退路なし
13、退路なし
琴歌は多数の魔物を相手にしても、余裕を保っていた。彼女が心配しているのはこれから九〇階以上の階層を潜り抜けて帰還しなければならないという持久の問題であって、この場を切り抜けられるか否かについてはかなりの自信を持っているようだ。
しかしそれが綾には恐ろしい。あの銀色に発光する亜人型の魔物からは全力で逃げなければならない。一撃でも貰ったら終わりだ。一度射程に入ったらそう簡単には避けられない。瞬くほどの間に冒険者の人生は終わる。
銃を構えた琴歌が魔物の集団を薙ぎ倒した。弾一発の威力は凄まじく、衝撃で魔物の巨体が吹き飛んだ。どれほどの霊力が込められているのか定かではないが、消費が激しそうだった。
琴歌は銀色の亜人型のほうへ強行突破したがっている。綾はそれを感じ取っていた。綾の必死の訴えで退くことを了承したが、この先魔物どもの攻勢が強まれば、考えを改める可能性もある。
早く魔物の包囲から逃れなければならない。綾は焦っていた。しかし彼女にできることは多くなかった。握り込んだ杖の詳しい使い方も依然分からず、まさに習うより慣れろという言葉に従うしかない。
「瀬山さん、走るよ!」
琴歌が手招きする。綾は疾走する琴歌に追従し、魔物の包囲から逃れようとした。
それは最初成功したかのように思えた。魔物どもを琴歌が排除し、道を拓いた。だがすぐ前方に新たな魔物が湧く。これは偶然魔物の発生と綾たちの逃避行が重なったという話ではない。魔物たちが明らかに綾たちを待ち構えて出てきている。
琴歌が叫ぶ。
「異常事態だこれは! 帰還手段さえ確保していれば、実績値稼ぎ放題だって喜んだかもしれないけど、まずい!」
魔物たちが隊伍を組んで迫ってくる。まるで軍隊か何かのようだ。これまでは琴歌がすぐに銃で蹴散らし、隊列が乱れていたから気付かなかったが、明らかに規則的な動きを見せている。
統率されている。綾はぞっとした。この世界の常識を知らない綾でも、これはおかしなことではないかと疑念を抱いた。
「仕方ない……、本当に最後の手段だけど」
琴歌が小さな袋を取り出した。綾を手招きする。
「琴歌さん、どうするつもりですか」
「いいから早く来て。上階に強行する」
「え?」
琴歌が袋から取り出したのは護符だった。白い厚紙に青い刻印が為されている。
「稀に、ダンジョン内で落盤やら浸水やらが起きて、下階にも上階にも行けなくなることがある。そういうときに使う緊急脱出用のギフト。深層に潜るから念の為に一つだけ持ってきてたんだ」
「一つだけですか?」
「だってこれ高いんだよ? 二十万点……。ていうか琴歌さんもこれ使うの初めてなんだよね、ちゃんと動くかな。動画配信できないのがほんとに辛い……」
そう言って琴歌は護符を破り捨てた。淡い光が琴歌と綾を包み込み、不思議な浮揚感を与える。魔物どもの凶悪な眼光がぼやけた。
*
視界が暗転し、一瞬。二人は草原に立っていた。
綾は仰天し、立ち尽くした。見渡す限りの草原で、風で花がそよいでいる。見上げれば青い空。ダンジョン内部とは思えない。九九階のような石造りの迷宮とは違った意味で驚いた。
琴歌が太陽の存在しない空を見渡し、ふうと息をつく。
「九七階に到着……。しかし広域に展開しているね。上階への階段を探すのは時間がかかりそう」
「あの、見渡す限りの草原ですけど、階段なんてあるんですか?」
「あるよ。あるんだけど、見つけにくい。なにせ、地面に埋まってるから」
「埋まってる……? 上への階段なのに、地面にあるんですか?」
琴歌は頷く。
「そう。一旦下がって、それから上る。そういう構造になってる。まあ、行けば分かるよ……」
琴歌はそう言って微笑んだ。そしてその場に座り込む。
「ちょっと休憩しようか。あんまり回復系のギフトを使うと、後が大変だからね。自然回復するのを待とう……」
「自然回復なんてするんですか」
「そりゃあ、するよ。もっとも、初心者の瀬山さんは丸一日寝るくらいしないと全快しないけどね。琴歌さんの場合は人体改造済みだから、二、三十分休めば大体回復するかな」
「それは頼もしいですね」
綾は窮地から脱したのだと理解して、笑顔で頷いたが、ふと草原の風が止んだのを感じた。
淀んだ空気が肌に纏わりつく。途端、腐敗した水のような悪臭が漂い始めた。
琴歌が立ち上がった。そして銃を引き抜く。
「……やれやれ、懸念はしてたけど、本当に厄介ね……」
