四
十時半を過ぎた頃、玄関の扉が開く音がした。スリッパを引きずるような足音は大樹だ。
足音は居間には向かわずに、自分の部屋に入ったようだ。
自分からは何も言うまいと容子はしばらく居間で新聞を読んでいたが、長くは続かなかった。顔を上げ大声で叫んだ。
「大樹! 御飯、食べなさい!」
返事は返ってこない。それでもしばらくすると大樹が居間に入ってきた。容子の横顔を鋭い目で見つめていたが、黙って台所へと向かう。自分で自分の食器を出す音を聞きながら、容子は大樹の言葉を待っていた。そんな容子の気持ちをあざ笑うような気まずい沈黙の中、食器の触れる音だけが響く。
沈黙を最初に破ったのはやはり容子だった。
「お父さんが帰ってきたら、もう一回きちんと話しなさい」
できる限り感情は押し殺したつもりだ。大樹は無言で食卓につき、椅子を引いた。
読んでいた新聞を乱暴に畳んだ。
「まったく何を考えているんだか……。現実を見なさいよ、現実を。ラッパなんかに入れ込んだって、そんなものでは食べていけないんだから……」
バンっと食卓の天板を叩く音がした。
容子ははっと顔を上げて大樹を見た。
「うるせぇよ! ババア!」
大樹は蒼白な顔で容子を睨みつけている。
大樹の口から出てきた言葉とは一瞬信じられなかった。今まで面と向かって罵られた事はなかった。いつもは伏し目がちの大樹の目が、見た事のないような鋭い目つきになっている。
何かが切れたような気がした。次の瞬間には容子も叫んでいた。
「誰に向かって言ったのよ!」
弾かれるように立ち上がり大樹に歩み寄ると、思わず平手で頬を叩く。派手な音がして、大樹は顔を背けた。
しまった……手加減なしに引っ叩いてしまったと、一瞬容子がひるむ。
大樹は振り向きざまに容子の肩に掴みかかった。
容子はあまりの勢いと痛みに思わず悲鳴を上げた。大樹はそのまま容子を居間へと押しやり、思い切り突き飛ばす。
悲鳴を上げながら、容子は床に倒れた。膝を床でしたたかに打ちつけ、容子は呻きながら大樹を見上げた。
「なんてことするのよ……」
大樹は無表情で握りこぶしを震わせながら仁王立ちになって容子を見下ろしている。
容子の顔がみるみる赤く染まった。ソファーにすがるようにしながら立ち上がると、次の瞬間には大樹に飛び掛っていた。
自分より頭ひとつ背の高い大樹の胸元を掴み、力いっぱい揺する。
「なんてことするの! 親にこんな事していいと思ってんの! 自分が悪いんでしょうが! お兄ちゃんみたいにちゃんとやってれば、今頃こんなくだらないことで時間をとらないのよ! ラッパのために高校浪人するですって? そんな寝言、いつまで言ってんのよ! やる事やってから言いなさい」
こんな事を言ってはいけない……。頭のどこかでブレーキをかけようとしているのに、口は止まらない。これ以上言ってはいけない……。
「ただでさえ友樹よりもどんくさいのに、バカじゃないの!」
大樹の表情が変わった。すうっと血の気が引き、表情が消える。
「そうやって……そうやって、いつも兄貴と比べる……。ふざけんな……」
搾り出すような声と共に大樹の両手が容子の首にかかった。
容子の目が大きく見開かれた。
大樹の指が喉にぎりぎりと食いこんでくる。息が詰まり頭に血が昇る。このまま本当に絞め殺されるかもしれないという恐怖が襲ってきた。必死でもがきながら、喉にかかっている大樹の腕に夢中で爪を立てる。目の前がふいに暗くなった……。
大樹は鋭い痛みに我に返った。容子の手が自分の手の甲に爪を立てている。
容子の顔は見た事がないくらいに真っ赤になっていた。白目が充血して、恐ろしい形相になっている。
思わず手を離した。容子はその場に崩れ落ちると激しく咳き込んだ。ガボッと鈍い音と共に嘔吐し、そのまま動かなくなってしまう。
大樹は呆然と立ち尽くしていた。すうっと血の気が下がり、膝が崩れそうになる。
「お母……さん?」
恐る恐る声をかけてみたが、容子は動かない。テレビの音声がこの場の空気には全くそぐわない不釣り合いな軽薄さで流れてくる。
「お、俺……」
大樹はうろたえながら後ずさった。背中が壁に当たると、弾かれたように身をひるがえした。居間から転がり出て、自分の部屋に飛び込む。ベッドの上にはさっき脱いだばかりのコートがあった。とっさにそれをひっつかむと、大樹は外へと走り出した。
悲鳴を上げながら階段を駆け下り、自転車置き場に向かう。ポケットをまさぐり、自転車の鍵を出すと震える手で鍵を外した。
周りの自転車を将棋倒しにしながら物凄い勢いで自転車を列から出す。倒れそうになりながら自転車にまたがると、闇の中へと狂ったように走り出した。
<続く>