P20
俺の家は、マンションの比較的上の階にあり、夏真っ盛りでも窓を開けると寒いくらいの風が入った。
弟はもう寝ているから、デスクライトだけつけて机に向かう、いつもの時間、外気と、時折、車の通る音が夜気に運ばれて入ってきた。そんな音に紛れて。家の中からも、不穏な声が聞こえて来た。参考書を繰る手を止め、立ち上がり、音を殺して窓ゆっくりとを閉め、足音を忍ばせてドアの手前に立った。
「だって、仕方がないでしょう、私だって」
「けれど」
両親の言い争う声。父の主張は、母の残業の多さと、それによる俺たちの負担の大きさへの苦言。母は、金銭的な問題への懸念を主張する。
「子供たちだって、勉強も大変な上に、遊びたい盛りでもあるだろう?」
「けれど、これからが一番学費がかかるのよ? 湊が東京に出て一人暮らしをするようになったらどうするの」
「そうなったら、朝陽の送り迎えはどうする?」
「その頃は、朝陽も中学生よ」
うんざりしたような、母親の声。俺も静かに長く息を吐く。さらに、母親が続ける。
「湊だって、本当だったら予備校にも通わせてあげたいけれど。
私が残業を減らしたら、朝陽と瑞穂の学費だって。
湊は、食費のやり繰りも本当によくやってくれているの。しっかりしている分、負担をかけすぎてしまっているのは、わかっている。お小遣いだって、本当は、高校生なんだから、もうちょっとあげたい。けど、今、できる限り節約して貯めておかないと不安なのよ」
所詮、金か。
いっちと修を思い出していた。いっちはもちろんの事、修は派手に金を使うタイプではないけれど、困っているようには見えない。そういう気配を感じさせない。金に困った事のないヤツは、纏う空気でわかる。
頻繁に買い食いをするあいつらに付き合っていたら、あっという間に小遣いは無くなる。俺がもし、小遣いが少ないから付き合えないとでも言えば、いっちは、自分が奢るとか言い出すだろう。それだけは、ご免だ。対等な友人でいられなくなる。
俺の気持ちは、修にもいっちにも理解できないだろう。二人とも、「お坊ちゃま」だ。いっちに至っては、初めて会った時、俺がコンビニで弁当を買っていたのを見ているはずなのに、「外食もコンビニの弁当も嫌いだ」という、俺のウソを頭から信じて疑いもしない。
惨めだった。金がない、という事が。
暗がりの中、拳を握りしめても、溢れてくる涙が抑えきれないくらいに。
もし、一生困らないだけの金があれば、好きな事ができたはずだ。友人と学校帰りにカフェに寄る事も、遅くまで遊ぶ事も、バレーを続ける事も。
「兄ちゃん」
背後からのひそやかな声に、はっとして振り返った。
ベッドの上段で、朝陽が起き上がってこちらを見ていた。寝ぐせと、寝乱れたパジャマ、小さく細い肩。
「父さんと母さん、ケンカしているの?」
囁く無表情な声が、哀しい。目をこすったら、感付かれてしまう。背を向けて息を整え、ドアから離れた。
「議論がヒートアップし過ぎただけだよ」
「お金がないから?」
ぞくり、と、背筋が冷たくなって、言葉に詰まってしまった。
「お金がないから、ケンカになったの? 俺が、塾を辞めたらケンカしない?」
「ガキが、金の心配なんてしてんじゃねえよ」
ふざけた様に、苦笑と共に声を殺していったけれど、朝陽の表情は変わらなかった。
「お前は、気を使わなくていいから。何も心配しないで、寝ろ。
俺もそろそろ寝るかな」
自分側のスペースへ移動して、デスクライトを消し、わざとらしい欠伸をしてベッドに入った。
「兄ちゃん」
「ん」
上の段から、くぐもった声で呼びかけられた。
「俺が、普通の公立の中学校に行ったら、どうなる? やっぱり、お金がないってケンカするお父さんになるかな。受験、うまくいったら、お金持ちになれるかな」
「さあな。いいから、もう遅いし、寝ろ」
「うん、おやすみ」
金があるヤツは、金がない事で悩まない。苦しまない。金があるっていうだけで、人生の苦悩が一つ減る。
布団をかぶって泣いた。弟の不憫さに。妹も、両親の争う声を聞いているのだろうか。
金が稼げる仕事に就こう。弟妹が、いつか俺の持つ家族が、俺と同じ思いをしないでいいように。けれど今は、何もできないのが悔しくて、惨めで、泣いた。
ドアの向こう、廊下の先のリビングでは、いつまでも両親が言い争っていた。




