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高校生に魔法はいらない ~春のららら~

作者: ひさみち

 4月と1月は、二大『新しい何か』を期待させられる季節だ。

 今は4月。周囲も、なんかやっとけ的な高揚感に包まれている。

 今年最後の『新しい何か』が起こるかもしれない月なわけで、この月を逃すと次は来年ってわけだ。

 まぁ、なんとも早すぎる今年最後ではある。

 しかしまぁ、何か、ねぇ……

 体育館裏の菜園以外これといって興味はない俺にとっては、期待するのもバカバカしい。

 かといって無関心は、無理して斜に構えているように見られかねない。

 とかく人付き合いは面倒臭い。

 とりあえずため息を一つ、何か期待したフリでもしようかとあたりを見回すのだった。


1章


「明日、転校生が来るからな」

始業式が終わり、明日からの日程が配られ、後は帰るだけというタイミングで担任の『ゴータ』こと笠原剛太が鼻にかかる声で告げた。

「なぁ、転校生ってなんかいいよな」

 振り返ってぼそり、と言ったのはロン毛のジュウイチだ。振り返り際にリンスの匂いがふわりと俺の鼻孔をくすぐった。

「あぁ、そう、だな……」

 『堀内十一』、一年の入学式の時も俺の前の席にいた。

仲が良いかと言われれば、どうだろう。仮にバリカンが目の前にあったら、分け目のくっきりした真ん中からガリガリ剃っても問題ない。それくらいの仲ではある。

「ひえっくしょん!」

 笠原がくしゃみを一つ。

「っあー、今年は花粉ひどいな。風も強いし。お前らも気を付けろよ」

…………

「気をつけようねーし」って声がどこからともなく聞こえた気がした。そして俺は、鼻息を荒くして十一の残り香を鼻孔から追い出していた。


 鐘が鳴る。一日の終わりを告げる鐘、どこか威厳に満ちている。

 鐘が鳴り止む前に教室を出ると、早足で廊下を進んでいった。

 今日一番の胸の高鳴りがした。

 おぉ野菜たちよ、お前たちは今どこで何を思う? などと妄想する俺は、菜園に対してだけ発揮される叙情的な言葉に思わず苦笑するのだった。

春休みに撒いたスイカとじゃがいも、トマトの種、どうなっているだろうか。今はそればかりが気になって仕方なかった。

 体育館の東側にある菜園。昼までは体育館の影に隠れてしまう。園芸においてベスポジではないが、そのことに不満はない。むしろ、俺個人が使える広さとしてはありがたいほどだ。

「ファイットー」と声がする。グラウンドの中央を陣取っている野球部連中だ。俺は、表情を険しくさせた。奴らは、うるさい上に生意気だ。時折すっ飛ばしてきたボールを取りに、ずけずけと畑の中に入ってくる。それが許せない。奴らに比べればアブラムシですら益虫にカウントされるだろう。

「腐れ外道め、滅せよ!」

 俺は声の方に向き直ると、五芒星を指先で空に描いた。そして、視線を戻す。

ふふ、チューリップ、やっぱいいぜ。すぐ手前に赤、白、黄色。三色、三列に咲いている。一年の時に植えたチューリップ、終業式の少し前に咲き始めたやつだ。

「お前ら、よく咲き残ったな。偉いぜ」

 屈むと、その花びらをそっと指でなぞった。

「おっと、忘れてた」

 立ち上がると、そこから少し離れた日当たりの良いところに撒いた野菜の種の場所に寄った。撒いたのはつい最近のこと、発芽はまだか。わかってはいるが、ほんの少しだけがっかりする。

 ま、それは良い。開き直った俺は腰をかがめると、雑草をむしりにかかった。

「あら、瑛太、あんた来てたの」

 女の声。

「なんだ津山か」

 後ろを振り返ると白衣の教師がいた。津山は化学の教師で、菜園部の顧問をしている。ヤル気がないというか、どこか気だるい。女としての何か大切なものを捨てている感はあるが、それに反して美人だ。

「――あんたー、その生意気な口の聞き方なんとかしないと廃部にするわよー」

 そう言って左手に持ったバインダーで俺の頭をボスボスと叩いた。

「やってみやがれ。俺には関係ねー」

「まったく……あんたがそんなんだから部員も増えないのよー……」

「それは違うな。今時のガキどもが菜園なんてするわけねーんだよ」

…………

 あんたは? と言いたげな表情で俺を見る。

「まぁいいとして……チューリップ咲いたじゃない」

 チューリップの花壇に向かって言った。

「おぉ、すげーだろ」

 菜園のことで自分のやったことが誉められるのは悪い気がしない。

「せっかくきれいに咲いてんのに、私とあんたしかいないんじゃなんかもったいないわねー……」

「いいんだよ別に。邪魔な奴居ないほうが俺は楽だ」

「あのねー、そうゆーわけにもいかないのよ。このまま今年も部員があんただけだったら廃部だからね」

 さっきはいきがってみたが、リアルな話それは困る。うっかり俺の聖地が異教徒に侵略などされたら……

「やはり俺が、聖地を守らねばならんな。我、菜園の守護者、火の玉となりて異教徒を焼きつくさん。されば殉教の徒となることもいとわず……」

「何ばかのこと言ってんのよ。火の玉になる前に部活紹介やんのよ。ぶ・ちょ・う・さ・ん」

「――く……」

 部活動紹介、新入生向けの行事だ。野球部、軽音部、その他いわゆるイケてる部活動は盛り上がる。どこも優秀な新人を獲得しようと躍起だ。文化系マイナー属にあたる菜園部にとっては、新入生には『あの部活はない』と思わせ、他の生徒にとっては『この部活まだあったのか』と思わせるだけで、なんとも屈辱的な催し事であった。


「おっす」

 朝礼の五分前のこと、謎の空気を纏う男『曽根』が十一の席に着くと足を組んだ姿勢で俺の方を向いて言った。

「はよ」

 俺は、リュックサックを机の上に置くと席についた。

「なんで担任ゴータなんだよな、あの声キモい」

 曽根は苦笑いすると、俺の瞳をじっと見つめて言った。

「いいんじゃねーの、別に」

「はは、お前は畑以外興味ねーか」

 少し呆れたように曽根は言う。曽根は、まぁ友人だ。人の領分にズケズケ入ってこない、良い奴だ。

「はよーっしゅ!」

 少し遅れて十一が俺の後ろから声をかけてきた。堀内、曽根は一年で同じクラスだったメンバーだ。

 曽根が十一に席を譲ると、十一はそこに座った。

「やべー、今日じゃん。転校生!」

「あ、そういや来るらしいな。女かな」

 曽根が言う。

「いや、絶対女っしょ!」

 十一が言う。

「なんでだよ?」

 と、曽根。

「俺の願望がそう言っている!」

 曽根は思わず吹き出した。俺も、苦笑いを隠せなかった。

「なんつーか、お前のそういうとこちょっと羨ましいよ」

 曽根が呆れ顔で言った。

「あざーっす!」

と、十一は軽くおどけてみせる。

それから少しして担任が来ると、曽根は席に戻った。

教室内がざわつく。だいたいのことには無関心な俺でさえ、その転校生の異様な姿には目を大きくして凝視していた。

「あ、あー。お前らざわざわするんじゃない」

 そう言うと、ゴータは黒板に白いチョークで文字を綴りはじめる。

「さ・か・い、ま・ゆ。というわけで、酒井麻友。今日からこのクラスで一緒することになった。それじゃ、軽く自己紹介してくれ」

 それは緊張の瞬間だった。転校生という存在そのものが、ある種の特異性をもった存在なのに、酒井はケタ違いだった。

「あ、あの……酒井麻友です……父の転勤の関係で、こちらに来ることに……その、よろしくお願いします……」

 肩までかかる髪の毛、喋っている感じは、少し気弱な感じか。人見知りするタイプっぽい。声は、ややアニメ声というか、優しげというか、印象悪くはない。

「彼女は、花粉症ということで、ゴーグルとマスクをつけている」

 あっけなく終わった自己紹介を補うようにゴータが続ける。

しかし、花粉症って、そういう言葉で表現しきれるレベルじゃないだろ。バカでかすぎるゴーグルは目元を完全に隠しているし、マスクも、普通の白いマスクと違う銀褐色の金属製、なんというか、ほとんどヒーロー物の、それも悪役のお面か何かをかぶっているようだった。

