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間違えでも身代わりでも

掲載日:2026/03/01

 外では雷が鳴っている。

 壮年の男がひとり、雷に照らされた。

 

 その男、グラッスリドは薄暗い部屋の中でひとり、無言のまま床に膝をつき複雑な魔法陣を描き続けていた。

 知り合いは皆もうとっくに亡くなってしまった。

 あの件を知っているものも、もう居ない。


 戦争の時代は終わり、世間では平和な時が流れているようだ。


 この城だけが、時を止めている。


 長い間の深い沼に入るような先が見えない研究。そして無数の失敗が、グラッスリドの心を擦り減らしていた。

 もう少しで成功に手が届くかもしれないという希望も、もう遠く見えなくなってしまっていた。


 それでも、グラッスリドはやめる気にはなれなかった。


 これをやめてしまえば、自分はどうすればいいのか、きっと全くわからなくなってしまうから。


 妹の形見であるネックレスが重みを増した気がする。

 罪悪感だけが、どうしても消えない。

 自分だけが死から遠ざかってしまった。


 もう二百年生きている。

 けれど、妹はまだ、死んだままだ。


 ミア。

 もう一度会いたい。

 謝りたい。

 お前が作る少し焦げた焼き菓子を、文句を言いながら食べたいんだ。


 その気持ちだけで、魔法陣を描いていく。


「今度こそ……」


 本当にそう信じていられているかは、もうわからない。けれどグラッスリドはそう呟いた。最後の線を引き、ため息をつく。


「今日はここまでにしよう」


 今日はもう魔力が少ない。このまま続けても、中途半端に終わってしまうだろう。

 魔法陣の図形や文字を確認していく。

 一つでも間違っていたらそれはもう意味をなさない。


 幾重にも重なる図形が、複雑に影響しあっている。


「……ここは」


 疲労の強い目をこすりつつぼんやりと見ていると、魔法陣の一カ所に違和感があった。


 もしかしたら計算ミスかもしれないと考えた瞬間、ろうそくの灯がちらついた。

 その不穏な動きに、グラッスリドは目を押さえた。


「やはり、考え直そう」


 皮肉なことに、時間は無限にあるのだ。明日は書籍を読み直して一から組み立てなおしてみよう。


 考えに沈み込んでいると、頭に響くような轟音が響いた。


 外で雷が落ち、稲妻が城を激しく揺らしたようだ。

 立て続けに鳴った雷に思わず目を瞑る。


 次に目をあけた時、魔法陣は淡く光っていた。


「まさか、火が……!」


 魔法陣が燃えている。


 少なくとも、自分にはそう見えた。


 グラッスリドはすぐに呪文を唱え火を消そうとしたが、何かがおかしい。

 魔法が通じないどころか、逆に身体から魔力が吸い取られていっている。


 それと比例し、魔法陣は光を増していく。


「なんだこれは……まさか……」


 部屋に無数にある、失敗し途中で止めていたはずの魔法陣も光をもち、部屋全体がきらきらと輝き出した。


 どうして魔力が吸い取られているのか。

 理由はわからないが、原因は一つしかない。


 何とか魔力の供給を止めなくては。


 しかし抵抗も虚しく、魔力はどんどん吸い取られ身体はどんどんと重くなっていく。膝をついたまま、呆然と成り行きを見る事しかできない。


「起動している……」


 完成していないいくつもの魔法陣が、動いてしまっている。


 未完成の魔法陣の起動。末路は暴走による爆発だ。


 幸いここは街から離れた森の中にある城だ。

 何があったとしても、死ぬのは自分だけだ。


 ……あっという間に、諦めが全てを満たす。


 最早自分だけの魔力ではない力が、魔法陣からは放たれている。

 最早眩しすぎる光でよく見えないが。


「まあ、こんな風に終わるとは思わなかったけどな、ミア。はは、案外そっちで会おうという事だったのかもしれないな」


 終わりを感じながらも、少し面白くなり笑みが浮かんだ。

 笑うのなんて久しぶりだ。長らく忘れていた。


 やっと終わりか。


 魔法陣に光が溢れ、衝撃を受け入れようと目を瞑る。


 ミアにあったら何を言おうなどと考え……。


 しかし、予想に反し何も起こらなかった。


「……ちっ。また生き延びたか」


 光が収まり、部屋の中は薄暗く雷といつの間にか降っていた雨の音が響き渡っていた。


