三
翌日の夕方、担任の平田、大樹、そして容子が放課後の教室で顔を揃えた。緊急の三者懇談だ。生徒が帰った後のガランとした教室の中ほどの席を向かい合わせにくっつけて、担任と大樹が向かい合い、容子が大樹の隣に座っていた。
重苦しい空気の中、ガスストーブの炎の燃える音がやけに耳につく。廊下の外れで友人の名前を大声で呼ぶ声が空虚な響きで聞こえてきた。
三人とも無言だった。平田は何から話したものかと話のきっかけを探しているようだった。平田はもったりした口元の初老の女性だ。定年間近のこの女性教諭は生徒が聞いていようがいまいがおかまいなしで、黒板に書いた字を指示棒でつつくようにしながら日本史を語る。生徒達からは「おかん」などと仇名を付けられていたが、それは決して親しみの表れではなく、日曜日の朝早くのアニメに出てくるキャラクターにそっくりだったからだ。
そのアニメを時々見ていた大樹は、ちらっと平田の顔を見て、やっぱり似ている……と思った。最初に言い出した友人はなかなか観察眼がある。自分はそんな事思いもつかなった。
現実逃避気味の大樹の横で、容子が口火を切った。
「あの……志望校ですが。やっぱり下げた方がいいんですよね」
平田は口元をちょっと引くと軽く頷いた。
「もともと富田森は厳しいラインですから」
容子はちらりと大樹に目をやった。大樹はうつむいている。
「私も昨日からさんざんそう言っているんです。塾の先生にも同じ事言われたんですけど……。この子ったら、絶対志望校は下げないって聞かないんです。浪人してもいいから受験するって」
容子の声は少し震えていた。すぐに高ぶる感情をなんとか押さえこもうとしているのだろう。
「もし落ちたら二次も受けないって言うんです。そんな高校浪人なんて……」
履き捨てるように言うと、一つ大きな深呼吸をする。平田が覗き込むように大樹を見た。
「そうなの? 浅川」
大樹は無言でうなずいた。
「富田森がいいんだ……。なんでそんなにこだわるの。理由は聞いてなかったね」
そもそも公立高校の志望理由などあってないようなものだ。ほとんどの場合は中学の成績に見合った学校を選ぶ。最近は公立高校にあっても特殊な専門課程を持つところも増えてはきたが、富田森には普通科しかない。
大樹は少し顔をあげ、平田を上目使いに見た。大きな口元に細い髭が一本ちろりと生えているのが目についた。直視するのがなんとなく嫌で、また自分の膝に視線を落とす。
「下ばっかり見てないで、先生に答えなさい!」
容子がたまりかねて大樹の肩を押す。
「やめろよ」
大樹は触れられた肩を大きく動かし、容子の手を拒絶した。容子の顔が怒りで紅潮する。
大樹は顔を少し上げて容子を横目で睨んだ。
「浅川」
平田がたしなめるような口調で大樹に声をかけた。大樹は視線を母から平田へと移した。
「クラブ……です。富田森でブラスバンドしたいんです」
やけくそだ。こんな理由を母や平田が容認する訳はない。
「そうか、ブラバンだったね、浅川は。何吹いてたっけ?」
「トランペット」
平田は何度も頷いた。平田が金管楽器の区別がついているとは思えない。どうせホルンもトランペットもサックスも全部ラッパだと思っている。容子と同じだ。
「何言ってんのよ」
予想通り容子が怒った。
「そんなのどこでも出来るでしょう。なにも富田森でなくても、どこにでもあるじゃないの」
「お母さん、富田森のブラスバンドは結構有名なんですよ」
平田が口をはさんだ。
「毎年、何人かはブラバン目当てで受験したいという子がいます。ただ、学力的に富田森はレベルが高いのでね、誰でも受けられるという訳にもいかなくて……」
大樹は平田の顔を見た。平田の言葉が意外だったのだ。
「大樹くんの成績だと、ぎりぎりのラインですからね……。手が届かない……という訳じゃない。……確かに諦めがつきにくいわな」
