第20日-5 三〇五の攻防 ★
二階の西階段まで戻り、今度は三階へ。階段に面している細長い廊下を左に曲がり、まずは北側へと向かう。
右側は東に通じる廊下が一本あるだけで、後はすべて壁。左側はずらりと四つのドアが並んでいる。
ドアに張られているマグネットパネルをペンライトで照らすと、西階段のすぐ傍の部屋は『三〇一』となっていた。そのまま通り過ぎて次の扉、『三〇二』。
「……当たりっぽいな」
グラハムさんがペンライトで扉を照らしながら一足先に廊下を進む。
『三〇三』を通り過ぎ、一番奥――。
「ここ……か?」
そう呟いたあと、俺の方へと振り返る。グラハムさんが一歩下がるのと同時に扉の前に立ち、パネルを見上げた。確かに『三〇五』と書かれている。
廊下に跪き、扉のノブに手をかけて少しだけ回す。カチャッという小さな音が鳴ったが、中からの反応は無かった。
わずかに扉を開け、中の様子を窺ったが人影は無い。
「……誰もいません」
「入るのか?」
俺のやや後ろに立っていたグラハムさんが緊迫した面持ちで聞く。
本来なら入らないという選択はありえない。だけど……。
「ミツル、この部屋の脱出口は、ここ以外にある?」
『窓と換気孔が一つ』
ああ、そう言えば三階は鉄格子の填められていない、中からも封じられてない生きてる窓がいくつかあった。そのうちの一つか。
しかしここに来るまで、右側はすべて壁か廊下。
左側は細かく四つの部屋に分かれているが、それは昔の間取り図通りだ。部屋と部屋の間にドアなどはなく完全に独立しているから、逃げ道は三〇五にある窓しかない。
あの研究員の会話からして、この部屋の主はこの施設でも力のある人間だろう。つまり、〈クリスタレス〉の研究をしている人物のはず。何を調べているのか資料を手に入れたいし、できることなら顔も見ておきたいところだ。
それが誰だか分かれば、これがオーラス傘下の一企業の仕業なのかそれともオーラス財団、ひいてはオーラス本人も関与しているかが分かるに違いない。
だけどあまりにも危険すぎる。オーラス財団ぐるみだとすると、研究者の一人や二人、トカゲのしっぽ切りのごとく切り捨てられ、もみ消されるだろう。捜査の手がかりが消えることになってしまう。
それに、仮にオーラスの直接の手下だとしても現時点では有罪とは決められない。違法オーパーツがある施設に居た、ただそれだけでは逮捕はできないのだ。
とすると、やはり見つかる前に逃げるべきなんだが……特に捜査官であるグラハムさんは。
場合によっては三階から《ワイヤーガン》を使って脱出することになるけど、大丈夫だろうか?
「よし、じゃあ俺が見張りをやるから、リュウくんちゃっちゃと見てきて」
グラハムさんがポン、と俺の肩を叩く。驚いて顔を上げると、妙に自信あり気な顔をしたグラハムさんと目が合った。モスグリーンの瞳がキラリと光っている。
「見つかったら、なんかの点検に来た業者の振りをして、隙を見て逃げ出すよ。その前に扉叩く合図を送るから、リュウくんもその後に逃げちゃって」
確かに、グラハムさんなら上手くやれるかもしれない。一人で逃げ出すわけにはいかないが、グラハムさんが表から逃げた後に俺が三階から逃げることは造作ないだろう。
だけど……。
「大丈夫ですか?」
「こんくらいの危ない橋は渡らないとね。それに、リュウライ一人のほうがいざってとき動きやすいでしょ。俺だって伊達に修羅場潜ってないのよ。自分の身を守るくらいの事はできるさ」
「……分かりました」
時間が無い。ここはグラハムさんの案に乗ってみよう。
いざとなれば、《ワイヤーガン》がある。荷重二百キロ、二人で三階から飛び降りることも可能だ。
「いざってときは、ミツルくん頼むね」
グラハムさんのその言葉を背に、俺は部屋の中にするりと身体を滑り込ませた。
縦に細長い部屋。右側の壁には、高さ百八十センチほどのスチール製の書庫が七つ、隙間もなく並んでいる。
下半分は両開きの扉、上半分はガラスの引き違い扉になっているが、真ん中にはすべて鍵穴がある。試しにいくつか引っ張ってみたが、すべて鍵が掛けられていた。
ガラス戸から覗いてみたところ、同じメーカーと思われる青い表紙のリングファイルがズラリと並んでいた。別の棚には実験に使うと思われる計測器や工具などが一定間隔ごとにきちんと置かれている。
この部屋の主は几帳面なのかな、とも思ったが、部屋の左側はそうでもなかった。
奥には窓と、窓を背にして幅二メートルほどの大きな机が置かれている。その手前には一メートル四方の正方形のテーブルがあり、こちらには様々な厚さの本やファイルが向きも滅茶苦茶に積み重なって三つの山ができていた。
これらの本は調べたいところだったが、絶妙なバランスで積まれている。下手に触ると誰かが勝手にいじったことがすぐにバレてしまいそうだ。
諦めて一番奥、窓際にある机に近づく。
こちらも比較的きちんと片づけられていた。電話、卓上カレンダー、ペン立てなどが机と平行にきっちりと置かれている。
唯一乱れていたのは、机の上にあった読みかけと思われる書類の束だけ。
これなら大丈夫かな、と手に取る。ペンライトを当ててみると『白血球数』『ヘマトクリット値』『MCV』という文字が見えた。血液検査の結果か?