 馬鹿みたいだ。


 苦笑と共に魔法陣を片付けようと立ち上がる。

 その時、グラッスリドの目に人影が飛び込んできた。


「……まさか、ミア!」


 なくなったと思っていた希望が胸をよぎる。

 どきどきという心臓の音が妙に大きく聞こえ、世界が止まったように思える。


 そうして、息苦しさと共にはやる気持ちで走った。


「ミア! ……ミア……」


 しかし。


 魔法陣の上には、妹とは似ても似つかない、やせ細った少女が横たわっていた。


 *****


「……ここは?」


 頭の痛みを感じ目をあければ、見たこともない天井が目に映っていた。

 更には、知らない人物が自分の事をじっと見降ろしている。


 慌てて身体を起こすと、どうやらいつのまにか見知らぬ場所に寝かされていたようだ。

 覚えのないふわふわとしたベッドの上に居る。


 私をじっと見ているのは、三十前後くらいだろうか。

 眉間にしわを寄せ厳しい顔をしている男の人だ。


 ……お父様よりは若そう、かな。


「お前は何者だ」


 男は低い声で、私の目をじっと見た。

 どこにいるかわからない私よりも、ずっと不審そうだ。


 ……名前を聞かれてるのだろうか。


「……私はミラフィーナです」


「ミラ、か……お前の髪は黒なのだな。いや、何でもない」


 私の名前を呟き、何故か男は目を細めた。

 懐かしいものを見るように。


 しかし、私の知り合いにくすんだ銀髪の男性は居ない。


「どうしてここに居た。覚えているか」


「……いえ。あの、ここは何処ですか? 私、確か雷が鳴っていて、怖くて布団をかぶっていたんです。大きな雷の後に身体がぎゅっとなって、目が覚めたら今です」


 私の説明に、男の深い眉間のしわがますます深くなった。

 じっと何か考えるようにした後、大きなため息をつく。


 そのため息に、思わず身体がびくりと震えてしまう。


「……ああ、お前が悪いわけじゃないのに、悪い。自分の馬鹿さ加減に嫌気が差しただけだ」


「お名前を聞いてもいいですか?」


「俺はグラッスリドという。この城には一人で住んでいる。お前はどこに住んでいた? 場所はわかるか?」


「……」


「まあ、いい。話したくないのなら。こんな得体のしれない男、信用できないのも当然だろう」


 私が言い淀んでいるのを、信用していないからだと判断したようだ。

 違うが、どういっていいかわからない。


「あの、そんな訳じゃ……」


「ミラフィーナ、お前は何歳だ」


「十八になったばかりです」


「そうか……ぎりぎりだが、成人だな。家族と住んでいたか?」


「……それは、どうしてですか。何か関係がありますか」


「根本的には関係がない、答えたくなければ、別にいい。ただ、問題がある。言いにくいが、すぐにお前を家に帰してやれない。……最悪、ずっとこのままだ」


「えっ。それは一体どういう事ですか」


 ずっとこのまま、という言葉に心臓がどきりと大きく鳴った。


 息が上がりそうになるのを、ぐっとこらえ平静を装う。


「……俺の、魔法の失敗で、お前を召喚してしまった。多分、雷が何か作用したのだろう。帰すすべは見つける。お前をちゃんと帰してやる。だが、今はまだ方法がわからない」


「そう、なのですね」


「申し訳ないと思っている。お前のことを心配している奴もいるだろうが……」


 目を伏せて見えるまつ毛が銀色だ。

 疲れ影があるものの、顔はかなり整っている。


 くすんだように見える髪も、もとはもしかしたらまつ毛と同じ綺麗な銀髪なのかもしれない。


 私は関係ない事を考えた。


「そうですね。でも……仕方がないと思います。グラッスリド様悪いわけではないと思います」


 私はなるべく相手に罪悪感を与えるように、健気な返事を装った。

 私の思惑通り、グラッスリドは苦しそうにこめかみを押さえた。


「お前にはしばらくここに居てもらうしかない。食事と寝床は用意する。だが、無駄に城の中をうろつくな」


 先程も彼は城、と言っていた。

 ここはどこかの貴族の別邸だろうか、グラッスリドは家名は名乗らなかった。


「……ここは、城、なんですね」


「ああ、だがひとりで住んでいるから手の入っていない部分が多い。無駄に広いから部屋はある。俺と離れている所を与える。魔法をかけてあるから崩れはしないだろうが、入ってほしくない部分もある」


