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孤独

 いよいよ追い詰められようかと言う受験生には思いもよらないだろうが、知らないところで知らない人々が、それぞれの悩みを抱えながら、それぞれの営みを繰り広げている。

 そんな別々の人生は、お互いの存在を知らぬまま、それでも同じ世界で流れていく。


 それは一人の受験生が暴発する、ほんの少し前のことだ。


 世間は忙しい年の瀬だった。クリスマスが近く、スーパーや商店街ではあちこちにサンタクロースの描かれたポスターや広告が貼られている。この古ぼけた住宅街でも庭先に電飾を施した家がちらほら見られる。子供時代をここで過ごし、ある程度大人になって故郷に戻ってきた若い世代の趣味だろう。さすがにイエナリエなどと呼ばれる程の派手な電飾はほとんどないが、それでもちかちか点滅する赤や黄色のイルミネーションやサンタやトナカイの人形が玄関先に置かれている家は少なくない。

 もっとも、坂本家にとってそんな世間の浮き足だった空気は全くもって無縁だった。老夫婦が住むこの古ぼけた一軒家ではクリスマスなどという行事にまったく関わりがない。

 妻のユキノは一日のほとんどを布団の中で過ごす。昔はきっちりとした主婦だったが八十歳を少し超えた今はその片鱗もない。明るいうちは布団にもぐりこみ、夕方になるとごそごそと動き出す。寝巻きを脱ぐ事を忘れ、その上からちぐはぐな普段着に着替え、這うようにしながら部屋から出てくる。そして玄関で靴を履き、外に出ようとするのだ。ユキノの生活リズムは昼と夜が完全に逆転していた。

「お父さん、お父さん」

 玄関の扉をガタガタと揺さぶりながらユキノが叫んだ。

「なんでこの戸、開かないんですか? 早く開けてくださいよ」

 台所から夫の武司が出てきた。

「戸は開かないよ。もうすぐご飯だから、家にいろ」

「何をのんきな。昌平を迎えにいかなきゃいけないでしょ」

 武司は眉をひそめた。いつもの事だが、正直いい加減嫌になる。

「いいから、中にいろ。後で一緒に行こう」

 溜息まじりにそういいながら武司は台所に戻った。ユキノがあがりかまちに座り込み、ブツブツと文句を言うのが聞こえた。

 ユキノに認知症の兆候が出てきたのは五年前だった。ガーデニングの最中にめまいを起こして倒れ、病院に運ばれた。その時の診断は軽い脳梗塞だった。幸い手や足に麻痺は出なかったのだが、物忘れが急激にひどくなった。人の名前や顔が思い出せない、食事の内容はおろか、食べた事すらすぐ忘れる。本人もうすうす自分の変化に気がついてきたのか、次第に閉じこもりがちになった。そうなると悪循環で、認知症に加速がかかる。坂道を転がり落ちるようにユキノの頭の中は混乱してぼやけていった。

 ユキノが元気だった頃は武司もしょっちゅう外出をしていた。長く大手の電気機器メーカーに勤めていた武司は、無事に定年退職を迎えてからは老人会の旅行に行ったり、年々減ってくる昔なじみと一緒にゴルフコンペに行ったりと、悠々自適の余生を送っていたのだが、ユキノが倒れてから生活は一変してしまった。

 ユキノは五十年以上もこなしてきた家事がだんだん出来なくなってきた。料理の味付けがめちゃくちゃになり、包丁が上手く使えなくなり、火の始末が怪しくなり、洗濯や掃除の手順がわからなくなり……。家の中はみるみるうちにちらかり汚れ始めた。

 最初はユキノが失敗する度にいちいち怒っていた武司だったが、次第に家事を手伝うようになった。三年ほど前からはほとんど武司が家事をしている。その方が早いのだ。今ではその辺の若い主婦には負けないくらいの手際の良さだと、密かに自負している。

 武司は台所のテーブルに夕食の皿を並べた。

「お母さん、手伝いなさい」

 壁を伝うように入ってきたユキノに声をかける。ユキノは武司から手渡された茶碗を受け取ると困ったような顔になり武司を見上げた。

 武司は小さい溜息をつきながらしゃもじをユキノに渡し、炊飯器の蓋を開けた。

「ほら、自分のご飯をついで」

 言われるままにユキノは炊飯器の中を覗き込んだ。しゃもじを中に突っ込み、ご飯を一通り混ぜる。不器用な手つきで茶碗にご飯をよそった。出来ることはなんでも手伝わせるようにしている。今までやっていた事を継続することが認知症の進行予防に良いと新聞に書いてあった。それを読んでから一生懸命取り組んではいるが、ユキノの症状にブレーキがかかる様子はない。

