エドワードの宿場町
馬車は夕暮れを迎える前にはとなり町の門をくぐり、街並みが目の前に広がった。エドワードは、ちらりと横に座るリリィを見ると、いつの間にか眠りに落ちている彼女の姿に気づいた。最初のうちは、窓からの景色に感嘆し、時折無邪気に問いかけたりしていたリリィだったが、長旅の疲れに負けたのだろう。小柄な身体が座席に寄りかかり、静かに寝息を立てている。
エドワードは、少しばかり呆れたような苦笑いを浮かべながらリリィの肩に軽く手を置き、優しく揺すった。
「魔女殿、つきましたよ」と声をかける。
リリィは、ぼんやりとした表情で目を開け、状況を把握するのに数秒かかる。エドワードが優しく笑みを浮かべているのを見て、ようやくここが目的地だと気づき、慌てて身体を起こした。
「え、もうついたの?」リリィは眠気を払うように、目をこすりながら馬車の外を見やる。
「ええ、予定より早く着きました。夕食の時間には間に合いますね」と、エドワードは答える。その声には、どこか穏やかな響きがあった。彼もまた、少しはリラックスできたのかもしれない。
馬車の外には、町の活気が溢れていた。夕暮れ前の町は、商人たちが慌ただしく店を閉め始める音や、人々のざわめきが聞こえてくる。リリィは初めて見る町の様子に目を輝かせながら、エドワードに続いて馬車を降りた。
「どうぞ、魔女殿」と、丁寧に声をかけるエドワード。
リリィは、その差し出された手に気づき、無邪気な笑みを浮かべる。彼の手を素直に取るが、次の瞬間、思いがけず自分の力でひょいと軽やかに馬車から飛び降りた。
エドワードの手は宙に残され、彼は驚きの表情で目を丸くする。隣にいた御者も同じく、思わず目を見開き、二人は顔を見合わせて、唖然とした様子だった。
リリィは気づかぬ様子で足元を軽く整えると「どうしたの?」」と首をかしげる。エドワードはその様子に困惑しながらも、苦笑いを浮かべた。
ライファス商会の本拠地はバルネッタにあり、その威容を誇る建物は、都市の中心部に堂々と構えている。バルネッタの市場や交易において、商会の存在感は圧倒的で、町中の商人たちもライファスの名を知らない者はいない。商会の当主であるエドワードの父は、長年にわたりバルネッタの交易ネットワークを築き上げ、その手腕は並外れたものだった。
しかし、エドワードの父は息子の能力を高く評価しており、単なる後継者ではなく、自身の右腕として重要な任務を任せていた。その一つが、海辺の街マーリアとの取引を管理することだ。マーリアは港町として、遠方の商人や異国の品々が集まる場所であり、ライファス商会にとっても重要な拠点だった。
「父は僕を信じて、マーリアとのパイプを一手に任せてくれています」とエドワードは、少し誇らしげに話した。「バルネッタの本拠地を離れて、ここで商会の支部を監督しながら、僕なりのやり方でやっていくことを期待されているんです。それが嬉しくて誇らしい。でも重圧でもあるんですけどね…」
「そうなのね」とリリィはエドワードの話を無邪気に聞きながらも、その背後にある彼の悩みや葛藤を感じ取っていた。彼が父からの信頼を得ている一方で、その期待が彼に重くのしかかっていることは明白だった。
「だけど、この町は好きなんです。バルネッタほどの忙しさはないけれど、マーリアとの繋がりを築くために重要な場所ですし、何よりも人々が温かいんです」とエドワードは微笑んで言った。
リリィもその温かさを感じ取るように、町の風景を見つめていた。
夕暮れ時のせいか、宿場町は活気に満ち溢れていた。通り沿いには食堂らしき店が軒を連ね、どの店も明かりが灯っている。人々の笑い声や、男たちの粗野な感嘆の声が響き、賑わいが町全体を包み込んでいた。しかし、その賑やかさに慣れていないリリィは、少し緊張してしまう。
「すごい人…」リリィは小さな声でつぶやきながら、目の前の光景に圧倒された。
突然、怒号のような笑い声が背後から響き渡ると、リリィの心臓が一瞬跳ね上がった。彼女の体は思わず反応し、不安に駆られてエドワードの衣服の裾を掴んでしまった。
「魔女殿?」エドワードが驚いた様子で振り返る。彼の瞳に映ったのは、目を丸くして怯えた様子のリリィだった。
リリィは自分がとっさに掴んだことに気付き、少し顔を赤らめたが、離れるのがためらわれた。帽子を目深に被って、エドワードの裾をまだ掴んだままだった。
「ごめんね、ちょっと…怖くなっちゃって…」リリィは小さな声で申し訳なさそうに言った。
エドワードは微笑んで、安心させるようにリリィの手を軽く叩いた。「大丈夫だよ、魔女殿。ここは少し賑やかだけど、危険な場所じゃない。僕が一緒にいるから、安心して」
その優しい言葉に、リリィの緊張は少し和らいだ。しかし、初めて訪れたこの町の活気は、彼女にとってはまだ異質で、心の中でざわめく不安は完全には消えない。周囲の雑踏の中で、彼女は一歩一歩慎重に歩みを進めながら、エドワードの背中を頼りに進んだ。
「取引が盛況だったせいか、今日は特に喧しいな。あまりここにいると疲れてしまうだろう」エドワードは軽く肩をすくめ、そう言いながらリリィの手をそっと取った。
「え、でも…」リリィが戸惑いながらもついていくと、エドワードはさりげなく市街の喧騒から遠ざけようとするように、彼女を人混みの外れへと導いていた。宿場町の賑やかさに慣れていないリリィにとっては、ちょっとした救いだったが、同時に、彼に手を引かれることには、別の感情が込み上げてきた。
リリィは、ふと自分の手を握るエドワードの大きな手に気付き、顔が少し熱くなるのを感じた。こそばゆいというか、恥ずかしいというか、妙な感覚だった。エドワードは特に気にしている様子もなく、自然な流れで手を引いているのだろうが、リリィにとっては、これが初めての体験だった。
「えっと…」リリィは思わず何か言おうとしたが、言葉が出てこない。エドワードは振り返りもせず、彼女の歩幅に合わせて穏やかな速度で歩いていた。その様子が余計にこそばゆく、リリィは下を向いてしまった。
市街の喧騒が遠ざかるにつれ、風が心地よく感じられ、リリィの心も少しずつ穏やかになっていった。それでも、手を引かれていることに対する微妙なこそばゆさは、まだ彼女の胸に残っていた。