「わかりました」


「こんなことになって悪いとは思っている。だが、人と関わるのは苦手だ。……色々期待しないでくれ」


「……大丈夫です。よろしくお願いいたします」


「すまない」


 彼は疲れたように、罪悪感がにじんだ謝罪をした。心からのものだと思えた。


 ……私に、こころから謝ってくれているんだ。


 私はグラッスリドの顔が見えないように、ゆっくりと頭を下げた。


 浮かんだ笑みが、見られないように。


 嬉しい。

 私はどうやら、ここに住めるようだ。


 しかも、無期限で。


 本当は、お礼を言いたい。だが、そんな事をすれば、彼は私を外に出すかもしれない。

 私に対する罪悪感は、必要だ。


 思いがけない幸運で、私は、暴力も暴言もない住処を手に入れた。


 *****


「……! 大変だわ!」


 ぐっすりと寝てしまった感覚に、私はぞっとして飛び起きた。


 日の光が窓から差し込んでいる。

 もうかなり明るい。寝すぎてしまった。


 なんて事だ。


 後悔にぐっと息が詰まりそうになるのを、目をつむりやり過ごす。


 そんな事に時間を使っている場合ではない。

 少しでも早く。


 叩かれるどころでは済まないだろう、ともかく急がなくては。


 慌てて着替えようと床に足をついたところで気が付いた。

 地面が硬くない。


 私の足の下には、毛足の長い絨毯が敷き詰められていた。


「そうだったわ。……ここは、あの部屋じゃないんだ」


 柔らかな足に触れる上質な毛。そして、私は普段では考えられない事に、ベッドの上に居る。


 ふわふわのベッドに、清潔な寝間着。


 もう遅いからと貰った、温かいココアとかいう甘い甘い世にもおいしい飲み物。


 ゆっくりと眠った身体は十分回復しているようで、いつもある倦怠感がさっぱりなくなっていた。


 ……昨日の出来事が夢じゃなかった事を、じわじわと実感する。


「健康ってこういうことなのかしら」


 召喚されたという事実に、眠れない夜を過ごすような気がしていた。


 しかし、与えられたふわふわのベッドが、どうにも眠りに深く誘うので驚いた。

 疲れ切っていなくても。硬い床以外で寝るというのは、すぐに眠れるもののようだ。


 大きな窓からは、明るい日差しが差し込んでいる。もう朝日が昇ってしばらくたっているようだった。こんなにゆっくり寝たのは初めてだ。


 ゆっくりと、喜びが胸に広がる。


 もしかしたら、これからこんな風に毎日を過ごせるのかもしれない。


 ……いや、期待してはいけない。


 私は希望を振り払った。

 希望を持つと、違った時に余計に苦しいともう知っていた。


 私はベッドから降りると、のろのろとグラッスリドを探しに行った。



 グラッスリドを見つけたのは、台所が付いた部屋だった。


 食事用の机や棚があり、生活感を感じる。

 そこで、何かを飲みながら本を読んでいた。


「おはようございます」


「……っ。そうか、夢じゃなかったか……」


 グラッスリドは私の事をじっと見た後、驚きに目を見開いた後ため息をついた。


「私も夢じゃなかったと思っていたところでした」


 私の言葉に、グラッスリドは苦い顔をした。


「何か食べるか」


 しかし、その苦さは口にせずに、私に不器用な口調で聞いてくる。


「……どういうことですか?」


「食事をするか、と聞いている」


「あ、えっ。い、いただきます」


 まさか、朝食をもらえるとは思っていなかったので、思わず驚きの声を出してしまった。


「何が好きなんだ」


 問われて、私は考え込んだ。

 変な答えはしたくない。でも、好きなものなど思いつくはずもない。


「特に好き嫌いはないです」


 私は出来るだけ自然に、微笑んだ。


「そうか」


 ぶっきらぼうな言葉に、私は自分が上手くやれたことを確信した。


 彼が作ってくれた温かなスープは、あまりにもおいしくて、ゆっくりゆっくり、大事に食べた。


「苦手なものが入っていたか?」


 いぶかしむような彼の声で、私は残ったスープを急いで飲み込んだ。


 空になってしまったお皿が、さみしく感じた。しかし、スープの温かさは、その日寝るまで、私の身体を温めてくれた。


 グラッスリドは、「無理するなよ」とよくわからない事を呟いた。


 *****


 その後の一週間は、あまりに、穏やかな日々だった。


 グラッスリドは私の時間はすべて自由だと言い、部屋もくれた。

 昨日寝た部屋を、そのまま使っていいと言ってくれたのだ。


 初めてもらった私の部屋には、ベッドがあり、大きな窓がある素敵な部屋だった。

