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もしかしたら、また弟が来ているかな、と思いながらいつもの帰路をたどった。数日前、弟が立っていた街灯の下に、その姿はなかった。
ほっとしたのと、寂しいのが半分ずつ。
自室に戻って電灯をつけて、夕食を作る気分になれなかったので買ってきた惣菜の入ったコンビニの袋をテーブルの上に置いた。
深くため息をついて、ずるずるとしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
まいったなあ。
明日も昼過ぎからバイトのシフトが入っているというのに。
ちゃんと食べないと、と思っても、食欲は、ない。
岡田に連絡をすることも考えたが、やめた。
あいつも忙しいし、弱っているところを見せて負担になるのも、これ以上情けなくなるのも御免だ。
ちらりと真新しいコンビニの袋を見た。
無造作に置かれた白いビニール袋を見るたび、あいつらを思い出す。
今頃どうしているだろう。
あいつらだったら、こんな時、どうするだろう。
早瀬は、きっと、こんなトラブルは器用にかわしてしまうのだろう。誰にもあたらず障らず、どこか「コイツは下手にいじったら倍以上の仕返しをされる」というようなオーラを醸し出す笑顔で。
修は、ごめんね、ごめんねと徹底的に低姿勢で相手に合わせることに何の抵抗も、反抗心も見せないだろう。そのうち、相手の方も、こっちこそごめん、という雰囲気になっていて、「あれ?」と気が付いた時には、すっかり修が主導権を握っているんだ。
いっちは、少なくとも黙って言われっぱなしになんてなっていないだろうな。気に入らなければ、納得がいくまで言い返す。っていうか、あいつがレンタル店でバイトとか、そこからして有り得ないか。
まず、制服がダサい、と文句をいい、返却されたDVDにお菓子のカスが挟まっていただの、ケースにひびが入っていただのといちいち憤り、もうあんなヤツに貸してやらない、ていうか、商品が傷むからもう誰にも貸さない方がいい、などと、店の存在意義を覆すようなことを言い出すに違いない。
想像に思わず軽く笑って立ち上がった。
まず、飯を食おう。気持ちを入れ替えて、嫌なことは忘れて明日に備えよう。
この惑星は俺も、バイト先のやつらも、家族も友人もみんな乗せて、二四時間で一周し、きっちり朝を連れてくる。それまでに。
カサカサ、ペリペリとコンビニの惣菜のふたを開け、炊いてあったご飯を多めによそって口へ運んだ。
今日は、ゆっくり風呂に浸かって、いつもより早めに寝よう。最近のコンビニ飯は、マジでうまい。
翌日目覚めたら、驚くほど気分がすっきりしていた。
よし、これなら、いける。何を、って言うわけじゃないけれど、なんだかそんな感じがして、昨日の鬱々した気分とは一転、晴々とバイト先に向かった。
フロアに、怒号が響き渡っていた。
ああ……やっとこさテンションをあげてきたって言うのに、いきなりこれかよ。
怒号のほうへ視線を送ると、レジのカウンター前に5、60代と思しき男性客が立っていた。対応していたのは、南塚さん。
「一週間レンタルっていっただろう! お前らが!
だから、俺は二週間借りたんだろうがよ!
そうしたら、一週間の二回分の料金じゃねえか。なんなんだよ、このバカみたいな金額は。新品のビデオが買えちまうだろうが!」
ビデオじゃなくて、DVDだし。っていうのは、まあいいとして。
よくある勘違いではあるのだが、うちのレンタル店では、旧作は七泊八日で一本二百円、六本まとめて借りると千円。これは、最初の一週間のみの金額で、延滞翌日、つまり、九日目からは一日あたり五百円の延滞料金が掛かる。一週間も遅延してしまったら、一本当たり三千五百円のプラス。この金額、少なくとも俺にとっては、かなり手痛い額だ。延滞料金、七泊八日で二百円と思って来店して、三千三百円プラスの値段を請求されたら、ごねたくなる気もわからないでもない。
南塚さんは、引きつった愛想笑いを浮かべ、でも、だって、と、小さくつぶやくばかりだった。ほかのバイトの男連中はというと、チーフも含めて全員、見てみぬフリで棚の影からカウンターの様子をちらちら伺っている。
はあ。しょうがねえなあ。
俺もフォローに入る義理は別になかったのだが、この時間帯は主婦や、そろそろ幼稚園帰りのちびっ子も増えてくる。他の客をおびえさせ、不快な思いをさせるわけにはいかない。
こういった手合いのおっさんは、大抵。
「いらっしゃいませ」
カウンターに入って、南塚さんの隣に立ち、笑顔で声を掛けると、おっさんは、一瞬、う、と、硬直した。
その態度に、先の予想は確信に変わった。
さらに余裕を持って、小さくため息をつき、おっさんに対する同情のこもった表情で、
「お客様、どうなさいましたか?」
と、続けると、おっさんは一瞬、真っ赤な目をキョロキョロさせて、挑むように身を乗り出した。
「こ、こいつがな、延滞料金を払えって言うんだ。
二本で、合わせて七千円。そんな馬鹿な金、払えるかってんだ」
ああ、二本分なのか。てか、酒臭い。おっさんは酔っ払いらしい。
最初の数文字分は威勢がよかったが、後半はぼそぼそと、強い怒りというより、ふて腐れている様な様子に変わっていった。だいたい予想通りだが、まだ気は抜けない。
「延滞金は一日あたり五百円なんです。
これは、当店だけでなく、本部で決められている料金で」
「そんなん、聞いてねえんだよ!」
「ご入会いただいたときに、ご説明、したはずです」
再び激昂したおっさんに、ゆっくり、穏やかな口調を心がけて言うと、ぐっと言葉に詰まっておろおろと視線をさまよわせた。
こういったおっさんは、大声を出すことでおどおどするような、女や、よわっちい男にはいくらでも強気になるわりに、俺のように上背があり、恫喝されても引かないタイプには、弱い。表面での判りやすい勝ち負けで対人関係を決めるようなヤツに、あえて媚びてやる必要はない。言い方は悪いが、野生動物と同じ。慇懃、かつ、こっちが上なんだよ、という態度を崩さなければいい。
とはいうものの、一応はお客様、この辺のさじ加減が、ちと難しくはあるが。
「どうかなさいましたか?」
不意にすばやく誰かが近付いてきた気配に振り向くと、その人は笑顔でおっさんに声を掛けた。
「私、ここの責任者で、秋元と申します。
ここではなんですから、事務所でお話を伺いましょう」
秋元さん。すっげえ、グッドタイミング。
ホテルに到着した客を迎え入れるドアマンのような満面の笑みで、さあ、と、バックヤードへ案内しようと促す。
「な、なんなんだよ、大げさにすんな!
払えばいいんだろ!」
おっさんは、わたわたと財布を取り出し、俺に向かって投げるように一万円札を差し出した。
受け取って、素早く会計を済ませ、お釣りとレシートをカルトンに乗せて戻すと、おっさんは、それを奪うように握り、ふん、と鼻息荒く帰っていった。
ほう、と、脱力した。秋元さんを見ると、困ったような笑みを浮かべて、
「高城君、おつかれ、ありがとう」
と、労ってくれた。こっちこそ、助かったのに。俺は小さく頭を下げて、いつものように返却されたDVDを棚に戻す作業を始めた。
狭いカウンターの中を移動するために、南塚さんの隣をすり抜けるとき、無意識に目が合って、先にふいっと逸らされた。