 それだけに、周囲もどういうリアクションを取ればいいのか、という雰囲気だった。

「あー、というわけで、そこの空いてる席に着いてくれ」

 ゴータが指さしたのは、窓際から2列目の最後尾の席、出席番号でいうと……14番か。


「なぁなぁ、あれなんだよ……」

昼休み、十一が落胆気味に告げた。

「はは、お前の希望通り女だったじゃないか」

 曽根が言う。

「言ったけどよー、お面みたいなのつけてるしなー」

「可愛いかもしれないぞ」

「うーん、俺のセンサーがビビっとこない。あれはブスだな」

 曽良はニヤリ、としてカバンから白いコンビニのビニール袋を取り出した。十一が弁当箱を開けると、唐揚げの匂いがした。食欲を刺激された俺の腹が「ぐー」と小言を言った。俺もかばんから弁当箱を取り出した。

「瑛太、今年も自炊か?」

 曽良が言う。

「まぁな……」

「相変わらず美味そうだな」

 弁当を覗き込みながら曽根がにこりと微笑んだ。

「マジだ、美味そうだ!」

 十一が言う。

「いや、いつもどおりだろう。おこわと、昨日の残りのハンバーグと、あとほうれん草茹でたのとか」

「すっげー!」

 十一のオーバーリアクションが少しうざい。

「弁当とか、なんか羨ましいな」

 曽根は、ビニール袋からパンを取り出した。その際の『カサカサ』というビニールが擦れる音がなんとなく寂しげな音に聞こえた。母親のいない俺だからなんとなく想像つくのかもしれない。

「こんなんでよけりゃ作ってやろうか」

俺は、ハンバーグに箸をつきたてながら言った。

「瑛太……」

 曽根の表情が一瞬だけ、なんとも言えなく明るく……

「いや、お前まじかよ! 男同士で弁当とか気持ち悪いっつーの!」

 …………

 こいつは、本当に糞野郎だと思う。

「けど、瑛太の弁当うまいのは確かだろ?」

 十一は、一瞬首をかしげてから「そうだな!」と言った。

 やはり曽根は大人だ。

「そういえば、来週月曜部活紹介だよな。瑛太はどうすんだ?」

 曽根は、アンパンを口に含みながら言った。

「あぁ、それか……出るよ……」

「絶対でねーって言ってなかったか」

「まぁね。けど、津山がうるせーし、今年も部員一人だったら廃部らしいし」

「そうか。なんなら俺入ってやろうか」

「いや、悪いしいいよ」

「そんなこと言うなって。困ったときは助け合うもんだろ」

 曽根の言葉にはいつも助けられるなと思った。

「もう菜園部良いじゃん、俺と一緒にバンド組もうぜ!」

 と、相変わらず十一は俺をイラッとさせる。

「まぁけど、実際それもちょっと面白そうだよな」

 曽根がそういうなら、少しは考えてみようと思えるから不思議だ。

「だろだろ!?」

「そうは言うけど、俺楽器なんもできねーよ」 

「あんなん二三ヶ月適当に練習すりゃ良いんだよ! 俺ギターやっから、曽根ベースで瑛太ドラムな!」

…………

「ボーカルは?」

 と、俺。

…………

「――インストルメンタル系とか?」

 十一がまじめに答える。

「いやいやないって。それなら全員で歌うか」

 曽根が提案する。

「はは、ドラムしながらとかどんなんだよ」

 と返しながら苦笑いする俺。

「作曲は俺がするから、作詞は瑛太ね。野菜の歌でいこうぜ」

「お、それは瑛太を本気にさせちゃうんじゃないか?」

 ニヤリとする曽根。

「野菜の歌か、いいな……苦悩のキャベツとか、聖なる夜のベジタブルとかそんな感じか……」

「ははは、食いついてきた!」

 十一が笑い声をあげる。

 とまぁ、俺達の昼休みはこんな風にして他愛のない話で過ぎてゆくのだった。


 風が教室の窓を激しく揺らし、ドアの下枠がガタガタと音を立てる。それはやたらと風の強い金曜日で、変な風貌の転校生が入ってから三日が過ぎた五時間目、津山の授業中のことだった。

台風でもないのに、計測史上二番目の風力とかいう話を昼休みの間に女子がしていた。

こんなんじゃ桜もチューリップも散ってしまう。どうしたらいいんだ……焦り、そして苛立ちが俺を支配する。

 あいつらのために俺にできることがあるだろ。だが、アレをそんな簡単に使っていいものなのか。くそ、分からない。他にどんな影響が出るかなんて知りもしないのだから。

「ビュー!」と強風が窓を叩きつける。俺は、思わず立ち上がっていた。

 周りの視線が痛い。

 津山の元に歩み寄ると、「ト、トイレ……」と一言。

「あ、はいはい。行ってらっしゃい」

 そう言うと、津山は授業を続けた。授業中の廊下には休み時間中にはない厳粛な雰囲気がある。鼓動の高鳴りを感じながら早足で下駄箱に向かった。

 教室をいくつか通りすぎる。教師の声だけが聞こえる。時折「びゅーびゅー」という風音にかき消される。

 階段は、横長の校舎内の端にある。トイレは階段の側にあるのだが、脇目もふらず階段を駆け降りた。無論、二段飛びだ。

 「ターン、ターン」と、上履きがコンクリートの廊下を蹴りつける音が響く。

 風を切れ、俺。疾風になるんだ、と心で呟いた。

 下駄箱で上履きから靴に履き替えると、道路を挟んで隣にある校庭に向かって駆けた。もう、俺を止められるものはなにもない。

菜園は体育館の裏側、つまり建物の裏側にあるのだから、建物が風よけになっているはずだ。そう思うと妙に楽観的な気分がした。そして、ふふと笑みがこぼれる。

 次の瞬間、それをあざ笑うかのように突風が吹き付け、俺は思わずバランスを崩した。楽観論が、あっさりと悲観論に変わる瞬間だった。

 こんな風、あいつらが耐えられるのか? そして、俺は不安をかき消すようにトップスピードで駆けた。

「はぁ、はぁ」呼吸が荒くなる。

 再び突風が俺に吹き付けると、俺は右腕で砂埃を防ぎ、バランスを保ちながら走り続けた。

校庭を駆け、体育館の横を抜け、ついに菜園に到着した俺を迎えたのは、絶望の二文字だった。

 看板……野球部の、それが、俺のチューリップのあるべき場所に倒れていた。

「なんだよ、なんて仕打ちだよこれ……」

 その看板を力いっぱい引き上げると、風に煽られて俺の手を放れ、激しく体育館の壁面に叩きつけられた。

「いって……」

 看板のどこかにひっかかったのか、俺の人差し指に赤い血が浮かび上がった。それから目を逸らし、無残に押しつぶされたチューリップの花々に目を向けた。

「くっそ……」

 折れた茎、黄色い花、赤い花。

「野球部のやつら!」

 恨む相手が違うのは分かっている。

「そしてこの風!」

 これは、やっちゃいけないことなのは分かってる。

「思い知らせてやる……」

 だけど、止められないんだ……

 俺は、血の滴る右手の人差し指を空高く掲げた。

「天空の王、ストラ・ディ・バイオスよ」

 左手を肩の高さ、真横に伸ばす。

「冥界の王、サンド・ディ・バイオスよ」

 ゆっくりと瞳を閉じる。

「我は理に背き、汝らの支配をもってこの天空に安寧をもたらさん」

 俺を巻き込むように、竜巻のような風が吹き荒れる。

「ディー・バイラス・サラス・ディス・アラン……」

 さらに激しく風が吹き荒れると、それを最後にぴたりと風が止んだ。空を見上げると淀んだ雲が広がっていた。

「また、自然の理を犯してしまったか……」

 天候を変える力、何故俺がその力を持っているかは分からない。それがどれほど大きな力なのか理解できない程馬鹿でもない。しかし、だからといってその力を誰かのために使うことなどなく、ただ菜園を守るためだけに使っていた。しかし、天候という言わば人知を超えた自然現象を自分の都合で変えることにはそれなりに矛盾を感じる。そして、この力を使う度にその成果に虚しさを抱くのだった。そして、半ば逃げ出すようにしてふらふらと菜園から離れていった。