 ベッドの寝心地はもう知っている、とてもいい。


 更には、レースのカーテンがある。

 部屋の隅には、小さなキャビネットもあるのだ。


「こんなに素敵な部屋、いいんでしょうか?」


 私が訪ねると、彼はなぜか苦虫を嚙みつぶしたような顔になりながらも頷いた。


 大事な部屋だったに違いない。

 申し訳ない気持ちが沸き起こりそうになったが、グラッスリドがなぜか「後で花でも用意する」と言ってくれて、驚きが勝ってしまった。


 そして、本当にすぐに森に自生しているという綺麗な黄色の小さな花弁の花を用意してくれた。


 キャビネットの上に置かれた白い花瓶に飾られた黄色い花は、あっという間に部屋を明るくして驚いた。


「これがあると部屋が一日いい香りだと、聞いた」


 目を伏せたまま、グラッスリドが飾ってくれた花は、本当にいい香りで、私は枯れるまで、なんどもなんども近づいては、匂いを楽しんだ。



 私は、自分が役に立つことを示すために、城を少しずつ掃除していくことにした。

 グラッスリドは私に興味があまりないらしく、一日研究室、と呼ぶ部屋に入り浸っている。


 今日はキッチンを掃除することにした。


 キッチンは簡素であり、初日グラッスリドが作ってくれたように彼は料理をする習慣があるようだった。


 しかし、それにしても食器や調理機器が多い。

 そのほとんどに布がかけられほこりが被っている。


「誰かと暮らしていたのかしら」


 はっきりとはわからないが、グラッスリドが一人になって長い時間がたっているように思えた。


 誰もいないのは、嬉しい。


 一人であれば、安全だ。誰も私に暴力を振るわない。


 苦しい思いをすることもない。


 彼が私に興味がない事は、本当に幸運だった。


 私は一日中、掃除をして過ごした。

 おなかがすいたら、グラッスリドが使ってもいいと言ってくれたキッチンから、パンをもらって食べた。


 パンは少し硬かったけれど、そんなこと、気にならないぐらいに嬉しかった。


 キッチンの隅で座って食べるパンは、安心の味がして、思わず笑みが浮かんだ。


 *****


 キッチンの隅で座って食事をしているミラフィーナを見て、グラッスリドは自分を殴りつけたくなった。


 こんなところで、一人で少女が食事をしていたなんて。


 何日も気が付かなかった。


 自分の分の食事は用意されていたから、彼女も食べているのだと思っていた。


 だが、彼女が持っているのはパンだけで、机すら使っておらず床で膝を抱えてちまちまと固く古くなったパンをかじっていた。


 まさか自分も食べたら、怒られるとでも思ったのだろうか。


 ミラフィーナが来てから一か月。

 少しずつ、部屋や廊下、至る所がきれいに掃除されていき、自分がしてしまったことを見せつけられているようだった。


 それが嫌で、余計に研究室にこもっていた。

 早く返さなければ、という思いも当然あった。


 しかし、こんな生活をさせていいはずがなかったのだ。


「それは、硬いだろう」


 それなのに、彼女にかけた自分の言葉は馬鹿みたいだった。


 なのに。

 自分を見て笑みを見せたミラフィーナは、自分の姿に疑問を抱いていないようだった。


「パン、とても美味しいです」


 屈託もなく笑うミラフィーナに、グラッスリドは自分の間違いを知った。


 これが、彼女の常態なのだ、きっと。


 召喚してしまった夜に出したココアを一口飲んだ時の、信じられないという顔。

 最初の朝、大事に飲んでいたスープ。

 震える声。

 帰りたいと口にしない、不安げに揺れる瞳。


「椅子に座れ」


 焦って口にした言葉に、彼女の身体がこわばったのがわかった。


「は、はい」


「違う。間違った。しばらく人とまともに話していないんだ、許してくれ。……一緒に食事をしたい、という事を伝えたかったんだ」


 言い訳がましく首を振って口にするが、返事は帰ってこなかった。


「ミラフィーナ?」


「えっ、わ、たしの、なまえ……」


 驚いたように顔をあげたミラフィーナに、グラッスリドは安心させるように微笑んだ。

 今度はちゃんと、優しい顔をできていたはずだ。


「ミラフィーナ、一緒に食事をしよう。ちゃんと、時間を合わせて」


「……わかりました」


 硬い顔で頷いた彼女に、確信は深まった。

 失敗も積み重なったのがわかったが。


「お前は、自分で決めていい。ただ、俺の希望を言わせてもらえば、一緒に食事ができるといいと思った。……研究の区切りにもいいだろう、いつも食べるのも寝るのも、忘れてしまうんだ」


