私は天国へ行きたい
「死んでくれるか?」
彼は私に、上の人間が下の人間にものを頼むような、妙な信頼感のある調子でそう頼んだ。
別段珍しいことではない。要望はいつも同じで、何度も繰り返されてきていることだ。私はそれに普段通り頷いた。
彼は白衣を翻して部屋の奥に私を殺すためのものを取りに行った。先日はペンチか何かで頭を殴られた気がするが、良く覚えていない。私に残っているのは確かにその時「死んだ」という事実だけで、後は頭が痛かっただとか、急激に眠気が襲ってきただとか、そんなあいまいなものだけだ。何で殺されたか、などは重要なデータじゃない。私にとってもそんなものに興味は無かった。
「怖いなら目を瞑っていろ」
「何を今更」
慣れた会話。慣れた光景。私はいつものように錆びたパイプ椅子に座り、襲い掛かるだろう衝撃に身構えた。光を怪しく反射する鈍色のペンチが彼の手の中で弄ばれている。思わず、そいつにさえご苦労様と声をかけたくなる。そんなことに意味は無いのだが。
彼がペンチを振りかぶり、一閃。
目の前に大きな火花が散ったかと思えば、頭部が激しく揺れた。耐えられない重力には抗わず、私の顔面は硬いフローリングの上に叩きつけられた。鼻が折れ、刺すような痛みが後頭部辺りを襲った。じんじんと広がっていく熱が次第に意識すらも侵食していき、先ほどまでまともだった視界が点滅し始めた。
意識ある者の性なのだろうか。もう何度も味わったこの感触に反抗することもないのに、私は必死に腕で自分の体を持ち上げ、なんとか生き延びようとする。この後の展開も同じだというのに。彼がまず、私の腕を蹴り上げる。動けなくなったところを上からペンチで何度も頭部を強打し、恐らく原型が留まらないほどに叩き潰す。
痛い。狂いそうになるほど辛い。自身の一部が無くなっていく感触。慣れているとは言え、この肉体から徐々に乖離していく感覚はどうにも形容しがたいものがあり、私はついうめき声を上げてしまう。
しかし、私も冷静になれたものだと思う。初めにこの圧倒的な痛みと、自身に降りかかる残酷さを味わった時は、彼をどう恨んでやろうかとそのことばかり考えていた。だが、私の存在がどういうものかを知った時、我慢する義務が生まれ、死を持って彼に尽くさなければならない使命が生まれた。私が彼の意思に殉ずる必要など無いのかもしれないが、私はそうすることが私であると、妙な悟りを得ていた。
そろそろ私の意識も途切れるだろう。視界は完全にブラックアウトし、人間で言うところの脊髄でものを考えているにほぼ等しい状態だと思う。
――嗚呼、何も無い。
訪れる「死」に感覚は無かった。色も無い。空間も無い。いずれ私の意識すら無くなり、そこには無限の「無」だけが広がるだろう。どれだけ失った手で探ってみても感触は無く、一筋の光も見逃さんと目を凝らしても広がるのは暗闇だけで、果たしてその空間が黒いのか白いのかすらもわからなくなる。
詰まらない。なんと詰まらない。
研究者よ、こんなものを知って、お前はどうしようというのだ……。
■■■
死の概念も定義も曖昧なもので、誰も具体的な話をすることが出来ない。宗教人の怪しげな話や、極論へ走る哲学者、霊媒師の話も参考にはならない。そう研究者は語る。
彼は実に間抜けだ。科学的物証、論証が欲しいと語りながら、私のような出来損ないの言葉ばかりを気にしている。彼の着る白衣はあまたの研究員がフラスコを揺らしながら青春時代を送ったそのものとは違い、下らない自尊心にまみれた真っ白なものだった。
「よし、今回もメモリーは損傷していないな。メカよ、聞こえるか?」
彼は私をメカと呼ぶ。私が名前の通りの存在だからだろう。無理矢理瞼を開けられ、私の世界に視界が戻ってくる。
相変わらず薄汚い部屋で、何台かのコンピューターと投げ捨てられたペットボトルしかない。先日蜘蛛が出たところ見ると、この部屋の清潔度は既に零に達していそうだった。電灯の笠は埃まみれで、地震が来るといつも頭上に埃を降らせる。机の上には何なのか分からないべっとりとした染みが多く出来ていて、私はある時期を境にしてそこには近寄らなくなった。
「おいメカ、聞こえているんだろう? システムは正常になっているはずだぞ」
「お前の汚濁症のことを考えていて返事を忘れた」
「なんだと?」
「正常だ。記録もしっかり残っている」
