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隣のダンジョン  作者: 軌条
第三部 超深層攻略
105/111

戦場都市

103、戦場都市





 綜太が自室から居間に戻ってきた。ノートPCを抱え込んでいる。依然テレビに齧りついている母の横で、ネットに繋いで何やら操作をしていた。


 母は不満顔でリモコンを振り回す。


「もう。もしかしたらさっきの映像ってフェイクだったのかしら。どこも中継しなくなったわよ」


 そうであればいいのに。アヤは心底そう思ったし、現実から目を背けたい一心で、本当にそう信じ込みかけた。そうか、これは何かの間違いで、本当はこちらの世界に化け物は紛れ込んでいないし、この世界はいたって平穏なままなのだ。


 だが綜太がPCの画面を批判的な目つきで睨み、母娘の言葉を否定した。


「フェイクってのは、ありえないね。ネット上ではまだ大騒ぎだし」


 アヤは綜太が閲覧しているものを横から覗き込んだ。異変が起こっている都市部近辺に住んでいる人間が、写真や動画を投稿しているようで、魔物の姿を遠くから激写したもの、建物が倒壊する様子を短い動画で収めたもの、あるいは遺骸をモザイクもなしに写したものなど、凄まじい情報量だった。


 現実だ。全て現実だ。アヤはそれを思い知った。母もテレビではなくPCの画面に視線をシフトしている。


「ねえ、中継とかないの、中継!」


 母はなぜかライブ映像にこだわっていた。まだこれが現実のものであるかどうか、確信が持てていないようだった。綜太は唇を尖らせながら検索エンジンの画面をスクロールさせていく。


「すぐに見つかるもんじゃないよ。そんな急かさないで」


 しかし綜太が何気なく選択した動画チャンネルは、まさに異変が生じている地点で女性が生中継リポートしているものだった。現在の閲覧数が凄まじいことになっていて、やたら回線が重く、なかなか動画が開かなかった。何度か目の更新でやっと中継を見ることができた。


 動画の名前は琴歌チャンネルといった。


 画面には都市の寂れた大通りが映し出されている。罅割れたショーウインドーのガラスに、撮影者の姿が一瞬見えた。着ているコートが埃まみれになり、腰まで伸びた長髪は激しく乱れている。しかしその女性はそんなことお構いなしに、手に持ったカメラを周囲に向けて、熱に冒されたように捲し立てている。


『ご覧ください、これが現在の東京です! 人の姿がまるで見えません。先ほどまで避難する人でごった返していたのですが、創作の中でしか見たことがないような化け物が彼らを追い回し、今ではわたしの他には誰もいません。ああ、えっと……』


 カメラが人間の死体を不用意に映し出してしまい、撮影者は戸惑ったようだった。カメラをぐるりと回した先には死体が積み重なって山のようになっていた。


 思わず母と綜太が身を引いた。それほどショッキングな映像だった。アヤは震えていた。映像の凄惨さにではない、きっとこの異変は自分の身にも届く。これは未来の自分の姿だ。と戦慄していたのだ。


 動画の中の女性――琴歌の声も、少し震えているように感じられた。


『――あの化け物の群れは、ここから数キロメートル先に突如として出現した巨大な植物から這い出ているようです。あの化け物の正体は何なのでしょうか。あの植物はいったい何か。日本はどうなってしまうんでしょう。ああ、警察は何をしているのか――こういうときには自衛隊の戦闘機が颯爽と現れて怪物たちを駆逐してくれるとわたしは思っていたのですが、現実の対応はそこまで迅速ではないようです……』


 しかしちょうど琴歌がそう言ったとき、爆音が鳴り響いた。カメラが揺れ動く。一瞬の後、カメラは上空を凄まじい速度で横切る戦闘機の姿を映した。ピントがずれている。それを調整する前に戦闘機は琴歌のカメラの射程から消えた。


『今のは戦闘機でしょうか。自衛隊の! ちょっと近付いてみましょう、攻撃の瞬間は残念ながら中継できないと思いますが……』


 ここで綜太が新しいタブを開いて琴歌チャンネルから離れた。綜太が接続しているSNSでは一斉に自衛隊の文字が躍っている。写真付きも多くあった。そしてごく一部で、攻撃の瞬間を映したものもある。さっさと避難しないと自分も殺されてしまうだろうに、撮影者は自分だけは大丈夫だと考えているのだろうか。どうやって撮ったんだというアングルからの写真もあった。


 直後、琴歌チャンネルから再び爆音が鳴り響いた。綜太が慌ててそちらの動画に戻すと、映像が灰色一色になっていた。どうやらカメラがアスファルトの上に投げ出されたらしい。