「それは、身体によくありません」


「そうだ。だから、どうだろう。それに、一緒に食べると、より美味しいと思うんだ」


 この少女に気を使ってほしくなくて、それでも頷いてほしくて馬鹿みたいな言葉を重ねてしまう。


 そうしたら、ミラフィーナはぽかんとした顔をしたまま、こくりと頷いてくれた。


 その仕草があまりにも可愛くて、どうしてだか抱きしめたくなるのを、グラッスリドは必死で抑えた。


 その後一緒に食べた食事は、ミアとは違くて、でも温かくて可愛くて美味しくて。


 グラッスリドはまるで二百年ぶりに人間に戻ったような気持になった。


 *****


「雨になりそうだわ」


 グラッスリドから一緒の食事の提案を受けた日から、本当に毎日一緒に食事をし、夜は二人でお茶を飲んで過ごした。


 掃除も、どんどん進んでいった。研究室だけは危ないからと言われたけれど他全ての部屋がピカピカになったと思う。


 私も、この生活に慣れてきた。

 季節はいつの間にかいくつも変わり、私がもうすぐここにきて1年の時がたつ。


 驚いて飛び起き、ここに居ることに安心する朝は、少ない。


 今日は、シチューにしよう、とメニューを決め仕込んでいると、予想通り雨が降ってきた。


 そして、夜にはあの日みたいな、雷が鳴り始めた。


 打ち付ける雨が、大きく窓を揺らす。


 私は、あの日の事を思い出す。


 それまで、すべてぼんやりとできるだけ何も考えないようにすることでやり過ごしていた人生の、全てが変わった。

 窓の外は、暗く、部屋の中は安全だ。


 そろそろ夕食の時間だと、シチューを温めていると、グラッスリドは城を見回ってくる、と出ていった。


 お前はここでゆっくりとしていてくれ、と温かなハーブティーを入れてくれた。しかし一人で待つ部屋は雨の音があまりにも大きくて、痛みと寒さと雨の音に、耐えているしかなかった時に戻ってしまったような気になる。


