綾という少女
1、綾という少女
右足首を捻挫したときは血の気が引いた。直近に大事な試合があったわけではないけれど、綾にとっては週末の練習試合に出られないことが絶望的な出来事に思えた。
「お前は直情的過ぎる。たまには物事を俯瞰してみろ」
女子バスケ部顧問の高木先生からはこう諭された。しばらく部活に顔出さなくてもいいぞー、なんてことも言われた。冗談じゃない。捻挫をした翌日には一番に体育館に乗り込み、片足で躰を支えながらドリブルやらシュートやらを練習した。片足でもこれくらい余裕じゃん。と調子に乗っていたら右足にボールをぶつけて激痛に悶えた。それから無茶はしないようにしている。こんなんで捻挫が悪化したら馬鹿みたいだし。
部活の仲間たちは綾に同情的だった。けれどいざ練習が始めると、当然のことだが、綾のことなんか歯牙にもかけずボールを追い躰をぶつけ合い顧問の檄に小気味の良い返事をしながら青春の時間を過ごした。綾はそれをぼうっと眺めていることしかできなかった。
仲間に技術的なアドバイスでもしてやろうかと最初は思っていたが、綾はそういうことに全く向いていなかった。簡単に言えば彼女は感覚派だった。運動神経が抜群に良かった代わり、どうして皆が自分と同じことができないのか理解できなかった。別に理解したいとも思っていなかったが、こういう人間が技術指導などできるはずもない。恐らく無理にやろうとすれば誰かと喧嘩が始まる。
それを自覚できているだけいいだろう。綾はそう自分を慰め、顧問からは「たまには家の手伝いでもしてろ」という言葉を受けて部活に顔を出さなくなった。日が暮れる前に帰宅するなんて滅多にないので新鮮な気分だったがすぐに慣れた。どうせ捻挫なんて何週間かすれば完治するし、たまにはのんびりしてもいいだろう。捻挫したときの絶望的な気分が嘘のようだった。
「ただいま」
綾は家の玄関の扉を開けるとき、こう言うのが癖になっている。いつもは夕飯時なので母親がおかえりと言ってくれるのだけれど、早く帰宅するようになってからは誰も言ってくれない。
誰もいないわけではないのだ。綾の隣の部屋には弟の綜太がテレビゲームに熱中している。びっこを引きながら弟の部屋の前に行くと音が漏れ聞こえる。文字で表現するならバシュン、ピカン、ボゴン、とでもなるだろうか。ノックをしても返事がなかったのでそうっと開けた。
途端大音量が耳に飛び込んできた。部屋の大きさに全くそぐわない大画面にのめり込むようになりながら、せわしなくコントローラーを操作している弟の丸まった背中があった。
「ただいま」
綾が言っても返事はない。聞こえないのだろうか。でもイヤホンをしているわけでもなし、聞こえないはずがない。綾は悪戯心を発揮してそろりそろりと背後から近づいた。
「たーだーいーまー!」
ほとんど叫び声だった。突然ゲームの音が鳴り止んだ。ポーズをかけたのか。そして血走った目をした弟が振り返る。
「うるせえよ! ハゲ!」
そしてゲームを再開した。大音量に包まれてゲームに熱中する綜太は全く楽しんでいるように見えなかった。激しく指を動かしているが全体の印象はまるで微睡んでいるかのようだ。酷く退屈そうだった。
「昔は可愛かったのになあ……」
綾はぼやきながら弟の部屋を出た。昔、と言っても三年くらい前だが、お姉ちゃんお姉ちゃんと鬱陶しいくらいだった。当時も一緒にゲームしよ、ゲーム! などとゲームに関心があったが、今ほど酷くはなかった。通っている中学校では部活に入らず、帰ったらすぐゲーム機を起動する。親や姉とはほとんど会話しない。学校では優等生らしいがあまり友達はいないらしい。活発で誰とでも気兼ねなく話す綾とは正反対だった。
綾は自分の部屋に向かった。制服から普段着に着替える。右足を庇いながらベッドに腰掛けた。眠気があった。こんな時間に眠ったら夕飯まで起きないかも。でもたまにはそんなことがあってもいいだろう。何と言ったって怪我人なのだ。弟のようにゲームばかりやってもしょうがないし、捻挫が治ったらゲームする暇なんてないだろうし。あんなチマチマしたことやって、何が楽しいんだろう。躰を動かしたほうがよほど楽しいよ。
昼寝する前に雑誌でも読もうかなと思ったが眠気がどんどん強くなった。結局枕に頭を載せるとすぐに瞼を閉じた。心地良い感覚だった。良い夢見られそうだなあ。なんてことを考えながらすぐに思考は溶けていった。
*
綾は高校一年生だった。バスケが得意で、その気になればスポーツ推薦で受験勉強を回避することも可能だったが、一般入試で入った。綾の友達の多くはよく勘違いしていて、綾が英語で八〇点取っているのを見て「スポーツ推薦にしてはやりよる」という反応をする。いちいち訂正するのも面倒なので、「顔が良くて運動出来て勉強もできるって非の打ちどころがないよね」と自画自賛し胸を張っている。
