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隣のダンジョン  作者: 軌条
第三部 超深層攻略
103/111

想定内と想定外

101、想定内と想定外




 以前、瀬山綾から話を聞いたとき、彼女は自室のベッドで眠っている内に異世界へと迷い込んだと知った。バイクに乗っているときに異世界へと転移した如月よりも穏やかな渡航経緯だと思ったが、興味深かったのはそのときの彼女の状態だ。


 足を捻挫していたはずなのに、異世界に迷い込んだと同時に、その捻挫は治っていた。そう言っていたのだ。


 最初はさほどおかしなことではないと思った。異世界に迷い込むという体験の不思議さに気を取られて、捻挫が治るくらいは些末な出来事だと感じた。しかしすぐにこれはかなり重要な事実だと考えるようになった。


 異世界に迷い込んだ、とは言うが、移動しているのはその者の魂だけであって、肉体は元の世界に留まったままなのではないか。つまり元の世界と異世界に存在するそれぞれの瀬山綾の肉体はそのままに、精神だけが入れ替わったのではないか。それは如月や他の異邦人にも当てはまることだ。


 だが、始祖が実行した異世界転移は、そうではない。精神を入れ替えるだけでなく、肉体ごと異世界に押し込む。それでなければ、霊力が不足しつつある世界からわざわざ移動するメリットがない。



 如月は激しい頭痛と共に目覚めた。その頭痛は覚醒と同時に急速に治まっていったが、周辺の状況の把握には時間がかかった。どうやら如月は乾いた洞窟の中で気絶していたようだった。


 如月は肉体の改造を受けておらず、夜目が利かなかった。だが仄かに辺りには明かりがあり、一応視界は確保されていた。どこから光が差し込んでいるのかは分からなかった。


 しばらくその場に突っ立っていたが、やがて始祖の姿がないことを不審に思った。ここはまだダンジョンの中なのか、それとも元の世界に帰ってきたのか、判断する材料がなかった。このままじっとしていても何にもならない。


「どういうことだ、これは」


 声がした。如月は声のしたほうへと歩き出した。始祖の声だろうか、しかし随分と苛立っているように聞こえた。


 如月が目を凝らすと、闇に佇む始祖の姿が見えた。その眼は血走っており、近寄りがたい雰囲気があった。


「どうしたんだい、始祖」


 如月は尋ねた。言いながら接近する。正直に言うと彼に近付くのはかなりの恐怖だったが、如月が想定していた事態に直面していると考えると、近付かないと話にならない。


「霊力が薄い」


 始祖は吐き捨てるように言う。如月は無表情でそれを聞いていた。


「これではあちらの世界と大差ない。いやむしろ、こちらの世界のほうが霊力に乏しい! こちらでは霊力はほとんど利用されていない。消費もされていないはずだ!」


 始祖は如月を睨みつけた。如月は肩を竦める。


「可能性は三つあるね……、一つ。我々は異世界転移に失敗し、未だにダンジョンの中にいる」

「ありえない。その可能性はない。間違いなく異世界に移動することに成功した」

「じゃあ、二つ目。たまたま霊力に薄い場所にいるだけで、他の場所には大量に霊力が眠っている」

「それもない。霊力がどこかに大量にあるのなら、私にはすぐにそれと分かる」


 始祖の声には苛立ちが満ちていたが、如月の言葉から何らかの答えを見つけ出そうと、藁にも縋る思いでいることが見て取れた。如月は嘆息する。


「……じゃあ、答えは一つしかないな。こちらの世界にはそもそも霊力がほとんどない」

「いったいどうしたことだ! 二つの世界は極めて近しい。一方には霊力が大量にあり、他方にはほとんどないなんて! ありえない!」

「ありえないって言葉は嫌いだな。実際にそうした事態があったんだから」


 と言いつつ、如月はこの事態こそ最も恐れていた。もしこちらの世界にも大量の霊力があるのなら、始祖は霊力を独占利用し、結果的にこの星を殺すことになるかもしれないが、影響が出てくるのは数百年、数千年、あるいはもっと先のことになるだろう。それならそれで彼を放置していても良かったかもしれない。


 問題となるのは、こちらの世界の霊力が想定より少なかった場合だ。始祖が乏しい霊力と共に大人しく朽ちてくれればそれで良いが、そんなことにはならないだろう。


 また別の世界に転移するべく、こちらの星に存在する僅かな霊力を掻き集めようとするはず。恐らくそれはこの星にとって致命傷となる。


 始祖は如月から視線を逸らし、一人でぶつぶつ言い始めた。


「こちらの世界に私に似た者の気配はない――精霊もいない。何者かが霊力を使い込んだということもなさそうだ。なぜ霊力がない? 使う者がいなければそれを星が生産するということもないのか? だが地上に蔓延る人間の営みが、星の中枢に作用するなんてことは考えにくい。ならば……」


