麦秋(1)
翌日、早朝。
目を覚まして居室を出た香穂は、すぐに朝の身支度を済ませた。
予定通りなら、久しぶりに母と会える。
話したいことがたくさんあるし、一緒に休んだり遊んだりしたい。
実はゲームが好きでオタク趣味にも理解の深い人だ。
スマホを開く。母のGPSが順調に移動している。
玄関で待ち受けたい気持ちをぐっと抑えて台所に立った。
朝食のメニューは……フレンチトーストにしよう!
卵を4つ割り、牛乳と混ぜる。砂糖と塩を間違えたりしないように。
食パンはあえて大きめに切り、たっぷりと卵に浸す。
十二分に味が染みわたったならばフライパンにバターをたっぷりと溶かし、食パンを焼いてゆく。
レシピは頭の中にあるけれど、確かめるように調理していく過程さえも楽しく思えた。
母の喜ぶ顔を想像しながら、絶妙な焦げ目をつけてグラニュー糖を振りかけた。
厳選した皿に盛りつけた後、冷凍フルーツをたっぷり載せた小鉢と共に、お気に入りのヨーグルト飲料を添える。
『完璧だね!』
「うん!」
あとは母の帰りを待つだけだ。
概算であと10分と言ったところか。
居間のソファにでも座って待っていようかとも思ったが、お風呂を沸かしていなかったことを思い出した。
慌てて電気温水器のボタンを押した。昼までには湧くだろう。
ついでに居室を少し片付けて、ようやく母を待ち受ける態勢ができた。
ナヴィ・ノワールと雑談しているうちに、玄関のドアベルがころころと鳴った。
「お帰り、ママ!」
「ただいま、香穂ちゃん。元気だった?」
「うんっ!」
初夏の空気を小柄な全身にまとって微笑む母に、香穂はしっかりと抱きついた。
荷物が詰まったキャリーカートを手放した母が香穂の背中に手を回し、軽く触れる。
抱えるみたいな体勢だ──刀哉ほどじゃないが、母も結構な剛腕の持ち主だ。
おみやげで膨れ上がったトラフグ型のリュックサックを背負ってもいるのに、麦秋はニコニコと微笑んだままなのであった。
「あ、ごめん。重いよね」
「体重を気にしてるの? そんな変わってないと思うけどな」
「だって……つい、お菓子とか食べちゃうもん」
「わかる。おいしいもんね」
両手で抱きかかえていた娘を降ろすと、麦秋も真紅のハイヒールを脱いでスリッパを履く。
勝手知ったるかのように自然と居間へ向かい、しっかりと整えられた朝食の席を見て驚く。
「香穂、また料理の腕上げた?」
「オタク喫茶の夢は遠のいたけどね」
香穂と遊璃が共同経営者で、会社を興した胡桃が投資してくれて、建物は色守家の古い方の屋敷を改装して、移築して。
そうして、4人で小さな喫茶店を開くのが、香穂の密かな夢だった。
コスプレをしたり、読みたい本を持ち込んでもいいし、1日中ゲームをしていても構わない。
そんな空間を作ってみたいと思っていた。
母もそれを知っていて、静かに応援してくれていたのだ。
「時間と建物さえあれば今からでもできそうね? 私もカンパニー辞めて、そこの看板娘になろうかな~」
上品にナイフとフォークを使ってフレンチトーストを切り分けながら、母が浅くため息をついた。
全体的にふくよかで童顔なのも相まって、言動が実年齢よりも随分若く見える。
自分の前でだけ、母はいつもこうだ。
そう考えただけでも、香穂は幸せな気分になってしまう。
「マジで? 仕事しんどいの?」
「んー。英語が活かせてて楽しいし、飛行機とか船とか好きだけど、なんか移動してばっかりな気がしてさ。ゆっくりお茶飲んで駄弁ったりしてたいなーと思うことも多いわけよ。はぁ……帰って早々、愚痴っちゃった」
「いいよ。たくさん愚痴って。トーストも食べてみて」
「ごめん」と苦笑した母が、遠慮がちにフォークを口に運んだ。「……美味っっ!」
「たくさん作ってあるからね。ママの好きな味にできてるかな」
「うん! 甘いの大好き」
おいしい物を一緒に食べる時の母の笑顔が、香穂は大好きだ。
だから今朝も思い切り張り切って朝食を作った。喜ぶ顔が見たかった。
話さなければならないことを100mくらいの高さの棚にしまいこんで、大好きな母との朝食を心いっぱいに楽しむ。
2021/5/17更新。




