第10話 帳簿の悪魔とご苦楽シティ 【ユリウス視点】
ぼくが“ご苦楽シティ”に配属されてから、ちょうど一か月が経った。
――最初にここへ来たとき、正直に言えば、半分くらいは「左遷だ」と思っていた。
王都の官庁街。磨き上げられた大理石の廊下。
山積みの書類と、終わらない残業。
それでも、あの場所こそが「世界の中心」だと、どこかで信じていたのだ。
……あの日、この港町を初めて見下ろすまでは。
◇ ◇ ◇
「本日付で配属になりました、ユリウス・フォン・ノートンと申します!」
あのときの自分の声を思い出すと、いまだに胃がきゅっとなる。
緊張しすぎて、敬礼の腕がぷるぷる震えていた。
目の前には、噂に聞いていた「悪役令嬢財務卿」。
“ラグランジュの悪魔”“帳簿の女帝”と呼ばれていた人。
実物は――正直、想像以上だった。
黒髪を上品にまとめ、派手すぎないけれど明らかに上質なドレスを着こなし、
微笑むだけで人を黙らせるような、そんな気配をまとっていた。
おまけに、挨拶の最初の一言が。
『ようこそ、地獄の底へ』
……である。
(やっぱり悪魔じゃないですか)
心の中で叫んだことを、いまも鮮明に覚えている。
ところがすぐに、「ご苦楽な職場ですのよ」と言い直して笑うものだから、
ペースを乱されっぱなしだ。
それからの一か月は、ひたすら嵐のようで――
気づけば、ぼくは「地獄」どころか「奇妙に居心地の良い台風の目」の中にいた。
◇ ◇ ◇
「まずは、この台帳と土地記録と取引記録を頭に叩き込んでいただきます」
初日に渡された書類の山は、今思い出しても眩暈がする。
住民の名前、家族構成、職業、持ち家か借家か。
どの土地にどんな店があり、そこへどんな荷物が出入りしているのか。
王都では、一つの部署が扱う情報はごく一部だけだ。
それを全部まとめて「街一つ分」同時に把握しろと言うアメリア様は、やっぱり頭がおかしい。
――と、思っていた。
最初は。
「この数字から、“今の街の問題点”を三つ挙げてくださいませ」
小テストを出されたとき、ぼくは内心で軽く絶望した。
でも、必死に紙とにらめっこして考えた。
“無職”と書かれた人の多さ。
登録店舗の数に見合わない、取引総額の少なさ。
そして、想像していたよりずっと多い、“十五歳以下”の子どもの数。
「……このままだと、この街の子どもたちが、働き口を求めて全部出ていきます」
そう言ったとき、アメリア様がふっと目を細めた。
『あなた、とても良い“目”をお持ちですわ』
あの一言が、正直ちょっと、嬉しすぎた。
王都では、誰も「数字の先にいる人」の話なんて、あまり聞かないから。
◇ ◇ ◇
それから、港町への外回り。
「営業」という言葉を、ぼくはあの日ほど生々しく感じたことはない。
バルド商会の親方に向かって、アメリア様はこう言った。
『節約額が事前試算を下回った場合は、差額分をわたくしの個人資産から“広告費”として負担いたしますわ』
――正気ですか?
心の中で叫んだことは、ここでもう一度叫んでおきたい。
王都の感覚からすれば、“一官僚が自腹で穴埋め”なんて、悪夢か冗談かのどちらかだ。
なのに、アメリア様は本気で、しかも平然としていた。
「それで、“バルド商会が自由都市に荷を下ろした”という実績が手に入るのでしたら――
十二分に元が取れますわ」
“実績”に値段をつけて、“広告費”として扱う発想。
ぼくの中の「帳簿」のイメージが、あの日から少しずつ変わり始めた。
◇ ◇ ◇
そして昨日――一割実験の結果が出た。
『バルド商会分、一か月トータルで――“試算より一割増しの節約”達成ですわ』
数字は、嘘をつかなかった。
アメリア様とセバスさんが机の上で踊らせた計算は、
現実の港と商人たちの動きと、ちゃんと噛み合っていた。
王都で見ていた帳簿は、もっと無味乾燥だった気がする。
誰が働いて、何を作って、どう運んで――そんなことは、ほとんど考えずに「項目」だけを見ていた。
でも、ここで扱う数字には、いつも“顔”がくっついている。
広場でパンを売り始めた夫婦。
「麦と陽だまり」という名前をもらって、誇らしげに看板を掲げていた。
自警団に名を連ねた、元衛兵隊長のジルクさん。
震える手で署名をしたあと、「まだ役に立てるじゃろうか」と笑っていた。
その一人一人が動いて、少しずつ数字の形が変わっていく。
――それを、アメリア様は最初から見えていたのだろうか。
正直、恐ろしい。
けれど、同じくらい、惹かれてもいる。
◇ ◇ ◇
恐ろしいと言えば。
昨日、港で見た“前王国の木箱”は、心底冷や汗が出る光景だった。
王家の紋章。豪華なドレス。きらびやかな食器。
それに挟まるようにして詰め込まれた、在庫一覧の帳簿。
――あれは、ぼくらの国で言う「最後に触りたくない帳簿」の匂いがした。
『“王家の品”と聞けば、かえって高く買いたがる物好きもおりますもの』
アメリア様はそう言って笑ったけれど、その目は笑っていなかった気がする。
支払いを「現金のみ」と限定し、証券払いを一刀両断に断ったのも、
