逃げの一手
12、逃げの一手
番組を視聴し終わった。それほど長い番組ではなかったが、見終えたときには既に九八階への階段に到着していた。その間、魔物と遭遇することはなかった。
琴歌がレーダーに目を配りながらふっと溜め息を漏らす。
「魔物の数が依然増えている……。コウキとユリが来るを待つか、さっさとここから去るか。大量の魔物を捌くのは骨が折れるから気が進まないけれど、これからのことを考えると悩ましいわね」
綾は自分に渡された木製の杖を握り込んだ。この杖を自分が使いこなせるイメージが全く湧かなかった。霊力活用の講座なのに最も肝心なことを教えてくれなかった。綾にはそれが不安だった。
どうやって霊力を武器に注ぎ込めばいいのか。気合いでいいのか? それとも特別な手順があるのか?
「あの、琴歌さん。ちょっと疑問があるんですけど」
「なあに、お嬢さん」
「これ、どうやって霊力を注ぎ込めばいいんですか。気合いですか?」
「ええと、まあ、気合いかな。言葉で説明するのは難しいなあ……。でも、普通小学校の段階で訓練をするから、あなたの年齢で分からないっていうのも珍しいわね」
「あ、すみません」
自分の責任ではないが、謝らざるを得なかった。元いた世界では、綾は勉強も運動も人並み以上にできた。だから他人から劣等生扱いされるのは新鮮な感覚だった。
「まあ、何度かやってればコツも分かると思う。それにあなたの支援が必要になることはないかな。琴歌さんが全て片付けてあげる」
頼もしい人だった。けれどカズマにおんぶにだっこだった先刻のことを思うと、彼女だけに任せてはいられなかった。彼の死体は現実味がなく、哀しみはそれほど多くない。ただ肌の表面がひりついたような奇妙な緊張感が綾を覆い包んでいる。琴歌まで死んでしまったら綾の心はどうにかなってしまいそうだった。
「あ、あの! 私もできることをやりたいんです。また私だけ生き残るようなことになったら、絶対に後悔するから」
「とは言っても、初心者にうろちょろされてもわたしの負担が大きくなるだけだからね。本当に、この琴歌さんに万事任せてくれていいんだよ?」
琴歌は言いながらレーダーに気を配っている。そして舌打ちした。
「ああ、駄目だ。また魔物が増えた。しかもこっちに向かってるよ。九八階にさっさと移動するしかないかな」
「魔物が階段を上ってくることはないんですか」
「基本的にはないね……。どうしてだか知らないけど、ほとんどの魔物は縄張り意識を持っているのか、階層を移動してまで冒険者を追うことはない。基本中の基本だけど……」
琴歌はさすがに綾の無知っぷりに不信感を抱いたようだった。少し視線が痛々しい。
綾はあまり立て続けに疑問を口にするものではないな、と察した。これからは必要最低限の事柄だけを訊ねるようにしよう。
「仕方ない、階段を上ろう、お嬢さん。……ところで、あなた、名前をまだ聞いてなかったね」
「瀬山綾です。高校一年生です」
「相沢琴歌さんです。二〇歳です。一応、代表的な肩書きは、ダンジョン鑑定士ってことになるのかな。無職なような気もするし、ネットタレントとも言えるだろうし」
ダンジョン鑑定士とは。綾は疑問に思ったが、今すぐ解消すべき疑問ではないと判断して黙っていた。しかし表情から察したか、琴歌が説明してくれた。
「ダンジョン鑑定士っていうのはね、そのダンジョンに出没する魔物を分析したり、産出される資源を調査したり、地形を記録したり、とにかく様々な要素を網羅して、そのダンジョンの特性を政府に報告する人のこと。国家資格で、一応最難関資格の一つとされているの」
「弁護士とか医者みたいな感じですか?」
「えっ? 弁護士はともかく、医者はどうかな……?」
琴歌は首を捻った。もしかするとこちらの世界では、医者の地位はそれほど高くないのかもしれない。精霊たちによる超医術が幅を利かせているのかも。
「とにかく、琴歌さんは凄い人ってことですよね」