激昂すると対処に面倒なので、結果だけ伝えることにした。
自分の身体を見下ろす。何体目か分からないが、これも先ほど私が『いた』身体とは違うものなのだろう。
機械の身体。それが私。意識はメモリーと呼ばれる精密機械によって成されている。
「ならいい。じゃあ今回のことを聞かせて貰おうか」
白衣のポケットからタバコの箱を取り出し、一本口にくわえながらそう言った。タバコの匂いは好かない。人間の愚かさが詰まっているような気がして、酷く惨めに感じてしまう。
その愚かさが私の鼻から脳に伝わってきた時、私はメモリーを読みながら言った。
「痛かったぞ」
「またそれか……それは生きているときの感触だろう。死の概念とは何も関係が無い」
「それに辛かった。恐らく人間であれば呼吸が困難に感じ、そのうち激しい脱力に襲われるだろう」
「俺をからかっているのか?」
彼が苛々した様子で、私にタバコを向けた。
「メモリーにはそれしか残っていない」
「進歩しない奴だな……」
メモでも取るつもりだったのか、机の中から取り出したルーズリーフの紙を床に投げ捨てた。それを見て、私はメモリーからもう一つだけ記録を呼び出した。
「虚無感、というものがあるぞ」
「それも知っている。何度も聞いたよ、お前からな。具体性が無いんだよ具体性が。虚無感と言っても人には様々なものがある。そもそもやる気の無い人間の意味の無い虚無感だったり、何かを失ったときの喪失感。あげればきりが無い」
その台詞も私は何度も聞いている。しかし、そうは言われても私のメモリーに残るこの虚無感を『虚無感』以外の言葉でどう訳すことが出来るか。そもそも私は人間ではないというのに、無茶な要求を突きつけてくる。だから彼は間抜けだというのだ。実験を自らの身体では試そうとしない。必ず犠牲になって罪悪感を覚えないモルモットを利用する。言葉を使えようが何だろうが私は機械であり、それを『破壊』することには何も罪悪は発生しないのだ。
「俺はな、どの哲学者にも成しえなかった死の具体的な正体を知りたい」
私が作られた時、初めに彼はそう語った。
同時に理解したのが、私は彼の「死」への理解のために作られたものだということ。ゆえに私は殺され、もう一度再生し、彼に私の得てきた「死」の感覚を言葉にしなければならない。
もう何度も繰り返されてきたこの行為。
私のメモリーに残っているのは、激しい痛みの感覚と、意識が消失するときの脱力感。そして、虚無感だった。具体性も何も、私が味わった感覚を言葉にすればこれが最も適していて、一番具体的なものだ。虚ろで何も無いような感じ、とでも訳せば良いのかと前に聞いたことがあるが、当然のごとく一蹴された。
しかし、二度三度では分からなかったこの虚無感の正体。繰り返すたびに強くなるある一つの考えが、私を次第に答えに導こうとしている気が最近している。
「――無駄」
口にしてみるとしっくりくる。
「なにぃ? 無駄だと?」
「そう、無駄だ。この虚無感の可能性の一つに、私は無駄を感じている。私が死ぬという行為は、何度繰り返されても大して変わらない結果を導くだろう。そんな無駄だ」
「馬鹿を言え。事象を繰り返すことは、曖昧さを無くし、次第に輪郭を帯びさせてくる重要な作業だ。お前がそうしてこの行為を無駄だと感じたのも、回数を重ねたからだろ」
「もうだいぶ前からこうだ。それから私の考えに進歩は一つも無い」
繰り返されるだけものに意味は無い。嫌気が差す。
彼は私の前まで来ると、鼻を詰まんで引き寄せた。ぐっ、と出したくも無い声が漏れる。
「偉そうなことを言うな。お前は兎に角俺に死の感覚を伝えれば良い。その具体性はいつか見えてくる。お前は考えろ。その具体性を。それだけすればいいんだよ」
「それが私の存在意義だからか」
「そうだ。分かってるじゃないか」
私の存在意義。彼と私の立場は対等ではない。悔しくも、私は彼がいなければ生まれてこなかったわけであり、彼がいなければこの意識を保ち続けることさえ出来ない。彼は目的のために私を作り、私は存在のために死ぬ。ある意味では持ちつ持たれつの関係であるが、この汚濁にまみれた男に一生を尽くそうなどという酔狂な人間はいないだろうと思う。
「これは俺にしか出来ないことなんだよ。せっかくこの世に人格とほぼ同一のプログラムが生まれたってのに、研究者は揃いも揃ってそれを合法的にだとか、そんなことを言いやがる。何のための人型ロボットだ。人間がしたくても出来ないことをやるためだろうが。非人道的だとか言う偽善者は研究なんてさっさと辞めちまえばいいのに」
