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P36

 咄嗟に歩き出そうとしていたいっちの腕を掴んだ。


「いっち、よせ」


「ざけんな、てめえ、みー、離せ」


 離せるわけ、ないだろ。いっちの向こうに、戸川の怯えたような顔が見える。

 と、早瀬がいっちの前に立ちふさがった。


「だめだよ、神崎、落ち着いて」


「早瀬、そこどけ。どけよ!」


「何を騒いでいるんだ。席につけ」


 女子の、小さなきゃあ、という悲鳴のような声が上がるのと、どこかのんびりとした声が輪の外から掛けられたのが、ほぼ同時。

 ファイルやらプリントやらを小脇に抱えた学年主任がじろりと教室内を見回して、前のドアから中に入ろうと廊下を進み始めた。

 生徒たちの意識がそっちに集まり、わずか、抵抗するいっちの力が弱まったタイミングで掴んだままの腕をひき、後ろのドアからいっちを引きずるように廊下へ出た。


 無意識に昇降口のある階段の方へ進み、一瞬、降りる方をみて、視界に別なルートが入って足を止めた。

 降りるのとは逆の、屋上へ昇る、幅の狭い階段。

 屋上は基本的に出入り禁止で、この階段自体、昇る事は禁じられている。が、人目は避けられる。ちょうどいいと思い、そのまま、いっちの手を引いて階段を昇り、踊り場から折り返して廊下から隠れる位置で立ち止まって大きく息を吐いた。

 いっちは、もはや抵抗する気配もない。掴んでいた手を離すと、やさぐれたような荒い仕草で階段に座り、俺を睨んで、


「何があった?」


 と、聞いた。

 いっちが教室で、俺に対し、修に何を言ったのかと聞いたのは、修が俺に「伊月とは何もない」と訴えていた事に対してだろう。いっちが教室に戻ったのは、修が倒れた後。その前の戸川とのやり取りを見ていなかったはずで、俺が修に、いっちとの事を問い詰めた、とでも思っていたのだろう。それで、修が発作を起こした、と。

 数秒口を噤んだままでいて、いっちを見ると、怒りが薄れる事はないどころか、さらに増していくようだった。話すしかない。


「戸川が、お前らの事を怪しいって言ったんだよ。ホモなんだろう、って」


 いっちは目を閉じ、感情をなだめる様に深く息を吐いた。


「それで修は、何もないっていったわけ?

 僕だったらあんなやつにいい訳なんてしない。今まであった事を、なかった事にするくらいなら。

 修にとっては、保身の方が大事だったって事だ」


「お前、それ、本気で言っているのか?」


 なんでこんなに、ガキなんだ。自分の事しか考えていないのは、いっちの方だろう。

 修が俺に、必死に訴えていた姿が過る。自分の保身の方が大事だった、だと?修はそんなヤツじゃない。わかっているはずじゃないか。

 いっちはすっかり不貞腐れた様に壁の方を向いている。感情が大きく波立つ。

 俺は何をしているんだろう。

 なんで、こんなヤツの事を、俺は。

 報われない思いに苦しんで。見捨てて、離れてしまったら、後悔するだろうか。楽になれるのだろうか。

 その時、不意に聞こえた声。聞こえた、と言うのは正しくない。過った思い、というか、イメージ? 急にひらめいた思考。文字、言葉。


(見返りが無ければ、不満か? 報われなければ、意味はないか?)


 ざわり、と、体の内側が波うつ感覚。

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