P6
不審そうな顔をしてしまっていたのだろう、神崎伊月は、寂しそうに笑って続けた。
「今日、それ知ってさ。親父を、一体なんなんだって問い詰めたら、無理やり車に押し込められて、ここに、連れて来られて。
今日からここに住め、もう、帰って来なくていい、中学にも、卒業式まで行かなくていい、って」
「はあ?」
思わず、声が出てしまった。
こっちが動揺しまくっているのに、逆に、当の本人はしゅんとした表情で俯いただけ。
「んー、なんか、ワケがあるとか?
可愛い子には旅をさせろ、とか、ライオンは子どもを谷底にナンタラ、とか、さ」
思いつく限り言う俺に、伊月は笑いながら首を横に振った。
「一個上に、兄がいるんだ。
母親は、そいつの事になると、跡継ぎ、跡継ぎって必死でさ。
親父は仕事が忙しくて帰ってこないし、僕は、小さな頃からずっと、家族と会話した事すら、ほとんどない。
陽一は、ああ、僕の兄ね、がっつり塾とか習い事とかさせられているのに、あいつ、バカなんだ。ブサイクだし、性格が悪くて友だちもいないし。
それで、イケメンで優秀な次男の事が邪魔になったらしい。ようちゃんの邪魔になる存在は、コミュニティから排除する、って、そういう、あれで、棄てられた、ってわけ」
ところどころおどけた様に自嘲的にそう話して、最後、声が震えた。
掛ける言葉が見つからない。ドラマなんかの中では、聞いた事があるような話かもしれない。資産家一家の相続争い、とか、将軍家のお世継ぎ争い、みたいな。けれど、現実に目の前に、そんな目にあっているヤツがいる、なんて。
「陽一みたいに、年中母親にべったり付きまとわれて、分刻みに生活を管理されたいかって言えば、それは絶対嫌だよ。今の方が断然いい。
けどさ、勉強だって頑張っているのに、高校すら、選択権もないなんて。
そんな、事より。
なんで、もうちょっと、まともじゃないんだよ。こんな、アタマおかしい親なんだよ。一年違いで生まれたってだけで、先に生まれた陽一は、あんなに。なのに、僕は。そんなに、実の息子が邪魔か?」
そこまで一気に言って、前屈みに背を丸めて嗚咽を漏らし始めた。
室内を、改めてゆっくり見回した。しっかりした造りの部屋には、高そうなモノトーンの家具が揃えられている。
その頃の俺は、漠然と、金さえあれば、人は幸せなんだと思っていた。幸せになる、イコール、給料のたくさんもらえる職業につく、金持ちになる、みたいに。もちろん、愛情とか友だちとか家族は大事だけれど。金持ちは、みんな満たされて、悩みもなくて、楽しい毎日を送っているのだ、と。
自分の家は、一般的なサラリーマン家庭で、困窮はしていないけれど、小遣いに満足しているかといえば、そうじゃない。服も、おかずの素材も、値札を見てから選ぶのが当たり前みたいになっている。いいなと思う物を、値段を見て、あとで安くなったら、なんて、諦める事も普通にある。
兄妹の差別は、なくはない。弟や妹を、恵まれているなと、羨ましく思う事はある。が、例えば俺と弟は、生まれた段階での親の年齢も、立場や考え方も、家族構成も違う。それで納得できる程度の差でしかない。親から受ける愛情に、理不尽な差を感じた事もない。自分が、高級ホテルのような、モデルルームのような、完璧で、無機質で、一人には広すぎる部屋に断絶されて、泣く日が来るなんて、想像すらした事ないし、これからだって、有り得ないだろう。
よく、金があっても大事なものは手に入らない、なんてセリフを聞く。
頭ではわかっているつもりでも、納得なんてしていなかった。
「いっちの家は、誰も幸せじゃねえんだな」
自分自身、パニックしていたのかもしれない。自分の言葉が、夢の中みたいに響いた。それこそ、え、今の誰が言ったの? ってくらい。
泣き腫らした目でみられて、悪い事を言ってしまったかな、と、謝ろうとすると、いっちは、
「不幸なのは、僕だけじゃない、ね、うん」
といって少しだけ笑った。