弟の綜太も、勉強はかなりできるほうだし、スポーツもずば抜けた才能があった。去年の中学校の運動会にこっそり忍び込み、弟がリレーの選手に選抜されているのを見た。後から聞くと、帰宅部で選抜されているのは彼だけだったらしい。しかもアンカー。他の組の走者をごぼう抜きして彼のクラスメートがきゃあきゃあ喚いていたのを覚えている。そんなときでも彼は笑顔を見せず、仲間からもみくちゃにされながら迷惑そうな顔をしていた。
「凄いじゃない。カッコ良かったよ。さすが私の弟だね」
その日の夕食どき話題に出すと、両親は驚いた様子だった。息子がリレーのアンカーを任されていたこと自体知らなかったようだった。
すると弟はいつも以上に無愛想になった。
「余計なことを言うなよ」
そう言って綾を睨みつけた。褒めているのに。明るい気持ちが一気に落ち込んだ。
ときどき弟のことが分からなくなる。近い将来、陰惨な事件でも起こしそうな雰囲気だ。さすがにそれを口に出すのは姉として酷いと思うから誰にも相談していないけれど、ここ最近の変わり様は心配になる。どうしてそんなに急に暗くなったのだろう。学校の成績は良いし、登校を拒否しているわけでもない。学校で問題を起こしたわけでもない。だから余計なお世話なのかもしれないけれど。
もし、弟が誰かを傷つけようと思い立ったら、真っ先に被害に遭うのは綾だろう。母親とはぼちぼち話をするようだし、父親には無愛想というより萎縮しているだけのように思える。明らかな敵意を向けているのは綾に対してだけだ。イジワルをした自覚はないが、一番嫌われているのは間違いない。どうして嫌われたんだろう。
「綾。夕飯出来たわよ。さっさと起きなさーい」
母親の声がした。眠っていた綾は瞼を押し上げた。濃厚な睡魔がまだ彼女に覆い被さっていた。やっぱり生活のリズムを安易に変えるべきではない。躰がだるかった。
声が遠くから聞こえる。
「しょうがないわね。そうちゃん、綾を起こしてきて」
母親がそんなことを言っている。馬鹿馬鹿しい。弟が綾を起こしてくれるはずがない。挨拶さえ拒絶するくらい嫌われているというのに。
「はーい」
綜太の声。綾は危うくスルーしてそのまま瞼を閉じてしまいそうになったが、全身の筋肉が一気に緊張して跳ね上がった。上半身を起こして部屋のドアを凝視する。
今の声は弟の? 間違いない。しかし何だあの快活な返事は? 長らくあんな明るい弟の声は聴いていない。それとも、母親に対してはあんな風に話すのだろうか?
足音が近づいてくる。それは綾の部屋の前で途絶えた。唾を飲み込んだ。一瞬の沈黙の後、ノックがあった。
「姉ちゃん? 起きてる? 夕飯出来たよ。今日はシチューだよ」
驚愕のあまり咄嗟に声が出なかった。あの陰険で敵意剥き出しの弟が綾に対してこんなことを言うなんて。
夢だろうか。いや夢ではない。紛れもない現実である。綾はベッドから飛び降り、ドアに突進した。
ドアを勢い良く開ける。すると目を丸くしている綜太の顔が目の前にあった。いつもより血色が良い気がする。顔つきも柔和である。
「そ、綜太! もう一度言ってごらん!」
「え? 何を?」
「お姉ちゃんって! ほら、お姉ちゃんだよ!」
「ね、ね、姉ちゃん、どうしたの?」
夢ではない。しかし奇跡である。こんなに素直な弟と再び会えるなんて。あの生意気な顔が可愛く思えた。嬉しさが込み上げるあまり背丈が同じくらいの弟をぎゅうっと抱き締めてしまった。
「うぎゃー! 姉ちゃん、離してよ!」
「ああー! 綜太、やっとお姉ちゃんの思いが通じたんだね!」
騒ぎを聞きつけた母親が廊下に出てきて笑っている。
「あんたたち、何をやってるの。ほんと、仲の良い姉弟ね。シチュー冷めちゃうわよ」
どうして母親はそんなに冷静なのだろう。綾は綜太から離れると居間に飛び込んだ。
「ねえ聞いて! 今日綜太おかしいんだよ! めっちゃ素直になってる!」
母は首を傾げた。
「何を言ってるの。そうちゃんはいつも素直でしょ。それより、綾のほうがおかしいわよ。いつもより元気ねえ」
「私はいつも元気でしょ!」
元気、という言葉ではっとした。綾は悲鳴を上げてその場に座り込んだ。母親と綜太が何事かと集まってくる。
「ど、どうしたの綾! 変な声を上げて!」
「どうしたの、姉ちゃん」
綾は涙目だった。右足を持ち上げる。
「いや、捻挫してたの忘れてた……。思い切り廊下走っちゃったよ。治るの遅れたらどうしよう」
母親と綜太は顔を見合わせた。そして綜太が綾の右足をつつく。
「ひあっ! やめてよ、綜太!」
「ご、ごめん。でも、いつ捻挫なんかしたの?」
そうか。綜太は綾のことなんか気にしていなかったから、綾が捻挫していたことも知らなかったか。