 じっとしていると、駄目だ。


 片づけをしておこう、としたところで足がもつれ、後ろに滑り椅子にしたたかに背中を打ってしまった。


「研究室は無事だった。……っ、ミア!?」


 痛さに動けずにいると、グラッスリドがちょうど戻ってきていたようで私に駆け寄ってきてくれた。


「背中を打ったのか! 見せてみろ」


 着ていた上着の背中を、有無を言わさぬ勢いでまくり上げたグラッスリドの手が止まる。


 彼の視線の先にあるのは、きっと、打撲の赤さだけではない。

 自分では見られないが、いくつもの傷跡や火傷が残っているはずだ。


 嫌だ。

 見られたくない。


 私はあわてて身をよじり、上着を強引に引き下げた。


「だ、だいじょうぶです! ……なんでも、ありませんから」


「す、すまない。つい癖で」


 グラッスリドは、私から手と体をすぐに話してくれた。


 そのままグラッスリドは視線をそらし、わたしの為に氷を用意し、背中を冷やしてくれた。

 優しい仕草で、なるべく私を見ないように。


 その気遣いに、私の苦しくなってしまった気持ちも、落ち着いていく。


「驚いてしまい、すいませんでした」


「いや、こちらこそすまない。……立てるか?」


 冷たい氷に、痛みが引いた頃グラッスリドは優しく手を引き椅子に座らせてくれた。


 怪我をして、手当てをしてもらったのは初めてだ。

 同じように痛いのに、誰かがそばにいてくれ審配してくれるだけで、こんなにも違うんだと思った。


 いつもなら、惨めで、そんな自分を忘れるために痛みの事を考えて眠りが来るのをじっとまっていたのに。


 椅子に座ると、目の前に、冷たいお水が置かれた。


 そして、グラッスリドがいつものように目の前ではなく隣の席に座る。


「俺には妹が居たんだ。言い訳のようだが、それでつい、さっきのような行動を」


「私嬉しかったです。心配してもらったんですね」


「ああ、心配した。妹は、戦争の時に死んだんだ」


 隣にいるグラッスリドの顔は見えない。


「戦争……?」


「ああ、お前は知らないのか。酷い戦争だった。国が混乱して、魔術師だった俺の家は、特に大きく関わることになってしまった。両親は死に、妹と俺だけが残された」


「そうだったんですね」


 彼の話す妹は、過去形だ。


 先ほど呼ばれた名前、ミア。

 きっと、それが彼女の名前だったのだろう。


「戦争が激化すると、味方も敵もわからなくなって、そこらじゅうで暴動が起きた。ある程度裕福だった我が家は、余計に標的になりやすかった。幼かった俺は妹を護れず、妹は、死んでしまった」


 淡々とした口調が、余計に彼の苦しみを表しているようで、私は思わず彼の手を握った。


「つらい出来事だったんですね」


「ああ、自暴自棄になった。その後何年も何十年も戦争は続き、いくつもの大規模で不確かな魔術を使った。その結果、なぜか俺だけ時が止まってしまったんだ」


「時が、止まった?」


「そうだ……皮肉にも妹は時を失ったのに、俺には永遠にあるんだ。ああ、そんな顔しないでくれ。大丈夫だ。こんな雨でつい感傷的になった。ただ、お前にしばらく誰ともまともにしゃべっていない、妹が居るというのが本当だと伝えたかっただけなんだ」


