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____始まりは受験の日だった。
朝からお母さんは気合いを入れてカツ丼を作ってくれた。昨日の夜から胃痛――おそらく神経性の――に悩まされていた筈の優しい優しい私はその好意をむげにはできず、無理矢理かっこんだ。重い。重すぎる。愛も、胃も。しくしくと泣いている胃と、歯の間に挟まった豚肉の筋と格闘しながら、学校指定の白いスニーカーを履いて玄関から一歩出る。するとすぐに一面に積もった雪が目に入って、そのまっさらな白が目に染みた。これから待つ人生の分岐点から一瞬、あくまで一瞬だが解放された気がした。
雪だるまを作りたい欲求を制しながら踏みしめ踏みしめ歩くと、ぶちりと妙な所で靴と周りに同じく白い靴紐が切れた。そして目の前をよぎる黒猫。
「……」
冬なのに何故か汗が額に滲む。
不吉? いや違う。ただの偶然! 占いでもジンクスでも良いことだけ信じて進むのが人間の正しい姿!
そう自分に言い聞かせながら靴紐を結んで繋げようとして屈むと、横に生えた木に積もっていた雪が頭の上に落、あっぶな! かかった! かかったのだ!
ぶんぶんと何もかもを吹き飛ばすように頭を振ったが、ふつふつと湧いた嫌な予感は拭えない。御守りが二つ付いて喧嘩中の鞄を確かめると、ないものがひとつ。
筆箱。
血の気が引いていく音がした。うそだ。うそだ。焦って中身を漁るが、やはりない。急いで帰らなければ!
「どうされたんですか?」
踵を返して走り出そうとした私にいきなりかけられた声。靴紐を結ぶのを忘れていたためバランスを崩した上、地面の新雪に足をとられた私は転、違う違う倒れてしまう。駄目押し。じわじわと染みてくる冷たい雪を感じながら、私は確信した。
「終わった…私の受験…」
涙で視界が滲んだ。
「ケガしたんですか!? 驚かせて、すみませんでした」
声をかけてきた男の子が私の手を掴んで起き上がらせてくれた。涙を流す私に慌ててしまっている。取り繕う余裕もない私は、涙を止めれない。
「これ、使ってください。ちょっと大きいですが…」
「あっ! ありがとう、ございますっ」
ぼやけた視界の中、男の子はスポーツタオルを私に差し出した。その優しさに触れて、ますます涙が溢れる。朝からの不幸続きで張り詰めていたものが、彼の優しさで一気に緩んでしまったのだ。
「あの、ケガじゃないなら、何か困ったことがあったんですか?」
「ふっ! ふで! ふてばこ! 忘れて…」
タオルに顔をうずめつつ、しゃっくり上げながら告白した。
「じゃあ、僕の使ってください。余分にあるので」
男の子は私を落ち着かせるよう、穏やかに言ってくれた。
「はい、これどうぞ」
「なにからなにまで…すみません」
鉛筆と消しゴムを受け取り、ようやくしゃっくりも止まったのでタオルから顔を上げようとしだが、
「あ、僕友人と待ち合わせしてるのでもう行きますね。入試、お互い頑張りましょう!」
せかせか慌ただしく遠ざかって行く学ランの後ろ姿を見送ることしかできなかった。私が引き止めたせいだ…本当にすまん心優しい少年よ。君の厚意を無にしないためにも、ジンクスなんかに負けず、絶対に高校受かってみせるよ!
私がその男の子の名前を聞きそびれ、顔も見ていないことに思考が辿り着いたのは、入試が終わった後だった。
*****
「あんた…それって人としてどうなの」
「宇美ちゃんの言うとおりでございます…」
反論の余地もない。する気もない。
「ま、試験中に気がつかなくてよかったね。動転して落ちてたかもね」
「うん、アホでよかった…いや、そもそもアホじゃなかったらこんなうっかりやらかさなかったんだから、アホですみません」
松原麻衣、恩人のおかげで無事に第一志望の高校に受かり、高校一年生になれました。
その恩人の手がかりは、性別、声、学ラン、タオルだけです!
助けてもらった場所の近くに高校は他になかったから、おそらく同じ学校には通ってるはずだ。残念ながら、同じクラスではなかったけれども。
「受かってたらね〜」
宇美ちゃんはにやりと笑う。中道宇美ちゃん、高校に入ってからできたちょっといじわるな友人である。小悪魔!
「王子は私のようなアホ民草とは違いますから〜」
「いやいや〜、姫様でしょ。ガラスの靴で探されてるんだから、シンデレラ」
宇美ちゃんは私が持っているタオルを指差した。洗って、高校に入ってから毎日持って来ているのだ。
何処にいるんだ、お姫様。結婚はしなくていいから、どうか一目会わせてお礼を言わせておくれ!