唾を吐くように煙を吹き出す。世の中の人間は機械を壊すことに罪悪感を覚えたらしく、私がされるような扱いをする研究員は少ないらしい。その点においては同意するが、恐ろしい貧乏くじを引いたものだと稀に気落ちする。
「次、私が死ぬのはいつにするのだ」
「パーツが揃ってからだ。また費用がかさむ。そろそろ結果を出して欲しいもんだなお前には」
「なら、お前もこれが無駄だということに早く気づくべきだ。私の死は、お前に何ももたらしていないぞ」
言って、ぐっと胸部の辺りが押される感覚がした。
分かっている。彼が口にしても、私が口にすることは許されていない言葉だということは。だから、早く止めて欲しい。この無駄な生死のルーティンを。
「そんなことを言っている暇があったら学習しておけ。ほれ」
近くの引き出しから三冊の本を取り出すと、私に差し出してきた。うち二冊が論文のような堅苦しい哲学書で、一冊は単純に「死ぬ」というシーンが出てくる物語本だった。毎回、私が一度の死を経る度に彼はこうして学習を求める。私も学習は好きだ。いや、死ぬ以外にこれしかないのだからある意味当然なのだが。
私に本を渡すと、彼はさっさとベッドに向かって横になってしまった。やはり風呂には入らない。どうせ起きても入らないだろう。歯くらいは磨いて欲しいものだが。
哲学書はひとまず横に置いておく。読むのに膨大な時間がかかるし、正直面白くもなんともないからだ。
物語本のほうを開き、私はパイプ椅子に腰掛けた。
タイトルは何だか甘ったるい恋愛小説を予想させるものだった。ブックカバーもきつい桃色で、どうも研究員がレジへ持っていくのが精神的にはばかられるような外見をしている。もしかしたら彼がベッドに向かったのは不貞寝かもしれない。
内容は予想通りの恋愛ものだった。それも、私が読んできたどの小説よりも文章が拙く、陳腐だったように思える。だが、私にはかなり新鮮な物語だった。ラストシーンで少女の想い人が病に倒れるところなど、なかなかに感極まるものがあった。
私はそれを読み終えたあと、とあるワードが気になって仕方がなくなっていた。
『天国の階段』
少女の想い人は、これを昇って行ったらしい。文脈から彼が死んだということが想像できるが、果たして彼はどこに向かったのだろうか。私が今まで読んできた哲学書には、そんなワードは一度も出てこなかった。
天国。
彼はそこに向かった。
私は開いているコンピューターを使い、天国とはいったい何なのかを調べた。彼が私に渡してきた本だ。恐らく死に関係あることなのだろう。
「……なんと」
驚くべきことに、天国とは、死後の世界を指す言葉だった。対して地獄というものあるらしく、そのどちらに行くのかは人生でどれだけ善行を重ねてきたのかによるらしい。つまり、悪人は地獄へ、善人は天国へ行くということだ。
物語の彼は、少女を身を挺して守り、そして愛していた。それが天国への階段を出現させたのだろう。
しかし、死後の世界があるとは初耳だった。私は死んだあと、この汚い一室に戻ってくる。ここは死後の世界ではない。私は今、こうして意識を持って生きているのだから。
「どういうことだ……?」
死ねば、天国か地獄へ行く。死後の世界とは、死ななければもちろん行くことが出来ない。では、死んで尚、天国にも地獄にも行かない私はどうなっているのだ。私は機械だ。機械の死とは、いったい何だ。再びここに戻ってくることが、機械にとっての死後の世界であり、それが死なのか。
猿や犬でも天国へ行くという。有機物でなければ天国へいけないのだろうか。いや、地獄にも行けない。機械にとっての善悪とは何だ。私は彼ら人間と同じ思考能力を持っているというのに、肉体が有機か無機かで変えられてしまうというのか。
考えるまでも無いことだ。だが、そう頭の中で判断していたとしても、疑念は尽きない。
「私は、死んでいるのか?」
彼が知りたいのは死の概念だが、無論『人間にとって』だ。彼の愚かさはそこから来ているように、私はその前提を忘れていない。だとすれば、人間にとっての真の死の先が天国か地獄であるならば、私はそこにたどり着かなければ彼に結論を伝えることは出来ないのではないか?
