第6話 困った困った困ったな
「そんなわけでマイヤー子爵」
どんなわけなのか説明は受けたし書類も交わしたが、マイヤー子爵はどこか夢見心地で現実に帰ってきていないようだった。だが、目の前にいる宰相閣下は本物で、自身を落ち着かせるために飲んだ紅茶は大変に美味しかった。
「はい」
よく分からないまま返事をする。魔法契約が結ばれた書類は、大変豪華な書類箱に入れられた。
「こちらを持って、今日はもう帰りなさい。明日からはそれこそ本当に世界が変わってしまうからね」
宰相閣下かとても優しい微笑みをマイヤー子爵に向ける。雲の上の人物だと思っていた人が、随分と身近な存在になってしまった。しかもものの数分で。
「馬車の用意がある。それに乗って真っ直ぐ帰るように」
言われてマイヤー子爵は書類箱を両手で恭しく持ち、宰相閣下に促されるままに歩き出す。会議室の扉は誰かが開けてくれて、場所も知らない馬車止めに向かって歩き出す。もちろん目の前には宰相閣下の大きな背中があった。後ろから騎士が着いてきているらしいことは、時折聞こえるカチャカチャという音で気がついた。だが振り返って確認する勇気はマイヤー子爵にはなかった。
「この馬車を使って帰りたまえ」
宰相閣下が用意してくれた馬車は、黒塗りの箱馬車だった。いわゆるお忍び用、もしくは役人が所用の時に使う馬車だ。もちろん乗り心地は大変よろしい。
馬車になど、年に一度建国祭の時にしか乗らないマイヤー子爵は、両手が塞がったままで困惑した。馬車が上等すぎて段差が高いのだ。
「ああ、こちらは一度私が預かろう」
マイヤー子爵から書類箱を預かると、宰相はごほんと咳払いをした。騎士たちが慌ててマイヤー子爵を介護するかのようにして馬車に乗り込ませた。どこからともなく現れた侍女が、小さなカバンを持っていた。
「マイヤー子爵のお荷物にございます」
うやうやしく持ってこられたが、なかなかに擦り切れたカバンである。
「手間をかけさせた」
騎士が一旦受け取り、なにか魔道具を当てた。簡易の手荷物検査である。馬車の中にいるマイヤー子爵に手渡すと、恐縮した声で返事をされた。そして、書類箱を持った宰相閣下が馬車に乗り込む。扉が締まるが走り出す気配は無い。
「マイヤー子爵」
完全なる密室、そこに遮音の魔法が施される。
「この度は誠におめでとう。と言わせてくれ。そしてありがとう。君の息子は必ずや側室になるだろう」
言われてマイヤー子爵の思考は全く追いつかない。
「知っているとは思うが、現在後宮にはオメガの貴族令嬢が二人いる。二人とも伯爵家の令嬢だ。下賜されることが決まっているのだよ」
そこまでは知らなかったマイヤー子爵である。だが、驚きすぎてもはや表情筋が仕事をしなかった。
「つまり近いうちに後宮は君の息子ただ一人となってしまうというわけだ。分かっていると思うが、陛下はアルファである。故にオメガを求める。オメガの腹からしかアルファが生まれないことは知っているな?」
完結な説明を受けて、マイヤー子爵は首を縦に振った。
「残念なことに今いる二人のオメガの令嬢は、陛下と相性が合わなかったらしく、子に恵まれていないのだよ。つまり、君の息子には大変期待をしていると言うわけだ。わかるね?」
壊れた人形のように首を振り続けるマイヤー子爵。
「陛下のお子を設けられれば側室は確実だ。さらに、アルファを産むことが出来れば、国母だ。すごいことだぞ」
そんなことを言われても、マイヤー子爵の想像の範囲を超えに超え過ぎて、もうわけがわからなくなってしまった。
「この箱の中にはめでたい本日を祝うための料理が入っている。家族皆でたべてくれたまえ」
宰相はそう言ってマイヤー子爵の肩をバシバシと叩いた。
「それから、君の家の体裁を整えるために何人か使用人を見繕っている。私からの紹介状を持たせるのでよろしく頼むよ」
宰相はそれだけ言うと書類箱をマイヤー子爵の隣に置き、馬車を降りていった。再び扉が閉まると、馬車が動き出す。心の整理が着いていないマイヤー子爵は、そのまま身を任せるしか無かった。背中も尻もクッションの程よくきいた馬車の乗り心地は大変に良かった。互いにカーテンが閉められていたため、すれ違う馬車に互いに気づくことは無かったけれど。
「まぁ、あなた……」
早すぎる上に馬車で帰宅した夫を見て、夫人はただただ驚いた。
「お荷物は食堂でよろしいですか?」
何故か御者が荷物を下ろし始めていた。当然だが、御者は箱の中身を知っている。
「ああ、済まない。料理が入っているのだった」
マイヤー子爵がそう言うと、夫人はさらに驚いた。
「料理?どういうことですの?あなた」
何が何だか分からない夫人を他所に、マイヤー子爵は御者と一緒に箱を食堂に運び込んだ。夕食までにはまだまだ時間があるが、この箱は魔道具で時間経過がないタイプのものだ。つまり、大変高価な魔道具である。
「わたくしめは馬を休ませますのでこれで失礼致します」
御者は玄関先から馬車を移動させた。だが、貧乏なマイヤー子爵家には馬小屋などない。御者勝手知ったるなんとやらで、裏庭に馬を繋ぎ、井戸から水をくんで馬に飲ませた。餌は勝手に裏庭に生えている恐らく雑草を馬が勝手に食み始めた。手入れのされてない木がちょうどいい感じに馬の上に覆うように伸びている。屋根はないが、これで馬は落ち着いて夜を越せるだろう。
御者は裏庭にある扉に手をかけた。扉はなんなく開いてしまった。
「これは、なんと、まぁ」
御者は呆れながらも屋敷の中に入り、適当に使えそうな部屋を探した。何しろ明日の朝、マイヤー子爵を登城させなくてはならないのだ。御者は食堂に入り、自分の分の食事を取り出した。マイヤー子爵家の食堂には、大して食材はなかったが、それなりに食器は揃っていた。これなら今日の夕食はなんとかなるだろう。御者は一人納得して、適当に見繕った使用人部屋に消えていった。




