エピローグ 三十年後、線の先で
港のざわめきは、昔とあまり変わらない。
船が来て、船が出ていく。荷が積まれ、降ろされ、人が怒鳴り、笑い、走る。
違うのは、その向こうに伸びている線の数だ。
ご苦楽シティの港から、第二王都南港へ。さらにそこから、かつては名もなかった小さな湾や入江に、新しい自由港がいくつも増えた。
それらを結ぶ帳簿が、今は、俺の机の上の一冊にまとまっている。
総会計監。肩書きだけ聞けば立派だが、実態は、数字と人の間で右往左往する、相変わらずの書記官稼業だ。
今日は、その視察の一環として、原点たるご苦楽シティの港に降り立っている。
……のだが。
桟橋近くの黒板のあたりから、騒がしい声が聞こえてきた。
順番がどうの、税率がどうの、聞き慣れた単語が飛び交っている。
懐かしい、と同時に、胃のあたりが少しだけ重くなる感覚。三十年経っても、あの頃の癖は抜けないらしい。
若い書記官が、額に汗を浮かべて立っているのが見える。黒板の前。順番待ち札の箱を抱え、相手に押し込まれないよう、必死に踏みとどまっている。
相手は、中年の商人と、その後ろに控える数人の取り巻き。服装の質と人数からして、そこそこ大きな商会だろう。
若い書記官の背中が、昔の自分と重なって見えた。
ふう、と息を吐いて、一歩踏み出そうとした、そのときだった。
甲高くもよく通る、しかし聞き慣れた調子の声が、空気を切り裂いた。
「何をしていらっしゃるのかしら。朝からそんなに喉をお使いになって」
瞬間、足が止まる。
耳が、勝手にそちらに向き直った。
◇
人垣が、波が引くようにすうっと割れる。
そこから現れたのは、三十年前と同じでありながら、確かに時間を重ねた姿だった。
長い金髪は、昔よりやや落ち着いたまとめ方になっている。瞳の色も、相変わらずワインレッドだが、そこに宿る光は、若い頃のぎらついたそれよりも、少し柔らかい。
しかし、口元の意地悪そうな笑みだけは、まるで変わっていなかった。
(アメリア様)
心の中でそう呼んでから、ようやく現実の光景として認識する。
若い書記官が、ほっとしたような、余計に緊張したような、複雑な顔をしている。
商人のほうは、一瞬たじろいだあと、強気を取り戻したらしい。
「いやいや、ご隠居。これはですね、うちの荷は少し急ぎでしてな。今日だけでいいから、順番を前に――」
『ご隠居』の単語に、周囲からくすくすと笑いが漏れた。
アメリア様は、眉ひとつ動かさない。
「ご隠居、とはまた風流な呼び方を。ですが残念ながら、わたくしは今もこの港の帳簿に、少々口を出す立場でしてよ」
ご老体ではない、という抗議と、まだ現役だ、という宣言が、さらりと同居している。
書記官の少年が、勇気を振り絞ったように口を開いた。
「あ、あの、ここの規約では、順番の入れ替えは――」
「そう。順番の入れ替えは、基本的に認められておりませんの」
アメリア様は、少年の言葉を引き取るように続ける。
「あなたが先に割り込めば、そのぶん、誰かが日暮れまでに荷下ろしできなくなる。その誰かが負う赤字は、どこの帳簿に載ると思われまして?」
商人が、言葉に詰まる。背後の取り巻きが、気まずげに目をそらした。
昔と同じだ。
問いの形で、逃げ場をふさぐ。数字ではなく、具体的な損失の姿を想像させる。
ただ一つ違うのは、その声色だ。少しだけ、角が丸くなっている。
若い頃なら、もう少し毒が強かったはずだ。
そのまま押し切られるかと思いきや、商人は、しぶしぶといった様子で頭を下げた。
「……分かったよ。今日は、順番通りに待つ」
「英断ですわ。長く商売を続けたいのであれば、こういう日和見は大事でしてよ」
にっこり笑ってから、アメリア様は黒板の違反記録欄を、ちらりと指さす。
「そこにお名前が載らなかったこと、後で感謝なさるとよろしいですわ」
商人は、ばつの悪そうな顔で列の最後尾へと下がっていった。
場の空気が、ふっと緩む。
◇
人々が再び動き出す中、アメリア様は、黒板の前に残った若い書記官に向き直った。
「ご苦労さまですこと。朝一番から、なかなか良い声量でしたわ」
「は、はいっ。あ、ありがとうございます……ラグランジュ様」
名前を呼ぶ声に、わずかな誇らしさが混じっている。
この少年はきっと、ご苦楽の教室か、官吏学校のどこかで、アメリア様の武勇伝をいやというほど聞かされて育ったのだろう。
それはそれで、少し気の毒な気もするが。
そこでようやく、アメリア様の視線がこちらをとらえた。
「総会計監殿。わざわざ現場まで足をお運びとは、お勤め熱心でいらっしゃる」
皮肉とも、軽口ともつかない調子。
俺は、思わず背筋を伸ばした。
「お久しゅうございます、アメリア様」
自然と、昔の呼び方になっていた。
三十年前。王都から書記官見習いとしてご苦楽シティに流れ着いた頃から、ずっと頭に刻み込まれている呼称だ。
「まあ。老けましたわね、ユリウス」
開口一番、それか。
苦笑しながら、少しだけ肩をすくめる。
「お互い様かと存じますが」
「失礼な」
と言いかけて、アメリア様自身もくすりと笑った。
「確かに、鏡を見るたびに、ペンだこよりしわの数のほうが気になるお年頃にはなりましたけれど」
その笑い方は、昔と変わらない。
ただ、その横顔の線に、幾つもの港と都市と人の暮らしが、うっすらと重なって見えた。
◇
そこへ、背後から聞き慣れた低い声が飛んできた。
