第三話 読破希望・“世界”は塗り変わる
「眠い……」
燦々とした太陽のもと、アスファルトの照り返しに体力を奪われながら俺は呟いた。
机に向かったまま寝落ちしたせいで身体の節々が痛い。眠りも浅かったのか手足も少し重い気がした。
夜更かしで読書なんざするもんじゃねえな。
やるたびにつくづくそう思うものの、気づいた時には既に朝になっているのも毎度のこと。後悔先に立たずだが、後で何回立てても役に立たんから始末が悪い。
まぁ……今回はそうするだけの価値があったとは思うけどな。
しょぼつく眼とは対照的に精気は隆々、肩の鞄を背負い直す。いつもより本一冊分だけ重いが、今はそれが心地いい。
できれば学校をサボってこちらに集中したいぐらいだが、後先を考えるとそうもいかない。世間体的な意味もあるし、何より不眠不休というのはいくらなんでも無理だ。
とりあえず授業中に寝て放課後からまた読むか、などとある意味普遍的な学生らしいことを愚考する。
「フミやん、おはよーっす」
そんな思索の最中、挨拶とともにポンと肩を叩かれた。こんな間の抜けた調子で俺を呼ぶのはこの学校でひとりだけだ。
「ああシロさん。おはようござい、ま……す」
振り返って挨拶を返そうとして、口元が引きつった。声は尻すぼみ、ぎこちないものになる。
「……? どうかした? オレの顔、何かついてる?」
自分の顔や服に手を添えるシロさんだが、別に顔はいつもと同じくユルみ面だし、服装も過不足のない学生服だ。
しかし――――、昨日までと違う部分がある、というか、居る。
「あ……、いや。なんでもないす。ちょっと声裏返っただけっす」
俺はその動揺をなんとか取り繕った。こういうときはあまり感情がでない自分の顔はありがたい。勘の鋭いシロさん相手にはあまり効果はないんだが、
「そう? ならいいけど」
とりあえずは誤魔化せたようだ。内心ヒヤヒヤしながら息を吐く。しかしそうしたところで眼に写るものが消えるわけではない。
シロさんの、柔らかくクセのついた頭髪の上。細身な撫で肩の詰め襟の脇。
そこには昨日まで影もなかった、未確認存在が居座っていた。
容貌自体は人間に近い、が体長十センチ強。小さな体と大きな頭部の、絵に描いたような二頭身。つぶらな瞳と白い肌のあどけなくも整った顔立ちは、人外じみているのを通り越して非生物的にも見えた。
頭の上に一体、肩の上に一体。それぞれ飛び跳ねたり踊ったり、落ち着きなく動きまわっているがシロさん自身はまったく気にしていない。
というより、存在自体に気づいていない。
…………こういう陳腐な言い方は好きじゃないんだが、敢えて名称するならば――――“妖精”、ないし“小人”である。
――――自分にしか見えないって……、理解はできても即応できるもんじゃねえな。
眉間をおさえ、認めねばならない現状に懊悩する。
浦賀 文弥、十五歳。
妖精さんが眼で見える、痛い人になりました。
※
最初に異常に気づいたのは朝餉の席。眠い目をこすり覗いた台所に立つ人数が、いつもより多かった。
いつものように味噌汁を温めなおす母。その背後に、見慣れない人影が立っている、ように見えた。
寝ぼけてるのかと思い顔を洗って見てみたが、消えるどころかより克明に見えるようになる始末。
いや克明、というのも可笑しいか。なにせそもそも半分向こう側が透けている存在だったのだから。
年老いた老婆の姿をしたそれは、母の動きに合わせてあっちにこっちに動き回る。時折、障害物を苦もなくすり抜けながら。
それがいわゆる、“幽霊”ってヤツだと理解するのにさほど時間はかからなかった。
全くリアクションをとらない母や親父――親父の背後にももう一体居た。こちらは寡黙で頑固そうな爺さん――の様子をみるかぎり、認識できているのは俺だけ。キチガイ扱いされるのも嫌なので平然を装ったが、その状態で朝飯を食うのはかなり難儀だった。
なにせ、
《ちゃんとよく噛んで食べるんだよ!》
だの
《昨日夜更かししてたでしょ! 夜は寝ないと駄目よ!》
だの
《身だしなみはちゃんと整えなさい! 周りはみんな見てるんだからね!》
だの、小姑のようにベラベラと口うるさく喋り続けているのだ。幽霊にしては元気な婆さんである。
その溌剌に過ぎる声が聞こえているのも俺だけらしく、おもわず「何度も言わねーでもわかってるっつーの!」と言い返すところだった。
準備を整え家を出て、ようやく一息つけるかと思えばそうは問屋が卸さない。外は外で、昨日までの光景と色々な意味で一新していた。
両親同様、背後霊を引き連れる人間を大勢みかけたのは――――良くないが予想の範疇ではあった。
しかし、
(これはないだろ……)
