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 翌朝、武司は六時に起きた。手早く身支度をし、朝食の準備をする。そして布団に包まっているユキノを叩き起こした。遅くまで家の中をうろうろしていたユキノはなかなか起きようとしなかったが、武司に一喝され、ようやく着替えを始めた。

「これ、順番が違うだろうが」

 セーターを先に着てから肌着を着ようとする老妻に呆れながら、着替えを手伝う。

「ああ、もう! いちいちうるさい!」

 ユキノがたまりかねたように大声で言った。

「お前がモタモタするからだろうが! 早くしないと、病院は混むんだから」

「私はどこも悪くありません」

「俺が行くんだよ、俺が」

 武司はうんざりしながら乱暴にユキノの足に靴下を履かせた。

「一人で行ったらいいじゃありませんか。子供じゃないんだから」

 ユキノはあきれたように顔をしかめた。この莫迦! という言葉が思わず口から出そうになる。ボケ始めてから、ユキノは口が悪くなったように思う。これも認知症のせいなのだと必死で自分に言い聞かせた。

「……なんでもいいから。頼む、早くしてくれ」

 武司は押し殺した口調でユキノをせかした。

 またしても胃がきりきりと痛みだす。まるで漬物石のように四六時中武司を押しつぶそうとするストレス。こんな苦い思いは第三者にはきっとわかるまい。

 追い立てるようにユキノを洗面所に連れて行く。ユキノはもたもたと顔を洗い、入れ歯を口に押し込んだ。武司はブラシを持つと雀の巣のような頭をすいてやる。

 若い頃はまさに烏の濡れ羽色だった髪も今は真っ白だ。四十代の半ば頃から急に白髪になった。ちょうど一人息子を事故で亡くした頃だ。二人にとって本当につらい時期だった。

 武司は鏡に映るユキノの顔を見つめた。その横には同じように年老いてしなびた自分の顔がある。

「随分年寄りですね、この人たち」

 ユキノが他人事のように笑う。自分の顔とは思っていないようだった。屈託無い笑顔に、思わず武司も苦笑した。

 武司が通っているのは車で十五分ほどのところにある総合病院だ。家の近所の開業医でもいいのではないかと思うのだが、十年前に早期の胃癌を患い、その際に手術したのがこの病院だった。それ以来、なにか変調があるとこの病院にかかるようにしている。いい加減歳を取ったとはいえ、やはり癌の再発という不安は拭いきれないものだ。

 タクシーで病院に辿り着いたのは九時前だった。まだ診察前ではあったが病院内は混雑していた。年末だからという訳でもないだろうが、今年の病気は今年のうちに治したいといったところか。

 二人は内科へと向かった。

「この分じゃ、一時間は待たされるな」

 武司は溜息をついた。

 ユキノは待合室の長椅子に腰をかけ、柱の高い所にあるテレビをぼんやりと見上げ、武司はポケットから本を出すとそれに目を落とした。

 一時間以上経ち、ようやく名前が呼ばれた。

「坂本さま、坂本武司さま」

 看護師の声に武司は慌てて立ち上がり、長椅子でうたた寝していたユキノの肘をつかんでひっぱった。

 ユキノは目をさますと、不機嫌な顔で腕を振り払う。

「なんですか」

「呼ばれたから、ほら」

 引きずるようにユキノを立たせ、診察室に入った。

「坂本さん、久しぶりですね」

 デスクの上のパソコンを叩いていた医師が顔をあげた。内科部長の早川だ。十年前に武司の主治医だった医者である。

「すみません、妻も同伴で。ちょっと目が離せないもので」

 武司は恐縮しながら頭を下げた。早川はちらっとユキノを見ると小さく頷いた。後ろにいた看護師に椅子を持ってくるよう言うと、

「どうぞ、遠慮なく」

 とユキノに声をかけた。

 ユキノは看護師に促されるまま、大人しく椅子に腰掛けた。

「さて、どうされました」

「最近胃の調子が悪くて」

 武司は症状を訴えた。ちらりとユキノに目をやり、

「色々と、こう、いらいらする事が多くて……」

 早川は頷きながら電子カルテに入力していく。

 一通りの診察をしてから、早川は武司に向き直った。

「神経性胃炎だと思いますがね、一応検査はしておいたらいかがですか」

「はぁ、検査ですか。……実は、なかなか、病院に来るのも大変でして。……今日も一仕事だったんです」

 さすがに本人が傍にいるのに、「認知症の妻のせいで、なかなか動きが取れません」とは言いにくい。それでも早川には状況は伝わったようだった。早川はユキノにちらりと目をやると渋い顔をして、う~んと唸った。

「事情はわかりますけどね、なんとなく。……ちょっとデイに預けるとか、ヘルパーに見守りに来てもらうとか、手はあるんじゃないかな。一度ケアマネージャーに相談してみて、検査、考えてくださいね」

「はぁ」

 武司は気のない返事をした。

 診察室から出て会計に回る。ここからまた時間がかかるのだ。玄関の傍の長椅子に座り、呼び出されるのを待つ。

 玄関のガラス張りの自動扉の脇には大きなクリスマスツリーが飾られていた。マスクをかけた小さな子供が吊り下げられているオーナメントを嬉しそうに手で引っ張って遊んでいる。

「病院にもクリスマスは来るんだな」

 武司は目を細めて子供を見た。マスクの下から真っ赤な頬が見える。熱でもあるのだろうか。改めて周辺を見ると、小児科帰りの子供がぽつぽつといるようだった。この時期、インフルエンザやなんかで入院する子供も少なくないだろう。せっかくのクリスマスを病院で過ごすなんて、子供にとっては酷な話だ。病棟にもサンタクロースは来るのだろうか。

 ふと自分がクリスマスを祝ったのはいつだろうと思った。もう長いことクリスマスを楽しむ事などない。会社に勤めていた頃は社内でクリスマス会があったが、家ではクリスマスを祝う事など何十年とない。そうだ、息子が亡くなってから坂本家にサンタクロースは来なくなった。

 ユキノはどう思っているのだろうと思い、隣に座っている妻に目をやった。ユキノはきょろきょろと周りを見回していた。

「なんだ?」

「いえ……」

 ユキノが何か言いかけた時、会計の呼び出しがかかった。

 武司は立ち上がると窓口へ向かった。宝くじ売り場を思わせるアクリル板越しに受付の若い娘が保険証と処方箋を出しながら金額を告げた。

 武司はジャンパーの内ポケットから財布を出し、中を見た。千円札が見当たらないので、仕方なく万札を出す。

「少々お待ち下さい」

 受付嬢がレジから釣りを出し、窓口から差し出した。

「お大事に」

 武司は千円札の上に小銭を乗せ、財布に入れようと持ち上げたが手がすべり、小銭が床に散らばった。慌ててしゃがみこみ、転がる小銭を拾い集めた。そばにいた中年の女性が手伝ってくれる。

 女性から小銭を渡され、礼を言いながら財布に収め、ユキノが座っているはずの長椅子に目をやった。

 ユキノはそこにいなかった。


<続く>

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