朝日の昇る頃
朝早く、リリィはマーサ婆さんの家を出る準備をしていた。魔女としての道具をいつものように鞄に詰め込む。黒いミニチュアボトルや古い巻物、月の形をしたブローチ、どれも普段の彼女には欠かせない。お出かけ用のマントを羽織り、魔女帽子を深くかぶると、最後にエレナのお下がりのワンドを手に取った。姉の形見でもあるこのワンドを握りしめると、何だか少しだけ背筋が伸びたような気がする。
エドワードが手配した馬車は、町外れの細い道に静かに停まっていた。馬車の車輪が砂利を踏みしめる音がやけに耳に残る。馬車にはエドワードがすでに乗り込んでおり、窓から外を眺めていた。彼の大柄な体は馬車に収まっているものの、リリィから見ると少し窮屈そうに見えた。
リリィが乗り込むと、マーサ婆さんがパイプをくわえながら無遠慮に見送ってくれる。
「気をつけるんだよ、リリィ。あんたの魔女としての力が試される時かもしれないよ」と、いつも通り無愛想な調子で言う。
「うん、分かってるよ、マーサ婆さん」とリリィは静かに答える。
マーサ婆さんは深く頷いてから、ゆっくりとパイプの煙をふかし、視線を馬車から遠くに移した。
リリィが馬車に乗り込むと、突然、背後から勢いよく名前を叫ぶ声が聞こえた。
「リリィ!ちょっと待って!」
驚いて後ろを振り返ると、ルーカスが息を切らしながらこちらに向かって走ってきているのが見えた。彼は慌てた様子で、何か言いたそうな顔をしていた。
リリィが何か返そうと口を開こうとした瞬間、ルーカスは突然転んだ。どうやらマーサ婆さんが彼の足元にわざと何かを置いたらしい。ルーカスはあわてて地面に手をついて起き上がろうとしたが、その間もマーサ婆さんは微動だにせずパイプをふかしている。
「何するんだよ、婆さん!」ルーカスが苛立ちの声を上げる。
マーサ婆さんは鼻で笑いながら「騒ぐんじゃないよ。リリィには大事な用があるんだ」と、冷たく言い放つ。
ルーカスは悔しそうな顔をしながらも、リリィに目を向けた。「リリィ、何で黙って行っちゃうんだ?せめて何か言ってくれよ!」
その必死な声に、リリィは一瞬言葉を失った。ルーカスがここまで動揺するとは思っていなかった。彼の青ざめた顔を見ていると、何かしら返事をしなくてはならないと感じるが、何を言っていいのか分からない。自分の心の中にある感情は、今はすべてエドワードと彼の問題に集中していて、ルーカスに何も言うべきことが思いつかないのだ。
「……ルーカス、」リリィは言葉を探しながら、彼の名前を口にする。しかし、思っていたよりも自分の声が弱々しく響いてしまい、さらにどうしていいか分からなくなる。
「無理に何か言う必要はないよ、リリィ」とエドワードが静かに声をかけた。
リリィはその言葉に少し救われた気がして、軽く頷く。そして、ルーカスにもう一度視線を向けるが、やはり掛けるべき言葉が見つからない。
「……帰ったら、何かお土産を買ってくるよ。ルーカスの好きなものをね」と、リリィは少し苦笑いしながら、ようやくそれだけを言う。
ルーカスはその言葉に戸惑った表情を浮かべたが、すぐに諦めたように肩を落とした。
「……リリィ」
リリィは静かに頷くと、馬車の扉を閉めた。馬車がゆっくりと動き出す。遠ざかる町の景色を窓越しに見つめながら、リリィは自分の中で少しだけの不安と、エドワードの問題を解決するための決意が入り交じるのを感じていた。
窓越しにルーカスの姿が小さくなる。彼の不安げな顔が頭に残るが、リリィはエドワードの横顔をちらりと見て、目の前の問題に集中しようと自分に言い聞かせた。