「瑛太、五時間目抜けだしてどこ行ってたんだよ?」

 そう問い詰めてきたのは十一だった。俺が教室に戻ったのは六時間目だったからだ。

「いや、菜園にな……」

「うっそ、あの風の中行ったのかよ?」

「――ああ……」

…………

「まぁ、なんつーか、それでどうだったんだ?」

「野球部の看板にやられた……」

「うそ、まじかよ? そりゃあれだったな。ま、元気だせって!」

 その発言に俺は思った以上に癒やされていた。そして、俺の人生で初めて十一の楽観的なところ、見習いたいなと思った。

「すまんな」

「あ、それと津山がきれてたぜ。後で来いってよ」

…………

「しかし、なんか突然風止んだよな」

 十一は窓の方を眺めながら言った。

「そうだな……」

 俺はそっけなく答え、鞄を右手に立ち上がった。

「じゃーな……」

 軽く左手を上げると教室を後にした。


 職員室に行くと津山はいなかった。化学室にいるんじゃないかと言われ、俺はそちらに向かった。職員室は2階、1階の化学室へは職員室の側の階段を降りてから少し歩いたところだ。

化学室の中を除くと、そこには津山がいた。俺が扉を開けると、津山と目があった。

「あんた、五時間目菜園に行ってたでしょ」

 きつい表情を俺に向ける。なかなかに鋭い奴だ。

「あ、はぃ」

「良いと思ってるわけ?」

「いや、まぁ、ダメです、かね……」

「ダメに決まってんじゃない」

 呆れ顔で黒のバインダーを片手に俺の方に寄る。そして、バインダーで俺の頭をボスボスと叩く。

「すいません。花が心配でつい……」

「はー、まぁ、気持ちもわからないではないけど、授業中に抜け出しちゃダメでしょ」

「すいません」

 そして、もう二回俺の頭をボスボスと叩いた。

「まぁいいわ。とりあえず体調不良ってことにしておいてあげたから」

「ありがとうございます」

「それで、どうだったの?」

…………

 俺は顔を背ける。

「そう……まぁ、なんかこう言うのも突き放してるみたいだけど、あんまり悲しい顔しないでよねぇ……」

 呆れたような表情をする。たかが花と言いたげなのが伝わってくる。そんな裏側の言葉でさえ、今の俺にとってはちょっとした癒やしに思えた。

「すいません……」

「それじゃ、行っていいわよ」

「失礼します……」

「あ、それとあんた、月曜日部活紹介だからね。サボるんじゃないわよ」

 それに答えず化学室を出た。

ふと、チューリップの供養してやらないとなと思い立った俺は、何故かいもしない遺族への謝罪の言葉等を考えながら重い足取りで菜園に向かった。 俺がキリスト教徒で、すぐそばに懺悔室があったら俺は間違いなくそこに入って、チューリップのためにもっと早く天候を操らなかった自分の罪を告白したに違いない。

菜園の見える体育館の角を曲がった。すると、一人の女子生徒の姿が目に入った。後ろ姿からだから顔はわからないが、先の惨劇のあったチューリップの前でしゃがみ立膝の姿勢をしている。

 何をしていやがるんだ、不信感から俺の心が昂った。一歩ずつ歩みを進めると、どうやら折れた花を集めているような様子がうかがえた。

「おい、誰だお前」

 ちょうど三歩分くらい後ろから、俺はその女に声をかけた。

 女が立ち上がる。

 そして、俺の方に振り返った。

…………

 転校生のお面野郎だ。初日こそいかがわしさはあったが、他人にはほぼ無関心でいられる俺は、二日目には気にならなくなっていた。そのため、間近で見るのはこれが初めてのことである。

「あ、菜園ここだってさっき津山先生に聞いたので……」

「あぁ、ここが菜園だ。そしてお前は何をしている」

 無意識のうちにこいつの容姿に警戒信号が鳴っていたのか、俺は相当感じ悪そうに声をかけた。

「えっと……」

 俺の態度が威圧的だったのか、戸惑っている用に思えた。

 そういや、自己紹介の時もこんな感じだった。

緊張してるのかもしれん。しかも、俺がこんな調子だし。

「花、分けてたのか?」

 折れてはいるが状態の良い花と、そうでないのが分けられている。それを見れば、こいつが何をしていたのかはすぐに分かることではある。

「は、はい……」

 自分が卑屈に思えて恥ずかしくなった。

「さっきの風でな、野球部のクソ看板の下敷きになってた」

「五時間目、ですか?」

「あぁ」

「授業抜けて様子見に来たんですか」

「そうだ」

「花、好きなんですね」

 急に、恥ずかしい気持ちが芽生える。

「まぁな……」

「私も、大好きです!」

「そ、そうか」

「それで、私も、菜園部に入れてもらおうと思ってまして……」

…………

「あ、津山先生にはお話してあります。あとは、入部届だすだけです」

…………

「その、迷惑、でした?」

 突然反応をなくした俺に不安を覚えたのか。俺の内面は、部活存続が決定するわけで素直に喜ばしい限りなのだが、その感情を見知った間柄でもない酒井に見せることには戸惑いがあって、どういう反応をすればよいのだろうかと悩んでいる状況であった。