魔物が草原にも出現していた。トンキやら獣やら亜人型やら、多様な姿形をした魔物が数十体、綾たちを囲むように出現していた。
綾は絶句した。こいつらはどこまでも追って来るのか。琴歌は疲弊し切った顔をしていた。
「ヘビーだわ。本当にヘビー……。ねえ瀬山さん、一つ疑問に答えてくれる?」
「えっ?」
「あの魔物たちは、全ての冒険者にこうして攻勢をかけているのかな。それとも、瀬山さんか、わたし、どちらかに狙いをかけて襲ってきているのかな……」
綾は咄嗟に何も言えなかった。その疑問に答えられるほどダンジョンの知識に乏しかったし、返答次第では見捨てられるのではという恐怖があったのだ。
「ああ、ごめん。琴歌さんはあなたを見捨てたりはしない。けど、この異常事態の原因があるのなら、それを取り除く必要がある。でなければわたしたちはここで死ぬことになるわ」
「原因ですか……。魔物がこんなに出てくるのは、琴歌さんと合流してからですね。それまでは魔物はそれほど多くありませんでした」
琴歌は神妙に頷く。
「そうだよね、やっぱり。わたしが囮になればあなただけでも逃げられるか……。でも、あなた一人でこの深層を生き残れるとも思えない」
「琴歌さん、囮だなんて。私も戦います」
「あなたのレベルでここの魔物とやり合うのは危険過ぎる。わたしの負担も大きい。わたしを見捨てるくらいのほうがお互いにとって有益だと思う」
そう言って琴歌は銃を撃ち放った。魔物の一部が消し飛ぶ。
「とことん戦うしかない。血路を開くから、瀬山さん、自分の安全を第一に考えて。いい?」
「……はい」
綾に決定権はなかった。琴歌に従うしかない。
銃声なき発砲が面白いように魔物たちを駆逐していく。しかし無尽蔵に湧く魔物が延々と追い縋ってくる。死への恐怖がないのか、カズマが倒していた魔物は死を恐れていたように思う、やはりこれは異常な事態だと断言できた。
琴歌が薬瓶の中身を飲み干しながら更に銃火を広げた。魔物の死骸が累々と草原に積もった。しかしその死骸を乗り越えて魔物が走ってくる。綾は爽やかな草原が地獄と化すのを目の前で見ていた。帰りたい。元の世界に。それができなくとも、あの平和な我が家に。隣にダンジョンがあっても気にしないから。二度と潜らないから――
魔物の一団が消し飛んだ。音もなく、何の前触れもなく、邪悪な面々が消滅した。綾も琴歌も何が起こったのか分からず、周囲を見渡した。
援軍――?
綾はそれを期待した。助かった。一瞬だけそう思った。
けれどそれは間違いだった。
銀色の亜人型が両手を上げ、光を発射している。それを浴びた魔物が次々と蒸発していた。銀色の亜人型が綾たちに助太刀しているわけではもちろんなく、銀色の亜人型が綾たちを狙っている、その射線上に魔物たちがたまたま固まっていたというだけの話だった。
「なるほど、瀬山さんの言う通り、狂った威力ね……。直撃したら命はなさそう」
琴歌が冷や汗を浮かべながら言う。綾は逃げたかった。しかし命知らずの魔物どもが依然綾たちを狙っている。銀色の亜人型に殺されているというのに、全く意に介さずこちらだけを狙っている。
「瀬山さん、走りなさい! 力不足を露呈して申し訳ないけど、もうわたしにはあなたを守るだけの余力がない!」
琴歌は叫んだ。銃を撃ちまくりながら後退している。
「何とかあなたの退路を切り開いてみせる! けどその先のことは……。特にあの銀色の人型! あいつはわたしにはどうにもできない。近づくこともできなさそう。何とか自力で逃げ延びて!」
琴歌は綾に迫っていた魔物たちを撃ち殺ししながら疾走した。綾は琴歌とほぼ平行に走り始めた。やや距離をあけ、琴歌の銃撃の邪魔にならないように配慮する。
銀色の亜人型が攻撃を連発している。幸か不幸か、二人は常に魔物に囲まれていたので、ほとんどの攻撃が近くまで迫ってくることはなかった。しかし連射してくると囲いを破壊して狙ってくるので油断ならなかった。
「ちっ……、レーダーに階段の反応あり! 思ったより近くにあって良かったわ。でも、辿り着いたとしてもまたこれが続くようなら、あまり意味がないかも」
「でもとにかく目指すのはそこしかないでしょう!」
「分かってるわよ、そんなこと! 瀬山さん、もし死んじゃっても恨まないでよ、これは緊急事態なんだからね!」
「ええ、琴歌さんには感謝してもし切れません!」
「そんな殊勝なこと言わないでよ! 何が何でも助けたくなっちゃうじゃない」
