
「どうしてそう思うんですか」
「だから勘だって。あの狂った攻撃力は普通の魔物とは格が違う。誰も見たことがないような希少な種類。ここぞというところで出てくるんだと思う。目的は冒険者の深層侵入への阻止」
「……一〇〇階より先に冒険者が進もうとしたから、あれが出てきたってことですか?」
「いや、違う。それは絶対に違うね。だってここのダンジョンって、一応一〇〇階に帰還設備があるんでしょ。結構開発は進んでいたわけだ。もし一〇〇階より先に進んだことが、エイリアン発生のトリガーになっていたなら、とっくに話題になってたと思うよ。ダンジョン関連のニュースを、この琴歌さんが聞き漏らすはずがないし」
「なるほど……。えっと、じゃあ、ダンジョンの奥深くに冒険者を進ませないようにする何者かの意志があるとして――その何者かにとって脅威となるような出来事が起こったんですね」
「たぶん。そしてそれはダンジョンから帰還できないこの状況とも密接に関わってるはず」
琴歌の言葉は確かに理に適っていた。もちろん根本は勘でしかなかったわけだが納得はできた。綾はもしかすると琴歌なら分かるんじゃないかと思ってなおも訊ねた。
「あの、琴歌さん。どうしてエイリアンは私を狙わないんですかね?」
「知らない」
にべもなかった。
琴歌はふふふと笑って、
「でも、あなたが普通の冒険者と違う点と言えば、一つしかないわよね。分不相応な白手帳を所持している。それくらいね」
琴歌はそう言うが、綾にはもう一つの可能性が頭にあった。エイリアンから狙われない理由。
綾はこの世界の人間ではない。異世界の日本から、いつの間にか迷い込んでいた。ここの世界の人間ではないから、あのエイリアンは綾を感知できないのかもしれない。
もちろんそれを話すことはできなかった。異世界から来たなんて。頭のおかしい人だと思われる。
二人で警戒しながら歩いていると、琴歌が立ち止まった。
「レーダーに反応――五、六、七……。内一つはなんと人間ね。残りは全部魔物」
生き残りがいる――しかしとうとう戦闘か。綾は琴歌から借りている高出力の銃を抱き締めるように握った。
「エイリアンはいますか?」
「分からない。どうだろう。とにかく慎重に近づこう。そこの角を曲がると、人間と接触する。すぐその後を追って、魔物が現れるはず」
琴歌の言った通りだった。角から飛び出してきたのは綾と同年代の女性で、巨大な盾を抱えていた。琴歌と綾の姿に驚いたようだったが足を止めようとはしなかった。二人の間を駆け抜ける。
「逃げないと殺されますよ!」
女性は叫びながらすぐに姿を消した。琴歌は角から顔を覗かせて迫り来る魔物を睨んだ。
「エイリアンはいない。琴歌さんが仕留めるから、瀬山さんは周囲を警戒して! 今は人間の眼だけが頼りよ」
「分かりました」
綾は暗がりの中を凝視した。琴歌が瞬く間に魔物どもを駆逐する。わざわざその戦いぶりを見なくとも勝敗は分かっていた。それより恐ろしいのは突然現れるエイリアン。あの攻撃だけが脅威だ。
琴歌が魔物全てを倒したそのとき、臭気と共に訪れる悪寒があった。最初は嫌悪感がそうさせるのかと思ったが違う。
綾は気付いた。前もそうだった。どうも理屈では説明できないが、自分には危険を察知する第六感が備わっているらしい。必死に周囲を見渡し、目を光らせていると、あの銀色の光を纏った怪物が視界の隅に飛び込んできた。
「琴歌さぁーん! 左斜め後ろぉー!」
力の限り叫んだ。琴歌は後方を確認する前に跳んだ。そしてにやりと笑う。
「わたしの名前を呼ぶ前に方向を叫びなさい。手遅れになったらどうするの」
全てを溶かす光線が彼女の髪を掠めた。そしてその瞳が戦意に燃える。
「瀬山さん、そこの脇道を通って二つ目の角を左に、その次の角をもう一度左! わたしがそこまで奴を誘導するから、一撃で仕留めて!」
「分かりました!」
綾は頷き、指示された脇道に飛び込んだ。暗闇だった。視界は明瞭ではなかったが不安は何もなかった。急がないと琴歌がやられる。自分にもやれることがある。それが綾を強力に突き動かしていた。
だから前方をろくに注意していなかった。琴歌のレーダーを信頼していたというのもある。
角を左に曲がり、そこにあるものを見たとき、綾の思考は停止した。それが敵なのかどうか咄嗟には分からなかった。
横向きの巨大な歯車に蟹の足をくっつけたかのような異形の魔物――カチカチとその鋼鉄の足を蠢かしている。その幅の広い躰が道を完全に塞いでいた。
「な、なにこれ……」
歯車の足が伸びてきた。鈍重な動きに見えたが、実際にはあまりに巨大な体躯をしているゆえ騙されているだけで、間近にそれが迫ったときその勢いに気付かされた。慌てて後方に避ける。
地面がその足に抉られた。火花が散り、電流のようなものも見えた。綾はぞっとした。何だ、この魔物は。