 グラッスリドは、おどけたように私に笑いかけた。


 誰も大事にしてくれず大事にしてこなかった私は、なんて言っていいかわからず、ただただ頷くことしかできなかった。


「きゃっ」


 重い空気を破るように、雷が落ちる大きな音が響いた。


 私は思わずグラッスリドの手を握る。グラッスリドは私の手を握り返してくれたが、「かみなり」と、呆然としたようにつぶやいた。


「雷と、あの魔法陣。……もしかしたら」


 グラッスリドは何かを思いついたように、目を見開いた。

 自分が声を出しているとわからないぐらい、グラッスリドは思考の海に潜っていた。


「グラッスリド様……?」


 呼びかけると彼ははっとしたようにして、でもあっという間にまた思考の海に潜りこんでしまう。


 しばらくして戻ってきた彼は、硬い顔をして私の手をゆっくりと離した。


「研究室に行ってくる。悪いが食事は一人でとってほしい。ちゃんと食べるんだ」


 それでも私を心配する言葉をかけてくれ、そのままグラッスリドは研究室に向かってしまった。そして、一晩中研究室から戻ってくることはなかった。


 その夜、食事は全く味がせず、冷めてしまったシチューは物悲しく、夜は眠れなかった。


 *****


「グラッスリド様」


 私は研究室の前に立って、しばらく逡巡していた。


 雷。何を思いついたのだろう。

 あの日、約束をしてから、初めて食事を一緒にしなかった。


 1時間ほど迷って、やっぱりどうしてもグラッスリドの顔を見たくて私は研究室の扉をノックした。


 三回ほどノックをしたが、グラッスリドからの返事はなかった。

 入ってはならないと言われた研究室。


 グラッスリドの『もしかしたら』という声が耳から離れない。


 あれから、もう丸一日だ。


 もし、彼が倒れていたら。

 もし、あの温かな時間を失ってしまったとしたら。


 すっと体が冷えた感覚があり、知らず、身体がこわばっているのを自覚した。

 吐き気もする。


 私はゆっくりと深呼吸し、扉をそろりと開けた。


 中は、一見がらりとした部屋だった。

 しかし、よく見ればそれは、全てが研究の成果だった。


「……こんな複雑な魔法陣」


 重ねられた専門書、足元に広がるいくつもの魔法陣、たくさんのメモ。


 ほこりをかぶったものから新しいものまで、たくさんの、たくさんの時間をかけた、全て。

 グラッスリドがどれだけ長い間、深く何かを願ったのか伝わってきた。


 あまりの年月に圧倒されて、ふらりと机に手をつく。

 そこには一枚の紙があった。


 他のメモよりもさらに古めかしく、幾度となく触れたことがわかる。

 端は破れ、補修し、それでもまた痛んでしまっている。


 グラッスリドの字で、ミアと書いてあった。


 震える手で、紙をめくる。


 それは、写真だった。


 屈託なく笑う、私と同じぐらいの少女。

 グラッスリドと同じ、明るい銀色の柔らかな髪に、彼によく似た可愛い可愛い少女。


 そして、隣には少し照れたように、仕方がないというように笑う、幼いグラッスリド。


 護られるべき、愛された可愛い子供二人の幸せそうな姿。


 何度も読みこまれたであろう専門書は、召喚魔法についてのものばかりだった。


 ミア。

 ……彼の可愛い妹。


 全てが、繋がって、わかった。


 私は、グラッスリドが妹を呼び出そうとして、間違って召喚されてしまったのだ。

 部屋の中では、がりがりと、ペンが走る音だけが聞こえる。


 妹を呼ぶべき魔法陣で、私が。

 私は幸運だった。ここに召喚されて。


 だけど、だけどグラッスリドは?


「ミラフィーナ?」


 低くいぶかしむような声がして、私の肩はびくりと震えた。


 振り向かなくったってわかる。

 この数か月で、あっという間になじんでしまった、とても大事な声。


 いつの間にかグラッスリドは私の近くに居た。


 私を見て、彼は親しげに、ゆっくりと目を細めた。


「グラッスリド様」


「ミラフィーナ、ここは魔法陣だらけだ。入ってはいけない。君が召喚されてしまった魔法陣が消えてしまったら、大変なことになってしまう」


 困ったように微笑まれかけられた言葉に、私は冷水を浴びせられたような気持ちになった。


 私が召喚された魔法陣。


『……俺の、魔法の失敗で、お前を召喚してしまった。多分、雷が何か作用したのだろう。帰すすべは見つける。お前をちゃんと帰してやる。だが、今はまだ方法がわからない』


 あの時、初めて出会ったとき、彼は何て言った?


 あの時の約束を、グラッスリドは今でも守ろうとしている。


 返されてしまう。

 あの場所に。


 意見を言うどころか考えることもできず、痛みに耐え働くばかりだったあの場所。


 そして何より、この優しい幸福な時間を、失ってしまう。


 返されないように逃げることはきっと簡単だ。


 でも、私はもう知ってしまった。

 大事な人と、毎日一緒にいる喜びを。


 もう一人に戻ることなんて、できない。


 私の欲しいのは、暴力がない世界ではなく、このグラッスリドがいる場所なのだと、はっきりと自覚してしまう。


 ゆっくりと力が抜け、私はそのまま座り込んでしまった。


「どうした!? 大丈夫か!?」


 グラッスリドが慌てたように駆け寄って、そっと私の肩に触れた。

 私はぎゅうっとその手を握りしめ、縋りつくように手に額を付けた。


「私、何でもします。家事も覚えます。だから、ここに居てもいいですか? ここにいたいんです。帰りたくないんです。妹さんが帰ってくるまででもいいです。その間だけ、妹さんの代わりに、だからっ」


 私の言葉は、気を付けていたのにひどい懇願を含んで響いた。

 縋ってしまう私に、グラッスリドは低く簡潔に答えた。


「お前はミアの代わりじゃない」


 息苦しくてどうしていいかわからずに叫びだしてしまいそうになる気持ちを、私は目をつむり抑え込んだ。


「わかっています。弁えています。間違えません……間違えていません」


 知っている。

 私は、彼の大事な人ではない。


 ただ、責任感で一緒に住んでいるというのもおこがましい、居候だ。


 間違って召喚されたために、仕方なく拾われた、だけなのだ。


 一緒に住まわせてほしいなど、まして、妹の代わりなど図々しすぎる願いだ。

 わかっていたのに。


「いや、間違えている」


 グラッスリドの声が、とても近くで聞こえる。

 彼のごつごつとした手が、私の頬の上で滑る。


 その時初めて、私の目からは涙がどんどんと出ていることに気が付いた。


 ……こんな時に。


 ああ、そうだ。私は間違えている。


 グラッスリドの事が、好きなのだ。

 だから、彼のそばにいたいのだ。


 好きだから。


 どんなに殴られても、暴言を吐かれても、床にこぼれた水を飲むしかできなかったときでさえ、私の涙は枯れていたのに。


 こんな風に彼に涙を見せ、彼の罪悪感をあおろうとしているかのように。


 あさましい自分の気持ちを見せつけられたようで、恥ずかしい。

 恥ずかしいのに、どうしようもなく、苦しい。


「っ、ごめんなさい……。嘘を、つきました」


 一旦気づいてしまえば、もう、気持ちを抑えることができなかった。


 私の目からは次から次へと涙が出てきて、嗚咽してしまう。


 恥ずかしくて、申し訳なくて、それでいてまだ一緒に居たくて捨てられたくなくて、私がここを居場所だと感じていたことが馬鹿みたいで苦しくて、ただ、こんな温かな場所があった事と失う事が苦しくて。