下を見ると『AST』『ALT』という文字が並んでいる。その横には手書きで数値も記入されていた。
そうか、これは健康診断の結果だ。
確かイーネスさん達に匿われている二人、アスタとメイは、光学研究所で身体検査を受けさせられていたんだった。
紙をパラパラと戻し、表紙を見る。『アスタ』の名前だけ記載されている。光学研究所の名はどこにもないが、彼らの供述通りなら間違いない。
これは光学研究所で行われた、彼らの身体検査の結果だ。サルブレア製鋼と光学研究所は、確実に繋がっている。
小型カメラを取り出し、アスタの検査結果を撮影する。すぐ傍には『メイ』の名が書かれた書類もあった。同じく健康診断の結果であることを確認し、次々と撮影していく。
――コンコン。
扉から、ノックの音が聞こえた。
グラハムさんだ。この場所に誰かが近づいてきている、という合図。
しかしグラハムさんの逃げる足音は聞こえなかった。多分、扉の前に陣取ったままなのだろう。
三〇五が面していた通路は、南北に走る真っすぐな廊下。三〇一と三〇二の間ぐらいに東への廊下があったはずだが、オレンジの非常灯は点灯しているから無人かどうかはすぐに分かる。
当然逃げる間もなく、『三〇五の扉の前に誰かが佇んでいる』と相手にすぐ見つかってしまったのだろう。
グラハムさん本人が言っていたように、適当に誤魔化して逃げ出すつもりに違いない。それに、研究者の顔を見るチャンスでもある。
となると……。
部屋の奥、西側に面しているただ一つの窓は机のすぐ後ろにあった。ロックを解除し、右側を半分ほど開ける。
いざとなったら、ここから逃げ……。
「夜分にすみませーん。点検の者ですけどぉー」
ガンガンという激しめのノックと共にグラハムさんの能天気な声が飛んできて、少しつんのめってしまった。
演技しているのは分かるけど、本当にそんなので誤魔化せるんだろうか?
「……なんだ、お前は」
「あ、お疲れさまでーす。えっと、火災報知機の点検の者なんですけど」
「点検? そんな話は聴いてないぞ。しかもこんな夜中に来るなんて」
「ええっ? そんなはずは……」
「ここはいい。他をあたってくれ」
「いやぁ、そんなわけには……」
これは、マズい。
この部屋の扉は内開きだから、いざとなったら扉を開けてグラハムさんを引っ張り込んで三階から――。
「っ!!」
次の瞬間、部屋の中央に忽然と人影が現れてこちらに突進してきた。右手にナイフを振りかざしている。
咄嗟に机の上にあった紙の束を掴んで投げつける。
「……っ!」
ひらひらと舞う紙吹雪に、相手の足が一瞬止まった。
その隙に左手で電気スタンドを掴み、ONにして相手に差し向ける。右手で懐から紅閃棍を取り出し、ジャキッと伸ばして敵の喉元に突き付けた。
しかし男は、すぐさま後方に飛び退った。暗闇の中の急激な光に目が眩んだのか、ぶるり、と一回だけ首を横に振る。
その両手にはナイフが握られていた。
男――そう、今までに二回闘ったのに取り逃した、あのひょろ長い男。
猫背気味で首はやや前。だらんと両手を下げた姿勢でゆらりと立っていた。
電気スタンドによってできた影が、床から壁へと細長く伸びている。
開け放たれた扉の向こうでは、グラハムさんが誰かと言い合いをしている。どうやらもう一人いるらしい。
多分、件の研究者と会ってる。会話から情報を引き出そうとしているに違いない。
男は恐らく研究者の護衛。そうか、そういえば最初に会った発掘現場でも確かもう一人いた気がする。〈クリスタレス〉を研究している研究者の護衛、だから時間を操る〈クリスタレス〉を持っているのか。
この男はこちらに引き付けておかなければ。そして、クリスタレスも使わせてはいけない。
「……行くぞ!」
あえて声をかけ、紅閃棍を男に突き出すように構えた。
机に右足を駆けて乗り越え、棍を振り下ろす……と見せかけて着地と同時にしゃがみ込み、床を蹴って男の懐に潜り込む。
棍を軸にして下から蹴り上げるが、男は身をのけ反らせて躱す。すぐに右手のナイフが俺の足首めがけて斜め上に切り上げられるが、身をよじってすんでのところで躱す。
しゃがんだところに頭上からナイフが迫り、棍で受け止めつつ回転させて左手を打つ。男は左腕で棍を受け止めた。鉄のようなもので腕を覆っているのか、ガキンという鈍い音がする。
すぐさま立ち上がった勢いのままジャンプし、男の背後へ。すかさず棍を振り下ろす。
攻撃の手を止めてはいけない。男の両手の動きをよく見なくては。
――〈クリスタレス〉の起動には、『手』が必要なの。
昨日の夕方、キアーラさんから言われたことが脳裏を駆け巡る。