『物凄い音がしました。物凄い音がしました! 戦闘機が攻撃したんでしょうか。ミサイル? 爆弾? 機関銃? よく分かりませんが、攻撃が成功したことを祈りましょう。あっ……』


 カメラを拾い上げた琴歌が、突如として猛然と走り出した。彼女の息遣いが大きくなる。カメラが一瞬だけ捉えたところでは、身長3Mはあるであろう鬼が琴歌のほうへ歩み寄っているところだった。魔物と遭遇してしまったのだ。


 アヤは息をするのも忘れて映像と音声に集中した。母も凍り付いたように目を見開き、綜太も目まぐるしく動かしていた指を止めて動画に食い入るようにしている。魔物に追われているというのに琴歌はカメラを棄てようとしない。どころか、ときどき自分を追っている魔物をカメラで映そうと動かしているようだった。


 鬼がどんどん近づいている。のんびり歩いているようにしか見えないのに、必死に走っている琴歌よりずっと早く移動している。歩幅が違い過ぎるのか。


『はぁっ、はぁっ、今、わたしは追われています。あれが魔物です。路地に入れば撒けると思うのですが』


 琴歌の実況に、アヤは呻き声を漏らした。そんなこと言ってる場合か。息がもったいない。もっと必死に逃げてくれ。


 琴歌が路地に入る。勝手知ったる道なのか迷うことなく進んでいく。しかし曲がった先にまた別の魔物がうろついていた。まともに目が合ったようで、うわあ、と琴歌が絶望の嘆息を漏らした。


「まずいよ。挟み撃ちなんじゃない?」


 母が言う。さすがの琴歌も中継を続けるだけの余裕を失ったようで、カメラを落とした。映像が琴歌の足元と近くの住宅の壁だけになる。


「どうしよう」


 綜太が呟く。このままこの動画に接続し続けるべきか悩んでいるのだろう。もしかすると人の死を目撃することになるかもしれない。


 もしかすると――アヤはふと思った。この琴歌という女性も、あちらの世界ではそこそこ戦えて、こんな魔物あっという間に倒してしまう実力者だったのかもしれない。この女性だけではない、あちらの世界で手練れと知られている冒険者のほとんどが、こちらの世界では普通の学生だったり会社員だったりするのだろう。彼らは魔物と対峙しても、恐怖に凍り付いたまま為す術もなく殺されていく。


 本来だったら、あちらの世界の人間であるアヤが、率先して動くべきなのかもしれない。だが今は武器も何もない。おまけにアヤはろくに戦い方を知らない。戦闘の熟練者なら武器がなくとも霊力のコントロールだけでそれなりに戦えるだろうが、当然アヤはその境地に達していない。


 アヤは祈っていた。自分と同じように異世界に迷い込んだ人間がこの事態を解決してくれることを。だが、どれほど有能な人間が身を乗り出したとしても、個人が解決できるレベルの騒動ではないことは、アヤも薄々感じ始めていた。





   *





 琴歌は自分がカメラを落としたことにも気付かなかった。後ろからは巨大な鬼が。前方には六つ脚の馬のような牛のような、有角の獣が唾液を垂らしながら近づいてくる。


 琴歌は辺りを見回した。一応、完全に挟まれたわけではない。すぐ横には住宅と住宅に挟まれた狭い道がある。だがその先にはすぐ行き止まりになっており、もし本気で逃げるならその行き止まりから隣接する住宅の窓を叩き破り、家屋の中を移動して距離を取る必要がある。


 だが、琴歌はそれが成功するとはどうしても思えなかった。鬼の背後にはまた別の魔物がこちらに気付いており、ゆっくりと近づいている。いつの間にか魔物の群れの中に突っ込んでいたらしい。


「あああ――もうっ! 自衛隊が来てるんじゃないの? 戦車くらいすぐに寄越してくれないと!」


 琴歌は歯を食い縛りながら言った。死への恐怖より自分の迂闊さへの怒りが強かった。


 怒りで周りが見えなくなり、鬼が間近に迫っていた。武器は何も持っていないが、素手でも軽く触れられただけで骨が砕け肉が裂けるだろう、それだけの迫力があった。


 琴歌は仕方なく脇道に逃げようとした。だがそこから巨大な怪鳥が滑り込んできて琴歌の脇を通り過ぎた。その鳥は足で人間の遺骸を掴んでおり、近くに落としていった。琴歌は驚きのあまり尻餅をついてしまった。

 

「あっ」


 琴歌は見上げた。鬼がその巨大な腕を振り上げているところだった。近くで見る鬼は意外と愛嬌のある顔をしていたが、それがかえって狂気を感じさせる。琴歌は思わず顔を伏せた。もう自分が死ぬことは避けられない、そう覚悟した。


