ある昔語り
馬車は静かに街道を進んでいた。整備された道の向こうに広がる景色は、リリィにとって見慣れないものばかりだ。遠くの木々や畑が流れていく中、彼女の頭には出発前のルーカスの必死な顔が何度も浮かんでいた。だが、それも今は少し遠い話に感じられる。
リリィは外の景色に目を向けながら、エドワードに無邪気に話しかけた。「この馬車、すごく広いわね!私、いつももっと狭いところに住んでいるから、なんだかお城みたいに感じるの」
エドワードは窓の外に視線を向けたまま、彼女の言葉を聞いていた。彼の大柄な体は、馬車には明らかに窮屈だが、何も言わずにじっとしている。リリィの無邪気な問いかけに、ふっと息をつき、少しだけ微笑みを浮かべた。
「……そうか、君には広く感じるのかもしれないな」と、エドワードは返す。
リリィは窮屈そうに膝を抱える彼を見て、気づいたように言葉を続けた。「でも、あなたには狭すぎるんじゃない?」
エドワードは一瞬ためらい、少し肩をすくめるようにして答えた。「いや、これくらいでいい。家にいるほうが、もっと窮屈に感じることがあるんだ」
その言葉にリリィは驚いたように眉をひそめた。「どうして?家のほうが広くて、もっと快適なんじゃないの?」
エドワードは黙り込み、しばらく沈黙が続いた。やがて、ため息をつきながら、まるで何かを打ち明けるかのように口を開いた。
「……君に言っても仕方がない話かもしれないけど、僕の家族は……僕にすごく期待しているんだ。商会を背負っている父は、僕が後を継ぐことを当たり前だと思っている。でも、僕にはそれが重すぎるんだよ。家族の期待、従業員の生活、すべてを背負うなんて……正直、自分がそれをやれる自信がない」
リリィは彼の言葉をじっと聞いていたが、彼の話す「重さ」の意味が完全には理解できなかった。だが、彼が真剣に悩んでいることは伝わってきた。
「それに、僕がずっと好きだったサンドラ……彼女の家族が、僕たちの商会のせいで壊れてしまった。それも僕のせいだと思うんだ」とエドワードは続けた。
リリィは彼の言葉に黙り込んでしまった。エドワードの言葉の意味を完全には理解できなかったが、彼が感じている苦しみは確かに彼女の胸に響いた。
「家族の期待が重いのか……」リリィはそうつぶやきながら、エドワードの顔をじっと見つめた。彼の表情には、深い悩みと苦しみが刻まれている。それでも彼は、無理に笑おうとしていた。
リリィは、その表情を見て、どう答えればいいのかを考えた。
「私も、魔女の試験を受けるとき、すごく不安だったの」とリリィは思わず口走った。エドワードが視線を向けたのを感じ、続ける。「私にはお姉ちゃんがいて、エレナお姉ちゃんはとても優秀で、いつも完璧だった。だから、みんな私にも同じくらいできると思っていて……でも、私には自信がなかった」
リリィの言葉に、エドワードは少し驚いた表情を浮かべた。彼女の無邪気な雰囲気からは、そんな悩みを抱えていたとは想像もできなかったからだ。
「それでも、試験は受けなきゃいけなかった。合格しないと一人前の魔女になれないし、みんなをがっかりさせてしまうと思って……すごく怖かったよ」
リリィはそう言いながら、遠い目をしていた。正魔女の試験に挑んだあの日の不安が、今も心の奥に残っているのだ。あのときのプレッシャーと期待、そして自分がそれに応えられるかどうかの不安が、エドワードの話と重なって感じられた。
「どうして正魔女になったんだい?」エドワードは、興味半分、不思議そうにリリィを見つめた。「君が話してた試験のこと、どうしてそんなに怖いのに魔女になろうと思ったんだ?」
リリィはエドワードの質問に少し戸惑った。エドワードの目は真剣だったが、その奥にはどこか懐かしい記憶をたぐり寄せるような光があった。
「……どうして、か」とリリィは言葉を探すように口を開いたが、すぐには答えられなかった。彼女自身、その理由を深く考えたことはあまりなかったのかもしれない。
「僕が魔女と出会ったのは、実は一度きりなんだ」とエドワードが話し始めた。「幼い頃、サンドラと一緒に町外れの水車小屋に住む魔女を訪ねたことがあった。あのときのこと、今でも鮮明に覚えているよ」
リリィは目を瞬かせながら、エドワードの話に耳を傾けた。
「その魔女は……町の人々からは変人扱いされていた。誰も近づかないし、何か悪いことをしているって噂まであったんだ。でも、僕たちには怖い存在じゃなかった。彼女はいつもキャンディをくれた。特にサンドラはその魔女が大好きで、いつも一緒にお菓子をもらいに行ったんだ」
エドワードの表情は、その時の思い出を懐かしむように和らいでいた。しかし、どこか後悔のようなものも垣間見えた。
「でも、親にそのことがばれたら、僕でも叱られただろうな。魔女は良くない存在だって、大人たちはそう言っていたからね」
リリィはその話を聞きながら、魔女という存在に対する世間の目が厳しいことを再確認した。彼女自身、魔女として生きることを選んだ理由はまだはっきりと答えられないが、エドワードの思い出話を聞きながら、少しだけ自分の選んだ道に自信を持てたような気がした。
「その魔女は、どんな人だったの?」リリィは小声で尋ねた。
「優しいご婦人だったよ」と、エドワードは昔を思い出すように静かに話し始めた。「水車小屋に住んでたあの魔女は、みんなが言うような怖い存在じゃなかった。ただ、物静かで穏やかな人だったんだ。僕らが行くたびに、笑顔で迎えてくれてね。特に何か大きなことをしてくれたわけじゃないけど、なんとなく安心できる存在だった」
リリィはエドワードの言葉を聞いて、心の中でほっと安堵した。彼が魔女に偏見を持たずに接してくれているのは、その水車小屋の魔女がエレナのように「良き魔女」であったからだと直感的に感じた。彼の記憶に残るその魔女は、恐れられる存在ではなく、エドワードにとって温かな思い出の一部であり続けているのだろう。
リリィは、もし自分がエレナのような魔女になれるならと胸を膨らませた。