平田の顔に苦笑いが浮かんだ。
「でも先生、困るんです。確実に受かる所でないと」
容子は眉間に怒りを溜めながら身を乗り出した。
話し合いは一向にまとまる様子がなかった。平田が何を言おうと、大樹は富田森の一点張りで妥協する気配はない。容子は今にも爆発しそうな顔色で大樹を睨みつけていた。窓の外がすっかり暗くなったところで、平田は諦めた。
「願書を出すまでもう少しあるから。よく家族で話し合ってください」
大樹は弾かれたように立ち上がると、乱暴にカバンを持ち教室を出た。
「結局そこかよ……。家族で相談なんて、最初から決裂に決まってる。時間の無駄だっつうの」
足早に廊下を歩きながら、小声で呟く。
「大樹!」
容子の金切り声が背中に突き刺さった。
容子と一緒に帰る気はない。大樹はそのまま自転車置き場まで走った。カバンを前かごに放り込み、乱暴にスタンドを外した。自転車にまたがり、ペダルを踏み込む。
正門をくぐった辺りで背後から容子の怒鳴り声が小さく聞こえた。
正門から走り去る自転車を見送りながら容子は唇を噛み締めた。
「バカじゃないの!」
吐き捨てるようにつぶやくと、とぼとぼと歩きだす。
息子の気持ちがさっぱり理解できなかった。たかだかトランペットを吹くためだけに高校浪人までするという。
そもそも、容子も慎吾も音楽にはあまり深い興味はない。容子は音痴で、カラオケはおろか、人前で歌を歌うなどという事はまずなかった。それに、音楽で身を立てるような家柄でも身分でもない。第一、あんなものは幼児期から習わせないとどうにもならないと聞いている。今さら一生懸命練習したところでその道で食べていける訳がない。そんな事に血道を上げるより、地道に勉強してそこそこの大学に入って、安定した会社に就職して、結婚して、家庭を持って欲しい。どこに出しても恥ずかしくない、良い道ではないか。安定志向の何が悪いというのか。人は夢を食べて生きてはいけないのだ。働いて、お金を稼いで、衣食住が満たされてこそ幸せがあるのではないのか。
家へ向かう足取りは重かった。大樹はさっさと家に帰って、すぐに塾に行く。容子が家にたどり着く頃にはもういないだろう。友樹は家庭教師のアルバイトで不在だ。年度末が近いから夫の帰りも遅い。きっと午前様になる。家の中のごたごたを気軽にこぼせるような友人もいない。誰もいない家の中で、一人で悶々と思い悩みながら時間を過ごすのかと想像すると、それだけで暗い気分になる。
スーパーに立ち寄った。夕食の買い物をする。気分転換にもなりそうにないし、夕食を作るという気分でもないのだが、一家の主婦たるものが夕食を用意しない訳にもいかない。
ぶすぶすと怒りがくすぶる気持ちを持て余しながら、機械的に目に付いた野菜を買い物籠に放り込んだ。
レジのバイトの店員が無愛想に、容子の前を遮るように手を伸ばす。隣に立っていた中年の主婦が空の買い物かごを返そうとして、容子の腕にかごをぶつける。スーパーの入口で飼い主に置いていかれたシーズーが容子を見ながらヒステリックに吼えている。
何もかもが面白くない。
寒い風に猫背になりながらノロノロと家路に着く。知らず知らず、三者懇談での場面が何度も頭にリプレイされていた。容子の足取りはますます重くなった。
ようやくたどり着いた我が家は、容子の予想通り誰もいない。大樹は外灯すらつけずに出て行ったようで、玄関先は真っ暗だ。いらだちながら手探りでドアノブに鍵をつっこみ開錠した。ガチャリという音が暗闇に響く。
中に入ると廊下の明かりが点いていたが、なんの温もりも感じなかった。空気は冷え切っており、フローリングの床の冷たさが痛みを伴いながら足の裏にしみこんだ。