「まあ、そういう理解でいいかな。だから頼りにしてね。さあ、さっさと九八階に行こう」
そう言いつつも琴歌はあまり気乗りしない様子だった。救援隊としてダンジョンに乗り込んでいる以上、コウキやユリといった人間を置いて上階に逃れるというのが納得いかないのだろう。もし綾がいなければ、探しに行っていたのかもしれない。もっとも、綾が話さなければ彼ら二人の存在を知ることもなかっただろうが……。
二人は階段を上って九八階に辿り着いた。そこは一〇〇階と似たような薄暗い洞窟となっていた。とはいえ照明が必要なほど暗いわけではなく、壁や地面の割れ目から淡い暖色系の光が漏れていた。
琴歌がレーダーを目視して頷く。
「近くに魔物の反応なし。平和なものね。この分だとあっさり深層から脱出できるかも」
「ならいいんですけど」
綾は周囲を見渡した。確かに魔物の気配はない。しかし嫌な予感がしていた。経験の浅い綾が何かを感じ取れるはずもないのだが、生物的な勘が不穏な空気を感じていた。
「どうしたの、瀬山さん。何か気になることでも?」
「いいえ、そういうわけじゃないんですけど。静か過ぎませんか?」
「そう? こんなものじゃないの? とにかくある程度周囲を探知しながら進むからついて来て。この階に留まっている冒険者がいるかもしれないしね」
二人は洞窟を慎重に歩き始めた。魔物との遭遇がないのは嬉しいことだったが、綾の不安は拭い去れなかった。
この不安の正体は何だろう。ただ単にダンジョンの不気味な雰囲気に毒されているだけだろうか。だったらいいのだが、おぞましいことに、綾は何かしら危険を察知したとしてもできることは何もない。琴歌がその脅威を排除してくれることを祈ることしかできない。それが何とも恐ろしく腹立たしい。
突然、琴歌が立ち止まった。絶句しているので、綾は恐る恐る訊ねた。
「どうかしました、琴歌さん」
「ありえない……。こんなダンジョン、ありえないわよ……。ていうか、わたしだってこのダンジョンには結構お世話になっているんだからね。前に潜ったときは、こんな」
譫言のように言った琴歌は、綾の視線に気付き、作り笑いを浮かべた。
「魔物がまた周囲に湧いている。それも尋常じゃない数……。レーダーが壊れたんじゃないかって思えるくらい。まずいわね」
レーダーが壊れた? もちろんそうではなかった、実際に魔物は周囲に湧いていた。その証拠におぞましい獣の咆哮が近くから聞こえてきた。
「どうなってるの! こんな突然近くに魔物が湧いてくるなんてありえない。何か異常なことが起きている」
「琴歌さん、階段を探しましょう」
「分かってるわよ、そんなこと! でもレーダーに引っ掛からない。恐らくかなり歩かないと辿り着けない距離にある。魔物との交戦は避けられないかな……」
琴歌は見た目は水着を着た丸腰の女性だったが、腰の辺りに手を置くと、そこに大口径の拳銃が出現した。綾はぎょっとした。
「じ、銃なんか持ってるんですか」
「ザコを駆逐するのにこれ以上適した武器はないわ。瀬山さん、もしものときの為にこれを履いて」
琴歌が差し出してきたのは緑色の運動靴だった。綾は受け取ったが、これまで履いていた靴をどうするべきか迷った。
「捨てなさいよ、そんなもの。いい、その靴は第二世代の機動靴で、霊力を込めると動きたい方向に躰を押し出してくれる。防御能力はないけれど、霊力の消費はごく僅かで済む。霊力の扱いに慣れていないあなたでも難なく使いこなせるはず」
「分かりました。……ちょっと練習してもいいですか」
「駄目。あまり派手に動くと魔物にこちらの位置を悟られる。だから普段は普通に歩いて移動。相手に見つかったら全力でその場から逃げる。レーダーで探知しながら進むから、まあ普段だったら遭遇の危険は限りなく低いんだけど、突然湧いてきたらどうしようもない」
湧く。魔物が湧く。いったいどうなっているのだろう。レーダーに探知されないような深い穴倉から這い出て来ているのだろうか。それとも何もないところから突然出現するとでも?
