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 深夜の住宅街にはほとんど人通りはない。静まり返った街中を大樹の荒い息と自転車のタイヤの回転する音が切り裂くように通り過ぎていく。

 やがて国道に出た。さすがに国道は深夜と言えど車が走っている。それでも日中の喧騒はなく、車の台数も少ない。どの車もかなりのスピードで走っていた。その国道に沿って大樹は自転車を漕ぎ続けた。

 行く当てなど何処にもない。とにかくその場から離れたかったのだ。落ち着いて考えれば、母の容態を確認して救急車を呼ぶべきだと思いつくのだろうが、大樹の脳みそは完全にショートしていた。頭の中をぐるぐる巡っているのは、「殺してしまった」その一言だけだ。

 今頃兄か父が帰宅しているかもしれない。そして居間で倒れている母を見つけて、腰を抜かしているだろう。そして救急車を呼ぶ。いや、もしかしたら警察に電話をしているかもしれない。

 パトカーの赤い回転灯、警察に捕まっている自分、呆然と立ち尽くす父と兄。パニックになった頭の中をぐるぐるとそんな映像が駆け巡る。

 国道をひた走るとやがてゆるやかな上り坂になってきた。このまま進むと県境の峠に差し掛かる。分岐を示す道路標識が幾つかあったが、大樹の目には入っていない。山へ向かっているのか、海へ向かっているのか、そんな事はなにも考えていなかった。とにかく走り続けるしかなかったのだ。

 峠にさしかかる頃には東の空が少し明るくなっていた。気温は下がりきっており、大樹の口から出てくる息は真っ白だったが、大樹は汗ダクになっていた。コートが暑い。

 ようやく大樹は自転車から降りた。コートの前を開け、自転車を押しながら山道を登っていく。

 足は棒のようだったし、体全体が鉛のように重い。肩で荒い息をしながら、額から流れる汗を時々腕で拭う。パニックだった頭は少し落ち着きを取り戻してはいたが、それは疲労で何も考えられなくなったというだけの事だ。

 夜が明け、しばらくすると交通量が増えてくる。山を下って大樹が来た方向へと向かう車が増えてくる。町へ出勤する車だろう。いつも通りの朝、なんの変わりもない朝。それぞれがいつもの朝を迎えている。

 新聞を読みながら食パンを齧っている父、スッピンのまま家族の弁当を作っている母、洗面所では兄が歯を磨いている。ハブラシを咥えたまま、もごもごと大樹に声をかける。「おはよう」と言っているつもりらしい。そんな情景が浅川家のいつもの朝だ。それが今自分は山道を、自転車を押しながら歩いている。

 大樹は荒い息をしながら、うつむいて機械のように動き続ける自分の足を見た。いつもの朝はどこに行ってしまったんだろう……。なんでこんなところを自分は歩いているのだろう……。頭が麻痺している。

 いきなりポケットの中で音楽が鳴り響き、大樹は飛び上がるほどびっくりした。ポケットの中の携帯電話だ。

 震える手でポケットから携帯を出す。サブスクリーンには「友樹」と表示が出ていた。

 大樹はうろたえて思わず自転車を倒してしまった。後ろから来た自動車がクラクションを鳴らし迂回して通り過ぎていく。

 手の中の携帯はのんきな音楽を鳴らし続けている。大樹は携帯を開け、震える指で電源を切った。そして、携帯を畳むと、ガードレールの向こうに広がっている茂みに向かって思いっきり投げた。

 携帯は一瞬で色褪せた冬の森の中に消えた。

 大樹はガードレールに両手をつくと、そのまましゃがみこんだ。

 なんの連絡だったのか。母は死んだのだろうか。それとも生きているのだろうか。それを確かめなければならなかった。なのに、その勇気は無かった。

 全てが終わった……。自分から絆という細い糸を断ち切ってしまった。何もかもおしまいだ。

 涙が溢れてきた。喉の奥から大きな塊が込み上げ、大樹は声を出して泣いていた。

 ふらつきながら自転車を起こし、大樹は自転車を再び押し始めた。子供のように大声で泣きじゃくりながら。


 昼を過ぎる頃、ようやく峠を越え下り道に入った。自転車に再びまたがり、ゆっくりと坂を下り始める。汗まみれの体は次第に熱を失い、冷えてきた。途中で自転車を止め、コートを着なおし、再び坂を下る。

 日が少し傾きかけたころ、路傍にようやく家が増え始めた。だからといって立ち寄る当てもない。大樹は自転車を走らせるしかなかった。

 休憩らしい休憩をようやく取ろうという気になったのは、コンビニエンスストアの看板を遠くに見つけた時だった。

 駐車場に滑り込み、自転車を止めた。足ががくがくしている。ポケットを探ると財布があった。家を飛び出してから初めて空腹を感じた。財布の中を見ると、千円札が一枚と小銭が少し。とりあえずはなんとかなるだろう。

 大樹はふらふらとコンビニの中に入った。まずは手洗いに入り、用を足した。トイレの臭気に何故かほっとする。手を洗いながらふと顔を上げると、トイレの鏡には疲れきった顔の自分が映っていた。自分の顔とは思えないくらいに、げっそりとしていて、くすんでいる。目だけが異様に大きく見えた。勢いよく冷たい水を顔にかける。何度かそれを繰り返すと少しだけ気分が良くなった。

 トイレから出ると、パンが並んでいる棚の前に向かった。所持金は僅かだ。一番安いパンを一つ手に取り、レジに向かった。レジの横に置いてある保温ケースからコーヒー牛乳のペットボトルを取り出す。ペットボトルの温もりが冷え切った指先には痛いくらいだった。