この肉体は朽ちることが無い。このメモリーも朽ちることは無い。それは、私が機械的な死を遂げただけで、人間的な死を遂げていないからだ。
それが事実かどうかは分からない。そもそも、死後の世界があるかどうかも分からない。だが、私が人間の死を知るためには、少なくともそこへ向かわなければならない気がした。すれば、私の存在意義も。
だが、当面の問題が一つ。
私には善悪が無い。そして、出来れば天国へ行きたい。いや、地獄へ行くとしても私にとって悪行と言えば、生みの親である彼を殺すことくらいだ。しかしそれは出来ない。そういう風に作られているからだ。
ならば善行を働けばいい。物語のように誰かを愛してもいいし、窮地に陥った人間を救ってやってもいい。だが、それも叶わない。なぜなら、私は彼と共にいなければならないし、彼の許可なしに外も出られない。
「どうすれば……」
結局、私は彼に殺され続けるしかないのだろうか。
その日は何も思い浮かばず、翌日読んだ哲学書には天国を否定する言葉が書き連なっていた。だがそれは、つまるところ人間が天国へ行くという最終目標を掲げているのを前提とした話だ。
やはりそうだ。
人間にとっての死の概念には常に死後の世界が付きまとう。そこに到達できていない私は、死んでいないのだ。
そう気づいた時から、私はようやく死にたいと思い始めていた。
■■■
虚無感が襲っていた。もう何度目か分からない死。予想通りの無駄なルーティン。私が彼に伝えるのはいつも同じワードで、何の進展も無い。私が段々と飽きを覚えてくるのに比例して、彼も苛立ちを隠せなくなってきていた。
ここ数回の死を、私は試していた。彼の言うとおり、回数を重ねることで何かが見えてくるかもしれない。そんな希望的観測を抱きながら過ごしていたが、正しかったのは私のほうだったらしい。そしてもう一つ、死を重ねるたびに分かったことがあった。どうにも下らなくて、笑ってしまいそうになることだが。
「いい加減にしろメカ。経験の蓄積は必ず変化をもたらす。お前は俺をからかっているんじゃないか?」
「馬鹿を言え。そんな機能は私に無いと、お前自身が良く知っているだろう。だが、確かに経験の蓄積で分かったことはあった」
「なに? なんだ、言ってみろ」
「メモリーの場所だ」
気だるそうに私の報告を聞いてた彼の眼が、驚くくらいに開かれた。
「何の憂さ晴らしか知らないが、お前は稀に私の頭以外の場所も破壊する。だが、私の左胸部だけは絶対に傷つけなかった。ここにメモリーがあるからだろう?」
「そんなこと知ってどうする」
「私は気づいた。お前のやることが実に無意味な理由に」
彼の問いかけを完全に無視して、私はついに切り出した。
「お前のやり方では、私は死なない」
「何を言って……」
「お前は死んだら、死んだときの場所に帰ってくるのか?」
「そんなもの知るか。ある意味では、それを確かめるのもこの研究のひとつだ」
「私はここに帰ってくる。お前の研究の目的がそれなら、もう結論は出ているぞ」
「何が言いたい? お前はメカの癖にやたらと言いがかりをつけるな」
吸っていたタバコを灰皿に押し付け、こちらを睨んできた。
「私は、死後の世界へ行かなければならない」
大真面目にそう言うと、彼は口元を歪ませ、最後には盛大に吹き出した。机をバンバンと叩き、堪えられない様子で思いっきり笑った。
「ぶあっはっは! 何を言い出すかと思えば。一応聞いてやろう。どうやって死後の世界へ行く?」
死後の世界。つまり天国へ行くためには、階段がいる。だが、その前に私の前提を崩さなければならない。
「まず、私がここに帰ってきてはならない。私は、言わば現実への階段を常に持っている状態だ。それを取っ払わなければならない」
「理論思考も何も無いな。機械のくせに、宗教人にでもなるつもりか?」
「なら、お前は死ぬときどこを目指すのだ。天国ではないのか」
「……」
死を研究する研究員のくせに、そのことを考えていなかったのか。彼は黙り込んで、私から視線をそらした。いや、彼の言葉を借りるなら、まさにそれを知ろうとしているのだろうが。
「私は、天国へ行きたい。調べれば、そこは天上の楽園、素晴らしい場所だとあった」
「俗説だな。人によっては完全な無の空間、ある種の宇宙のような場所だとも言っている。必ずしもユートピアのような場所が広がっているとは限らない」