綾は疑問に思っていたが、すぐにその答えが目の前にあった。琴歌と綾が進もうとしていた細道に、突如として豚の頭部が生え出てきた。
それは地面からぬぅっと出現した。まるで昇降機か何かから運び込まれるようにトンキの躰が地面から飛び出してくる。驚くべきことに、その地面には穴など存在しない。硬い地面からトンキが何の前触れもなく現れたのだ。
「そんな……。嘘でしょ」
琴歌が黙り込んだ。しかし既にその手は動いていた。トンキが倒れる。発砲したのだと気付くのに遅れた。なにせ琴歌の銃は発砲した際、ほとんど音を発しなかった。せいぜい弾が風を切る僅かな音だけ。着弾した音もきっとしたのだろうが、動揺していた綾の耳には届かなかった。
「死体の臭いを嗅いで、連中が集まってくる。瀬山さん、遅れずついて来てよ」
琴歌が走り出した。綾はそれについて行った。運動には自信があったが、琴歌も相当な俊足だった。しかも複雑な構造のダンジョンを迷いなく駆け抜け、ちょっとした障害もスムーズに跳び越えていく。薄暗い洞窟を全速力で駆け抜けるわけにもいかず、綾は必死にくらい付いて行った。
途中、何度も魔物に遭遇したらしい。だがその魔物の姿を見ることはなかった。琴歌が走りながら銃を構え、発砲し、全て瞬殺した。魔物の悲鳴を聞いたときには次の曲がり角を曲がっていて、追い縋る魔物たちを完全に置いてけぼりにしていた。
だが、琴歌がどんなに完璧な逃走経路を辿ったとしても、魔物は行く先々で出現した。なにせ地面から突然生えてきたら、レーダーで事前に探知できないのだから接触は不可避である。琴歌は遭遇のたびに発砲しあっという間に勝利したが、表情は苦々しかった。
もしかして、追い詰められているのか? 綾は心配になった。
琴歌はいつの間にか息を切らしていた。銃を撃ち過ぎて霊力を消費し過ぎたのかもしれない。
「さすがに深層の魔物に手加減するわけにはいかないけれど、きっついわね……。本来なら連続で使用するような武器じゃないんだけどな、これ」
琴歌は銃を振り上げながら言った。
「きっとこれ、ネットで配信してたら賞賛の嵐だったんでしょうね。瀬山さんがわたしの苦労を理解してくれているといいんだけどな」
「頼りにしていいんですよね、琴歌さん」
「もっちろん! 琴歌さんに任せておきなさい。……おっと、階段を見つけたわ。ここから直線距離にして三〇〇メートルほど離れたところにあるわね」
琴歌がレーダーを覗きこみながら言った、そのときだった。
魔物が向こうの曲がり角から出現した。しかもそいつは見覚えがあった。悪寒が走る。
しかもまずいことに琴歌はその魔物の出現に気付いていないようだった。暢気にレーダーとにらめっこをしている。
「琴歌さん! 伏せて!」
「え?」
綾は機動靴にありったけの気合いを込め、琴歌に跳び掛かった。機動靴は無事に発動し、とんでもない速度で綾を突進させた。綾は全身で琴歌にぶつかり押し倒す。次の瞬間、頭上を光が通過した。
勢いそのまま、綾はよろめく琴歌を引き摺るようにして岩陰に向かった。琴歌はすぐにバランスを取り戻して自らの足で歩いたが、少々怒っているようだった。
「なによ、瀬山さん。突然飛び掛かってきて。幻覚でも見た?」
「琴歌さん! そのレーダーには映ってないんですか、あの魔物が」
「あの魔物……?」
琴歌は岩陰から顔を出した。そして表情が一変する。
「本当だ、レーダーには何も映ってないのに、あそこに変な亜人型の魔物がいるね……。しかし見たことないタイプね。固有種かな」
「逃げましょう、琴歌さん」
「言われなくてもそうするけど、でも待って、階段に行くにはあそこを行くしかないみたい。他にもルートはあるんだろうけど、大回りしないと。ここは強行突破したほうが……」
「琴歌さん!」
綾は大声を張り上げた。琴歌はきょとんとしている。
「な、なによ、大声出して……」
「あの魔物は危険です。私の仲間……、カズマくんが全く歯が立たなかった相手なんです」
「カズマくん?」
「白手帳の冒険者ですよ。琴歌さんより上の……」
綾が言うと琴歌は不機嫌そうにした。
「そりゃあ、わたしは赤手帳だけど、その気がなかっただけで、白手帳くらいいつでも取れるわよ。そのカズマって人が負けたからって、わたしは」
「カズマくんは代替の心臓を六つ持っていました。それが全て砕かれたんです」
「は? 代替心臓を六つ? マンションが建つわよ、そんなの……」
琴歌が驚く。綾はなおも続ける。
「たぶん、カズマくんは最高の防具も装備していました。しかしあの光を一発喰らっただけで心臓が一つ消し飛んだらしいんです。琴歌さんは心臓を幾つ持っているんですか」
「代替心臓なんか買えるわけないでしょ、あんな超高級品……。何百万点必要なのよ」
「逃げましょう。本当に危険な相手なんです」
「わ、分かった。瀬山さんの言う通りにしましょう」
綾は震えていた。あの銀色の光を纏う亜人型の魔物がここにいる。てっきり一〇〇階に留まっていると思っていたが、こちらに移動していたのか。それとも複数存在しているのか。
「でも、逃げるって言ったってねえ……」
琴歌は銃で数発撃ち放った。遠くからこちらに歩み寄っていた魔物が二体、その場に倒れた。
「もたもたしている間に、魔物どもが追いついてきちゃったみたい。さて、どうしたものか……」
綾は周囲を見渡した。暗がりの中で無数に潜む鋭い眼光。激しい息遣い。既に魔物どもが綾たち二人を捕捉していた。
おまけにあの銀色の亜人型まで迫っている。綾は杖をきつく握り込んだ。傍観者にだけはなりたくない。琴歌が薬瓶を取り出し、ごくりと飲み干した。
「逃げたくても逃げられない。冒険者としてセンスを問われる状況ね」
琴歌は笑みを浮かべながらそう言った。