しかし母親まで不思議そうな顔をしていた。おいおいしっかりしてくれよおふくろさんよ。
「とにかく、捻挫してるんだから。安静にしない、と……」
しかしここで圧倒的な違和感が襲ってきた。足首が全く痛くないのである。
昼寝する前までは、少しモノに当たっただけでも激痛が走ったのに、今では全く痛くも痒くもない。綜太につつかれたときもくすぐったかっただけだった。
試しに自分でちょんと触れてみても、平気だった。思い切って両脚で立ち上がってみたが、何の問題もなかった。勢い良く床を踏みつける。足の裏がジンとしただけだった。
「あ、あれ? な、治ってる……。どういうこと?」
「姉ちゃん、寝ぼけてるの?」
弟の呆れ声。母親も溜め息を零した。
「まったく。今日の綾はおかしいわね。さあ、ごはんにしましょう。今日はシチューよ。シチューの素が特売だったの」
「へえ。幾らだったの?」
「五点ね」
母と弟の会話。何気なく聞き流していた。捻挫が治っていることのほうがよほど大事だった。さっきまで当分治らないだろうと思える程度には痛みがあったのに、今は平気である。逆に不安になる。神経がいかれてしまったのだろうか。このまま普通に歩いていたら骨が歪んで、二度とスポーツが出来ない躰になってしまったりしないだろうか。どうしよう。
結局、右足を庇いながら食卓に向かった。椅子に尻を載せ、いただきますと上の空で言いシチューを啜る。
美味かった。母親の料理に不満を抱いたことはないけれど、今日は殊更に美味しい。初めて母のシチュー食べるわけではないのにおかしい。と思ってよくよく具を見ると、白いシチューの湖の中に赤黒い肉がある。牛肉でも豚肉でも鳥肉でもない。不思議に思って母親に訊ねた。
「ねえ、これ何の肉? 高そうだね」
母親はまたもや不思議そうにした。
「何を言ってるの。毎日食べてるじゃない。トンキの肉よ。お父さんが狩ってきたやつ。どうせ売っても大したお金にならないから、いつも家に持って帰ってきてるんじゃない」
トンキ。そんな動物いただろうか。いや、それよりも父が狩ってきたとは。買ってきた、と言ったのだろうか。ちょっとイントネーションがおかしくなったのかな。綾が不思議に思ってると、玄関で音がした。父が帰ってきたのだ。
「おかえり!」
綾はわざわざ立ち上がって、父を出迎えた。いつものことだ。世間では娘と父の関係は上手くいかないことのほうが多いらしいが、綾と父の場合は別だった。普通に話をするし、相談もよくする。将棋を指したり、一緒にテレビを見て感想を言い合ったり、将来の夢についても話したり。
しかしこの言葉に驚いたのは母親と綜太だった。特に母は驚きのあまり持っていた食器を落とした。幸い食器は割れなかったが、それにしても綾までびっくりした。綜太の口が震えている。
「どうしたの、二人とも。変な顔して」
「ね、姉ちゃん。お父さんにおかえりって言ったの?」
「言ったけど? 普通言うでしょ」
「そりゃあ、普通はね」
今に父が駆け込んできた。綾はぎょっとした。平凡なサラリーマンである父は青白い肌をした細身の男性だったが、今目の前にいるのは褐色の肌をしたがっしりとした体格の偉丈夫だった。背丈まで大きくなっている気がする。
別人ではない。同一人物であることは、顔とか声を確認すれば分かる。しかしこの変わり様は。
「あ、綾さん!」
「え、あ、はい」
父の声が上ずっていた。父は緊張しているようである。随分慌てていて、肩がせわしなく揺れている。
「い、今、おかえりって、言った、言いました?」
「えと、はい、言ったけど。……いつも言ってるじゃん?」
「……えと、怒ってる?」
「へ?」
どうしてそんな風に思うのだろう。綾は笑みを見せた。
「怒ってないよ。怒ってるように見えるの? 変なの」
「う、うおおお、そうか、そうですか。ならいいんですけ、ど……」
父は驚愕の表情を浮かべながら、居間から退散した。着替えに行ったようだ。綾は首を傾げっぱなしだった。
「ねえ、今、父さん普段着だったよね? スーツじゃなかったけど、ちょっと早めのクールビズってやつかな? ねえ?」
「――綾!」
母親が突進してくる。そして抱きすくめられた。躰を縦に揺らされて眩暈がした。
「うわあ、何するの、お母さん!」
「綾! お父さんとやっと打ち解ける気になったのね! 良かったわあ! 本当に良かった!」
弟まで嬉しそうに顔を綻ばしている。
「今日の姉ちゃんって別人みたいだ」
綜太にだけは言われたくない。綾はつくづくそう言ってやりたかった。今日は綜太も母も父も変だ。ついでに料理まで変。やっぱりこれって夢なのかな。夢にしては奇妙さが足りないけど。綾は母親に揺さぶられながら、不思議に思っていた。