 そして、一度視線を逸らして、再び酒井に視線を向ける。見た目は変だが、悪いやつじゃなさそうだ。

「いや、なんつーか、今までずっと一人だったしさ、驚きっていうか、その……」

 素直に喜んでいるとは言えなくて、それでも相応の感謝を伝えたい俺なりに最大限の感情表現がこの言葉であった。

「そ、そうですよね。それじゃぁ、よろしくおねがいします」

「お、おぅ……」


2部


「つーわけで、あいつ菜園部に入ったんだよな」

 月曜、昼休み、俺はいつものように十一と曽根の三人で集まっていた。

「うっそ、まじかよ?」

 と、オーバーリアクションな十一と、にやりと笑うだけの曽根だった。

「あいつさ、なんかに似てるなと思ったら、スター・ウォーズのダースベーターに似てねー?」

 と、十一。

 俺も曽根も思わず吹き出した。

「おま、それひどいわ」

 俺が言うと、曽根が横で苦笑する。そして曽根がいつものようにビニール袋からパンを出す。

「お、曽根、弁当作ってきたぞ」

 そう言って俺はカバンから自分と曽根の分の弁当箱を取り出した。

「え……まじで?」

 驚いた表情を浮かべる曽根。普段感情の読み取りづらい曽根にしては、驚きがよく伝わる。

「あぁ、ほら喰え」

 曽根の方に弁当を無造作に置く。

「はは、わりーな」

「えー、松田、曽根にお弁当作ってるの!?」

 と女の声が横からする。確か、中村だったかな……ショートヘアで、いかにも元気な運動部員という感じの奴だ。

「あぁ……」

 ちらりとなかむらを横目にして視線を戻す。好奇の表情がうざったく思えた。

「曽根と瑛太はできるからなー」

 と、茶化しはじめる十一。

「――面倒だからそれでいいよ……」

 と俺が答える。

「うっそ! どっちがウケとかあんの!?」

「そりゃー曽根に決まってんじゃん」

 悪乗りし始める十一。

 十一を睨みつけるも、意に介さずという感じだった。呆れて曽根に視線を向けると、一つだけ、にっこりと笑った。

「瑛太の弁当、まじでうまいんだぞ」

 曽根は、後ろを向くと中村に自慢げに告げた。

「えー、見せて見せて!」

 中村が椅子を引きずりながら曽根の横につく。二段の弁当箱の上蓋を取り、中蓋を取り、それを見せた。

「わ、まじだ。なにこれ!?」

 中村と一緒に飯を食っている二人の女子も、好奇心からそれを覗き込んでいた。

「すごかねーよ。昨日作ったビーフシチューの残りと、後は米炒めたりしただけだ」

「うそ、ビーフシチューとか作るわけ?」

「あぁ」

 そして、小さい魚型のタレビンの一つを曽根に渡す。

「これかけろ。生クリームだ」

「なにそれ!? お弁当でそこまでやるわけ?」

「当たり前だろ」

「あはは、瑛太絶対ヘン!」

 ち、うるせーやつ。すると、誰かが俺達の間にすっと入ってきた。

「あ、あの。そろそろ化学室にいかないと……」

 おずおずとした喋り方。酒井だ。

「おぉ、そうだな」

俺は、これ幸いにと弁当箱に蓋をすると立ち上がった。


「先生、俺今日の部活動紹介でねーよ」

 俺がそう告げたのは昼休み、化学室でのことだった。

 右隣には酒井、正面には足を組んだ津山、俺達は化学室の教壇の辺りにお互いを見合う三角形の配置で椅子に座っていた。

「あん? あんた何言い出してんのよ」

 津山が眉間にシワを寄せて言った。

「一人入ったら部はセーフなんだろ?」

「まぁね……」

「だったらこれでいいだろ」

「――そういうわけにもいかないのよ。スケジュール決まってるんだから、空いた時間どうすんのよ」

「しらねーよ、そんなもん」

「く、あんたって人はねぇ……」

 大人の事情が見え透いているのは分かっちゃいる。だからって、知ったこっちゃねー。

「とりあえず俺が卒業するまではなんとかなんだろ」

 そう言うと、俺は両手を結んで頭の後部に当てた。

「それじゃぁ、花はどうするわけよ」

「そりゃー考えてあるよ。俺が卒業する頃までに全部枯れるのしか植えないからな。その辺は用意周到だぜ?」

「――だぜ、じゃないわよあんた」

 反対の足に組み直すと、呆れたようにため息をついた。

「それじゃぁ、酒井さん一人にやってもらおうかしら……」

 明らかに俺を脅している目だ。

「あ、あの……」

 俺と津山は、酒井さんの方を向いた。

「私、5月には転校しないといけないから……」

「あら、そうなの?」

「はい、まだきちんと笠原先生にもお話していないんですが、週末急に決まりまして……」

「そう、それは困ったわねぇ……」

 そして、勝ち誇った表情を俺に向ける。

「酒井さんいなくなったら部も無くなっちゃうかしらねぇー、あんたも協力的じゃないし、仕方ないかしらねぇー」

 くそ、形勢逆転か……

「分かったよ。出るよ、でりゃーいいんだろう、でりゃー……」

 ニヤニヤと笑う津山から顔をそむけると、しかしながらさぼうろうと思っていた手前何も喋ることを考えて来なかったことを思い出して冷や汗が流れる思いだった。


 部活動紹介は、5時間目と6時間目を使って体育館で行われる。5分から10分の時間が各部に割り当てられ、あ行から順々に各部でなんらかのパフォーマンスをする。

 どこも新人を取ろうと結構本気で取り組んでいるから見ている分には良いのだが……

「おい、なんで3年もいるんだよ。去年は1、2年だけの参加だっただろ?」

 演劇部のパフォーマンスを見ながら、俺は津山に問いかけた。

「あらそういえばそうね。今年から変わったのかしら?」

 首を傾げる津山。覚悟は決めているとはいえ、500人近くの人間が集まるとさすがに多い……

 5分間、生き恥を晒さないといけないわけかと思うと心臓が急に高鳴った。

「酒井さんさ……」

 初めて自分から話しかけた。

「恥かくだけだから、俺一人で行くよ……」

 二人で行こうが何も変わりゃしない、そう思っての発言だった。

「え……やっぱり、私のコレ、嫌ですよね……」

 解釈を誤った酒井さんが、下向き加減で答えた。

「あぁ、そう解釈したか……最初は焦ったけどもう見慣れた。発表内容なんも考えてねーから、恥かくって言っただけだ」

 正直な意見だ。

「え……」

 まったく表情の読み取れない金属製の馬鹿でかいゴーグルとマスク、だが、不思議と感情は伝わってくるもんだ。

 視線を壇上の演劇部に向ける。ロミオとジュリエットか……

「あ……ちょっと行ってくるわ」

 ふと閃いた俺は、館内真ん中付近の自分のクラスに向けて小走りした。体育座りしている生徒達が俺に視線を向ける。

 それを気にせず、俺は曽根の後ろ姿を見つけると、そこに駆け寄った。

「曽根、悪い、手伝ってくれ」

 後ろから声をかけると、曽根が待っていたかのように俺の方を向いた。クライマックスを迎えた演劇部員の大きな声が耳に入る。

「あぁ、分かった」

 これから説明をと思った矢先、曽根は答えて立ち上がった。そして、二人で身をかがめながら体育館の後方に駆ける。曽根は、時折心が見えているかのような察し方をするから不思議だ。駆けながら俺はそう思った。

 待機場所に集まると、俺は二人にパフォーマンス内容を伝えた。

「いいか、演劇調に部活紹介する。曽根は花、酒井さんは虫役やってくれないか?」

 それから詳細を伝えると二人の反応がぱたりと止まった。

「――それ、本当にやるのか?」

 少しして、腕を組んだ曽根が言う。

「しょうがないだろ……」

「けど、それやると、酒井さん下着見えちゃうんじゃないか?」

…………

 壇上は1.5mくらいの高さがあり、周囲は下から見上げる格好になる。酒井さんには四つん這いになってもらう予定だったので、確かに丸見えになる可能性がある。

「そっか、じゃぁ、立ったままで……」

「いえ、やります、私!」

 俺は、思わず目を大きくしていた。

「いや、そんな、悪いよ、すぐに転校しちゃうのにさ……」

「けど、松田さんが何も考えて来なかったの、私のせいもあるんですよね。だったら、協力したいです!」

「それは、俺がさぼろうとしてただけだし……」

「大丈夫ですよ。紺パン履いてるし」

…………

「紺パンって?」

「おい、知らないのかよ!」

 曽根がツッコミをいれる。

「うん」

「ほら、あの、下着の上に履くやつだよ」

 曽根が、言いづらそうに答える。

「なんのために?」

「下着見られないために決まってんだろ!」

「――お、おぉおぉ、はいはい、あれね。たまに風でパンチラしたときに見えるだっさいパンツね」

「し、下着じゃないですからね!」

「はいはい。それじゃ、ちょっと農具持ってくるわ!」

 ちょうど軽音部の演奏が始まったタイミングで農具を取りに体育館を出た。園芸部の農園の奥にある倉庫の鍵を開けると、鍬を一つ取り出した。そこから走りながら体育館に戻る途中、俺の真上を何かしらが飛来していくのを影の動き方で感じた。

 走るのをやめて真上を見上げる。銀色の、金属製の飛来物が一瞬目に写った。そして次の瞬間、それはフェイドアウトして消えていった。

「あ? なんだあれ」

 思わず言葉がこぼれた。

「UFO、とかいうやつ?」

 その言葉が出るとほぼ同時に、急いで体育館に戻らないといけないことを思い出し、俺は再び走った。息を切らしながら体育館に上がると、軽音部の演奏はまだ続いていた。

「あれ、十一か?」

 曽根と酒井がいるところに戻ると、曽根に声をかけた。そして、曽根はコクリと一つ頷いた。

十一は、壇上の中心で激しくマイクスタンドを振りながら歌っている。上手か下手かで言えば下手だ。

「はは、あいつまんまだな」

 そう言ったのは曽根だった。ロックなのだが、時折手を振ったり、ぐるりと回ったり、エネルギーに満ちたどことなく前時代的な感じ、それに気圧されて引き気味の生徒達。そういうピントがずれている感じが十一っぽいなと感じた。

「しかし、あいつを選んだ軽音部何考えてんだろ? 新入生は入らないんじゃないか?」

 俺が言う。

「はは、多分やりたい人って担任が言ったらあいつが挙手したんだと思うぜ」

 曽根が苦笑してから答えた。

「うはは、あり得る」

 俺も曽根もぼんやりと眺めていると、よく耳にしたことのある曲のあるはずのない『シャウト』で演奏を締めくくった。


 軽音部が終わると、剣道部の番だ。そして、その次は、菜園部の番だ。

 鼓動が高鳴る。そして、ゴクリと唾を飲み込んだ。


3部


「では、続いて菜園部の紹介です」

 ステージの下で学年主任が告げる。曽根と酒井さんとの打ち合わせを済ませた俺は、逃げ出したい気持ちに堪えて、ステージの控えから重い一歩を踏み出した。

 500人の視線が一斉に集まると、なんとも例え難い、宙に浮かび上がってしまいそうな感覚に襲われた。

マイクのあるステージ中央まで進むと、正面を向いてステージの下の生徒たちに視線を向けた。血の気が引いていく。それと同時に、氷水に浸かったみたいに心臓が飛び上がった。

 …………

 一つ、大きく息を吸った。

「えぇ、菜園部の松田……」

 自分の名前を忘れた……

一気に頭が真っ白になる。

「まつだ……」

「――まつだ……」

 エコーのように、自分の苗字を唱えていた。

「――まつだ……まつ……」

 エコーが止まらない。このままじゃ、まつまつだけ言って終わってしまう。

「さ、菜園部の松田です。よろしくお願いします」

 焦りが、俺から言葉を吐き出させた。自分を落ち着かせるために、一つ深呼吸をした。

「えっと、菜園部は、正直つまらないところです。10代半ばの若人が青春と引換に畑の作物を育ててはニヤニヤするという陰気極まりない部活です、はい……」

 そこまでしゃべると、俺は少しだけ目を閉じた。いきなり印象悪くしてどうすんだよ、という自分の声がどこからともなく聞こえてくる。

「正直そんな部活の紹介なんて演るだけ無駄だよなぁ、と出る予定なかったんですが、津山先生に脅迫されて、出ないとまずい雰囲気に追いやられ、つい先程参加を決意したわけです」