ぼくには“防波堤を一枚築いた”ように見えた。
そのくせ、噂だけはきっちり流す。
酒場の片隅で、誰かが言っていた。
「前の王様のとこ、相当金がねえらしいぞ」
「王家の皿まで売りに出してるって噂だ」
あの騒ぎの裏で、アメリア様はグラスを傾けながら、ふっと笑っていた。
『どうせなら、“巻き込まれたついでに、一番おいしいところも持っていく”ほうが、ご苦楽ですわよね?』
――やっぱり、悪魔なのかもしれない。
でもその悪魔は、ぼくらの街に、“ちゃんとご飯と仕事と未来”を運び込もうとしている。
それが、分かってしまったから。
もう「悪魔だから嫌いです」とは、簡単には言えなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
「ユリウス様、少しお時間をよろしいですか」
執務室の扉から、控えめなノックとともに、セバスさんの声がした。
「あ、はい! なんでしょうか」
「こちらに、王都宛ての報告書の下書きを」
渡された紙束には、見慣れた書式でびっしりと文字が並んでいた。
「“自由都市プロジェクト進捗報告・第1号”……」
「レオン様のご指示で、事務方としてユリウス様にも目を通していただきたいとのこと」
「分かりました。すぐ確認します」
紙をめくると、そこには数値と簡潔な説明が、非常に読みやすい形で並んでいた。
流入人口の推移。
登録店舗数の増加。
バルド商会他、商会三社との契約状況。
――そして、アメリア様の名前は、文中のどこにも出てこない。
代わりに、「自由都市財政担当局」の一文で、すべてがまとめられていた。
「……これ、いいんですか?」
「なにがでございます?」
「アメリア様の名前を、一切出さないなんて」
「それがよろしいのです」
セバスさんは、まるで当たり前のことを言うように微笑んだ。
「この街が“お嬢様のためだけ”ではなく、
“ライシア王国と市民たちのため”でもあると、
王都に印象付けておく必要がございます」
「でも、実際には――」
「“実際には”をご存じなのは、我々だけで十分でございます」
静かな口調に、なぜかぞくりとする。
「お嬢様は、“自分の名前”にあまり興味がおありではありません。
おありなのは、“好きなだけ遊べる市場”と、“ご苦楽な暮らし”だけです」
「……なんか、アメリア様らしいです」
「らしいでしょう」
セバスさんはうっすら笑った。
「そして、ユリウス様。
あなたは、王都に戻られたとき、なにを伝えたいおつもりですかな?」
「え?」
「“帳簿の悪魔に地獄を見せられました”か」
「“悪役令嬢のせいで王都の常識が壊れました”か」
「そ、そんなこと言いませんよ!?」
「では、なんと?」
問われて、ぼくは思わず口ごもった。
――もし、いま王都に戻るとしたら。
ぼくは、なにをどう説明するのだろう。
数字だけを見せる?
街の賑わいを、言葉で描写する?
それとも、アメリア様という「嵐」の話をする?
しばらく考えてから、ぼくは小さく答えた。
「……“ここは、ちゃんと働けば、ちゃんと報われる場所です”って、言いたいです」
「なるほど」
セバスさんは、満足そうに頷いた。
「それなら、お嬢様もきっとお喜びになりましょう」
「そ、そうでしょうか」
「ええ。“報われる市場”が増えるのは、お嬢様の大好物ですからな」
それはもう、想像がつくくらいには、
ぼくも少しずつアメリア様のことを分かってきた気がする。
◇ ◇ ◇
執務室の窓からは、夕焼けに染まるご苦楽シティが見える。
露店のパン屋からは、焼きたての香り。
酒場からは、笑い声と噂話。
港には、新しい旗を掲げた船が、ゆっくりと入ってきていた。
「……帳簿の悪魔、か」
自分で呟いてみて、少し笑ってしまった。
悪魔だろうが何だろうが――
ぼくは今、その人の元で働けている。
数字に追われて、帳簿に溺れて、毎日がてんてこ舞いだけれど。
王都の机の前で、ため息だけをついていた頃よりも、
ずっと、自分が“生きている”気がするのだ。
「ユリウス君、そろそろ仕事を切り上げて、夕食にいたしましょうか?」
振り向くと、アメリア様がドアから顔を覗かせていた。
「あ、はい!」
「本日の“麦と陽だまり”さんのメニューは、“日替わりご苦楽シチューセット”ですのよ」
「なんですかその名前!」
「センスの良い看板屋に考えていただきましたの。――わたくしが」
「やっぱりアメリア様じゃないですか!」
思わず声を上げると、アメリア様は楽しそうに笑った。
「さあ、今日も一日、よく働きましたわね。
数字と噂と胃袋は、日々の積み重ねが大事ですもの」
「胃袋まで……」
「ユリウス君も、しっかり食べて、しっかり働いて、
立派な“帳簿奴隷”になってくださいませね?」
「そこは“市民”って言ってください!」
そう抗議しながらも、ぼくの足は、自然と彼女の後を追っていた。
――帳簿の悪魔と、ご苦楽シティ。
この街の行く末を、
ぼくはもう少し、近くで見ていたいと思っている。