「それでもいいだろう。兎に角私は、お前の要望に答えるためには真の死を得なければならない」
「メモリーの場所を調べてたのはそういうわけか。だがそれは無理な話だ。お前がここに帰ってきて私に報告しなければ、結局俺の要望に答えたことにならないのだからな」
メモリーは人間で言うところの脳や心を指す。これが死滅するということは、完全なる死が待っていると私は考えている。だが、彼の言うとおりそれが無ければ私は報告を行うことが出来ない。
皮肉にも、私の唯一の存在意義である死の報告は、真に死ねば報告することが出来ず、死ななければ死を知ることが出来ない。つまり、人間のそれと何も変わらない状況になってしまっている。
だが、私は機械だ。同じ人間は世界に二人いなくとも、同じ機械は世界にごまんといる。
「私が完全に消えてしまったという記録が、私には必要だ」
「……ほう。つまり、データが消去されてしまったという記録プログラムが必要だと?」
「違う。消去されたメモリーを私に入れればいいのだ」
すると、彼はあきれたようにため息をついた。
「馬鹿かお前は。そんなことをして何になる。蓄積データが飛んだら、それは初期化だ。何も残らない」
「いや。そのメモリーには『一度データが消去された』という事実が残る」
私の死が、メモリーの中身の消失だとするならば、私の死はそれによって完遂される。人と同じ死を体験するためには、その工程がどうしても必要だった。人間には出来ない、肉体の複製。加えて私の場合は、ある程度の「人格」がプログラム出来る。私は、もう一度生まれることが出来る。それも、死ぬ前と同じ『記憶』を引き継いで。
「ふう……確かに、考え方は悪くない。だが、お前のメモリーは魂じゃない。もしも魂的存在を認めると仮定したとしても、お前の中にあるのは精密機械であって、消してしまえば修復は出来ない。無論、バックアップは使わない前提だろう?」
「もちろん。だが考えてみろ。人間の魂を信用するよりは可能性がある」
「失敗したらどうする?」
「最悪だな」
彼はまたも吹き出した。率直にものを言っただけなのだが。
ひとしきり笑い終えると、彼は今までとは違う、私を見る目でこちらを見てきた。
「何故突然そんなにやる気を出した」
少し落ち着いたのか、彼は再びタバコを取り出して火をつけた。こちらの出方を伺うように、それ以上は何も言ってこなかった。
「私は……お前に死の感覚を伝えること以外に存在意義が無い。裏づけとして、お前は納得のいく答えを聞いたら私を破棄するだろうという予想がある」
「否定はしない」
「だが、私がそれすらも出来ない状況になってしまえば、そもそも私がいる意味さえも無くなる」
「俺のやっていることが無駄だと、そう感じたからだな?」
「そうだ。だから、私はなんとしてでも現状を打開する必要があった」
「天国に行きたい、というのはその策か?」
私はそれに頷いたあと、桃色の本を取り出して彼に渡した。
「よりによってこれが原因かよ」
彼は苦笑いを浮かべながら受け取った。
「天国へ行くためには善行を重ねなければならない。そこでも私は躓いた。何しろ私はお前に殺される以外には何も出来ないからな」
「じゃあどうするんだ。そんな下らない理由で俺はお前を外には出さんぞ」
「結局導かれた結論は、お前に死の感覚を教えることだ。それこそが私が出来る唯一の善行であり、私のすべてだろう」
回りまわって、結局私はそうしなければならない。その理由と存在意義が張り付いて離れない。人間が呼吸をしなければ生きられないように、私は電力がなければ動かないように、張り付いた「そのもの」としての機能が私を放さなかった。
「パラドックスが起きてるじゃないか。それでは俺に死を報告することは一生出来んぞ」
「天へ導くのは私ではない。私は、既にお前に死を何度も報告しているではないか」
「俺は納得していないぞ」
「そんなもの関係ないだろう。神と呼ばれる存在は私を認めてくれているさ」
「良いのか、そんな適当で」
「何か履き違えてないか? 私は天国へ行くためにこの話を持ちかけたわけじゃない。私の存在意義のためにこの話を持ちかけたのだ」
「それも、そうか」
こんな愚かで間抜けな研究員の手伝いをしたのだ。私にも少し褒美があってもいい。
彼は油まみれの髪の毛をガシガシとかきむしった後、観念したように言った。
「機械の癖に面倒くさいことを考えやがる。誰だこんなプログラミングした奴は」