教室の自分の席。現在、一限目授業の真っ最中。座って見据える机の上には教科書とノートが手垢も付かずに放置されている。
それらを下敷きにして、こちらを見上げる小さな小さな“何か”がいた。俺はその一体を慎重に摘まんで持ち上げる。
昔飼っていたハムスターの感触と非常に似ているが、既存の生物とは明らかに違う。
――――頭に葉っぱ生やした鼠なんて聞いたことねぇよ……。
日本原産のクマネズミやドブネズミとはまた違う、コロコロとした手のひらサイズの大福のような体。白と灰色の混ざった毛色と太く長い尻尾は中南米に生息するオポッサムに近い。
しかし決定的に違うのは、頭に付いた二枚の青葉。
落ち葉が絡みついているのかと思って見てみたが、しっかりと脳天に根ざしていることが確認できてしまった。瑞々しい青さをはなつそれは小さな帽子のように頭部を覆っている。
それが二匹。
そのまま何処に行く様子もなく、足下をうろつかせていると踏み潰されそうなので机の上に乗せている。それから全く逃げ出す気配がない。
勉強にならないので――いやもともとやる気は皆無だったが――観察しつづけていると、つぶらな瞳でこっちを見た。
「…………」
青葉ネズミ(今命名)は疑問符を投げかけるかのように、コテンと首を傾けてみせる――――――
………………。
…………い……色々と、衝撃を受けながら机の上に戻す。な、なかなか、やるじゃねぇかコノヤロウ……。
浮かれた気分を鎮めなおし、向き合うが――――さっき観察していたのと別の青葉ネズミと目が合った。
「…………」
………………心なしか、何か期待を込めた目をしている気がするんだが。
ひょっとしてアレか。自分のことも構えってか?
試しに手を差し出してみると、熱心に首まわりをこすりつけてくる。ふくふくとした毛並みが非常に心地いい。
なんでこんなに懐かれているんだろうか。野生生物なら絶対に有り得ない。警戒心がなさすぎる。
色々と疑問は尽きないが……、まずはこの状況に対する大元の原因を考えるべきだろう。
(ま、わかりきってはいるんだけどな)
そっと机の脇に下げた鞄に触れる。中にあるのは、あの本。
安易に現状との因果関係を決めつけるのは早計かもしれないが、俺には確信があった。
この本を読んだことで、俺の中のなにかが変化した。
“なにか”というのがなんなのかは、わからない。けど、この本が変化の鍵なのは間違いない。
幽霊や妖怪の類を五感で捉える、いわゆる“見鬼”の才能。霊感を発現させる本ということか?
(……いや、何かしっくりこないな)
そういう能力開発の教本の類とは内容の雰囲気が違う。少なくとも、読んだ範囲ではキチンとした物語文だった。
軽くそのあらすじを語ると次のようなものになる。
※
舞台となるのは、登場する物品や文化水準から察して現実世界の近代。十九世紀前後の西洋に近い世界観。
その時代を生きる、とある少女を中心に物語は始まる。
街から街へと渡り歩く少女は“魔術師”。小さなお供を一匹引き連れて、旅から旅への根無し草。
既に時代は科学隆盛。もはや魔術が前時代の遺物として静かに消滅の途をたどるなか、魔術師として旅を続ける。
女独り、若い身空の旅路は決して安穏ではない。
野党に襲われることもある。
排他的な街や村に、手酷く追い出されることもある。
しかしそれでも、彼女は旅の中で生きていた。
その理由は綴られていない。目的があるようには思えるが、彼女はそれを語らない。
誰と深く関わることもなく、彼女は独り生きていた。
そんな少女が立ち寄った、とある街。
いつものように街の片隅に身を潜め、休んでいた。
そこで彼女は自身に転機をもたらす、ひとりの青年と出会うことになる――――
※
……と、ここまではいいのだが問題はこの先だ。
授業中であることを無視してこっそりと本を取り出す。机のなかにしのび込ませたまま、静かに慎重にページをめくっていくと……、
(やっぱり駄目、だな)
紙面の端に軽く爪を立てるが、カリカリと音が立つだけでピクリとも動かない。
読もうとしても、あるページ以降が開かないのだ。糊付けされたかのようにぴったりと閉じたまま。下手に力をこめると本自体が傷つきかねない。
まるで読まれることを拒否しているかのようだ。
(ここまできて読むなってのは無理が過ぎるだろ)
読書を趣味にする人間のなかには、ただ“本を読む”という行為に喜びを見いだす連中もいる。内容自体はどうでもよく、新たな知識を得ることに価値を見出す人種だ。
しかし、俺はそうは思えない。
取り扱う内容が同じでも、面白い本とそれ以外のただの本は違う。
自分を楽しいと思わせてくれる、自分の心を躍らせてくれる。そんな本を求めている。
この本は、そんな欲求を満たすかもしれないのだ。まだまだ途中に過ぎないが、それでもそう感じられる。
