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暴発

 駅前の古ぼけた細長い五階建てのビルの三階に、「英心塾」がテナントとして入居している。寒さの厳しい二月のこの時期には、連日夜遅くまで電気が煌々《こうこう》と点いていた。部屋の中では寝不足とホラー映画の殺人鬼のようにじわじわ迫りくるプレッシャーで、すっかり血色が悪くなった中学生達が、最後の追い込みと称して机に向かっていた。

 中学に入ってからこれまで、学校での授業なんてろくに聴いていなかったに違いない。それが塾では皆別人のように真剣に問題集と参考書に向き合っている。この集中力の三十パーセントでも学校の授業で発揮していれば、今頃はもう少し楽が出来たというものなのだろうが、後悔先に立たず。そんな後悔と焦りが十五歳の不安定な心に満ち溢れていることだろう。

 私立の高校入試はほぼ終了しており、その結果が生徒達の手元に届いている頃だった。専願の生徒は合格通知をもらった時点で受験の苦しみから解放されるが、併願者達はこれからが本当の正念場だ。志望校目指して、それこそ背水の陣でラストスパートをかける。ただし、それは私立の合格通知が届いた者の話だ。

 問題はこの時点で不合格になってしまった者だ。やむなく第一志望の高校を諦め、ランクを下げるはめになる。大抵の生徒は泣く泣く周囲の大人達の言いなりに、安全圏への高校へと志望校を変更していた。もっとも昔と違って、公立高校でも複数受験出来るので、滅多なことでは高校浪人などと言う事態にはならない。

 ……にも、関わらず、だ。塾長の堀川は溜息をつきながら目の前でうなだれている浅川大樹を見た。

大樹という名前に全く似つかわしくない、色白でひょろっとした華奢な少年は、普段から存在感が薄いが今日はいつもにまして影が薄い。それもそのはずで、今日の午後、受験した高校から不合格通知が届いたのだった。

「サクラチル……だな」

 昔はそんな電報が家に届いたらしい。堀川は青白い顔でうつむいている大樹を見つめた。

大樹は確かに影は薄いが、成績はそんなに悪い方ではなかった。受験した高校もそこそこ安全圏だったはずだ。

「……体調が悪くて。前の晩から熱が出てて……」

 大樹の声は聞き取れないほど小さい。いつもなら、「体調の管理も受験の大事な準備の一つだぞ」と一喝するところだが、さすがの堀川もその言葉を飲み込んだ。ただでさえ貧相ななで肩が、さらにがっくりと下がっている。

「まぁ、仕方ないだろう。次の事、かんがえよう。な、元気出せ」

 堀川は大樹の細い肩を両手で掴むと、ソファーに座らせた。そのままスチールの棚から、「浅川大樹」と背表紙にタグの貼られたファイルを出し、大樹の前に座った。

 本命の公立高校の出願が間近だった。

「富田森か……」

 この辺りの学区の中ではベスト3に入る高校だ。堀川はこれまでの実力や定期試験、模擬試験の結果の一覧表に目を通した。大樹の成績は悪くはないが、志望校を一本で受けるのには多少の不安がある。そのために、確実に合格しそうなレベルの私立高校を滑り止めとして選んだのだが。

「一つ、ランク下げようか」

 堀川は大樹の偏差値欄を見ながら言った。六十五、五十九、六十三、六十一……、悪い数字ではないが、富田森を受験するには確実に六十三以上をキープしておく方が無難だ。大樹の成績にはばらつきがある。

「こないだの模擬試験でもう少し踏ん張ってればな、一か八かって思うんだけど……」

「……嫌です」

 言葉を遮られ、堀川は怪訝な顔で大樹を見た。聞き間違いかと思った。

「嫌です。下げません。富田森以外は受けません」

 大樹はうつむいたまま呟くように言った。

「気持ちはわかるよ、わかるけどなぁ」

 堀川はファイルをパタンと閉じ、努めて穏やかに言った。

「浅川、今の成績だと保証はないよ。残酷なようだけど、安全確実の滑り止めを失敗したんだ。しがみついても仕方ないだろう。もし富田森を受けるなら、B日程でもう一回受験だ。ただし、どんっとランク下げて、絶対安全なところにするか……。でも、お前、万一そこに行く事になったら納得できるか?」

「いえ。もし富田森に落ちたら、どこも受けません。浪人して来年、もう一回富田森を受けます」

「はぁ?」

 大樹の硬い声に堀川は目を丸くした。

「おいおいおい……。ちょっと待てよ」

 思わず素っ頓狂な声をあげる。

「そんな事、親御さんが許すわけないだろう。……なぁ、落ち着いて、とにかく、今晩一晩ゆっくり寝ろ。明日、学校の担任とも相談して、親御さんとも相談して、冷静に考えろ」