 如月は隠し持っていた短剣を手に取った。試しに自身の霊力を注ぎ込むと、この精霊謹製の武器は問題なく起動した。


 もし、始祖がこちらの世界にとっての敵となるなら、始末しなければならない。如月はそう考えて彼と一緒に異世界転移を果たした。本当なら綾が適任だったが、彼女はそもそも異世界に渡り歩くこと自体に抵抗があるようだったので致し方ない。


 如月は自分が始祖を殺せるとは思っていなかった。もし成功したら奇跡だ。だが如月以外の人間はそれを試みることさえできないだろう。そして始祖を殺さなければ、この世界は蹂躙される――


 如月が声もなく突進した。始祖は思索に没頭していて気付かない。如月は背中から始祖の心臓のあたりに短剣を突き刺した。


 思いのほか、あっさりとその刃は肉を貫き、彼の心臓に達した。確かな手ごたえがあった。しかし如月は油断することなく短剣を捻り回した。大量の血が背中の傷口から滴り落ちた。


 普通の人間なら致命傷だが……。如月は攻撃が成功したにも関わらず、恐怖していた。始祖が悶えることもなく、平然とそこに立っていたので。


「――如月、お前は気付いていたようだな。こちらの世界に霊力が存在しない可能性を」

「……まあね。私はきみほど楽観的にはなれなかった」


 如月は言いながら短剣を引き抜こうと力をいれた。しかしびくともしなかった。始祖はこちらに顔を向け、小さく息をつく。


「もし、霊力が存在しなければ、私を討つ必要がある。そう考えていたわけか。私より先を見通せていたようだな。私はこの計画の成就にばかり神経を使い、そんな基本的な可能性を見落としていた」


 短剣が折れ、如月がよろめいた。始祖はそんな彼の腕を掴み、転ばないように引き上げた。如月は目の前に立つ始祖の顔を見て心底恐怖した。そこには慈愛の表情さえ見て取れた。


「間抜けだなあ……、私は。一つ言い訳するなら、私は霊力の独占利用という点にこだわり、霊力を積極的に利用している世界に移動するのは避けようと考えていた。私一人で、その星に存在する全戦士を相手にするのは億劫だと思ったからだ。だが、甘かった」


 始祖は如月から離れ、ゆっくりと歩き始めた。如月は折れた短剣の柄を持ったまま立ち尽くすことしかできなかった。


「その世界に霊力が存在するか否か。それを確かめる方法は一つしかない。異邦人を招き、その者が霊力の存在を知っているかどうか尋ねる。これだけだ。そして霊力の存在を知っていたなら、少なからず、その世界には霊力を利用する者がいるということ……。もし霊力を私が優先的に利用したいなら、闘争は避けられない」


 始祖は一つ一つ確かめるように言う。如月は小さく頷いていた。


「……もちろん、霊力が存在するのに、そこに住む者がそれに気付いていないという場合もあるだろう。だが、それは一種の博打だ。私は愚かだった。よく似た世界だからという、ただそれだけの理由で、霊力が豊富に存在すると思い込んでいた。なんと愚かか……」

「どうするつもりかな、始祖。私のおすすめは、これからの余生を穏やかに過ごし、何なら、地上で適当に遊んで暮らすといい。きみの能力なら何の問題もなくカネを稼いで生きていくことができるだろう……」

「何の冗談だ?」


 始祖は笑む。


「それこそありえないことだ。私は決めたよ。もう一度異世界転移をする。その為の装置はここにはないが、製法は精霊から聞き出している。かなりの時間がかかるが、仕方ない」

「だが、ここには精霊はいない。本当にそんなことが……」

「できる。だが、その為にはこの星に存在する全ての霊力を一か所に掻き集める必要がある。こちらの生物にも微量の霊力が含まれているようだ。地上に存在する全ての生命体から霊力を奪い尽くせば、ぎりぎり、転移するのに必要な霊力が確保できるかもな……」


 如月は思い知った。これまでの自分があまりにも楽観的だったことを。まさか直接的に地上の人間を殺そうとするとは思わなかった。如月は戦慄し、予備で持っていた短銃を取り出し、撃ちまくった。


「うわあああああああ!」


 すぐに霊力が尽きた。喘ぎながら短銃を落とす。始祖は全身に銃弾を浴びていた。大量の血が流れているが、彼は平然としていた。


「……この傷は戒めとして敢えて受け入れよう。さて、如月、言い残したことはあるか? 私の記憶に永遠に刻み込んでおいてやる。お前の最期をな」


 如月は激しく狼狽していた。もし始祖が地上に攻撃を開始したら、一体誰が応戦してくれる? いったい誰が始祖に対抗できるというのか? 戦車や戦闘機が始祖を殺せるだろうか? 


