大家と依頼者
その日の午前中、リリィがいつものように部屋を掃除していると、突然ドアがガチャリと開き、入ってきたのは大家のマーサ婆さんだった。ノックもなしに入ってくるのはいつものことだが、今日はどこか険しい顔をしている。
「おい、リリィ!ちょっと話があるんじゃけど、手ぇ止めな!」そう言うと、マーサ婆さんはすぐに椅子にどっかりと腰を下ろした。
リリィは手を止めて振り向き、穏やかに微笑んだ。「どうしたんですか、マーサ婆さん。今日はなんだか急ですね。」
「急も何も、あんたのところに特別な客を連れてくるんだ。あんたがよくやってる、村の人の悩み事とか、そんなしょぼいもんじゃねぇぞ。今回のはな、ちょいと厄介だが…腕が鳴るだろ?」
リリィは驚きつつも、その口調に少し微笑みがこぼれる。マーサ婆さんはいつもこんな調子だが、裏表のない性格で、実はリリィを気にかけてくれていることを知っている。口は悪いが、根は優しいのだ。
「厄介な依頼ですか…。詳しく聞いてもいいですか?」
「まあ、簡単に言えば高い身分の連中が絡んでる。名前は言えねぇが、そういうやつらがあんたに頼みたいことがあるってさ。あいつら、変に気を遣うから、私が直接連れてくることにした。頼むぜ、リリィ!」
マーサ婆さんは言い終えると、グイッとリリィの肩を軽く叩く。リリィは少し驚いたが、その気持ちが伝わってきて、真剣な顔で頷いた。
「分かりました。何が来ても大丈夫です、任せてください。」
マーサ婆さんは満足げに頷くと、「そうこなくちゃ」と言わんばかりに立ち上がり、またドアをガタガタと乱暴に開けて出て行った。
リリィはその後、一人になってから少し考え込んだ。高い身分の人からの依頼。普段の村人たちの悩み相談や病気の治療とは違い、きっと厳しい状況が待っているのだろう。だが、マーサ婆さんが直接紹介してくるということは、それだけの重みがあるはずだ。
「何が起こるのかな…」リリィは静かに呟き、戸の外に目を向けた。
マーサ婆さんの後ろに大柄な人物が続いて入ってきた。全身を黒いローブで覆っており、フードを深く被っているため、顔はまったく見えない。体格は明らかに男で、その大きさが部屋の中に圧迫感を与える。
「よし、こいつが例のお客さんだ。ちょいと…見た目はアレだが、信頼できるやつだから、安心しな!」マーサ婆さんが不機嫌そうに言いながら、男をリリィの前に押し出した。
リリィは少し困惑しつつも、マーサ婆さんの紹介だからこそ、警戒心は薄かった。彼女は男に向かって優しく微笑み、「いらっしゃいませ。どうぞ、お座りください」と促した。
男は無言のまま、重々しい足音を響かせて椅子に腰掛けた。その動作は大柄な体格に似合わず、静かで丁寧だ。リリィはその様子に少し驚きながらも、相手を観察した。彼がローブで顔を隠しているのが少し気になったが、何か事情があるのだろうと考え、問い詰めることはしなかった。
しばらく沈黙が続いた後、男はようやくフードをゆっくりと外し、顔を見せた。その顔はどこか垢抜けないが、真面目そうな青年のものであり、リリィは一瞬、そのギャップに驚く。
「…はじめまして。私は、となり町の商家の息子、エドワードです。」青年は低い声で自己紹介を始めた。目は真っ直ぐリリィを見ているが、どこか緊張した面持ちだ。
「商家の息子…?」リリィはその身分に驚きつつ、少し笑みを浮かべた。「それなら、顔を隠す必要はないのでは?」
エドワードは苦笑しながら答える。「…実は、私の家では、この件についてあまり表沙汰にしてほしくないのです。それで、こうして顔を隠していました。すみません、少し胡散臭く見えましたよね。」
リリィは彼の率直な言葉に少し安心し、微笑んだ。「いえ、そんなことはありません。マーサ婆さんが連れてくるお客さんですから、信頼してます。」
「おお、そうだろう。私が紹介するんだからな!」と、マーサ婆さんが少し得意げに腕を組んだ。
リリィは再びエドワードに視線を戻し、「それで、どのようなご依頼でしょうか?」と問いかけた。
エドワードは一瞬躊躇いを見せたが、静かに息を吸い込み、決意したように話し始めた。「実は…私の家に、少し厄介な問題がありまして。家の者は信じたがらないのですが、古い呪いにかかっているようなんです。」
リリィはその言葉に真剣な表情に変わった。呪い。それは彼女の得意分野だが、やはり簡単にはいかない厄介な事態だということを理解していた。
「呪い、ですか…。詳しくお話を聞かせてください。」
エドワードはゆっくりと頷き、静かに、しかし確実にリリィに語り始めた。それは彼の家族にまつわる、長い因縁の話だった。
彼の手には、マーサ婆さんが用意してくれたお茶のカップがあり、その指先は少し震えている。自分の中で渦巻く感情を整理しようと、彼は息を深く吸い込んだ。
「魔女殿、私にはどうしても解決しなければならない問題があるのです。」エドワードの声には、少しの緊張が混じっていた。リリィはじっと彼の目を見つめ、その言葉に耳を傾ける。
「私の家は、ライファス商会として大きくなってきました。しかし、家族からの期待は重くのしかかり、私には苦しい決断が迫られています。」彼は声を強めて続けた。「特に、幼なじみの彼女に対して…彼女の名前はアリス。俺たちは子供の頃から一緒に育って、いつもそばにいてくれた。彼女の明るさが、俺にとっての救いだったんだ。」
リリィはエドワードの表情に心を寄せながら、彼が続けるのを待った。
「でも、俺の商会が成長するにつれて、サンドラの家族はどんどん追い詰められていった。俺が気づくと、彼女の家は倒産してしまった。俺は…彼女を守れなかったんだ。」彼の声は高ぶり、感情が溢れ出していく。言葉が止まらず、エドワードは急に興奮し始めた。
「だから、魔女殿、俺が彼女を…いや、俺は彼女を愛している。彼女を嫁に迎えたいんだ!俺の商会が彼女の家族を救うことができるなら、それが唯一の解決策だと思う!」
その瞬間、エドワードは言葉を失った。彼の思いが、抑えきれない感情となって炸裂したことに気づいた。顔は真っ赤になり、目を大きく見開く。
「…あ、ああ…ごめん、魔女殿!俺、つい…」
彼は慌てて言葉を取り繕うように頭を抱えた。まるで彼自身が自分の発言を恐れているかのようだった。リリィは一瞬驚いたが、すぐに彼の困惑した表情を見て少し微笑んだ。
「エドワード、あなたの気持ちはよく分かるわ。でも、彼女のことを思うなら、まずは彼女の気持ちを大切にしないといけないわね。」
エドワードはその言葉を噛み締め、俯く。彼の中で渦巻いていた感情は、今や少し冷静さを取り戻し始めていた。