 中年の店員は大樹の方をちらりと見ると無愛想に、いらっしゃいませと声をかけた。機械的で感情のこもらない声だったが、大樹は反射的に顔を背けた。

 店員は大樹に何の注意を払う事もなく、バーコードを読み取り金額を口にした。

 大樹は千円札を出すと、釣りを受け取り、パンとコーヒーと入った袋を持って足早に外に出た。それを自転車のハンドルにひっかけると一目散に走り出した。

 心臓がどきどきしていた。自分は逃亡者なのだ。そんな後ろめたさと恐怖が追いかけてくる。結局それから三十分ほど走り続けた。

 いつのまにか住宅街になっていた。家と家の間に住宅一区画分の空き地があった。まるで抜けた歯のような空間。それほど広くないその空き地には車が数台止まっている。どうやら月極駐車場のようだ。 大樹はその中に入り込んだ。停まっているワゴン車の陰に自転車を隠すように止め、その場に座り込んだ。ワゴン車の後輪に背中を預けながら肩で息をする。

 しばらくそうしていると、ようやくいくらか気分が落ち着いてきた。思い出したようにガサガサとパンの袋を開ける。ペットボトルはすっかり冷え切っていたし、パンはペットボトルの重さでへしゃげている。しかしそんな事は気にならなかった。パンはあっという間に腹に収まってしまった。コーヒーも半分ほど一気に飲んだが、そこで、はたと我に返って口を離す。ゆっくり飲んだ方がいい。そう思いながら蓋を閉めた。

 かさこそと音を立てて、茶色く乾ききった何かの木の葉が足元を転がって行く。大樹は駐車場の中を見回した。

 車の影が静かに長く伸びている。空はまだ青いが、日差しはオレンジ色がかっている。携帯を捨ててしまったので時間もわからない。場所もわからない。が、長い一日が終わろうとしているということは分かった。一昼夜、自転車をこぎ続けたということらしい。大樹はしばらくぼうっと空を見上げていたが、やがてふらつきながら立ちあがり、再び自転車にまたがった。

 片側一車線の道路のセンターラインはところどころかすれていた。道路沿いに並んでいる家々はそこそこ立派だったが、一昔前の、昭和の匂いが漂っている。いくつか商店があったが、流行っているどころか営業している気配すらない。時折すれ違う住民も高齢者ばかりだった。忘れ去られた町……そんな気がした。

 日が暮れてくると寒さが増してきた。寒気だけでなく、頭痛がする。体中の関節が悲鳴を上げていた。寒気はやがて背筋をぞくぞく走る悪寒に変わり、背中に力が入らなくなってきた。

 大樹は自転車を下りた。自転車に体重を預けながら押し始めたが、それすら厳しくなってきた。立っているのが嫌になるくらい身体がだるい。それでも体を休めたいとは思わなかった。とにかく歩き続ける事しか思いつかなかった。

 しばらくして大樹は自転車を止めた。道の端に自転車を置き去りにして歩き始めた。

 頭が痛くて重い。時々ペットボトルの蓋を開け、冷え切ったコーヒーを口に含むと口の中がやたら熱いのがよくわかった。熱が出てきたのかもしれない。

「ダメかな……。」

 ふとつぶやく。そろそろ体力も気力も限界のようだった。よく考えてみれば一睡もせず走り続けてきたのだ。このまま歩いていたら途中で行き倒れるだろうか。そうしたら間違いなく凍死だ。道の傍で丸まって息絶えている自分を想像すると、小さな乾いた笑いがこみ上げる。こんなバカな自分にはお似合いかもしれない。

 気がつけば辺りは闇に包まれていた。道沿いに元気のない街灯がぽつんぽつんと灯っている。自分の荒い呼吸の音だけがやけに響いているような気がした。

 時折歩道の段差につまずきながらふらふらと歩いていくと、ふいに住宅が途切れ、視界の開けた場所に出た。

 公園のようだった。公園の入口の頼りない灯りの下に立ち目を凝らすと、幾つかの遊具が見えた。ブランコ、鉄棒、コンクリート製の小山とそこから伸びた滑り台、藤棚とベンチ……。近所の子供達が昼間は遊びまわっているのだろうか。今は全ての時間が止まったように静まり返っていた。

 大樹は誘われるように公園に入り、古びたベンチに腰を下ろした。身体が震えている。歯の根が合わないほど寒い。たまらなくなって膝を抱えて縮こまる。頭は割れそうなまでにガンガンしていた。それでも極限の疲労が大樹を眠りの中に引き込もうとしていた。

 まどろむ大樹の前を、夢なのか幻覚なのか、子供が走り回る。


 あれは自分だ。


 小さい頃はよく公園に行った。滑り台の上で降りられなくなると兄が笑いながら一緒に下りてくれた。

 ブランコを漕いでいると隣のブランコでは兄が空に飛んで行きそうな勢いで立ちこぎをしていた。

 転んで膝をすりむいて帰ると、母は呆れたような顔で傷を洗ってくれた。絆創膏を貼りながら「いたいのいたいの飛んで行け~」とおまじないを唱えてくれた。

 小さい頃は幸せだった。家族の愛情が溢れていた。劣等感も、罪悪感も感じることなく、ただ毎日が楽しかった。


 いつの間にこんな風になってしまったのだろう。ごめん、ごめんね、お母さん。

 寒い。眠い。


 大樹はゆっくりとベンチに体を横たえた。ゆっくりと手足をかがめ、身体を丸める。小さく、小さく、小さく……。胎児の姿に戻りながら、大樹の意識はどんどん沈んでいく。暗い意識の水底からはかすかな子守唄が聞こえていた。


<続く>

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