 こちらの世界には制圧部隊や攻略組はおろか、ダンジョンで鍛え上げられた冒険者が一人もいない。楓や神といった実力者がいたなら、もしかすると勝てるかもしれないと思っただろう。だがこちらにはいない――同姓同名のよく似た人間はいるだろうが、彼らは無力だ。為す術もなく殺されるだけ。


 如月は始祖に勝てないと確信した。説得するしかない。必死に頭を巡らせた。


「きみにはもう人の心はないのか。元々は我々と同じ、ただの人間だったんだろう?」

「何百年と生きている内に人の心は摩耗して消え去ったよ」

「しかし、こうして普通に話せているじゃないか」

「それは、言葉を介しているせいだ。言葉が持つ機能とでも言うべきか」


 如月は頭を捻る。単純な相槌を繰り返すだけのプログラムと対話した人間の多くが、そのプログラムに「人の心がある」と判断した、なんて話を聞いたことがある。


 分かり合えるかもしれない、という望みは断つしかないのか。そもそも始祖のように人類を超越した存在でなくとも、隣人の考えも分からないというのが人間同士の関係性。世の中には理解し難い所業で世間の注目を浴びる者がいる。始祖の考え、感覚、主義主張は、きっとそれらに類するものだ。


「如月。それ以上抵抗するな。貴重な霊力が勿体ない」

「私の霊力など……、雀の涙というものだろう」


 如月にはもはや死の恐怖はなかった。さっきまではあったが、それ以上に巨大な恐怖に心が塗り潰されていた。


 人類、いやこの星の営みの全てが、この身勝手な男に壊されるかもしれない。子供の頃、人はいずれ全員死ぬ。地球はいずれ膨張する太陽に飲み込まれて消え去る。いずれ宇宙はビッグクランチを経て消滅する。などという話を聞いて、底知れない恐怖を感じたときのように、如月は全身の肌に粟を立てていた。


「雀の涙を掻き集めて私を異世界に押し流すうしおとする。死ね」

「待って……、待ってくれ!」

「無様な。命乞いか?」


 始祖の嘲るような声。如月はかぶりを振った。


「そうじゃない……。ただ、それに近いかもしれない。本当に地上の生物を根こそぎ殺すつもりなのか?」

「くどいな。それが必要ならそうする」

「そうか……。それは残念だ」


 如月は懐に隠していた帰還石を取り出した。始祖はそれを見てせせら笑う。


「そんなものがこちらの世界で作動すると思うのか? 精霊による管理がなければ、そんなのはただの石ころよ」

「抗体がなぜ異邦人の存在を知覚できないのか。その理由を考えたことがあってね。私自身の肉体と、向こうの世界の人間の肉体を比較して、判明したことがある。伊達に一年間も研究に加わっていなかったわけだ」


 如月は帰還石を掌の上でいじくりまわした。


「異世界の人間の魂が、自分と良く似た姿をしている肉体に乗り移る。それが異邦人の正体。ならば抗体が見ているのは人間の姿形ではなくその魂。そうなんだろう?」

「さてな」

「帰還石を改良するにはそのことが非常に重要だった――つまり、異邦人は元の世界との繋がりを完全に失ったわけではない。抗体が魂だけを見て冒険者を索敵するなら、その構造を詳細に分析すれば、異邦人の魂だけを選別して異世界に引き込める。すなわち元の世界に帰る手段として帰還石が応用できるかもしれない。私はそう考え、開発を進めた」

「だが、完成はしなかった」

「そう。完成していたらとっくに元の世界に帰っていただろう。だが、帰還石そのものに対する理解は深まった。こうして異世界だろうが何だろうがどこからでも地上に帰還できる特注品が出来上がったわけだ」


 のちにこれが、精霊騎士が使っていた帰還不能ダンジョンでも自由に離脱できる特殊な帰還アイテムとほとんど同じものであることが判明したが、それはどうでもいい。如月は帰還石を握り締め、始祖を睨んでいた。


「そんなものを持っているならさっさと地上に逃げ帰ればいいものを。故郷が恋しいだろう」

「きみを殺さなければならないと思っていた。あるいは説得を。だが無理そうだから、せめて私は」


 せめて私は――何ができるというのだろう?


 如月は自問した。帰還石を起動し、地上に瞬間移動した後も、気持ちは塞がっていた。


 そこは寂れた公園だった。貧弱な低木の間に錆びた鎖が今にも切れそうなブランコがあり、それから緑に変色したコンクリート製の滑り台が如月の視界に入った。


 ここは地上だ――しかも見覚えがある。子供の頃、ここでよく友達と遊んでいた。そんな記憶がある。地元の街に帰ってきたのだ。


 風は穏やかで、雲の奥に隠れた太陽の控えめな光が、心地良かった。


 ただの地上ではない。ここは元の世界の地上なのだ。


 だがこの平穏な風景が今にも壊されるかもしれない。如月は途方に暮れた。これからどうするべきなのか、彼にはまるで分からなかった。







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