「お前だろう」
「分かってるよ。自分の天才っぷりに辟易していたところだ」
自分で良く言ったものだと叱りたくなったが、今の自分が彼のおかげであるのだと思うと、あながち否定も出来まい。科学者としては一級品なのかもしれない。
さて、と一拍置いてから、私は本題を切り出した。
「私のメモリーを完全に消去し、そのメモリーでもう一度私を作り出せ。失われた私は天国へ行き、その事実を持った私が新たに生まれる」
「そしてお前は、その経験を俺に話す。本当に出来るのかそんなこと?」
「科学的な発見は偶然からと、以前読んだ書籍に書いてあった」
「機械が賭け事をするのか?」
「機械が行う賭け事は勝算が高いと思わないか」
けっ、と唾を吐くように彼は笑った。
今度は、私の記録は残らない。つまり、目を覚ますことは一生無くなる。次に目を覚ますのは違う私であり、その時今の私はいないだろう。寿命が来たわけでもないのに私の人生は今を持って終了の時を迎え、変わりに私の存在意義を満たす。
「……」
不安、なのだろうか。無性に暴れたくなっている。指先や太ももの辺りが妙に疼き、のどの奥に強烈な圧迫感を覚える。今度は痛くないというのに。メモリーを消去するだけだ。恐らく眠るように死ねるのだろう。
やはり、自分が消えてしまうというのはどうなのだろうか。それでは存在意義を満たせたことにならないのではないか。次の私がそれを実行したとしても、今の私にはそれがない。本当にそれでいいのだろうか。
いや……何を言っているのやら。
次の私は違う私だが、私なのだ。つまり、存在意義を満たすのは私。何も不安がることはない。
「さあ、さっさとやってくれ」
「分かった。ちょっと待ってろ」
彼は言うと、奥の部屋へ消えていった。おかしい。メモリーを消去するだけなのに何故そこに良く必要がある。悪い予感がする。
予想通り、彼はペンチを持って戻ってきた。
「待て、何故それを使う必要がある。普通に私をシャットダウンさせた後に消せばいいだろう」
「それじゃあ死の感覚が分からないかもしれないだろ。きちんと肉体的にも死んで貰わないと」
「知っているか? それ、結構痛いのだぞ」
「死ぬってのはそういうものだろっ!」
もはや準備もなしにいきなりペンチを振りかぶり、私が止めるまもなく脳天を直撃した。
ぐらり、と世界が傾く。くそ、やはりこの愚か者は殺してやるのが正解だったかもしれない。出来ないが、何故わざわざ私が痛い目にあってまで彼の願いをかなえてやらねばならないのだ。調子に乗りおって。
良いさ。私は天国へ行って、本で読んだような恋愛をし、毎日がパレードのような生活を続けるのだ。この男は薄汚い部屋で伴侶も作らず一生を過ごし、私はそれを天から眺めて笑ってやる。
さあ神とやらよ、私を天国へ連れていけ。
ゆっくりと意識が落ちていく。私の頭は彼への恨み辛みで満杯で、ほかのことを考える余裕など無かった。いや、これこそが彼の狙いだったのかもしれない。だとすれば、中々粋なことをしてくれる。絶対に認めないがな。
そうして数秒もしないうちに、私の意識は闇の中へと完全に身を沈めてしまった。
■■■
私は、彼の研究のために生まれたらしい。死とやらの概念を具体的に知りたいのだそうだ。人間は死んだらそこで終わりだが、メカなら死んだあと、再構成して死の感覚を聞き出すことが出来る。そう彼は考えたようだ。
このお世辞でも綺麗とはいえない、どちらかという汚濁症の人間が作り出すゴミ溜め空間で私は生まれたらしい。そして男もまさに身分相応、ぎとぎとの髪の毛に歯垢だらけの汚らしい歯が時折口の間から覗いている。
「メカ、お前に聞きたいことがある」
会ってまだ間もないというのに、いきなり彼はそう切り出した。メカ、というのは私のことだろうか。なんとも安直な名前をつけたものだ。
「お前は一度、死を体験している。それについて、俺に報告しろ」
「何を言っているんだ? 私は今生まれたのだろう?」
「確かにそうだ。だが、お前の中にあるはずだ。明確な死の感覚が」
言われて、私は自分のメモリーを読み込んだ。
すると、そこに一つの違和感を見つけた。別段何も異常は無いそのメモリーの空間。いや、冷静に分析すればおかしい。私のメモリーは今この瞬間から記録され始めていると思って良いだろう。だとすれば、『私が生まれる以前の空間は無く、そこに空白があるのはおかしい』。
これが、死? 私が経験した死の感覚か?