二人は全力疾走しながら叫び合い、互いに目配せした。そのとき魔物の増殖が一旦止んだ。さすがに無限に群がってくるというわけではないのか。
喜ばしいことなのかどうか。それは銀色の亜人型を上手く切り抜けられるかどうかにかかっている。光が迫り、残っていた魔物を蒸発させる。
残りの魔物を琴歌が銃撃で排除し、残った魔物は銀色の亜人型だけとなった。もう盾にすべきものは何もない。銀色の亜人型はじりじりと近づいてきて、次の一撃を浴びせようと身構えている。
「ねえ、瀬山さん。考えたんだけど」
後ろを確認しながら走っていた琴歌が、突然立ち止まった。綾もそれに従う。
「……まさか戦うなんて言わないですよね」
「そのまさかなのです。……いい、あの魔物、階層を無視して追ってくるみたい。このまま逃げ回っているだけじゃあ、休む暇もないわ。他のザコはどうにでもできるけど、あの銀色だけは放置できない」
「でも……! 勝算はあるんですか」
「あるよ。琴歌さんは勝てる勝負しかしない、卑怯な冒険者だからね。……ちょっと、瀬山さん、わたしからもっと離れて」
「え?」
「いいから、離れて!」
綾は慌てて琴歌から離れた。琴歌は横っ飛びになり、地面を転がった。次の瞬間、銀色の亜人型から光が放たれ、さっきまで琴歌が立っていたところの草を軽く焦がした。
琴歌は埃を払いながら立ち上がった。
「大体、相手の攻撃は見切った。発射間隔も、予備動作も、避けるタイミングも把握した。けれど、これ以上近付くと回避するのは難しいわね。なにせあいつの攻撃、恐ろしいほど速い上に精確だから」
「ここから攻撃できるんですか? 相当離れてますけど」
「無理。わたしの銃じゃあ、あそこまでは届かない。だから、あなたがあいつを仕留めるのよ、瀬山さん」
聞き間違いかと思った。しかし琴歌は本気のようである。
「えっと……、どうやって……?」
「近づいて、撃ち殺す。あるいは切り捨てる。瀬山さん、カズマって人があいつと戦ったんでしょう? 六つも心臓を持っている猛者なら、多少なりともあいつにダメージを与えたと思うんだけど」
「ええ。でも上半身だけになっても動いてて、再生しました。不死身ですよ、あいつは」
「いいえ。不死身ではないわ。あれだけの破壊力を秘めた光線を撃ちまくってるんだから、少なくともそれだけのエネルギーを供給する器官があるはず。それも上半身にね」
「私が近づいて倒すんですか? でも、私はあいつの攻撃を避けることなんて」
「避ける必要はない。なぜなら、あの魔物、瀬山さんを全く攻撃しないから」
「えっ?」
琴歌はまたもや発射された光を転がりながら避け、にやりと笑った。
「さっきから観察していたけど、一度も瀬山さんを狙っていない。近いほうを狙っているとか、そういうことはしていない。最初からわたしだけを狙って、わたしだけを見ている」
「そんな……。でも」
確かにそう言われてみると、カズマが殺された直後、綾はあの魔物とかなり接近していたのに、襲われなかった。
琴歌は銃を差し出していた。
「怖い? どうする? 駄目ならわたしが玉砕覚悟で突っ込むしかないけど」
「……分かりました。やります」
「おっ。もっとびくつくと思ったけど、瀬山さん、なかなか根性あるね。でも、一応言っておくね。あの魔物があなたを攻撃しないという確証はない。ただその可能性が高いっていうだけ」
「分かってます」
「しかもわたしはあなたを焚きつけて、都合良く自分だけ逃げ出そうとしているだけかもしれない。あなたが死んでしまえばわたしは余計なお荷物を抱え込まずに行ける。そういう打算があるかもしれない」
「琴歌さんはそんな人じゃないですよ」
「どうして分かるの?」
琴歌は綾に銃を投げ渡した。
綾はそれを大事に両手で持ち、にこりと笑んだ。
「だって、琴歌さん、悔しそうな顔してる。ずぶの素人に未発見の魔物を討伐されるのが、悔しいんでしょ?」
琴歌ははっとした後、あははと大笑いした。笑いながら飛んできた光線を躱した。
「あははは! いやー、もうそういうことでいいや。瀬山さん、その銃は至近距離で撃てばあの魔物の上半身全てを吹き飛ばすだけの威力はある。できるだけ接近して、一発だけ撃って。あなたの霊力では、せいぜい一発か二発が限界だと思う」
「分かりました。任せてください」
綾は力強く頷いた。琴歌も頷き、笑いながら自らの無力を呪うかのような悲しげな目をした。