スリッパを履き、廊下の端のリビングへの扉へ向かう。扉を開け、壁に手を這わせ電気のスイッチをつけると、見慣れた居間が目に飛び込んだ。朝片付けたままの風景だ。子供が小さい頃は片付けても一瞬で散らかったものだが、最近は居間の風景が一日中同じという事も少なくない。
ここには誰も住んでいないのかもしれない……。寒々しい光景に、ふとそう思った途端、頬が歪んで泣きそうになる。慌てて唇を引き締めて顔の筋肉を緊張させた。そして、居間のテレビをつけると音量を上げた。夕方のニュースを読み上げる女性アナウンサーの声が響き渡る。
投げやりな気分で容子は台所に入り、下ごしらえを始めた。
誰が一番先に帰宅するか、さっぱり見当がつかない。それでも夕食は作らなくてはならないのが専業主婦の悲しいところだ。そういう時はポトフに限る。カレーやシチューは途中でルウを入れなければならないが、ポトフならとりあえず材料とブイヨンをなべに放り込むだけで出来る。ずっと火にかけておけば、味が染みて美味しくなるし、帰りが遅い人ほど美味しい。なんとお手軽で嫌味な愛情料理だろうか。
冷凍庫から鶏肉を出すと電子レンジに入れて解凍ボタンを押す。レンジに黄色い光が溢れ、回転皿が動き出すのをしばらく眺めていたが、気を取り直したようにジャガイモとニンジンとたまねぎを冷蔵庫から出すと、乱暴な手つきで皮をむき、ぶつ切りにした。
大なべに全部の材料を放り込み、水を注ぎ入れ、ブイヨンを入れる。本来は具を炒めるのだが、今日はそんな手間すら面倒くさい。コンロに置くと点火スイッチを押した。
容子は居間のソファーに腰を下ろした。ガラスの低いテーブルにおいてあるリモコンを手にすると、当てもなくチャンネルを変える。いつのまにかニュースの時間帯は終わり、ゴールデンタイムのバラエティーに変わっていた。関西弁のよく喋る女のタレントが映っている。容子はこのタレントは嫌いだ。特に今日はズケズケとした物言いと機関銃のような関西弁が耐えられないほど不愉快だった。
即座にチャンネルを変える。が、どのチャンネルも騒がしいばかりで少しも面白くない。
「バカじゃないの……」
低くつぶやくとスイッチを消した。台所で鍋の吹く音がする。急いで台所に戻ると、鍋の蓋が持ち上がり、泡が溢れながらコンロの周りを汚していた。火が強すぎたらしい。
不機嫌な表情を浮かべながら、火を弱火にするとコンロの上を布巾で拭いた。
「バカじゃないの……。まったく」
本日何度目かのセリフだった。
八時を回る頃、電話が鳴った。電話の向こうの声は友樹だった。
「これから友達と食事に行ってくるから。もう夕食作った? 悪いなぁ、ごめんね」
セリフとは裏腹に少しも悪びれた風も無い明るい声に容子は不機嫌に応じた。こういう調子のいいところは夫にそっくりだ。時々腹が立つ。
「もうちょっと早く言いなさいよね。でも、大したおかずじゃないから、いいわよ」
「ほんと、ごめんね。……母さん、どこか具合悪い?」
「いいえ、そんな事ないわよ」
「なんか、トーン低いよ。もしかして、大樹のこと? 懇談、もめた?」
友樹の声が少し心配そうな色を帯びている。弟の事となると真剣になるのがおかしかった。容子は口元に淡い笑みを浮かべた。
「まあね。お父さんが帰ってきたら、また一騒動」
「そう……。なるべく早く帰るよ。心配だし」
「いいのよ、あんたが心配したって始まらないんだから。それはともかく、あんまり遅くならないでね」
「うん。じゃ」
容子は受話器を置くと溜息をついた。友樹は素直で朗らかだ。何かにつけ家族の事を気にかけてくれる。それに比べて……。
小さく頭を振ると容子は台所に入った。食器棚から自分の茶碗とスープ皿を出す。今夜も一人で食事をする事になってしまった。スープ皿のポトフは湯気を立てていたが、少しも体はぬくもらなかった。
<続く>