 だが異音が聞こえた。


 空を切る音、怪鳥の短い鳴き声、そして何かが潰れる音。


 琴歌は咄嗟に目を見開き再び頭上を見た。


 空から何かが降ってくる。


 いや、何か、ではない。誰か、だ。


 少女。


 頭部を短剣で貫かれ地面に釘づけにされた怪鳥。鬼に向かって着地しざまその少女は巨大な剣を振り下ろした。脳天から股下まで一刀両断された鬼は綺麗に二つに分かれて地面に倒れた。間髪を容れずに六つ脚の獣が襲ってくるが、少女は剣を投げた。獣に突き刺さったそれは発火し、あっという間に魔物を消し炭にしてしまった。


 琴歌は絶句していた。何が起こったのか分からない。目の前の少女は剣を拾い上げると、琴歌に笑いかけた。


「恩を返せましたね。偶然通りかからなかったらと思うと、ぞっとしますけど」


 恩? 琴歌は意味が分からなかった。


「あ、あの……、あなたいったい……。わたしとどこかで会ったことあったっけ?」

「いいえ。たぶんないですよ」


 その少女はふと笑みを消し、遠くを見る目になった。


「すみません。私、行くところがあるので」


 そう言うと少女は空を駆けた。琴歌は腰を抜かしたままだった。しばらく茫然としたままだったが、魔物の死体の異臭で我に返り、近くに落ちていたカメラを拾い上げた。


「琴歌チャンネルをご覧の皆さん、見たでしょうか! たった今、謎の少女が――美少女が魔物を倒していきました! ああ、名前を聞けば良かったなあ! 空を走っていって、もう姿が見えません! 魔物が現れたのが突然なら、それを倒すヒーローも何の前触れもなく現れるものなのでしょうか! 自分でも混乱していますが――きっと、きっと、彼女があの魔物どもを倒してくれるでしょう! 圧倒的な強さでした!」


 琴歌は半ば叫びながら、走り出していた。少女が立ち去ったほうへ。あの戦いの続きを是非生中継しなければならない、その使命感に駆られていた。





   *





 綾が目覚めたとき、そこは学校の屋上だった。どうやら元の世界に帰ってこられたようだが、どうしてこんなところで目覚めたのか、分からなかった。


 始祖はどこだろう。如月は? 綾は頭痛に顔を顰めながら立ち上がり、自分の左腕が銀色に光り輝いていることに気付いた。


 左腕が吹き飛び、霓がその代替を果たしている。その状況に変わりない。きっと街中に繰り出したら注目を浴びるだろう。しかしそれが大したことだとは思わなかった。日常に戻ることができる――それは遠い未来のことのように思えたからだ。


 今はとにかく状況を知りたかった。始祖は大人しく星の中枢付近で永い人生を送ることを決めただろうか。それならいいが、もし平和的に物事が進まないのであれば――


 学校の昇降口付近で、学生たちが騒いでいる。一つの携帯電話の画面に、複数の学生が食い入るようにしている。綾は不穏な空気を感じ取り、屋上からそこに飛び降りた。


 普通に考えればかなり思い切った行動だった。もしかしたらこちらの世界では機動靴が機能しないかもしれない。その可能性に思い至ったのは完全に自由落下が始まってからだった。だが問題なく機動靴は霊力の供給に応じて作動し、綾を緩やかに着地させた。


「ごめんなさい、何を騒いでるの」


 綾の突然の登場に学生たちが驚愕した。綾がその携帯電話をひったくると、それはニュース映像で、巨大な植物のような構造物が都市部に出現し、大量の魔物を吐き出しているところだった。


 直感した。始祖の仕業だ。


「これ、どこ」


 綾は近くの学生に尋ねた。学生はかぶりを振って曖昧な言葉をぼそぼそと述べている。


「ていうか、ここ、どこ!」


 綾は叫ぶように詰問した。やっと自分の知りたい情報を引き出せたのは数分後のことだった。


「結構近くだね……。よしっ!」


 綾は跳躍し、空を移動した。機動靴は問題なく作動している。霊力の濃度が薄いようで、自然に霊力の回復を待っても相当に時間がかかりそうだが、大量のギフトを持参しているのでそこは問題ない。


 街並みを眼下に見ながら、しかしその景色に見惚れることもなく、自分がかなり思い切った行動をしている自覚も薄く、ただ再び戦いに身を投じる為に、全速力で目的地に向かった。


「私しかいない……。アレの相手ができるのは!」


 その言葉は綾に勇気を呼び起こすと同時に、孤独な絶望を引き起こすものでもあった。自分が敗れればもう誰も始祖を止められない。そして自分一人で始祖を止められるのか、自信は全くない。


 それでも止まるわけにはいかない。綾は空高く駆けて、そして道中、窮地に立たされているよく見知った顔を発見したのだった。










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