 そう言って津山の方に視線を向ける。その視線を追うように生徒たちも津山に視線を向けると、津山は両腕を組んだまま視線をそむけた。

そんな姿を見ていると心なしか余裕が生まれた気がした。

「さて、そんな形での出場でして、何かとお見苦しいところはあるかもしれませんが、我々菜園部の活動を演劇部風に紹介させて頂こうかと思います」

そう告げると、俺は袖幕の奥の控えに戻っていった。

「ふぅ、緊張するなこれ……」

 控えに着くと、曽根と酒井さんに声をかけた。

「――ご苦労さん」

 曽根が、苦笑を浮かべる。俺は藁帽子をかぶると、手ぬぐいを肩に引っ掛けて鍬を右肩に担いだ。

「じゃ、段取り通り頼むわ」

「頑張ってください!」

 と、酒井さんから応援の言葉をもらった。そして俺は、再びステージに戻った。

 俺は歩みを進めると、マイクの前で止まり再び正面を向いた。不思議と緊張感はない。

「えー、とりあえず4月、4月は果菜類が熱い季節ですね。トマト、ナス、きゅうりなんかは4月に植えます。では、折角鍬を持ってきたので、耕してみます」

 そう言うと、俺は鍬を振りかざし、空を切るように振り下ろした。

「鍬は、案外重いです。振り下ろし方にわりとコツがいるのですが、一番重要なのは土へ愛情を込めることです。さて、実際にもう少し耕してみましょう」

 そう言って、三度鍬を振り上げて振り下ろす動作を続けた。

「では、次は実際にトマトの苗を植えてみましょう。と言っても、実際の苗では見えませんので、ここはクラスメートの曽根さんに協力してもらいます」

 曽根がステージに現れる。

 近くに来るよう目配せすると曽根は俺の側に立ち、正面を向いた。そして、その場にかがむと背中を丸めて小さくなった。

「ご覧のとおり彼は今まさにトマトの苗そのものです。さて、植えるのが終わるとこの時期は水をやったりしながら日々苗の成長をほくほく見守ります。それから梅雨が過ぎ、7月を迎える頃には苗も大きくなります」

 曽根は立ち上がると、両手を広げる。

ちらりと生徒たちの様子をうかがう。なんとも、奇妙なものを目の当たりにしているという表情を浮かべていた。

「しかし、菜園部はこれから忙しくなります。それは……」

 そう言うと、俺は右手をステージの控えの方に向けて掲げた。

 四つん這いの酒井さんがステージに姿を現す。そして、のそのそ、とステージ中央に向かう。

 もう一度生徒たちの様子をうかがう。口をぽかんとした生徒の多いこと。よく見渡すと教師たちでさえ唖然とした表情をしていた。

 会場内は一種異様な雰囲気に包まれ始めた。

「そう、害虫ですね。タバコガ、コナジラミ、サビダニ、ヒラズハナアザミウマ……野球部が夏の甲子園に燃えるように、我々にも小さな甲子園があるわけです……」

 そう言っている間に中央まで来ると、酒井さんは曽根の足元に顔を近づけた。

「ううぅぅ、あー、くーわーれーるー」

 曽根が棒読みでしゃべる。それからまたのそのそと四つん這いで控えに戻る酒井さん。

「さて……ここから我々菜園部が最も恐れるものが……」

 そして俺はマイクの音声を意図的に切った。

「天空の王、ストラ・ディ・バイオスよ」

 左手を肩の高さ、真横に伸ばす。

「冥界の王、サンド・ディ・バイオスよ」

 右手を上に、高く掲げる。

「雷鳴よ轟け、風よ唸れ、アーリー・アーリー・ライラ・アーリー……」

 天井を見上げる。マイクを通していないし小声だ。恐らく誰にも聞こえてはいない。体育館の自然光が遮られる。空が一瞬光ると、すぐに雷鳴が轟いた。それと同時に雨が降り始め、すぐさま豪雨となった。轟々と鳴る風音。

「そう、台風、ですね……」

 マイクの音声を入れなおすと、一言告げた。次の雷音の瞬間、曽根が崩れるように倒れた。

「トマトー!」

 俺はそう叫ぶと駆け寄り曽根を抱き起こした。そしてショパンのノクターン20番が流れる。

 ムードを盛り上げようという意図があたったのか、周りは言葉を失ったままステージを注視していた。視線を逸らしている奴は一人もいない。演出がうまくいったという思いが俺に自信をもたせた。曽根を立ち上がらせると、俺はマイクの元に戻った。

「さて、8月、収穫の時、なんとかこの時期になると後は美味しく頂くわけです。というわけで、8月までとはなりますが菜園部の活動を紹介しました。興味を持たれた方は、是非津山先生にお声がけください」

 俺はマイクから一歩下がり、頭を下げてお辞儀をした。少し遅れて、まばらにだが拍手が起こった。

 鍬を肩に担いで控えに戻りながら、ムードを盛り上げるためだけに天候を操っていいものなのかという思いが心をよぎった。まぁ、偶然を装うには出来過ぎたタイミングだが、まさか俺が天候を操作出来るなんて思う奴はいないだろう。


「おつかれさん」

 控えに戻ると、曽根が一言。

「お疲れ様でした」

 先に戻っていた酒井さんが一言。

「あぁ、ありがとう」

 俺は、曽根、酒井さんに礼を言う。

「即興だった割に良かったんじゃないか?」

 控えの体育館に至る6段ほどの階段を下りながら曽根が言う。

「そ、そうかな……」

「まさか、あんなタイミングで嵐が来るなんてな」

 曽根は体育館と控えを区切るドアノブを回すと、俺の方に振り返り意味有りげな表情を浮かべた。

「そういえば、不思議でしたね、さっきの」

 酒井さんが言葉を返す。

「そ、そうだね……はは、不思議だ」

 体育館に戻ると、司会の学年主任がサッカー部の紹介文を読み上げていた。それを耳にすると俺達は会話を止めた。

 曽根は元の場所に戻っていった。俺と酒井さんは、体育館の入り口付近の津山の元に報告に寄った。津山は俺の顔を見ると、なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。それから、「お疲れさん」と一言、そして俺の頭を二回ポンポンと叩いた。

 それが何を意味しているのか少しは気になったが、他人がどう思おうと知ったことかと思う。正直、成功も失敗もどうだっていい。そう思いながらステージの方を向く。

 サッカー部がリフティングやパス回しを披露していた。

 ま、部員は期待できないなぁという確信めいたものが俺の心をよぎった。


4部


 部活紹介があってから三週間が経っていた。案の定新しい部員が菜園部を訪れることはなかった。しかし、それは想定通りだったから俺にとってはどうでも良く思えた。

 そんなわけで、俺の日常の99%は何も変わらなかった。ただ、1%の違和感はあった。それは、酒井の存在だ。これまで俺と曽根、十一の三人だった昼食の時間が四人になり、授業が終わると同時に一緒に部活に向かい、下校の途中までを一緒していた。

 客観的に見れば今でも謎の鉄仮面だが、まぁ慣れてしまうと気にならない。それは、曽根も十一も同じだろう。一度だけ十一が、そのお面とってみてよと言ったことがあったが、酒井さんは頑なに拒否した。ちょうど転校するくらいには取れるかもしれないという話だったが、どうだって良いと思った。別にブサイクだろうが可愛かろうが俺には関係ないことなのだから。

 もっと言ってしまえば、酒井さんがいなくなったとして、俺には小さなことなのだ。そんなことを思いながら、酒井さんが転校するまで後三日という放課後を向かえた。


「お疲れさん」

「お疲れ様です」

 菜園部の活動が終わると、俺達はジャージから制服に着替えた。

 だいたいいつも俺のほうが早く着替えが終わる。そして、部室の外で彼女を待つ。稀に面倒に思うのだが、二人きりの部活で、しかも駅まで同じルートなのに別々に帰るのもなんとなく気まずいからそうしていた。