 武司はなべの中の鯖を小皿に移した。

「はい、食べるよ」

 ユキノは椅子を引いて腰をかけた。 

 いつまでユキノを家で看る事が出来るだろう。

 武司はもそもそと口を動かすユキノをぼんやりと見つめながら考えていた。ユキノは八十二歳、自分は更に年上の八十五歳だ。平均寿命は男の方が短い。自分がユキノをおいて力尽きることも充分に有り得た。子供のない二人にとっては深刻な問題だ。とはいえ、ユキノを他人に預ける事はどうしても自分が納得できない。

 この街に引っ越してきてからかれこれ五十年近くになる。自分達が歳老いてきたように、仲の良かった近所の人達も皆歳をとり、亡くなったり、子供を頼って町を出たりしてどんどん数が少なくなってきている。地域からの孤立などという言葉がどんどん現実味を帯びてきていた。

 子供もなく、近い親戚も無い坂本家の状況を心配してか、地域の民生委員である岸田さえ子はしばしば訪問してきた。

「今は介護保険があるからね、色々サービス使って、ちょっとは他人の手を借りなくちゃ。一人で何でもしょい込んじゃ駄目ですよ。お父さんが倒れたらお母さんも倒れるんだから、ね?」

 さえ子はころころした体をゆすりながら熱弁をふるう。絵にかいたような老々介護のこの夫婦を本当に心配してくれているようだ。性格は悪くないのはわかるのだが、少々おせっかいで無神経なところが武司は気に食わない。正直、彼女の訪問はうっとおしかったが、極めて常識人であるという自負のある武司は露骨にそれを口にする事はなかった。

 それでも彼女の熱意にほだされて、昨年介護保険の申請をしてみた。その結果、ユキノは介護度2という判定がでた。どういう判断基準なのか、武司には皆目わからないが、妻が値踏みされてランク付けられた事が不愉快だった。

 デイサービスとやらの施設も見学に行ってみた。広いホールにテレビの音だけがやたら大きく響き、生気のない年寄りが大勢、ぼんやりテーブルを挟んで向かい合って座っている。そして孫くらいの若い職員と一緒に折り紙をしたり、子供の歌を歌ったりしていた。大の大人が幼稚園児のように扱われ、それにまた甘んじている様子に武司は言いようのない不快感を感じた。年寄りを小ばかにしているのか? なめるんじゃないぞ。こんな所に長年連れ添った妻を預ける訳にはいかない。そう強く思ったのだ。それ以来、さえ子の印象はますます下がった。

「岸田さんの気持ちはありがたいけどね、家族が看なくて誰が看るんだね」

 武司はいつもそう言って話を切り上げる。やんわりと、しかしそれは断固とした拒否だ。すると、さえ子は深い溜息をつき、あきらめて腰をあげるしかないようだった。

「なあ、どうするかな、お母さん」

 武司の言葉が聞こえないのか、ユキノは一心不乱にご飯を口に運んでいる。

 食事が終ると、ユキノは自分の食器を流しへと片付けた。台拭きで皿を洗おうとするので、武司はスポンジに洗剤をつけユキノに手渡した。

「岸田さんがまた来たよ」

 二人で流しの前に立ち、食器を洗いながら武司は言った。

「岸田さん? どなたでしたかしらね」

 さえ子との付き合いはユキノの記憶が怪しくなってきてからなので、彼女自身はぴんとこないようだ。実際、何度も顔は会わしており、その度にユキノは「まぁ、いつもお世話になっております」と、あたかもわかっているかのような対応をする。勿論その場しのぎの反応なのだが、知らない人が見たらユキノが認知症だとは思わないかもしれない。民生委員をしているさえ子でさえ、ユキノのとぼけっぷりの実体はきちんとは理解していないだろう。

「民生の岸田さんだよ。いい加減に覚えてやれ」

 それは無理な相談というもので、覚えられるものなら認知症とは言わないのである。そうとはわかっていてもついつい非難するような口調になる。

 ユキノは不機嫌な表情になった。

「知りませんよ、そんな人」

 濡れた手を拭きもせず、台所から出て行く。

「おい、途中だろ」

 声をかけたがユキノは戻ってこなかった。また玄関の戸をがたがた揺さぶる音が聞こえ始めた。

 武司は溜息をついた。胃の辺りに鈍い痛みを感じる。このところあまり体調は良くなかった。一度病院に行かなければならないのだが、ユキノに一人で留守番をさせるのはどうも不安だ。午前中は寝床にいる事が多いので、今のうちにと思い外出すると、ふらふらと外へ出たりする。今までにも何度かそういう事があった。この夏には買い物に行った隙に表に出てしまい、迷子になって大騒動になった。あんな大騒ぎはもうごめんだ。

「一緒に連れて行くか……」

 武司はつぶやいた。


<続く>



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