「ユリウス様。いや、総会計監殿とお呼びするべきでしょうかね、今は」
振り返ると、そこには、背筋だけはまっすぐな白髪の老人が立っていた。
「セバスチャン」
思わず、声が一拍遅れる。
「相変わらず、どこからでも突然現れるのですね」
「それが執事の務めでございますので」
老人は涼しい顔をしている。
さすがに歩みはゆっくりだが、眼光の鋭さは、ほとんど変わっていない。
「ご健在で何よりです」と頭を下げると、彼は肩をすくめた。
「ご主人様がこうして港までお出ましになるうちは、まだ隠居もできませんのでね」
「セバスチャン」
アメリア様が、小さく咎めるように言う。
「わたくしをいつまで働かせるおつもりでして」
「働いているのは、半分はご自身の趣味でしょうに」
とでも言いたげな顔だ。
この二人のやりとりも、三十年分の皺が増えただけで、本質は変わっていない。
◇
港の喧騒を背に、少しだけ歩いて、人の少ない桟橋の端に出た。
アメリア様と、俺と、少し離れたところでセバスチャンが控えている。
「三十年ですか」と、口にしてみる。
「ご苦楽シティに来てから、という意味で」
「数字にすれば、そうなりますわね」
アメリア様はあっさり認める。
「あなたが最初に港の黒板の前で震えていた頃から、三十年」
「その言い方は、少々心外ですね」
「事実でしょう」
ばっさり切られる。
否定できないのが悔しい。
「今や、ご苦楽と南港と、その他もろもろの港の帳簿を束ねていらっしゃるのですから。立派なものでしてよ」
「あれは、アメリア様が敷いた線の上を歩いているだけです」
「誰かが線を引かなければ、誰も歩けませんのよ」
軽く肩をたたかれた。
祖国の帳簿でもあり、ご苦楽シティの帳簿でもある線。
かつて自分がそんなことを口走ったのを、ふいに思い出す。
あの頃は、まだ線は一本だった。今はどうか。
港を見下ろせば、ご苦楽シティの桟橋と、南港行きの船と、さらにその先へ向かう船が、幾筋もの光の糸のように伸びている。
その全部に、帳簿があり、人がいて、生活がある。
三十年前。王都で帳簿に押しつぶされかけていた自分には、とても想像できなかった光景だ。
「アメリア様」と呼びかける。
「何かしら」
「どこの帳簿に名前を残したいか、と尋ねられた日がありましたね」
「ありましたわね」
「あのときは、ご苦楽シティと答えました」
「ええ。覚えておりますわ」
「今も、その答えで間違っていなかったと思っています」
そこまで言って、視線を港から空へと上げる。
「ただ、三十年経って分かったのは」
一拍置いて、続ける。
「帳簿は、一冊では足りない、ということです」
アメリア様が、小さく目を細めた。
「ご苦楽シティの帳簿。南港の帳簿。セレスタイン王国の帳簿。ライシア王国の帳簿。小さな港や村の帳簿」
俺は、指先で空中に線を描く。
「その全部に、少しずつ自分の字跡が混ざっている」
「それを、今は悪くないと思えるんです」
「器用になりましたわねえ、ユリウス」
からかうような声音に、どこか嬉しそうな響きが混じっていた。
「わたくしにはできなかったことですわ」
「アメリア様には、別のことができたでしょう」
「祖国を追い出されて、隣国で勝手気ままに稼いで」
アメリア様は、港を見下ろして小さく笑う。
「その結果、国ひとつぶんの帳簿を動かすことになりましたのだから、人生は面白いものですわね」
面白がっているのは、アメリア様だけではないはずだ。
この港で働く人々。南港やその他の自由港で店を開く者たち。教室で数字を学ぶ子どもたち。
彼らの誰かにとっても、この世界は、以前より少しだけ面白くなっていると信じたい。
セバスチャンが、控えめな咳払いをした。
「お嬢様。そろそろお時間です。午後からは、新しい特区構想の打ち合わせが」
「そうでしたわね」
アメリア様が、少し残念そうに息を吐く。
「退屈する暇がありませんこと」
「それは、昔からでしょう」
「あなたもでしょうに、総会計監殿」
そう呼ばれて、思わず苦笑いが漏れる。
肩書きよりも、今自分がどこに立っているかのほうが、よほど重要だ。
港と港をつなぐ線の上。
その上で、数字を書き、若い書記官に問いを投げかける。
『どこの国の帳簿に、自分の名前を残したいかね』と。
「アメリア様」
「何かしら」
「この三十年、お世話になりました」
少しだけ、言葉が重くなる。
「本当に、少しだけですのね」と笑われるかと思ったが、アメリア様は意外にも真面目な顔をしていた。
「こちらこそ。あなたが線の上で踏ん張ってくれたおかげで、わたくしの帳簿も、だいぶ楽になりましたわ」
そのやりとりだけで、胸の中に何かが静かに降り積もる。
「では、そろそろ行きますわね」
アメリア様が一歩踏み出す。
セバスチャンが、その隣にぴたりと並ぶ。
歩みはゆっくりだが、その背中は、今もなお港と街と国を見ている背中だった。
その後ろ姿が人混みに紛れるまで、しばらく目で追っていた。
ご苦楽シティの港には、今日も船が出入りする。
第二王都南港へ。さらにその先の、小さな港へ。
数字と人を抱えた荷が、線の上を行き来する。
断罪された悪役令嬢財務卿が引いた一本の線は、今や幾筋もの道になって、世界を少しずつ変えている。
その端っこに、三十年後の今も、こうして自分が立っていられることを、俺はひそかに誇りに思った。
お終い