「お待たせしました。いつもすいません」

「いや、いいよ別に……」

 駅まで徒歩10分くらい。いつもは畑の話やら鍬の持ち方やら、そんな話ばっかりしている。ところが、今日は会話がない。

 心に、変な距離を感じる。

「そ、そういや、いつも敬語だよな。なんでだ?」

 半ば強引に話題をひねり出した。

「え、あ、そういえばそうですね。なんででしょう……」

「自覚なかったのか?」

「そう、ですね。気がついたらずっと敬語でしたから」

「変なの、俺達同い年だぜ?」

「多分、引越しが多いから、ですかね……」

「そういや、次どこに行くわけ?」

「――いえ、特には決まってないんです」

「は? どういうこと?」

「それは……」

 言葉が途絶えた。

 聞いちゃまずいことだったのかもしれない。無理に相手の領分に踏み込むのは俺の性分ではない。これ以上は聞かないことにしようと思った。

「いや、悪い、なんか……」

「いえ、良いんです」

 それから少しの間、交わす言葉はなかった。変に意識しているように思われるのも嫌だったが、話題を逸らすネタが浮かばない。そして、無意識のうちに右隣の彼女に視線をチラチラと送っていた。

 身長は、160cmくらい。痩せ気味な感じだ。肌の色は白い、のかな。ちょうど日が暮れ始めた時間帯だからよくわからない。制服はありきたりの紺色のブレザー、うちの学校の指定制服だ。まぁ、顔を除いては至って普通な感じがする。

あれ。突然違和感が生じた。

「前回も1ヶ月くらいで転校だったの?」

「そうですね」

「ちなみに、今回の転校はいつ決まったわけ?」

「前々から決まっていました」

 酒井さんは、怪訝そうに首を傾げる。

 やはり、なんとなく変だ。そんなしょっちゅう引っ越すのに制服を頻繁に変えることがあるだろうか。考えようによっては、引越しが多いからせめて制服だけは変えさせてもらっているのかもしれない。しかし、違和感が拭えない。

「そういえば、松田さんはなんで菜園部に入ったんですか?」

 突然の質問に、違和感が削がれた。

「あ、うん、そりゃ好きだからだよ」

「なんで、です?」

「気がついたら好きだったけど、母さんが好きだったからその影響かな。母さんっていっても子供の頃に死んじゃったんだけどな」

 会話が途絶える。

「すいません。聞いちゃいけないことでしたよね……」

 酒井さんがおずおずと言う。

「いや、いいよ別に。隠しているわけじゃないし」

 俺は、意識的に気にしていない風を装っていた。そういえば、俺はこんな話を人にしたことなかった。そもそも聞いてくる奴なんていなかっただけなのかもしれない。だが不思議と、心に滞っていた何か鬱積したものが流れていくような爽快感と、さらけ出してはいけないものをさらしてしまったような羞恥心を同時に覚えた。

「なんか、こんな話、初めてだわ」

「そうなんですか、私が初体験ですね」

 初体験という言葉に思わず反応して、再び意識が削がれていた。

「初体験って……なんかその言葉まずくね?」

「え、あれ、そうですか?」

「普通、エロいことに使うんじゃねー?」

「そんなことないです! っていうか、そういう認識してる方が問題あります!」

…………

 笑いたいような、だけど声にでなくてもどかしく、それでいて高揚感のある感情に包まれた。

「なんか、酒井さんって面白いよね」

 やっとの思いで出た言葉だった。そう言うと酒井さんは、何度か言葉を返そうとする様子を見せつつもそうすることはなかった。それから、俺達は本当に会話一つなくなって、同じ改札をくぐって反対方向に分かれるまでの間そうしていた。

別れ際、俺は返事を期待しながら「じゃぁね」と声をかけた。その期待は裏切られる結果となった。きっと、声が聞こえなかっただけに違いない、そんなことを思いながらも、俺はなんとなくむっとしていて、後ろを振り向かないよう努めた。だが、我慢できずにすぐ振り返っていた。

どこかさみしげな後ろ姿が俺の目に写った。それは、いつもならただの後ろ姿に写ったかもしれない。俺の考えすぎなんじゃないかと思う。しかし、そうやって否定することが、大事な何かを汚してしまうように思えて認めたくなかった。

 それから家に着くまでの間、悶々と彼女のことを考えていた。誰もいない家に着くと、すぐに自分の部屋に閉じこもった。そして、鞄を放り投げてベッドに仰向けになった。

「なんだよ、くそ……」

二度三度寝返りをうつと、何かを思い出したかのようにスマホを手にした。

「曽根に聞いてみよう」

『酒井さんなんかおかしいよな。引越しすることわかってて制服変えるとかあり得るか?』と書いて送信した。

夜の11時になって返信が来た。

 『常識的に考えりゃあの仮面で十分変だよ』という内容だった。

 『いや、そりゃそうだけど、なんか制服の話とつながるんじゃねーかなと思ってさ』というメールを送ると、それからまた少しの間返信が途絶えた。

 『お前が思う以上の何かはある。あまり踏み込むな』

 曽根からのメールにはそう書かれていた。ベッドで仰向けになってそれを読んだ俺は、少しだけ不機嫌になってスマホを足元に放った。

「なんだよあいつ……」

 腹立たしくなって目を閉じるが、気持ちが昂って眠りの世界に落ちる雰囲気はまるでない。

「あー、くそ、なんなんだよ腹立つ!」

 そう言って上半身を起こすと、俺は足元に放り投げたスマホを手に取り曽根に電話をかけた。

「はい」

 曽根は、三回目のコールでスマホに出た。

「あぁ、俺だ。てか、気になって寝れねー」

…………

「さっき言ったけど、関わらない方が良いぞ」

「なんでだよ。お前なんか知ってるのか?」

「――そういうわけじゃない。ただ、そう思っただけだ。第一、瑛太、そのことがわかってどうすんだよ。後二日で転校しちまうんだぜ」

 至極まっとうな意見に思えた。

「分かんねーけど、気になるんだよ」

「ひょっとして、酒井さんのこと好きになったとか?」

「は、馬鹿言ってんじゃねーよ」

 思わず語気を強めて否定したが、実際好きとか嫌いとかそういうもんじゃない。むしろ、そのような感情で片付けようとする曽根に対して強い憤りを覚えたのだ。

「俺は、ただ、なんか分からねーけどむしゃくしゃしてんだよ」

「何がだよ?」

「それが分かったら苦労しねー。ただ、なんか、酒井さんの後ろ姿が寂しそうだったから、なんかあるんじゃねーかって思ったんだよ」

…………

「はは、瑛太からそういう言葉が出てくるとはな」

「なんだそれ……」

「いや、いいよ、分かった。なんかよく分からねーけど手伝うよ」

 若干話しをはぐらかされたようだが、協力者を得られたことは素直に嬉しかった。

「とりあえず、女子から色々彼女の話聞いてみる。明日の昼でも報告する」

「おぉ、サンキュー」

 こういう時の曽根はなんと頼り甲斐のあることか。俺はスマホを切ると、明日の昼にはすべてが解決してしまうんではないかという期待感で胸が膨らんだ。


 昼、幸いなことに今日は酒井さんが別の女子のグループと一緒にいる。ひょっとすると曽根の仕込みかもしれない。俺は、曽根と目配せすると、前の席の十一に「あぁ、悪い。今日は曽根と少し行くとこあるから」と言って席を立った。

 俺達は校舎を出ると、数百メートル離れたところの小さな公園に寄った。ブランコとベンチ、それに砂場が申し訳程度に造られた公園だ。だけれど、立派な太い幹をした桜の木が一本だけあって、まるで場違いに思えるそれは花を散らしきったばかりで少しだけ寂しげに思えた。

俺達はブランコの木の座板に腰を下ろす。ちょうど桜の樹の枝の下、陽の光を微かに和らげていた。

「色々調べてみたが、どうも一人で暮らしているような話をしているみたいだな」

 曽根はブランコの鎖に手を搦めて言った。

「そうなのか」

「確かに、少し変ではあるな。一人暮らしなのに引越しっていうのはおかしい」

「だろだろ!」

「あぁ……そこで、だ。こっからはお前次第だが、どうしたい?」

 曽根は、いつになく真剣な表情を俺に向けて言った。

「何が」

「要は、秘密を暴きたいか、そっとしておいてやりたいか、ってことだ」

…………

「正直、俺は他人の領分に踏み込むのは好きじゃないんだ。だけど、瑛太がやるっていうなら協力するぜ」

 曽根が言う。

「良いのかよ?」

「あぁ、弁当の礼だ」

 ただ、実際どうする? もし、本当に知られたくないことで、それを暴いたことで傷つけることになったら? 