心の中の手の届かない部分を、優しく解きほぐしてくれるような……。こればかりは伝えるのが難しい。
まして、これから面白くなってきそうな所なのだ。結末まで読まないかぎりは手放せそうもない。
本を覗き込む二匹のネズミにはさまれながら、授業と全く関係ないところで頭を悩ませる。
それがちょっとマズかったんだろうか、うんうん唸っているところに後ろから肩をつつかれた。
「うーらーがくん?」
微妙に間延びした、友人を遊びに誘うかのような呼び方。
うぁ、気づかれたか。考えごとに集中していたせいで察知が遅れた。そういえば今はこの人の授業中だったんだよな。
チロチロと湧き上がる面倒臭いことになったという感情を下火に抑え、低い声でこたえる。
「……なんすか、姫爾先生」
「なんすかじゃないよぅ浦賀くん。いまは授業中だよ?」
どうにも威厳に欠ける語調の女史は俺の席のすぐ脇に立っている。しかし直立姿勢でありながら座った俺と目線の高さにほとんど差がなく、圧迫感は皆無だ。
任期三年目、国語科担当の井上 姫爾。
低身長かつ童顔、しかし実年齢は二十代半ばという一部の層を狙いすましたかのような女教師は、精いっぱいの威厳を見せようと胸を張っている。
「本好きなのは嬉しいけど、授業はちゃんと聞いてよぅ」
どこか幼く締まりのない喋り方は、見た目に合致してはいるが果たして計算なのか天然なのか。生徒間でも意見が割れている。授業自体はわかりやすいし熱心な部分も感じられるが、この人の気の抜ける語調だけは俺は苦手だった。
「大丈夫っすよ。ちゃんと聞いてますって」
「ん~? じゃあー、今の詩ついて説明してみて」
疑わしげに言われたので仕方がない。教科書を開く。
授業の大部分は聞き流していたが、テキストの該当範囲はあらかた読了済みだ。現代文の教科書は読んでいて面白いから助かる。
今日の範囲は各時代別の歌人が作った詩の比較。今さっき取り上げていたのは、飛鳥時代の頃につくられたとおもわれる作者不明の作品。
「当時の徴兵制度で、国家防衛に任命された男が詠んだ歌っすね。結婚したばかりだってのに遠くの土地に派遣が決まって、別れを悲しみながら見送る奥さんを慰める言葉を冬から春にかけての草木の変化になぞらえて表現してます。見た目には淋しい雪に包まれた木が過酷な環境に耐える様をいまの辛さと重ね合わせ、春と共に咲く花を奥さんに例えて、春が来るのを耐え忍ぼうって内容ですね。このとき咲く花っていうのは、元は木そのものの中にあったものっすから、自分を木に例えることで奥さんのことは冬の間も胸の内から消えることなく共に在ると表現している……ってな感じ、ですかね?」
とりあえずの私見を俺は述べる。が、姫爾女史の顔色は冴えない。
あれ、なんかミスったか?
「……いや、間違ってないよ。ニュアンスの違いはあるけど、大筋は正解」
「ならもっとそれっぽい反応してくださいよ」
教卓の上でうつぶせになってダレないでください。いい大人なんですから。
「そんなこと言ってもさぁ……。そこまでキッチリ回答されると教師として自信無くすっていうかね……」
ろくに授業に参加せずとも問題なく回答ができているあたりに、教師としての存在価値の消失を感じているらしい。
そこは姫爾さんの責任ではないと思うけどな。
「……そんな情けない格好してると、お婆さんに笑われますよ」
「ッ! なっ、なんでおばあちゃんなのっ!?」
反論しつつも動揺をかくせず脊髄反射的に背筋を伸ばす姫爾女史。
あー、やっぱり婆ちゃんっ子なのか。
「いや別に。言葉のあやですからお気になさらず」
口ではそう言いつつ、俺が視線を向けるのは姫爾さんの後背。
どこか困ったような表情をした、やさしい目つきの老婆の霊が宙に浮いている。
――――顔立ち、雰囲気ともに姫爾さんと良く似ていた。
背後霊。っつうより、守護霊ってやつなのかね? 御先祖さまが子孫を守る為に憑く、と聞くが。
しかしクラス内にも憑いている人間はいるが、憑いていない人間もいる。憑いていても見た目からして人霊でないやつもいる。この差は一体なんなんだ?
「えっ、ちょっ、浦賀くん? なんで先生の後ろの方を見てるのかな!?」
あ、やべえ。気づかれた。
「いやいや、なんもないですよ。やさしい目つきのおばあちゃんが、あらあらごめんなさいねー落ち着きのない子でー、とか言ってたりしませんよ」
「言いそうだよ絶対言うよそんな台詞! そこに居るの!? おばーちゃ――――ん!」
割と信心深いのか、背後の黒板にむかって叫ぶ姫爾先生。
隣の教室への騒音はともかく、愉快なノリで進行する授業は生徒受けも悪くない。
二匹の青葉ネズミをかまいながら、級友たちに同調して忍び笑いをもらす俺だった。