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「なにもない」
泣くのを堪えるように、絞り出された修の声が、しんとした教室に響いた。
「僕と伊月は、何もない。そんな想像する方がおかしい」
はあ、はあ、と、修の息が荒い。ここに来て、気付いた。怒りのせいにしても、様子がおかしい。
戸川に向かっていこうとする修を制しようとして、掴んだ手を振り解かれた。
勢いのまま、ぐらりと辛そうに机に寄りかかる。
「伊月も、湊の、事も、根も葉もない事で悪く言うな。ど、うせ、本当は」
発作だ。クラスマッチの時と同じ。
まずい、とりあえず教室から連れ出さないと。
背中に手を回し、支えようとしたが、は、は、と、早く浅い呼吸の合間に、涙の浮かぶ目で戸川を見据えながら、ゆっくりと崩れるように床に膝をつく。
「自分の、願望、なんだろ」
そこまで言って、く、と、苦しそうなうめきを漏らし、制服の胸辺りをぎゅっと掴んだ。
前の時は、確か。修は、少し待てば落ち着く、と、人目を避け、じっと耐えていた。あれが、正しい対処方法なんだろうか。先生に報告した方が? それとも。
どうしよう。どうすれば。俺が、ちゃんとしないと。
そう気ばかり焦り、修の苦しそうな様子に、パニックになって言葉が出ない。
「修!」
叫ぶような声に顔を上げると、逆光の中、いっちが目を見開いて立っていた。
教室に駆け込んできたいっちの動きは早かった。
修を抱き起し、制服のネクタイを緩めて、シャツのボタンを二つ外すと、修は、大きく息を吐いた。
「みー、先生呼んできて。あと、救急車」
そうしながら、早口に言われて、頷き、立ち上がろうとして、腕をひかれて振り向いた。制服の袖を、修が強く握っている。
「びょう、いんは」
「そんな事言ってる場合じゃないだろ。みー、いいから」
涙を浮かべた修の必死な訴えを、いっちが遮る。修の手を外そうとしたが、病人に乱暴するようで力が入らず、うまく解けない。
誰かが、周囲の輪から駆け出していく。ちらりと確認すると、早瀬。教室前方の入り口近くに設置してある、職員室直通のインターフォンの受話器を上げ、何かを話している。
これで、先生に伝わる。早瀬の冷静さに安堵した。
「何もない。湊。僕と、伊月は」
ほっとしながら早瀬の姿を見ていると、修が身を乗り出してそう言った。
「修?」
「何も。伊月は、悪くない。全部、僕が」
何を? このタイミングで、俺に対する弁解?
混乱した頭で修の言葉の意味を考えていた。
そうか、修は、俺も早瀬も、気付いていないと思っているんだ。いっちとの事を、必死に隠そう、と。
そんな事は、心配しないでいい。そう伝えたかったけれど、下手に何か言えば周囲にも気付かれてしまう。言葉にならなかった。
すう、と、意識が遠くなったように修の目の焦点が合わなくなり、力が抜けた。いっちは、俺に縋るようにしていた修を抱き寄せて、小さく何かを呟く修の口元に耳を近づけた。
その声は、すぐそばにいた俺も、途切れ途切れに聴きとる事ができた。
ごめんなさい、かみさま、ごめんなさい、と。
修は、いっちとの事を、そこまで思いつめて。いっちは、蒼ざめた顔で修を見ていた。