軽々しくやろうぜ、とは言い出せなかった。

「なぁ、俺は自分のこと、別に悪い奴だとは思ってない、良い奴とも思ってないけどな」

 俺はぼそりと呟いた。

「――あぁ」

 何を言い出すんだ、と言いたげに相槌を打つ。

「人間の営みってーか、そういうのもまるで興味ねーし、自分の菜園がなんとかなってりゃそれでいいとか思ってる」

…………

「けどさ、なんか、こういうの初めてなんだよな。なんかしなきゃいけない気がしてどうしようもねーんだ。これって、俺は結構ガキってことなんじゃねーかと思うし、なんかそれもむかつく」

「――まぁ、ガキだな」

 曽根らしからぬ遠慮ない指摘だった。

「つーわけで、やるわ」

 そして、ブランコを二回・三回漕ぐと、『ギコギコ』とブランコの鎖と支柱がこすれ合って鈍い金属音を立てた。


「それじゃあ、今日が最後の部活動ね。短い間だったけどご苦労様」

 午後四時半、化学室には俺と津山、そして酒井さんの三人がいた。

「はい、本当にありがとうございました」

 酒井さんは、津山の方を向いて一礼、そして俺の方を向いて一礼をした。

「しかし、折角の新入部員だったのに、残念だったわねぇ」

 津山が俺の方を向いて言う。

「あぁ、俺は一人でも構わねーし」

「はは、あんたねぇ、よく言うわ」

 眉間にシワを寄せながら漏らした。自分らしい発言のはずなのだが、強がっている自分自身に気づく。幸いなことに二人には気づかれていないようだった。

「それで、明日はお昼前には行っちゃうんだっけ?」

「はい、11時に迎えが来ることになっています」

「そう、それじゃぁ本当にこれが最後になっちゃうのね」

そう言って津山は腕を組むと、俺にちらりと視線を向けた。

「部長さん、あんたなんか気の利いた言葉でないわけ?」

「あぁ、ねーな。おっと、もうこんな時間か。俺はそろそろ用事あるから帰るわ。そんじゃ、あばよ!」

 そう言って俺は鞄を持ってドアの方に駆けていった。

「ほんっと、可愛げのない奴ねぇ……」

 ドアを閉めるときに津山の声が聞こえた。よし、とりあえずここまでは段取り通りだ。俺はスマホメールで曽根に状況を知らせる。

 曽根から『了解』という返信が入った。いつもの通学ルートを数分歩くと、下校途中の道路沿いにある公園に入った。

ここで、酒井さんが通るのを待つのだ。通り際に見つからないようトイレの壁に身を伏せると、それから10分程そこで待機した。

 ひょっとして今日に限って帰宅ルートを変えたのかもしれない。そうなっては計画がすべて台無しになってしまう。額が微かに汗ばんでいるのを感じた。そしてそれを、まだ少し冷たさを帯びた春風が拭いさっていくのだった。

更に数分が過ぎる。四時五十分、俺は酒井さんの姿を肉眼で捉えた。そして、即座に曽根にメッセージを送る。

酒井さんが俺のいる場所を通り過ぎる。大丈夫だ、気づかれるはずがない。そう確信すると、安堵感からか大きなため息がこぼれ落ちた。

それから五分ほどして俺は公園を出た。もう、酒井さんの姿はない。だいぶ遠くの方にいるはずだ。それでも、追いついてしまわないようにゆっくりと駅の方に向けて歩くようにした。

そして、ちょうど俺が駅前の交差点に差し掛かった頃、曽根からメッセージが届いた。

『今、酒井さんと一緒の電車に乗った』と書かれていた。

『俺も電車に乗って追いかけるわ』と、返信した。

 改札を抜けると、昨日の情景が脳裏をよぎった。あの時、俺は意地を張らずに酒井さんを追いかければよかったのかもしれない。そんなことを思うと、それってストーカーじゃねーかと突っ込む自分がいたが、今やっていることに比べたら遥かにマシだろうと再度突っ込み返すのだった。


 ちょうど俺が電車に乗る頃、『西城駅で降りた』という曽根からのメッセージが届いた。西条駅までは約10分、ちょうど電車一本分の時間差だなと思った。

 西条駅に着くと、俺は早歩きで改札を抜けた。段取りでは、曽根が酒井さんの家を確認してから駅に戻ってきて、そこで再開ということになっている。

 なんでこんな探偵まがいのことをやっているのかと言われるとうまく説明できない。ただ、複雑な感情や計算があって、それぞれがこんがらがって結果的に彼女の家を突き止めて、そこで話をすることにしたのだ。

 俺は、駅前の喫茶店に入ると、苛立たしくスマホを何度も開いては閉じを繰り返した。

 駅についてから三十分が経過した頃、曽根からのメッセージが届いた。『これから駅に戻る』という内容だった。俺は、『分かった、駅前の喫茶店に居る』と書いて送った。

 それからさらに三十分が過ぎた。客が店に入るたび、身を乗り出して確認を続けている自分がいた。周囲の客が不機嫌そうにチラチラと俺に視線を送っているのが分かったが気にはならなかった。それから少ししてキャップにグラサンの若い男が店に入ってきた。体型が心なしか曽根っぽいが、曽根の印象と異なりすぎていて別人かと思った。その男は、俺の視線に気づくと手を振ってきた。

「時間かかってすまん」

 そう言って、俺と対面の席についた。グラサンとキャップを外すとウェイトレスを呼び、ブレンドコーヒーを注文した。

「で、どうだった?」

「あぁ、なんか、やっぱ色々変だったな」

「なんでだ?」

「ここからさ、彼女の家までバスだったんだよ」

「それで?」

「で、降りたバス停が『北神第二研究所前』ってところでさ。その駅で降りてから後追ったんだけど、バス停から少し住宅地を抜けると少し坂になっていて、雑木林があるんだわ。で、そこを少し行くと門があって、その研究所の看板があった。結構でかい敷地なんだよな」

「それで?」

「いや、そんなか入ってった」

「研究所にお世話になってんのかな? って、それ、なんなんか変だよな」

 そして俺達は言葉をなくし、それぞれ思い悩むのだった。今になって、あの仮面がなんらかの科学実験の代物なのかもしれないという予感がした。

「なんか、ちょっとやばい感じだぞ。どうする?」

 ブレンドコーヒーを口に含んでから曽根が言った。

「そりゃー、行くに決まってるだろ」

 曽根が、呆れたような表情を浮かべた。


 7時、日はすっかり暮れて街は夜の町並みに装いを改めていた。曽根と分かれると、俺は曽根の教えてくれたルートに従って彼女の家に向かった。

 曽根は、俺に酒井さんの電話番号と家までのルートを説明しながら、くれぐれも危険に巻き込まれるようなことのないようにな、と念を押していった。そんな曽根の姿を思い出しながら、心配性な曽根に少し意外さを感じていた。

 バスは思っていたよりも早く駅に着き、俺はそれに乗り込んだ。

 バスに揺られながら、ぼんやりと『自分は何をしたいのか?』 問いただしていた。ただ、そうしたところで何をしたいのかよくわからなかった。分かるのは、今は会いたい、という思いだけだったのだ。

 『北神研究所前』で降りると、俺は曽根の教えてくれたルートを辿っていった。歩いて5分程すると、曽根が言っていた雑木林があった。家はなく外灯も乏しいそこは、都会から隔離された山野を思わせた。それでも、曽根の言っていた看板のあたりに一本の外灯が立っていて、俺はそれを目安に進んで行った。

 門の前にたどり着く。別段閉鎖されているわけでもない。しかし、なにか得体のしれないバリアが張られているようで、さすがにその先をづけづけと進んで行く事は出来なかった。

 そして俺は門の『北神研究所』の前で腰を降ろすとスマホを取り出した。

 この場面になっていきなり『迷惑なんじゃないか』という心の声が脳裏をよぎった。何を今更、という思い以上にその声は妙な説得力で俺の動きを封じ込める。

 『そもそもお前、何しに来たんだよ』という声が続いて脳裏をよぎる。確かにそうだ。やってることは犯罪スレスレか、まったくもって犯罪だ。

 曽根だって反対していたのだ。そもそも、俺にとって酒井さんは何なんだ。ただ、部活が1ヶ月同じだっただけのクラスメートじゃないか。菜園と比べたとして、なんら重要じゃない。はっきり言って、いなくなってもなんてことはない。

 違うんだ、そうじゃない。分からないけど、俺にとっては何かが違うんだ。

 そもそも俺は人に興味なんてないだろ。

 違う、いやそうだけど、けど何かがちがうんだ。

 何か何かって、一体なんなんだよ。荒々しく、俺は自分に詰め寄った。

…………

 ただ、無性に会いたいんだよ、それじゃぁいけないのかよ?

