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 世の中の人間を二つに分類するとしたら、「運の良い人間」と「悪い人間」という分け方が出来る。そして、自分をそのグループに当てはめるとしたら、間違いなく「運の悪い」グループだと大樹は確信していた。

 そもそも生まれた瞬間から大樹の運の悪さは始まっていた。四月の初旬が出産予定日だったのに、二人目だったせいか予定日より早くに陣痛がやってきて、大樹はよりにもよって四月一日に生まれてしまった。究極の年度末、究極の早生まれだ。大樹は学年で一番の年下になった。

 大人になってしまったら一年なんて歳の差は、あって無いようなものだが、赤ちゃん時代にとっては雲泥の差だ。おぎゃ~と生まれて来た途端の新生児と、早い子ならばよちよち歩き出すような、幼児に近い乳児が同じ学年になるのだ。その体力や能力の違いはわざわざ比べなくても明らかだ。そしてそのギャップは結構大きくなるまで存在する。

 大樹は小学校の高学年になるまで、それに悩まされた。体が小さい。運動神経が鈍い。ついでに四月一日、エイプリルフール生まれ。世間の行事がわかりつつあるような歳なると、毎年「お前の誕生日ってのも嘘なんじゃないのか?」とからかわれ続けた。

「なんでそんな日に産んだんだよ」

 と、母の容子に文句を言ったことがある。

「なんでって。仕方ないじゃない。二人目だと早くなっちゃう事が多いのよ」

 容子は大樹の悩みには無頓着で、のんきな調子で受け流された。挙句の果てには、

「お兄ちゃんは予定日にちゃんと産まれてきたわよ。アンタが慌てて出てきたんじゃない。最初からそそっかしいのよ、アンタは」

 と、自分のせいにされてしまった。

 予定日にちゃんと生まれてきたという四つ違いの兄、友樹の存在がまた大樹にとっては運が悪いとしか言いようがない。

 とにかく良く出来た兄だ。大して勉強もしないのに成績は良く、運動もそこそこ出来る。四年間は一人っ子として両親の愛情を独り占めにして育ったせいか、おおらかで自信に満ち溢れていた。今年公立高校から国立の大学に現役で合格し、家庭教師のアルバイトをしている。

 子供の頃は憧れてやまない兄だった。自分の知らない虫の名前を知っている。読めない漢字も知っている。数字も知っている。自転車が乗れる。一輪車も乗れる。逆上がりが出来る。小学校に兄が在籍していた間は自慢の兄だった。大樹はいつも兄の背中を追いかけてきた。

 その友樹が中学に上がると、大樹は妙な居心地の悪さを感じ始めた。卒業したにも関わらず、兄の存在感だけが学校の中に残っていた。兄を知っている教師達は、示し合わせたかのように友樹と大樹を比較した。天真爛漫で人気のあった友樹は卒業しても大人たちの心を捉えていたのだ。そのせいで、いつも大樹は「浅川大樹」ではなく「浅川友樹の弟」だった。

 その頃から少しずつ兄に対する尊敬と憧れは徐々に劣等感へと姿を変えていき、大樹は萎縮していった。

 それは中学に入っても同じだった。兄の存在は残像となって学校のそこここに残っていた。兄の残像に悩まされながら、目立たないように大樹は三年間をやりすごそうとしていた。

 それでも、唯一友樹と比較されないものもあった。部活だ。大樹は一年からブラスバンド部でトランペットを吹いていた。友樹は陸上部に所属していたので、部活の中には友樹の痕跡がなかった。

 最初の頃は少しも音がならなくて、マウスピースを四六時中持ち歩いては唇を当てていた。お陰で唇は赤く腫れ上がり、タラコ状態になってしまった。それでもしばらくするとようやく音が出るようになり、それからはすっかりトランペットの虜になった。

 胸いっぱいに息を吸い込み、唇を引き締め楽器に息を吹き込むと、頭が痺れるような大きな音が空気を震わせて響き渡る。自分の声では決して出せない大声を、金色のトランペットは代わりに出してくれた。普段の心の中の鬱憤まで吐き出すような爽快感があった。

 金管楽器の難点は家の中で練習出来ない事だ。まして浅川家はマンション住まいである。いくら防音をしているといっても、家の中で吹いた日には近隣から苦情が来るに決まっている。大樹は毎朝、近くのだだっ広いグラウンドに行き、そこで練習をした。夕方や休日は野球やサッカーの練習に使われているが、早朝だけは人気がない。時々ラジオ体操をする老人や、ウォーキングをする中年の女性と会う程度だ。

 朝の冴えた空気を切り裂いて自分のトランペットが歌う。その澄んだ音は清らかでもあり、官能的でもある。大樹にとってトランペットは親友であり、恋人のような存在だった。

 トランペットは高校に行っても続けるつもりだった。そして、第一志望の富田森高等学校には、県内でも有名なブラスバンド部があった。地方大会では金賞の常連で、全国大会へ駒を進めることも珍しくはない。憧れの高校なのだ。


「ラッパばっかり吹いて、勉強しているの?」

 母親の容子は三年になって追い出しライブも終わり、部活を引退した後も毎朝グラウンドへ向かう大樹を苦々しく思っていた。そんな時間があれば、問題集の一ページもしてほしい。