慌てて銃を構えた。これで倒して先を急ぐしかない。かなりきついが、この銃は二発までなら撃つことができる。もし琴歌がこの魔物と直面したら、後方から迫るエイリアンと挟まれて光線の直撃を喰らう可能性がある。それだけは避けなければならない。
「もう走れないかも……。でもここでやらないと!」
引き金を引き、撃った。凄まじい光弾が放たれ、歯車の魔物の躰に当たる。
しかし銃撃は何の効果ももたらさなかった。多少の土埃が起きたが、依然魔物はそこにいた。カシャカシャという足同士が擦れる音がする。容赦なくその電流が流れる鋼鉄の足を伸ばしてくる。
息を荒げながらそれを避けた。しかし足が思うように動いてくれなかった。歯車が纏う電撃が床を伝ってきた。微かではあったが躰が痺れ、膝からがくりと崩れ落ちた。
万全の状態だったらすぐに逃げることができただろう、しかし今は霊力を消費して疲弊していた。たった一発撃っただけでこんなに動けなくなるなんて。琴歌の偉大さが分かるというものだ。
「くっ……、まずい、この歯車みたいなカニ……。こんなに頑丈だなんて」
足が伸びてきた。まずい。やられる。銃をもう一度構えた。駄目元でもう一度撃つしかない。しかしもしこれで仕留めたとしても、綾は恐らく気絶してしまうか、気絶寸前まで衰弱することだろう。
駄目だ。撃てない。綾は歯ぎしりした。
「うおおおお!」
銃砲が掻き鳴らす凄まじい騒音。綾は思わず耳を塞いだ。はっとして振り返ると篠宮が軽機関銃を構えながら突進してきていた。
「瀬山綾! ここは俺が引きつけるから離脱しろ!」
「でも、エイリアンが――」
「相沢琴歌から連絡が入った。フロア全体に突如として魔物が大量に湧いたらしい。それも見たことのない新種――恐らくこの歯車みたいな魔物のことだろう。一旦引き返すとのことだ!」
「琴歌さんは無事なんですか?」
「あの女がそう簡単に死ぬかよ」
まるで知り合って何年も経つ知己のように、篠宮が言った。確かに琴歌がむざむざやられるところは想像できない。
「琴歌からあんたがピンチだって連絡が入ったんだ。どうやってその窮状を知ったか分からんがな。白手帳でも新種にはてこずるようだな」
「あ、はい……、では七六階まで退避を?」
「ルートは受け取ってる。俺についてこい!」
篠宮が走り出した。綾も何とかそれについて行った。篠宮は回復のギフトを口に含みながら振り返った。
「お前も使うか? 霊力回復」
「えっ? あ、いただきます」
「しかしどうしてお前、ギフトを分けて貰わなかったんだ。あの女、大量に持っているんだろ」
「え」
しかし綾には分からない。篠宮は肩を竦めた。
「まさかあんた、白手帳のくせにギフトの保存箱を持ってないのか? 冒険の必需品だろ」
「保存箱……?」
「ギフトを保存しておく携行箱だよ。そのまま野ざらしにしておくと、特に回復系のギフトはあっという間に劣化するからな……」
知らなかった。なるほど、そういう理由で綾は二発しか撃てない銃で迷宮を駆けずり回らなくてはならなかったのか。てっきりギフトの残量に余裕がないのかと思っていた。
篠宮から霊力回復薬を貰い、足取りも軽くなった。篠宮は軽機関銃を構えながら角を曲がった。
「もうすぐ階段に着くが……」
階段の前に誰かがいた。魔物ではない、人間だ。先ほど擦れ違った、大盾の女性だった。篠宮を見て目を見開く。
「サトウ! 無事だったか」
篠宮が声を張り上げる。サトウと呼ばれた女性はコクコクと二度頷いた。
「皆はどこにいますか?」
「知らん。今は救援隊の相沢と、この白手帳の瀬山と一緒にあの銀色の化け物と戦おうとしているんだが……」
サトウはじっと綾のことを見た。見返すと、盾に隠れるようにしてから首を傾げた。
「白手帳……? 私と同じ、高校生くらいに見えますけど」
「見た目通りの高校生だよ、サトウさん」
「あっ……。サトウミクです。どうぞよろしく」
サトウはぺこりと礼をした。篠宮が辺りを見回している。
「おい、サトウ。他の連中は? 盾役のお前が生き残っているということは、まだ無事な奴はいるんだろ?」
サトウは俯いた。そして涙ぐみ、その場にしゃがみ込んでしまった。
「すみません……、守り切れませんでした」
「おい……」
「全員死にました。この眼で見ました。ハナビシくんも、オガタさんも、ミドリ先輩も……。全員」
篠宮は絶句し、今にも倒れそうになった。綾は二人を慰める言葉さえ持たなかった。辺りを見回し、周囲を警戒することくらいしかできない。
早く琴歌に戻ってきて欲しかった。そして態勢を整えなければならない。あの歯車の魔物は脅威だが、エイリアンほどの攻撃力は有していないようだ。
しかし琴歌はいつまで経っても戻ってこなかった。三人はやがて七六階に退避した。篠宮は綾がいるのでそれほど取り乱していなかったが、琴歌がいなければ綾の化けの皮などすぐに剥がれる。綾にとって苦痛に満ちた時間となった。