 大樹は膝の上で握りこぶしを作っていた。うつむいてしまって目を合わせようともしない。全てを拒絶している空気が伝わってくる。

「……今日はもういいよ。帰りなさい」

 堀川が溜息混じりにそう言うと、大樹は黙って立ち上がり相談室を出て行った。

 堀川はしばらく大樹の出て行った扉を見つめていたが、小さく肩をすくめ、自分の帰り支度を始めた。


 大樹は塾を出ると、細く薄汚い階段をとぼとぼと下りた。他の学生達は既に帰った後で、大樹の足音だけがやたら大きく響いている。

 外に出ると大樹はしばらく立ち尽くしていた。目の前を酔っ払いの運転する自転車がふらふらと蛇行しながら通り過ぎていく。自転車のキコキコいう音が遠ざかると、耳が痛くなるような静寂が辺りを包んだ。

 大樹はうつむきながら自転車置き場に向かった。

「浅川君」

 突然飛んできた女の子の声に大樹は顔を上げた。自転車置き場の入口に塾の同級生、島野実花が立っていた。

「島野さん……」

 実花はマフラーの中に埋もれるように首をすくめ、紺色のコートのポケットの中に手を突っ込みながらピョコピョコと膝を屈伸させた。

「遅かったじゃん。マジ、寒い……。早く帰ろう」

「……なんで、ここにいるの」

「なんでって。……待ってたんじゃない。なんでもいいから、早く帰ろ」

 歯が小さくカチカチ鳴っている。大樹が相談室にいる間、ずっとここで待っていたに違いない。

 大樹は困惑しながら自分の自転車の横に立ち、盗難防止のチェーンを外した。自転車を押しながらまばらになった自転車の列から出る。

「大丈夫?」

 実花は大樹の横に並んで自転車を押しながら言った。

「なにが」

「だって……、元気なかったからさ」

「落ちたよ、滑り止め」

 大樹はヤケクソのような鋭い口調で言い捨てた。実花が一瞬立ち止まる。

「堀川に富田森はやめろって言われた」

 実花は小走りに自転車を押し、再び大樹に並んだ。

「え……やめるの? ……そう、だよね、ヤバイ……もんね」

「やめない!」

 大樹は立ち止まると、鋭い目つきで実花を見た。気圧された実花は押し黙って大樹を見つめている。

気まずい沈黙が続く。

しばらくして実花が口を開いた。

「そう」

 引きつったような笑みを浮かべ自転車にまたがった。

「だったら頑張るしかないよね。よし、頑張れ! ……じゃあね」

 実花は軽く手を振ると自転車のペダルを踏んだ。大樹は実花の背中を見送った。

 悪い事をしたと思う。せっかく待っていてくれたのに、随分そっけない接し方をしてしまった。でも今の大樹には実花の事を思いやるほど余裕はない。自分の事だけで精一杯だ。

 実を言うと、自分が第一志望の希望校にこだわる理由の一つは島野実花にあった。彼女もまた同じ富田森を第一志望にしている。学校は違うが、塾では去年から同じクラスだった。引っ込み思案な大樹に気さくに声をかけてくれる数少ない女子の一人だ。数学の苦手な彼女に応用問題の解き方を教えてあげたのがきっかけで親しく口をきくようになった。

 黒くてたっぷりした長い髪を左右に分けて、ふんわりとゆるい三つ編みにしている実花は一見真面目で大人しそうなのだが、口を開くとびっくりするくらいさばさばしている。時々男子のような口調でしゃべる。見た目と中身のギャップがとても新鮮で好感が持てた。

 実花の、解けない問題を考える時の眉根にちょっと皺を寄せた表情が大樹はとても気に入っている。友人と笑い転げている時よりもずっと魅力的だった。幼い頃からピアノを習っているそうで、音楽の、特にクラシック音楽の話なんかも時々する。そんな実花が同じ学校を志望していると知った時は正直、とても嬉しかった。

 が、今日は彼女をまともに見る事は出来なかった。並んで歩いていても大きな深い溝が間に存在しているのを感じていた。それどころか、どん底の気分にある自分に声をかけてきた彼女が憎たらしい。彼女は私立の合格通知を手にしている。彼女の手でとどめを刺されたような気がした。

 夜更けの閑散としたバス道を大樹はゆっくりと自転車を走らせた。家には帰りたくなかった。帰宅すればきっと顔を引きつらせた母親と父親が待ち構えている。母親はヒステリックに喚き、父親はわかったような顔をして、よれよれに打ちひしがれた大樹に追い討ちをかけるように攻め立てるに違いない。そして隣の部屋には兄がいて、優しげな笑顔を貼り付けて仲裁に入ってくるのだ。

 その情景を想像するだけで、大樹は頭を掻きむしりたい衝動に駆られるのだ。

 大樹はペダルをめちゃくちゃに漕いだ。漕ぎながら凍りつくような闇に向かって吼えた。

<続く>

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