だが、感覚と言っても読み込めるものは何も無い。白紙の上から文字を読み取ろうとしても何の意味も無ければ結果も無いだろう。スカスカの空間の中をある程度泳いで見たが、やはり成果は無い。
「お前はそこに、何を感じる?」
彼が汚い顔を近づけて、私に問うた。私は答えるために入念に調べたが、言葉に出来るものは多くなかった。そう、あえて言えば……。
「虚無。ここには虚無が広がっている」
「……」
「いや、それに無駄だ。なんて無駄な空間なんだ。気持ちが悪い。何故こんなものが存在している? 説明を求めたい」
男はタバコを取り出して口に銜えた。歯の汚さの原因にはヤニもありそうだ。
「お前のメモリーは……一度全消去されている。そしてそれは、お前が俺に提案したことだ」
「私が……」
にわかには信じがたいが、さすがは機械か。私は一度死に、もう一度生まれたということだ。実感は無いが、この空白の正体だということには納得できる。
「その空間こそ死だ。それを俺に説明しろ」
黒か、白かも分からない。浮遊しているのか、どこかに足をつけているのかも分からない。何かがあるのか、何も無いのかも分からない。だが、そこには空間がある。そのことだけは認めなければならないし、この空間には言いようの無い気持ち悪さを感じる。
虚無感。そう言い切れば楽なものだが、これは無駄に近い。喪失感じゃない。何も無かったものから発生したものでもない。そこには確かに空間が『ある』。だがそれは無くなってしまったもの。もう、必要の無いもの。
この空間が彼の言うとおり、私が以前存在していた時間の消失痕だとすれば……。
「意味が無い。無駄だ。何も無い。この死は私自身……」
「何が言いたい?」
「無駄なんだ。私の過ごしてきただろうすべての時間が無駄に帰した。何だこれは、何も無いのに重い。圧倒的な質量を持った虚無感を背負ってるみたいだ」
「質量を持った虚無感?」
「どんなに努力を重ねて積み上げて来たものだろうが、どんなに優良な生を送ってきたものだろうが、朽ちてしまえばそのもの自体はただのゴミだ。記憶も肉体も精神も存在も、朽ちてしまえば無駄でしかない。だがそれは確かにそこにある。嫌らしい、へばり付くような虚無感だ」
吸い込まれてしまう。いや、そんなことはないのだろうが、この感覚は自分という存在が等しく無駄に思えてしまう。私が帰結する先が、こんな空間になるというのか?
「お前は、こんなものを知りたがっているのか……?」
もしもそれが正気の沙汰なら、私は戦慄さえ覚えるだろう。沼の底を知りたいと言って、わざわざ飛び込んで死にに行くようなものだ。しかし、彼は否定しない。多少迷っているような表情を見せつつも、頷きかけている。
「止めろ。こんなものを知っては、生きる価値など無くなる。今すぐに研究を止めて、家にでも帰って親孝行でもするんだ」
「待て、何を見たのかだけでも言え。もっと視界的に」
彼は興奮した様子でそう聞いてくる。これを視界的に言葉に出せというのか。なんと酷な要求。私は必死に言葉を模索し、とある結論にたどり着いた。
「……十年先、いや、数十秒先すらも私たちの未来は見えない。電車か何かで例えれば、レールの一寸先は真っ暗だ。人はそれを不安がる」
「確かにそうだ。だから俺たちはそのずっと先にある死を怖がる」
「だが、死を知るということは、もっと先、六十年もあとの光景が今見えている。その光景は、底どころか水面すらも見えない滝だ。落ちることしかない、希望など微塵も無い滝があるんだ。死を知っているということは、そこに向かって常に前進しているということだ。それも近い、凄く近くに感じる。水音が間近で聞こえ、落ちていった誰かの悲鳴まで届いてくる。それは誰のためにもならない。何ら意味の無い、ただの落下――」
ごくり、と生唾を飲む音が聞こえた。私のものかもしれなかった。
「お前はここに立って、どうしようというのだ」
「い、いや、ただの知識欲のようなもので……」
