議員さんと宗教の関わり
ついぞ先月のことである。戦後最年少総理就任、歴代最長内閣というふたつの偉業を成し遂げた、歴史に残る名宰相が兇弾に斃れたのは。──このようなことは断じてあってはならない。2度とふたたび起こしてはならない。そのためにはいかにして起きたか原因を事細かに究明し、再発防止に努めねばならぬ。そこに一切の私情を挟んではならぬは、明白なことであろう。
だが、事件よりひと月経った今現在。これはどうしたことであろう。多くの者が私情を挟みそれに振り廻され、果ては犯人とされる者への同情論すら見受けられる始末である。──なんと、嘆かわしいことであるか。
こう書くと、「嘆かわしいとは何事か! インチキ宗教が犯人を兇行に走らせたのだその根源をたたいてなにが悪い」などとの声が聞こえてきそうであるが、実際に嘆かわしいのであるから仕方がない。とくに、
「インチキ宗教と特定政党がつよく結びついていたのだからいけないことではないか、政治家と宗教との関わりを絶つべきだ」
などとの、言などまさにその最たるものである。
故にこれより、その言の大きな誤りを正していきたいと思う。
まず、宗教と政治家の関わりであるが、これはもう仕方ないもの、「そういうものである」と理解していくより他はない。何故ならば政治家とは──『各方面に顔を名を売り、それらと仲良くしていくものである』からである。
『選挙に落ちればただの人』との言葉の示す通り、選挙に通らないことには政治家ははじまらない。選挙シーズンになると、たとえば「瑞鶴寺鉄心斎に清き、清き一票を! 皆様のお力が頼りです!」などとどやかましく声を張り上げて街々を練り歩いているのは、名を売る──すなわち己の知名度をすこしでも上げるための方法に他ならぬ。
こうした顔と名を売る行為は、なにも選挙期間に己の名を連呼して練り歩くだけではない。普段、議会の開催されていない期間に各方面に顔を出すことも、それらのひとつである。
むかしは『政治家と芸妓は呼ばれればどこの座敷にも上がる』と云われたものであるが、まこと、政治家の先生はどこにでも顔を出すのである。
地方居住者ならばご存じのことと思われるが、たとえば消防団の慰労会に地元の議員さんが顔を出すことはよくある。結婚式の挨拶に議員さんがいたりする。挨拶に来なくとも祝電が送られてくる。子供の入学式や卒業式の来賓席に議員さんやその代理が座ってたりするし、やはり祝電も送られてくる。そして葬式には──弔電である。冠婚葬祭に議員あり、である。
さてこれら挙げた例であるが、慰労会はともかく結婚式は明らかに宗教の色を帯びている。なにもイカれた合同結婚式のみならず、普通のごく一般のありふれた結婚式でさえ、教会で神父や牧師の前で永遠の愛を誓うものであり、或いは神社で神職の前で誓い、または寺で坊主の前で誓うものであろう。──すべて、なにかしらの宗教である。葬式とて同じ。そもそも死者を弔うがすでに宗教行為であるのだから。
「なぜそんなことが許されているんだ! 政教分離の原則はどこへ行ったんだ!」との声が聞こえてきそうであるが、残念ながらその言葉は政教分離の何たるかを理解していないがためのものであると断言させていただく。
何故ならば政教分離の原則とは──
「特定の宗教を贔屓しない」
と、云うものだからである。
たとえばこのわし瑞鶴寺鉄心斎が議員であるとして、仏教ばかり優遇して寺にばっかり顔を出しており、基督教を冷遇しまくり顔を出さぬばかりか神父を街で見るたび「うわあ邪宗門徒がおるぞ!」などと公言してまわるが、政教分離に違反しまくっていることである。これは許されない。──まあわしが議員なら絶対にそんなことはしないのであるが。何故か?──それは先ほど述べた顔と名を売る行為を悪い意味で実行しているためである。
今の例で云うと、なるほど仏教坊主の支持は得られ、その檀家からの支持は得られようが、しかし確実に切支丹を敵にまわす。間違いなくまわす。神父や牧師やその信徒どもは間違いなくわしに票は入れぬであろう。──そんな眼に見えている愚行を犯すほど議員さんは莫迦ではないのである。だからわしは議員になれないしなりたくもない。
ともかく、政治家は基本的に各方面と仲良くしていくものであり、その仲良くする相手が土建業だろうが百姓だろうが漁民だろうが、宗教団体だろうが同じことにすぎぬのである。
さて、政治家と宗教との関わりについて理解していただけたと思うが、次に「それらはまともな宗教ではないか、インチキ宗教とは違う!」との声が聞こえてきそうである。「ひろ……その『まとも』って何?」
そもそもまともな宗教とはなんであろう。基督教はかつて支配下の異教徒をことごとくブチ殺してまわった過去があるし、回教だってそうである。回教を揶揄した小説を翻訳しただけの無実の人をブチ殺しにホメイニ師が暗殺集団を本邦に送り込んだのは有名すぎる話である。──そんなことだから神様のバチが当たって葬式で棺桶が転がり落ちて全世界にフルチンを晒すことになるのであるが──それはさておき印度にてヒンズーとの間で抗争を起こしまくっている。印度と云えば、仏教とてまともとは云えぬ。かつて本邦で一揆を起こしまくって伊勢長島でまとめて燃やされたり、或いは坊主が武将になって不殺の掟を破りまくったりしてたわけである。神道に至っては他の宗教を取り入れまくってもはや原型をとどめてないと云えよう。──このようにまともとされる宗教でさえ、いかがわしいところは山ほどある。
そもそも宗教とはなにか。その目的は衆生を救済することである。救われればそれがなんであれよいのである。鰯の頭を拝もうが蜂の頭を拝もうが信心なのである。その線引きは極めてむずかしい。
なるほど拝む頭が猫ならどうだ。邪教の類に思われるかもしれぬ。犬の頭ならどうだろう。犬神筋とみられて差別迫害の対象となるかもしれぬ。人の頭なら──これはもう警察の出番である。姉さん、事件です。
しかしそれらは別問題なのである。そうしたいかがわしさ満々のものとて、その信仰は守られねばならぬのである。──憲法に於ける『信教の自由』にて。
信教の自由は最大限に保障されねばならぬ。犬の頭や人の頭を拝んでいたと云う違法行為はあくまでも刑法またはそれに類した法律の問題であって、憲法の問題ではないのである。よほどのことをやらかさない限り、この自由は侵されるものではない。たとえば宗教団体がテロを行ったり或いは武装して内戦を起こしたりでもしなければ、である。
故に、まともな宗教とインチキ宗教との線引きはむずかしく、またそれらと政党や議員さんが関わりを持つことは何ら咎められるところではない──と云うのが、おわかりいただけただろうか。
「いいや、インチキ宗教団体と政治家との関わりは完全に絶つべきである! 法改正をして、インチキ宗教をたたきつぶすべきである!」
──そんなことを云う人に、ひとついいことを教えてあげよう。
かつて、本邦にはインチキ宗教団体を取り締まる法律があった。PL教、天理教、創価学会などはインチキ宗教とされて厳しく取り締まられた。教祖や組織構成員ばかりか、それと関わりがあるとされた議員さんも逮捕されるに至ったのである。
「なんていい法律なんだ! その法律とはなんだ?」
教えてあげよう──
『治安維持法』である。