今日も誰かが終わる
短編です。SNSと炎上を題材にしています。
一 炎上
寿司屋のカウンターに置かれた醤油ボトル。その先端に若者が舌を伸ばした。
――ペロリ。 短い行為だった。スマホで撮影し、軽い笑い声が重なった瞬間から、それはもう一人の遊びではなくなっていた。
動画は数十分後、SNSに投稿され、瞬く間に拡散していった。
「最低」「馬鹿すぎる」「人生終了」
怒りとも嘲笑ともつかぬ言葉が画面を覆い、通知音が絶え間なく鳴り響く。
ニュース番組も拾い、評論家たちは口をそろえて「こんな人間に未来はない」と断じた。
群衆は正義を装いながら彼を笑いものにした。
だが誰も知らない。――その舌先が、彼自身の意思で動いたものではなかったことを。
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二 孤独
遼は二十歳。錆びた階段の二階、六畳一間で暮らしていた。冷蔵庫には水と卵二つ。日雇いのバイトで食いつなぎ、SNSなど触ったこともない。
ある夜、コンビニの前で黒いスーツの男に声をかけられた。
「簡単だ。店で少しふざけてみせろ。それだけで4億円だ」
腹が鳴った。笑い飛ばす余裕はなかった。
数日後、彼は言われた通りに動画を撮られ、そして炎上の渦に放り込まれた。
スマホを開けば罵声の洪水。
「死ね」「一生働けない」
布団に潜っても、通知音は胸の奥まで響いてくる。
バイト先からは電話で「もう来なくていい」と告げられ、近所の視線も冷たく変わった。
三日目の夜。黒服が再び現れ、分厚い封筒を置いた。
「約束通りだ」
短くそう告げると、黒服は口元に笑みを浮かべた。
札束の角が手のひらに食い込む。
遼は吐き気を覚えながらも、その重みから目を逸らせなかった。
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三 投げ捨てる夜
その晩、遼はスマホを握りしめて外に飛び出した。
通知音が鳴るたびに骨まで震える。
走ってたどり着いたのは人気のない海辺だった。
暗い水面の向こうに灯る船の光。画面には次々と罵倒が湧く。
――お前は終わりだ。
――一生消えない。
遼は叫んだ。
「もういい!」
振りかぶって投げたスマホは、闇の海に弧を描いて沈んでいった。
波が寄せ、引く。
残ったのは潮の匂いと、自分の荒い呼吸だけ。
その瞬間、胸の奥に貼りついていた重しがふっと外れたような気がした。
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四 豪遊
黒服は言葉少なに追加の封筒を渡し、「もう関係は終わりだ」と告げた。
遼は深く考えなかった。考えるより先に、金が現実を変えていった。
古い部屋を出て、マンションを経て、やがて海辺の豪邸に住むようになった。
高級車、ブランドの服、海外旅行。
テレビを消せば、そこがかつて「人生終了」と罵られた男の住処だと気づく者はいなかった。
プールに浮かびながら、遼は思った。
人の噂は七十五日。忘れるのも早い。
そして波音に耳を澄ませた。
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五 静けさ
バルコニーで潮風を浴びながら、遼はコーヒーを飲んでいた。
波は寄せ、引くだけの静かな朝。
室内のテレビでは、芸能人の不倫騒動がワイドショーの話題になっていた。
《不倫発覚で人生終了?!SNSで「終わった」の声続出》
遼は小さく笑い、肩をすくめた。
そのとき、インターホンが鳴る。
甲高い電子音が、静けさを破るように響いた。
コーヒーカップを置き、遼は玄関へ向かう。
ドアノブに手をかけるまでの間、テレビの画面は切り替わっていた。
世界は今日も忙しく、誰かは今日も「終わる」。
《速報です。外食チェーンを狙った株価操作事件で、複数の関係者が逮捕されました。警察は炎上動画との関連を――》
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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