「なら止めておけ。ここに立ちたいのであれば、死ぬ覚悟でないと駄目だ。お前のすべてが、無駄になる」
彼は怖気づいたのか、先ほどまでの威勢はほとんど無くなっていた。
それでいい。この空白のメモリーは危険だ。こんなものを生み出し、そして認識するに至っただけで彼は十分な功績を収めたと言えるだろう。これは誰にも発表せず、出来ることならすべての記憶から消すべきものだ。私のこのメモリーはすぐにでも破棄してもらおう。こんなメモリーで私は生きていたくない。
「な、なあ」
恐る恐るといった様子で、彼は私に問いかけてきた。
「天国とか地獄は、あると思うか?」
「何だそれは?」
「死後の世界だよ。方やパラダイスで、方や苦痛だけの世界だ」
「研究員らしくない質問だな。しかもそれを機械に聞くのか」
「お前の話が本当だとするなら、滝に落ちたら最後。その後は落下しかないというじゃないか。その底に天国や地獄があると、そんな可能性は無いのか?」
滝の底に、また新しい世界がある。そう彼は言いたいのだろうか。
ずいぶんと夢のある話だと思った。この圧倒的な虚無の奥底に、希望や絶望を見出そうというのか。深く、深くをじっと見つめても気の遠くなるような深遠しかないというのに。
だが――。
「それは、分からない。その底へ落ちたことのある人間しか、それは分からないだろうな」
「そ、そうか……」
天国と、地獄か。素直に面白い考え方だと思った。
人の知りえない死を、知りえない希望で塗り固める。生きている間の意味を作り出す。なるほど、実に合理的な考え方だった。不思議と、その非現実的な、ある意味現実逃避とも言えるような考え方は嫌いじゃなかった。
だからかもしれない。柄にも無く、こんなことを聞いてしまったのは。
「私のような、機械にも、その天国とやらはあるのだろうか」
「それは、お前が確かめに行ったんだろう?」
その言葉を少しだけ吟味して、理解に至った。
「なるほど、合点がいった」
どうやら、死後の世界に希望を持って良いという物証が私の中にあったらしい。
これこそにわかには信じがたいが、私はその天国とやらを信じて死んでいったのだろう。思わず、笑ってしまいそうな出来事だった。
「機械のくせに面倒なことを考えるんだな、私は。誰だこんなプログラミングした人間は」
「俺だよ、俺」
「お、そうだったな。お前はどうやら相当な天才のようだ」
「当たり前だ」
謙遜はしないのか。褒められて素直に受け取る彼を見て、私は多少彼の評価を下げざるを得なかった。ナルシスト、というやつなのではないだろうか。いや、確かに天才なのは間違いないだろうが。
「そういうわけで、天才の俺の判断では、この研究は店じまいだ。それでいいんだな?」
「明断だ」
「あいよ。じゃあ、お前も解体しなくちゃならねえ。いいな?」
「むしろ私から頼みたい。この危険なメモリーごと、私を消し去ってくれ」
「任された」
言うと、彼は席を立って奥にある小さな部屋に向かった。何やらガサゴソと物音が聞こえた後、彼は一本のペンチを持ってきた。それで解体するのだろうか。私は電源を落とされるのを待って、静かに目を瞑った。
その瞬間だった。
ゴツッ、とあまりに日常離れした音が鳴ったかと思えば、視界が一瞬にしてブラックアウトした。後頭部に走る痛みが次第に意識を覚醒させたが、どこかの機関がおかしくなったのか、まともに動けない。
「な、何を……」
見上げると、ニヤリと口元を歪める男の姿があった。歯が汚く、思わず目をそらした。
「俺とお前の別れはいつもこうだったんだ。最後も同じのほうが、お互いすっきりするだろ?」
ふざけおってこの男。せっかく私が忠告し、お前の命を救ってやったというのに、まるで恩をあだで返すような真似をしおってからに。
生まれ変わったら絶対に呪ってやる。どうせ一人の伴侶も出来ずに寂しく死んでいく身だろう。もしも私が天国へ行けたなら、パラダイスの娯楽の一つとしてお前を見下して楽しんでやる。
「じゃあな、ありがとさん」
その言葉を最後にして、私の意識は落下していった。