…………

 それって、つまり、俗に言うところの……

「あれ、松田さん?」

「ぬぅおぉぉ!?」

 思わず飛び上がっていた。

「な、なななななんだ、酒井さんじゃないか、び、びっくりした!」

「び、びっくりしたのはこっちだよ。心臓止まるかとおもった……」

「こ、こんなところで何してるの?」

…………

「ぷ、あはははは」

 これまで聞いたこともない大きな声で笑う。

「もー、松田さん、変な人。ここ私の家なのに何言ってるの?」

「あ、あれ、あぁそうなの? 俺は北神研究所に用があって来たんだけどな、はははこれは奇遇だ」

「おかしいなぁ、ここは私しか住んでいないことになっているんだけど、クフフ」

 そう言って口元に手を当てた。薄暗がりの中、初めて見る彼女の私服姿に俺は気を取られていた。それは、ごくごく普通のボーダーのTシャツにパーカー、ショートパンツというラフな格好だったがまるで別人のような感覚がした。

「えー、あぁそうか。間違えたのかな。北じゃなくて南だったか! ネット検索も便利だけど考えものだね、あはは」

 俺は苦しい言い訳を言い続けていた。

「ふーん、曽根君に頼んで場所探させたりしたくせに?」

「曽根ー? そんな奴しらねーなぁ」

「さっき、曽根君が全部教えてくれたよ」

…………

「それで、どんな御用かしら?」

 そう言うと、酒井さんは再びクスクスと笑うのだった。

「いや、まぁ、あれ、なんだっけ」

 心臓って、こんな爆音鳴ったりするんだな。完全に制御不能に陥った自分自身を、あたかも他人のように眺めている自分がいた。

「少し、歩こうか……」

 そう言うと、酒井さんは俺が通り抜けられなかったバリアをあっさりと超えて言ってしまった。俺もそれにつられて、さっきの苦労が嘘のように、簡単に門をくぐり抜けていた。

 研究所の敷地は思っていた以上に広かった。10m間隔くらいで備え付けられた外灯、それがいくつかあって、その先に大きな3階建てくらいの建物があった。

「あそこに一人なの?」

「うん」

「でかいね……」

「そうだね」

「明日には引っ越しちゃうんでしょ」

「うん」

「そっか……」

 研究所内には入らず、芝生の庭を行く。

 一本の外灯の下で、俺達は歩くのを止めた。

「どこに行くの?」

「分からない」

「また会えるよな。ほら、一緒に植えたトマト送ったりしたいし」

…………

「約束はできない、です……」

「そんなの、理由わかんねーよ」

「ごめんなさい……本当は、他の人と親しくしてはいけない決まりになってて。それだけど、試験的にそういう環境を経験してみる事になってて、それで、菜園部に入りました」

「え、どういうこと?」

「詳しくはお話できません。ただ、その、予想以上に親しくなってしまって……松田さんが公園にいたことも、曽根さんが一緒の電車に乗ってきたことも、全て分かっていました。本来、ここにあなたがいること事態あってはならないことなんです」

…………

「あなたの人生に関わってしまったこと、お詫びします。できる事なら早くこのことを忘れて下さい。それでは……」

 そして、俺に背を向けて去っていこうとする。

「いや、待てよ! 一方的に言ってハイ終わりってのはないだろ。俺だってわけわかんねーよ。初めは変な鉄仮面だなぁくらいにしか思ってなかったし、3日前まではなんとも思ってなかった。居なくなっても俺の日常になにも影響なんてなかったはずなんだ」

 彼女は歩みを止めた。そして、俺は春の夜のまだどこか冬の名残のある冷たい空気をいっぱい吸い込んだ。

「訳分かんねーけど会いたい会いたいって頭の中グルグル回って、自分だって気持ち悪くて仕方ない。実際会ってみたら、今度はもっと分けわかんねー。一緒にいたいって言葉がグルグル回ってやがる。転校しても何かきっかけ作って会えばいいじゃん、とか思ってたのに、もう会えないって言うし。俺たち付き合ってるわけでもないんだぜ? なんだよそれ、試験的とか決まりとか、ほんと、わけわかんねーよ」

 そして、手のひらで何度となく自分の頭を打ち付ける。

 その場で崩れ落ちると、俺はガキの頃以来初めて大声で泣いていた。母さんを失った時の喪失感が心をよぎる。きっと、あの時俺は、大切な人を失うことに耐えられる力なんてなく、失うことのないように逃げることを覚えて、それから何一つ成長しないできたんだ。

 肩に手がかかる、そして、頭を抱き寄せられた。それが誰の手なのか、考える必要などなかった。

「ごめんなさい。私は、駄目ですね。失敗作でした」

「駄目なわけねーだろ!」

 そう言って顔を上げる。

「あ、あれ?」

 そこには、俺の見知った鉄仮面はなかった。凛として涼やかな顔立ちの、俺が初めて見る女がそこにいた。思考が混乱しつつも、それが彼女であることは分かる。きっと仮面を取った彼女の本当の姿なのだろう。

「さかい、さん?」

彼女は、優しく微笑み、そして涙を浮かべた。

「――はい、松田さん、ありがとう……」

俺は無意識に力いっぱい彼女を引き寄せ、腕を背中に回して強く、抱きしめていた。


5部


 酒井の怪しい研究所に行ってから数日が過ぎていた。菜園部の部活動が終わり、下校途中、隣を歩く彼女に声をかけた。

「なぁ、未だに色々疑問なんだけどさ」

「はい、なんですか?」

「あの日、一時的にタメ口だったよね。なんでやめちゃったの?」

「え、そうでしたっけ?」

「失敗作ってどゆこと?」

「さぁ……」

「あと、なんで俺と曽根の尾行分かったの?」

「偶然じゃないでしょうか」

「で、転校話はどこに行っちゃったの?」

「ふふふ、どうでしょうね」

 そう言うと、彼女は右手で髪の毛を掻き揚げる。今までの鉄仮面は無く、それで慣れてしまっている俺にはどうしても同一人物のように思えなかった。

「転校、したほうが良かったですか?」

「え、いや、したいならすればいいんじゃね……」

「そうですかー、それじゃ明日しますね」

「って、嘘!? 困る!」

「嘘ですよ、って何が困るんですか?」

「あ、くそ、騙したな。しるか!」

 そんな会話が続いた。 

実際あの日のことを含めて何が起こったのか全くわからない。だが、とりあえず酒井さんはあの日の翌日少し遅れてゴータと一緒に教室に入ってきた。ゴータは、彼女の転校の話が急遽なくなったことを朝礼で伝えたのだが、仮面がなくなった彼女に誰もが首を傾げていた。

 かくいう俺は、あの日彼女を抱きしめるという、俺の行動原理としては理解できない行動をしてからどんな話をしたのか殆ど覚えていなかった。ただ、泣きながら、ガキみたいに家路についたことだけはよく覚えている。俺の一生分の涙をそこで使い果たしてきたんじゃないだろうかと思う。そんなこともあって、翌日彼女が何もなかったように現れた時は夢か現か幻か、という状況であった。

同日には彼女を質問攻めしていたわけだが、今日と同じようにはぐらかされてしまった。曽根に話をしても、ふふふと笑うだけで何も答えようとしなかった。

そして今思うのは、謎は謎でいいじゃないかということだった。何故なら俺の中で悶々としていた感情は、彼女が居てくれるということで殆ど解消していたからだ。

 そんなこんなで、結果オーライとして深く考えることを止めた俺は、これまでの日常に戻ることにしたが、どうも色々と事情が変わっていた。大きなところでは酒井さんが学校に残ったことだが、酒井さんが仮面を外してから急に入部希望者が増えたのだ。


 4月と1月は、二大『新しい何か』を期待させられる季節だ。

 そして今は5月。

 周囲のほとんどは、『新しい何か』に出会うこともなく、日常の生活を送っている。どうやら『新しい何か』は、期待している奴に与えられる権利なんかではなく、気まぐれな神様によって適当に与えられるもののようだ。それは、ある意味で宝くじのようにラッキーなものだし、見方を変えると理不尽極まりないもののようだ。そんなことを、俺と酒井さんが付き合っているという根も葉もない噂を聞きつけた十一の「なんでこんな野菜野郎にだけ、ちきしょー!」というセリフを耳にしながら思うのだった。


5シリーズの短編ものです。

作品内の謎はシリーズ毎に説明されていきます。

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