 グラッスリドみたいな人が私の事を見てくれるなんてないのに。


 グラッスリドは私を見るたびに、罪悪感とうっとうしさを感じていたと思うのに。


 自分の気持ちばかり大事にしている自分が、恥ずかしくて、やっぱり私は元の場所がお似合いで、ああいう場所にずっと居るのが良かったと、そう思った。


「お前は馬鹿だな」


「えっ」


 ぎゅっと、私の身体は何かに包まれた。


 温かくて、少し硬くて、やっぱり温かい……。


 グラッスリドが私の事を抱きしめていた。


 突然の事に信じられずグラッスリドの事を見れば、彼はとてもやさしい表情で私の事を見つめていた。


 まっすぐに、私を。


「妹にこんな感情を持ったら、犯罪だ。俺は、お前が好きだよミラフィーナ」


「嘘」


「嘘ではない。……ミアの事は諦められていない。だが、ミラフィーナ……お前と一緒に居るこの時間が幸せだと思ったんだ。一緒に、これからもいてほしいんだ」


「……本当に、私なんかが?」


「こんなに俺が好きなお前を、私なんかと言わせている過去の環境はすぐに忘れてくれ」


「ここに来て、もう忘れかかっていました。幸せすぎて」


「なら、いい。……もし、お前がどうしても苦しいのなら、時間がかかっても昔の場所に繋げてお前の過去を俺が消してやる」


「……消す?」


 思ってもみない単語が出てきた。私の涙すら止まる驚きだ。


「ああ。俺はなかなか大規模魔法も得意だ。この城ぐらいの規模であれば燃やす事などたやすいだろう」


 そう言って、グラッスリドはそっと私の背中を撫でた。


 あの時、やっぱり見られていたのか。

 私の背中は、殴られた痣や火傷の跡だらけで汚いのに。

 恥ずかしい。


「ごめんなさい」


「何を謝る?」


「私の身体、汚くて」


「気になるなら回復魔法の研究の方が先だな。痕を消す魔法は今は存在しないが、まあ大丈夫だろう。待っててくれ」


「何が大丈夫なんでしょうか」


「安心して俺に任せてくれ。俺は時間をかけるのが得意だ。集中力もある」


 何の安心感を感じていいかわからないまま私がグラッスリドを見つめると、彼は間違いないというように頷いた。

 わからない。


「ただ、ミラフィーナはそのままでも綺麗だし、俺は全く問題ないと思っている」


「そ、そんな……!」


 私が恥ずかしくて下を向いて自分の肩を抱くと、グラッスリドは私の腕をそっと握り開かせた。


「これから、ゆっくりわかってもらおう。俺が、ミラフィーナ、お前をどんなに焦がれ美しいと思っているか」


 腕をつかまれたまま、グラッスリドの声が耳元で聞こえ、私はかぁっと全身が赤くなるのを感じた。

 なんて言っていいのかわからない。


 本当に?

 信じられないのに、同じぐらい嬉しくて、どきどきして、苦しい。


 彼はくすりと笑い、私の身体から離れた。


 温かな体温がなくなり、さみしく感じる。

 そんな私を見越したように、グラッスリドは私の指に自分の手を絡め、更に口づけを落とした。


「わっ。ぐ、グラッスリド、さま」


 なんだ、というように私を見つめ、ぎゅっううと私はもう一度抱きしめられた。


 今度は、とても強く、苦しいほどに。


「楽しみにしていてくれ。好きだ、ミラフィーナ」


 甘い声が私の中で広がり、私もです、と言う言葉はグラッスリドの唇に吸い込まれていった。


 *****


 グラッスリドはその後、本当に私の世界に魔法陣をつなげた。

 私の過去は、さっぱりと、きっぱりと、清算されたのだった。


 そして今度は、二人の時間を同じだけにするように、研究をしている。

 きっとそれは、もうすぐ叶うだろう。

久しぶりに投稿しました…!


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短編ですが、ブックマークもポイントになるので、

こちらも入れていただけたら、とても有難いですー!


グラッスリドと:ミラフィーナの共同生活を書くのは、とても楽しかったですし、好きな二人でした✨

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