 同じ親から産まれたはずなのに、友樹と大樹はまるっきり違う。要領が良く、計画的でそつのない友樹に比べ、大樹は何をさせてもいま一つぱっとしない。そのくせ計画性は無いし、要領も悪い。比べてはいけないと思いながらも、ついつい「友樹がアンタの年には……」と言ってしまう。その度に大樹がそっぽを向くのも気に食わない。友樹なら、にっこり笑って流すだろう。それに比べて大樹と来たら、ちっとも素直じゃないんだから……。

「あんまり友樹と比べるな」

 夫の慎吾には時々たしなめられた。

 慎吾に言わせれば、大樹は容子とよく似ている。容子自身があまり要領の良い性格とは言えない。ついでに素直ではないところもよく似ている。

「どうせ私は出来が悪いですよ」

「私の事、バカにしてるんでしょ」

 容子はよくそう言って逆ギレする。すると決まって慎吾は黙り込み、新聞を持ってトイレに逃げて行ってしまう。余計な事を言って火に油を注ぐのは避けようという事だろう。

「友樹は貴方に似てるわよね」

 容子は口元をゆがめるように笑って時々そうこぼす。確かに友樹と慎吾はよく似ている。長身で快活な感じもよく似ているし、理系が得意なところも慎吾譲りだ。細かい事にはこだわらない明るい、しかしやや大雑把なところも、ちょっと無神経な所もそっくりだった。

 その言葉は「大樹と私はそっくりだ」という事実の裏返しでもある。外見も、影の薄いところも、内向的でストレスを内側に溜め込んでいくところも、全部容子と似通っている。

 容子は大樹の上に時々自分の姿がかぶって見える。自分と似た者を可愛いと思うか、見たくないと思うか……。そんな事をあえて考えたいとは思わなかった。



 慎吾と容子は二十余年前、社内恋愛の末に結婚した。慎吾は営業、容子は内勤で慎吾のスケジュール管理をしていた。

 大人しく控えめな容子は賑やかなOL達の中ではまったく目立たない女の子だった。社交的な慎吾の周りには華やかな女子社員が大勢いたし、実際何人かと付き合ったこともある。しかし、どうも自己主張の強い彼女達と過ごす時間は落ち着かなかった。

 外から帰って来た時に、物静かな笑顔で穏やかに迎えてくれる容子に少しずつ心惹かれるようになった。付き合うようになると、いつもどこか自信無さそうで、不安そうに慎吾に頼ってくる姿に「護ってやらなくては」という思いを掻き立てられたものだ。

 まもなく二人は結婚、容子は憧れの寿退社をして専業主婦になった。変化の乏しい日常生活を容子は淡々と過ごしていた。夫は外で働き、妻は家を守る。そんな一昔前の理想をそのまま実行しているようだった。「今時珍しいタイプですね」とか、「大和撫子、良妻賢母か。うらやましいな」などと冷やかす周囲に対して、最初のうちは少し誇らしい気分でもあったのだが……。

 容子は度々近所の主婦仲間と自分を比べた。自分だけでなく、しばしば夫の仕事や生活スタイルを比べる。比較することで自分の立ち位置を確認しないと安心できないらしい。全く生活スタイルの違う家庭の事を拒絶しているようなところすらあった。特に彼女が苦手とするのは、彼女とまるっきり反対の女性❘子供を保育園に預けてフルタイムでバリバリ働くワーキングマザーのようだ。

「よくやるわよね。私にはとっても出来ないわ」

 一見感心しているような言葉の中には嫌味がたっぷり含まれていた。いや、嫉妬なのかもしれない。

そんな妻の姿をうっとおしいと思いながらも、慎吾はそれなりに納得し受け入れているつもりだ。仕事を辞めて家に入ると、そんな事にしか自分を見つめる機会がないのだろう。だからそれはそれで認めてやらなければ可哀そうというものだ。そんな事を思いながら、大して面白くもない容子の話を、夕食の席で聞いているふりをする。それも夫としての仕事の一つだと割り切る事にしていた。

 とは言いながら、最近少し心配になってきたのだ。あまりにも容子の世界は狭い。趣味のない人間は年老いた時にボケやすいなどと言う話をよく聞く。容子は間違いなく予備軍だ。

 外の世界に接すれば少しは話題も豊富になるだろうと思い、大樹の中学入学をきっかけにパートを勧めてみた。もうじき友樹も大学進学でお金がかかる事は明らかだ。慎吾の収入でもやっていけない事はないが、少しでも収入が多いに越した事はない。

「あなたのお給料でやっていけるわよ。私ちゃんと節約してるもの」

 と、最初は嫌がっていた容子だったが、何度も勧められると少しは心が動いたようである。しばらく新聞折り込みの求人広告などを見ていたようだが、やがて容子は自宅からかなり離れた和菓子工場でのパートを見つけてきた。

「なんでまた和菓子工場のパートなんだよ。時給、悪いぞ。最低ラインじゃないか……。場所だって、なんでまたこんな遠い所を選んだんだよ。簿記もやってたんだし、もうちょっと割りのいい仕事もあっただろう?」

 慎吾がそういうと、うるさそうに、

「いいのよ。今さらパソコンとか経理とか……。簿記だってもう忘れちゃって出来ないもの。接客は苦手だし。お菓子作るのは好きだし、工場でおはぎやお団子作ってるならそんなに難しいこともないでしょ? 近所の人に会う事もないし」

 そう言いながら台所へ逃げた。

 大人しさが魅力的だった時期もあったが、実はつまらない女だったんだな……。慎吾はこっそりと溜息をついた。


<続く>

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